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生ける聖霊の働き(No.28)

                        第二段階の流れ



更に一千アンマを測って、私に水を渡らせると、水は膝に達した。
                                                                                                       【エゼキエル書47章4節】


 神の使い(聖霊)はエゼキエルに対して、更なる指令を下しました。「私は、更に一千アンマを測って前進するから、私が合図したら渡って来なさい!」と。彼は思わず「え!?ちょっと待って下さい。まだ行かれるのですか?」と返事したことでしょう。すると神の使いは、「未々これからだよ!あなたが更に知らなければならない、豊かな命の水の流れ(領域)は、こんなくるぶし程度の流れではない!私がOKと言うまでは、あなたはこの川の歩みを続けなければならない。とにかく私は、第二のポイントを測らねばならないから、先に行くことにする。あなたはここで、測り綱を握って待っていなさい。そして私が合図したら、同じように歩いて来なさい!」と語られた後、次の第二ポイントを目指して、川の中を進み行かれました。


 ようやく第二のポイントに到着すると、神の使いは手で合図しました。そこでエゼキエルは、第一段階の時と同じように測り綱をしっかり握りながら、川の中を前進します。川の中を歩んでいるうち、今までとは違った変化が起こりました。最初は、くるぶし程度であった水笠が次第に深くなり、前進すればする程その水笠が、膝の高さにまで達して来る訳です。エゼキエルは「その時」、次のように思ったことでしょう。「うん、なるほど。神の使いが示しておられる、命の水の川の流れは、恐らく神殿から流れ出る水量が増えている故、水笠も増しているに違いない!とすると、私の膝どころか、時間の経過と共に、いずれは私の頭を超えるものになるだろう。」などと。


 しかし彼は、「とにかく行ってみよう!私が前進しなければならないポイントは、神の使いの立っておられるところだから・・・・」と確信しながら、増水する川の中を歩み続けました。恐らく第一段階の流れの時と同じように、エゼキエルはその間、様々な「疑い」と「不安」が交錯する中、神の使いの立っている方向に焦点を絞って前進するのではなく、右に左に迂回する他の方法を選択する機会もあったことでしょうが、第一段階のテストに合格したエゼキエルは、黙々と正しい方向を目指して前進したのです。


「膝」の働き
 さて今回の第二段階の流れは、私たちに対して如何なる「信仰のテスト」を、聖霊様は課して(与えて)下さっているのでしょうか?そして、今回のキーワードとなる「膝」が、霊的には如何なる奥義を物語っているのでしょうか?この二点について学んで参りましょう。


 私たちは普段、何気なく「膝」を使って曲げる運動、例えば走ったり歩いたりしていますが、この「膝」という身体の器官は、骨と骨を連結運動する上での、非常に重要な関節器官の一つです。ところで、「関節炎」という病気(医学的な正式名称ではない)がありますが、この病気を患う人々は、その殆どが老齢期に達した人々です。骨の組織が老化し、筋力が衰えてきますと、急に「痛み」を伴う炎症が発生するのですが、具体的にその根本原因(メカニズム)は解明されていません。実は「膝」の関節炎になった時に初めて、如何に「膝」の身体器官が、人間という二足歩行する動物にとって、重要な器官であるのかを知るのです。また「膝」という一器官が、「痛み(炎症)」を起こし始めたら、今まで自由かつスムーズに運動できていたものが、何一つ為し得ない状態になるか、このことも知るのです。


 ところで、「膝」は足の関節の中で、力学的に二つの「支点」となる重要な器官です。「膝」の領域は①大腿骨と②けい骨、そして①と②の接合部分をカバーする、半月板状の③膝蓋骨の、三つの器官から成り立っています。しかし、この三つの骨だけでは、スムーズに足を動かすことが出来ないため、骨と骨の接合部分に、一つのクッションの働きをする、④関節軟骨も組み込まれています。そして更に重要な組成分が、この関節軟骨の中にあります。それは、「関節液」という水分(液体)の一種です。この関節液が軟骨の中に、豊かにバランスよく存在するため、関節は非常に滑らかな動きを為すことが出来るのです。実は「関節炎」を発症する時には、この軟骨がもろくなり、関節液の量のバランスが崩れるため、「痛み(炎症)」を引き起こすと考えられています。そういう訳で「膝」は、ある面で自動車などのエンジンに補充される、潤滑油みたいな働きをしていると言えます。


