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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

生ける聖霊の働き(No.24)

                   「地の水」が尽きる時




しばらく経って、その川も涸れてしまった。雨がこの地方に降らなかったからである。また主の言葉がエリヤに臨んだ。
                                                                                                        【列王記上17章7~8節】


信仰の礎に据えるべき「柱」
 エリヤが導かれた「ケリテ川」も、遂に涸れ果てるという緊急事態に至りました。ところであなたは、信仰の基礎であるイエス・キリストの上に、如何なる「柱」を今まで据えてきましたか?また今後も据えようとしますか?「え!?そんなこと分っていますよ。私の信仰の礎の上に据えるものは、聖書が述べているように神の言葉に他なりません!」などと、唇では簡単に告白することは出来ます。しかし、果たしてそうでしょうか?父なる神の「命の言葉」を、私たちは確実に自分の「人生」や「命」に優るものとして、イエス・キリストの上に据えているかが問われるのです。


 例えば、耐震補強工事という建築工法がありますが、これは地中にある「基礎」と、その上に建てられた(据えられた)各主要な「柱」、また「柱」と「柱」を結ぶ「横梁」の接合部分に、ボルト締め等の補強金具を取り付けることで、耐震基準をクリアしようとする、一時的な補強工事の一つです。この補強金具類を取り付けていれば、阪神大震災クラスの大地震が起きても、それに耐え得る安全施行方法であると、殆どの人々が信じています。しかしこの工事方法も、あくまで人間の建築学的構造計算から生み出されてきたものです。ご存知のように、人間の計算ほど自然災害時において、不完全で当てにならないものはありません。


 実は私たちの実際の信仰生活において、思いも寄らないほどの、つまり計算(予想)出来ない霊的災害(苦難)が、度々襲来して来ることをご存知でしょうか?私は、今までの自分の信仰生活を振り返ってみても、自分が思い(想像)もしないような次元で、まるで夢を見ているかの如くに、神の「導き」と「ご計画」が進んで来たことを知っています。しかし私たちは、信仰の土台であるイエス・キリストの上に、主の御言葉を常に据えたい!と欲するのですが、ある時にそれは偽った方向へと傾いて行くことがある、このことも知っています。最初のスタートは「主よ、私はイェス様の御言葉を完全に守って、その通りに歩みます!」などと、誰もが大胆に信仰の告白をします。


 しかしそれは、信仰の歩みが三次元的に見て、順風満帆な状態の時に限られます。ある時突然に、自分が思いも寄らない霊的大地震が襲来した場合には、「何故こんなことが、私の身に降りかかるのだろうか?」などの疑問が生じます。実はこの疑問そのものが、信仰の土台である主イエス・キリストの上に、主の御言葉を既に据えていない、つまり別の土台の上に「自分の言葉」を据えるなど、偽った霊的方向(状態)へと傾いているのです。しかし覚えて下さい!三次元的な「疑い」や「憶測」、そして三次元的「肉の眼」をもって見る現象ほど、霊の次元から見て偽りの状態であり、それは当てにならないものです。私たちは度々、三次元的に「見る」、「聞く」、そして「語る」ことがありますが、このことが間違った建築工事、つまり本来据えるべき強固な「柱」とは別の、安価で軟弱な三次元的建材を用いていることと同じ状態になるのです。


 このように、私たちは唇では簡単に「主の御言葉を、私は常に据えます!」と宣言しますが、現実的には三次元的な肉の「思考」や「会話」などにより、主の御言葉から懸け離れ易い者であることを、思い知る時があります。私たちは決して自分の「肉の力」では、正しい霊的工法を確立することが出来ませんが、日々努力すべき霊的目標として、神の「命の言葉」に堅く立つ(据えられる)ことを、聖霊様に願い出るべきではないでしょうか!前述した如くに、例えば「私的思い(欲)」を柱として据えた場合に、それは一時的な耐震補強金具を取り付けたことと同じです。「ある時」には乗り越えられても、父なる神からの大いなる「試みの時」には、モーセに率いられたイスラエルの民同様に、もろくも自分の「信念(私的言葉)」が崩れ去り、遂には神に対して「不平(不満)」と、「呪いの言葉」を吐くに至ります。


