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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

急患診療(No.18)

                        神の山に逃れよ!




イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。「おっしゃって下さい。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが全て実現する時には、どんな徴があるのですか。」イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気を付けなさい。私の名を名乗る物が大勢現れ、『私がそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争の噂を聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。あなた方は自分のことに気を付けていなさい。あなた方は地方法院に引き渡され、・・・・連れて行かれる時、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。その時には、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなた方ではなく、聖霊なのだ。・・・・最後まで耐え忍ぶ者は救われる。憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら、・・・・ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。・・・・それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今まで無く、今後も決して無い程の苦難が来るからである。・・・・だからあなた方は気を付けていなさい。一切の事を前もって言っておく。」
                                                                     【マルコ福音書13章3~23節】


これらは「世の終わり」の徴(しるし)なのか?
 かつて(阪神大震災が起きる以前)デービッド・ウィルカーソン氏が、著書『幻(まぼろし)』の中で、次のような預言的啓示を、私たちキリスト者に警告しました。「歴史上最大の地震がアメリカに起るのも、そう遠い将来のことではないでしょう。・・・・それは、有史以来最大の地震として報道されます。それによって、至る所に混乱と恐怖とが沸き上がり、テレビは番組の一切を中止して、そのことばかりを放映します。アメリカにこのような大地震が起る前に、多分日本だと思いますが、ここに大きな地震が起ります。・・・・地震はその震度を増しながら、アメリカを始め、各国を襲い続けます。地震についての関心が高まり、暫くは地震が最も重大な話題となります。政府・政界のゴシップ、戦争や経済問題などは、この地震の前には影が薄れてしまいます。・・・・地球が本当に揺れ動いて、世界各地に無数の地震が起ります。・・・・これは、荒廃と審判とを支配される神の御業であって、神はこれによって、人に悔い改めを求めておられるのです。・・・・神の御力が地震という形で示されているのですから、早くそれに気付いて、神の御許に立ち帰らなければなりません。」(36~38項)


 阪神大震災を経験された方は、「これ(阪神大震災)こそが、今までに無い最大の巨大地震である!」と思ったことでしょう。しかし、2011年3月11日の東北太平洋地域を襲った、「巨大地震」と「大津波」の規模は、それを上回る破壊力をもらたました。まさしく、「大地のうめき」が始まった結果、大地は激しく揺り動かされ、その結果荒れ狂う大津波が、海岸地域を呑み込みました。人間の科学技術文明を上回る、巨大な「自然の力」の前に、あらゆる「生命」が瞬時に失われたのです。


 テレビから流される東日本大震災の映像は、阪神大震災の時と違って、リアル・タイムで生中継の映像が、全世界の人々に中継され、しかも大津波の荒々しい映像は、まるで悪魔(暗黒)の黒水の如くに、瞬時に人の住むエリア、そして田畑を覆い尽くすシーンでした。そして津波から逃れるべく、必死に逃げる自動車や人々を、次々と押し流していくなど、数々の悲惨なリアル・シーンを、テレビの生中継映像で見た時、私は身震いする程の「恐怖」を覚えました。そして自分の生きている時代が、もはや「世の終わり」に突入したのでは?と思わされる程のものでした。


「備え」をしなさい!
 しかしイエス・キリストは、私たちキリスト者が如何なる時代に突入しても、決して慌てふためることが無いように、一つの霊的指針を与えています。今回のストーリーの中でイエス・キリストは、ある方向に体を向けて座し、「何か」をご覧になっていました。マルコはイエス・キリストの様子を正確に記述しました。イエス・キリストが、エルサレム神殿の方向に体を向けて、じっと深く考え込んでおられる姿を。そんな中、弟子の4人がこっそり近付いて、「先生!実は以前から、お尋ねしようと思っていたことがありまして・・・・」と切り出したのです。