 さて、私たちが主なる神を求めれば求める程、霊的には「膝」を隠すレベルにまで、到達していることをご存知でしょうか?「膝」の高さを超える「命の水」の勢いは、決して私たちの前進をストップさせるためにあるのではありません!「命の水」の流れは、神殿から東の方に向けて流れています。神の使いが、エゼキエルを導く方向性は、決して逆流を遡る方向にではなく、川の流れを横切る形で、あるポジションに到達することにあります。それは彼に対して、ある重要な事柄を悟らせるためのものでした。


 彼は、水笠が「膝」の高さを超えた時に、初めてある事柄を悟りました。「くるぶし程度の流れの時には、あまり感じられなかったことだが、水量が膝小僧にまで達すると、もはや歩くこともままならない!」と。「くるぶし」レベルの流れにあっては、私たちは右足と左足を交互に、自由に持ち上げながら前進出来ます。つまり「命の水」から、一時的に離れるようにして歩行しているイメージです。しかし「膝」レベルの水流の中では、足裏を思い切り突き上げようとしても、「命の水」の中から片足を離すことが出来ません。そして彼は、歩調自体が更に遅くなる、つまり慎重に足を運び、かつ安定性を確保しなければ、進み行くことが出来ないことを悟ったのです。


「第二段階」の奥義
 私たちは「膝」を曲げ、自由に持ち上げることが出来ることによって、いくらでも歩調(歩行速度)を調節出来ます。しかし例えば、「膝」が水の中に浸かってしまいますと、水流の抵抗をより多く受けることにより、その結果「膝」などの関節が次第に疲労し、歩み自体も遅くなる訳です。エゼキエルは、疲れ果てながらも歩み行く中で、自分の両手が以前より、確実に「測り綱」を強く握り締めていることに気付きます。神の使いは、彼に対して「何だ!えらい遅くなったではないか!早くこちらまで来なさい!」とは、決して急かしませんでした。神の使いは、黙って待ち続けます。何故なら、「遅くなること」自体が、第二段階における「霊的科目(学び)」だったからです。彼は途中で、「はー、先は未々長い!もう疲れてしまった。」と思い、何度も休まざるを得ない状況に追い込まれます。


 余談になりますが、私(著者)は椎間板ヘルニアの病を患って初めて(今もそうですが・・・・)、自分の力で立てなくなった恵みを、現在に至るまで教えられています。「腰」、そして「膝」と「くるぶし」は、言わば自分の「肉の力」を誇る(頼みとする)部分(支点)です。「自分は立てる!そして自分は、自由に歩くことが出来る!」と誇っている間は、人は「肉の力」を頼みとして生き続けることでしょう。しかし、この三つの「支点」に痛みが伴って、全く自由に動かすことが出来なくなった時に、人は気(自分の力)が失せ(くじけ倒れ)、そして嘆くのです。「あー、もう駄目だ!」と。この時、「嘆き」から「諦め」に至ってしまうと、前進して歩み続けることも終了します。


 しかしこの時に、聖霊様から示される「そうです!あなたの力(方法)では、もはや不可能です。だからこそ、神の恵みに依り頼むのです。神の上からの力に全面的に依り頼むことで、あなたが今まで気付かなかった(見えなかった)、神の不思議なる力強い御手を、あなたは確実に見ることが出来るでしょう!」などの御声に聞き従った時に、私は初めて祈り求めるようになりました。そして、この時の体験から、私は常に次のような、「祈りの宣言」を告白することにしました。「主なる神こそ我が足の助け、我が足の力、我が全ての支えである!」と。


 前述したように、「膝」の組成分の中で、「支え」となる重要な働きを担っている器官は、「関節軟骨」と「関節液」です。この二つ器官が、老齢期に少しずつ老化していく中で、組織的に不足して行きますと、歩くことが出来なくなる程の激痛が発生し、どんな力強い人であっても、遂にはくじけ倒れるのです。しかし、聖霊様は言われます。「私があなたの骨と関節を強め、歩くことの出来る潤滑油となって、常にあなたを支えるから、私に依り頼みなさい!」と。このような聖霊様との関わり方を経験した者は、必ず「肉の力」で立つことを放棄します。