 ところで聖書には、イエス・キリストがある目的を持って、オリーブ山に何度も登られたことが記述されています。即ちイエス・キリストにとって「オリーブ山」とは、父なる神との親しき交わりを為すフィールド、つまり「至聖所(神の宮)」でした。それに対して「エルサレム神殿」とは、この世の「聖所」です。イエス・キリストが、いつも祈る場所(オリーブ山)は、目に見えざる天の領域に座しておられる、父なる神の臨在を求める聖なるフィールドとして、豊かに拡がっているのです。しかしエルサレム神殿は、目に見える事実としては、立派で麗しく見えるものであっても、いずれ来るべき時には、ローマ帝国によって破壊され、この地球が「終わり」を迎える直前に、憎むべき破壊者(反キリスト)が、新しく建造されるエルサレム神殿に立ち、そこに自らの玉座を構えることを、イエス・キリストは聖霊を通して、この時に啓示されていたのです。


 それ故にイエス・キリストは、聖霊の啓示を受けたことで、四人にタイミングよく答える形で、実は今に生きる私たちキリスト者に対しても、タイムリーな霊的指針を投げかけています。「その日に向けて、備えをするように!」と。イエス・キリストが命じられる「備え」とは、3月11日という歴史的大震災が起きたから、「これは大変だ!今から助かるべく、大地震に備えておこう。」などの、一時しのぎ的な「備え」のことではありません。


 確かに、東日本大震災の起きる数ヶ月前から、世界の至るところで大地震が、連鎖的に勃発しました。何故、巨大地震が起きるのか?世界中の地震学者が、共通した学説をもって解説するのですが、「その時」と「規模」を予知して、何らかの「対策」を完備する(或いは避難する)には至っていません。しかし聖書は、明確に巨大地震の起きる「理由」を述べています。被造物(地球も含む)自体が、人間の犯す様々な「罪」故に、「うめき」始めた結果生じている!と(ローマ書8章参照)。


 人間は、いつも「高き」を目指して、その「高き所」から地上を見下ろしながら、「自分たちが最高の力を持ち、最高の極みの中で幸せを手にしているんだ!」などの驕り(高ぶり)をもって、科学技術を信奉しているのではないでしょうか!ところが、今の日本の現実はどうでしょうか?あらゆる業界の中に漂う閉塞感、他者を憐れみ慈しむ「心のゆとり」も無い程の、精神的驕りと霊的高ぶりが蔓延しているなど、まさにイエス・キリストが、今回預言した通りの霊的状況に、陥っているのではないでしょうか?しかしイエス・キリストは、私たちキリスト者に対して、如何なる状況になろうとも、決して慌てふためること無く、ある備えをするように、今命じられているのです。


五つの「備え」
 第一の「備え」として、イエス・キリストは先ず、「人に惑わされないように気を付ける」ことを命じています。何故なら「その時」には、「私(救い主)」を名乗る者が、至るところで出現するからである!と。即ち世界中の各地で、「飢饉」や「紛争」が発生し、そして「巨大地震」と「自然災害」が多発するなど、私たちの人知と予想(想定)を超えた次元の中で、様々な未曾有の大災害が起きて来ますと、やはり人間は互いに「一つ」になって助け合い、一つ一つの災害を乗り越えようとします。そのような人間博愛主義の流れ(運動)の中から、今までに無い選りすぐりの、世界「平和」と「福祉」を説く、カリスマ指導者が登場した時に、「あ!この人こそ、本物の救護者(救い主)。世界を一つにまとめることの出来る、最高の世界的リーダーである!」と信じるのです。


 第二の「備え」、それは「戦争や騒ぎの噂を聞いても、慌ててはならない!」ことです。「この世」の人々は、今回の出来事(巨大地震)の後、様々な「噂(風評)」を流して行くことでしょう。学識ある専門家が、いくら学術理論で説明してみたところで、明確(確実)な展望を描けることが出来ません。何故なら今回の出来事は、人知で推し測ることの出来ない次元、即ち創造主なる神が「御心」のままに、為された(お許しになった)ことだからです。それ故に「噂」を含めて、所詮それは「人の言動」に過ぎません。