 エゼキエルも疲れ倒れた時、ようやく学びました。「もはや私の膝の力で、立ち続けることは不可能だ!このまま歩み続けることも不可能だ。どうしたらよいものか?」などと嘆く中で、膝小僧を自然と川底に据えて、文字通り「半立ち(膝で立つ)」状態になりました(この時彼の両手は、測り綱を握っているのですが・・・・)。すると不思議なことに、疲労し切った、彼の太ももとふくらはぎの筋肉が、「命の水」の川の流れの中で冷却され、十分な休養を得ることが可能になったのです。そして遂にこの時、彼は第二の重要な学びを受け取ったのです。「あーなるほど!第一段階の時の私は、自分の足の力を頼みとして前進できた!しかし今の私は、この測り綱が無ければ、休むこともままならなかった!それ故私は、とても大事なことを今学んだ!自分の手の業を、全て休む(終了する)ことを。」


 私たちは、とかく自分の業に一生懸命となる時、あせることがあります。例えば「もっと私が頑張らなければ、家族の救いに至らない!」、「私がもっと祈らなければ、癒しの御業が起こらない!」などと、自分自身を急き立てるような「思い」が、少なからずあることでしょう。このような「思い」に捕われますと、私たちは必ず精神的にイライラするなどして、霊的にもジレンマに陥る可能性があります。聖霊様はそのような時に、必ず私たちに優しく語りかけます。「休んでみたら?」と。あえて自分の「足」で立ち続けるのではなく、「膝」をかがめて休養することを、聖霊様は教え示しているのです。聖書には「膝」という単語が、数多く記述されていますが、その九割が実は「膝をかがめて、主なる神を求める(礼拝する)!」行為として使用されているのです。


第二段階の神のテスト
 第二段階の神のテストは、「自分の力で、この地(世)に踏ん張って立とうとする、私自身の姿勢を全て放棄し、主なる神の御前に膝まずく、即ち霊的にへり下ることが出来るか否か?」、このためにあります。ある人は確かに、途中で疲れ切って休みますが、中々「膝」をかがめようとしません。「ちょっと休めば何とかなるし、別の方法で試してみれば、再び歩み始めることが出来る!」と、様々に試行錯誤するなどして、肉の努力を放棄しません。しかし聖霊様は「否、もう停めなさい!膝をかがめて、主なる神を仰ぎ求めなさい!そうすれば、最善の方法を神が示して下さいます!」と命じられます。神から示される、正しい「方法(道)」によらなければ、私たちは決して立つ(歩く)ことが出来ないことを教えるために、第二段階のテストが課せられるのです。


 私たちが第二段階のテスト、つまり「命の水」の流れが、「膝」レベルに達する状態に導かれた時、私たちは「真の礼拝者」として、「私に与えられている、今の霊的テストを感謝します。私が自分の力で地に踏ん張ろうとする、今までの肉の努力を放棄します。あなたが教えて下さる、正しい方法と道に切り換えます!」と告白することで、エゼキエルと同様に私たちは、霊的に軌道修正される恵みに、素直にあずかりましょう!聖霊様は、私たちが様々に肉の「歩み」や「努力」をし続ける、霊的愚かさ(罪)があることもご存知です。そのような時に、聖霊様は「ちょっと待ちなさい!私があなたに今、膝レベルにまで付いて来るよう導きますから・・・・。その時にあなたが、どのように肉の方法から、神の方法に切り換えられるかを、私は見たいのです。」と、第二段階への誘導を行って下さいます。


 エゼキエルは、この第二段階の神のテストに合格しました。彼は「命の水」の川の流れの中で、途中何度も休むことになりましたが、神の使い(聖霊)の励ましを受けながら、遂に第二の目的地に辿り着きました。最初の目的地に辿り着いた時より、時間は何倍もかかりましたが、神の使いが「よく頑張った!よくぞ、ここまで来られましたね。あなたの力で、来ることが出来たのですか?」と尋ねますと、彼は「いいえ、違います!あなたの励ましと支えがあったからこそ、ここに来ることが出来たのです!そして私は、命の水の流れの中で休むことを覚えました。有難うございます!」と、即答することが出来たのです。そういう意味で、私たちも「膝」の深さのレベルにまで、神の霊的取扱いを受けることが出来るよう、主イエス・キリストの豊かな「交わり」がありますように。そして私たちに対して示される、一つ一つの神の霊的テストが、私たちの「信仰の歩み」において、豊かな「恵み(徳益)」となりますよう、主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


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