 第三の「備え」、これが一番大事な備えになりますが、「自分のことに気を付ける」ことです。私たちは「人」に惑わされず、人の語る「噂」にも慌てふためること無く、神の「御心」に依り頼むことは、さほど難しいことではありません。しかし自分の「霊」が、この世の終末の前兆を、自分が直接見たり聞いたりすることで、自分の「判断」や「知識(経験)」に頼ろうとする方向に傾き、そのことに対する人間的備えをする等の、「愚かな霊」に陥る可能性(危険性)もあるのではないでしょうか!それ故に私たちキリスト者は、「この世」の人々と同様の、人間的備えをするのではなく、あくまで神の「御心(ご計画)」を求め続けるなど、霊的「備え」を更に為していくことが要求されているのです。


 いずれ登場するであろう「憎むべき者(反キリスト)」が、世界中の民を「一つ」にまとめる「その時」、私たちキリスト者には、次の第四の「備え」が必要となります。それは「何を言おうかと、今から取り越し苦労する必要は無く、言うべきことは聖霊を通して、主ご自身が語って下さる!」ことを信じて、ひたすら聖霊の「賜物」を求め続けることです。何故なら「その時」に被る、私たちキリスト者に対する「大迫害」は、巨大地震以上に、恐ろしい「有様」となるからです。


 私たちはいずれ、ローマ帝国によって迫害を受け、殉教していった初代キリスト者たち同様に、「憎むべき者」の刃によって、刺し通されるかも知れません。しかし「その時」に向けて、今から恐れていてはなりません。むしろ「その時」には、父なる神が計画しておられる、最後の「救い」のメッセージが、私たちを通して彼らに語られることになります。


 最後(第五)の「備え」、それは常に父なる神が用意される、「神の山」に逃げることです。巨大な災害時にもさることながら、私たちキリスト者の場合は霊的に、神の臨在される「聖なる山」に、いつも「後ろ(心を奪うもの)」を振り返らずに、急いで逃げることです。そうです!私たちキリスト者は、イエス・キリストの常なる行動の如くに、如何なることが起きても、先ず「神の山」に登ることです。「下(この世の事)」に降りてもならず、「この世のもの」を取りに行ってもなりません。「神の山」に辿り着いたら、即神の「御救い」を求めて、ひたすら祈り続けましょう。


「神の山」に登り祈り続ける
 イエス・キリスト結論として、「だからあなた方は気を付けていなさい。一切の事を前もって言っておく。」(23節)と語られています。この御言葉の中にあるキーワード、それは「気を付けていなさい!」という命令です。決して「気を付けなさい!」ではありません。「気を付けなさい!」とは、その都度要求される限定的な命令ですが、「気を付けていなさい!」になりますと、常に(いつも)注意(集中)力をみなぎらせて、監視することが要求される言葉です。


 では、「何」を注意して監視するべきでしょうか?それは「時」が良くても悪くても、常に聖霊様の働きを通して、父なる神の「御守り」を身にまとい、如何なる状況下にあっても、「霊の眼」をもって全ての出来事を、しっかり見張り続けることです。今回の大震災は、「産みの苦しみ」の始まりに過ぎません!しかし私たちキリスト者は、様々な出来事を気にする(不安に駆られ、慌てふためる)のではなく、常に「神の山」に登り、イエス・キリストの「再臨の時」に備えて、賢い五人の乙女の如くに、聖霊の「油」を用意して(絶やすこと無く)祈り続けましょう!


 イエス・キリストが、この地上に再臨される時、「この地」は閉じられることになります。それ故、私たちが「神の山」にのみ逃れる時、聖霊様の「啓示(導き)」が豊かに示され、確実な「救いの道」を歩むことが可能になります。私たちは「何」が起きても、いつもと変わり無き「信仰の行動」を為しましょう。そして常に、聖霊に満たされて祈り続けましょう!我らの「王の王」イエス・キリストが、間もなく出産(再臨)される「その時」に向けて!


 聖霊様のもたらす豊かな霊的「平安」と、父なる神の永遠に変わらぬ「救い」と、イエス・キリストを通して為される「贖い」の御業が、地球規模で始まった大艱難の中にあっても、イエス・キリストを信じる、全ての「群れ(エクレシア)」の中に確実に現され、「救い」のご計画が「あなた」を通して、更に推し進められることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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