「ケリテ川」が涸れる時
 仮にあなたの「人生」と「信仰生活」において、今まで頼みとしていた「ケリテ川」が涸れてしまった場合、あなたは如何なる行動を選択しますか?今回のストーリーにおいて、エリヤが如何なる行動を選択したのか、具体的には何も記述されていません。私たち同様に人間的に見て、エリヤも「肉の弱さ」がありましたから、内心は動揺したことでしょう。「ケリテ川」に導かれた当初は、十分過ぎるほどの水量が流れていました。しかし毎日水笠が減少し、遂には鹿の如くに膝をかがめて、口を直接水面に近づけないことには、中々思うように飲めなくなった時に、不安と焦りが生じてきたはずです。


 「しばらく経って」という表現が、どのくらいの期間を指しているのか定かでありませんが、仮に「数ヶ月後」と推定してイメージすると、この時エリヤは如何なる信仰を貫き、そしてどう行動していったのか?これが第一の重要ポイントです。先ず「天の水」が尽きた時、あなたならどう行動しますか?これは、神からの大いなる「試み(テスト)の時」です。「天の水」は霊的に見て、神から賜る「祝福」や「恵み」を指します。この「天の水」が、あたかもストップしたと思える時が、私たちの「人生」や「信仰生活」に必ず出現します。「今までうまく行っていたのに・・・・。どうして私が、このような試練に遭遇するのか?」などの疑問が生じる場合が、これに当たります。


 すると聖霊様も、この時に私たちに対して問い質します。「あなたは何を、イエス・キリストの上に据えていたのですか?」と。つまり私たちは、この時に自分が「別のもの」を据えてきたという、霊的に偽った状態にある「現実の姿」を、聖霊様が示して下さるのです。それは殆どの場合、私たちが「信仰の土台」イエス・キリストから懸け離れ、イエス・キリストと一体化すること無く、霊的に分離した状態で一人歩きしている姿です。確かに私たちは、最初イエス・キリストとの一体化を求めながら、霊的に飢え渇く姿勢で歩んでいるのですが、いつの間にか「私的思い(欲)」を優先させながら、霊的に先走りしている部分があるのです!私たちは、自分の「信仰」が成長して行けば行くほど、「私はやれる!よし、更に上を目指そう!」などと錯覚し、いつの間にか自分の「肉の力」を土台とし、その上に「私的意志(私の言葉)」を確立するなどの、悪しき方向に傾いて行くのです。


 例えば私たちが、いくら自分の「肉体」の一部に対して、「私の体に生きる細胞諸君、もっと増えなさい!更に成長しなさい!」などと命じたところで、何の変化も起きないことを知っています。それは全能の神である、創造主の「意志(御心)」と「ご計画(法則)」により、自然に成長していることであり、また逆に死んで行く細胞もあるのです。自分の「心臓」一つとっても、誰一人として心臓の「心拍数」を変えることの出来る者はいません!それと同様に、私たちがいくら自分の「肉の力」によって、「私的意志」を優先させながら、信仰の歩みを確立したところで、それは十字架上のイエス・キリストの御元から、蜘蛛の子を散らすかの如くに逃亡した、あの弟子たちの姿と何ら変わりません。彼らは、師イエス・キリストが語られる「御言葉」を、信仰の土台の上に据えていなかった為、イエス・キリストが逮捕された瞬間に「あー、もう駄目だ!私たちの計画は、何もかもおじゃんだ!」などと意気消沈し、遂には逃げ出す始末の者でした。ところがヨハネだけは、他の弟子と少し違いました。彼は、師イエス・キリストを「愛する」ということを、彼の生きる「柱」として据えていた為、十字架による処刑後も母マリヤと行動を共にし、墓に葬られる時点まで付き従いました。


 「私的意志」を優先している者は、「天の水」が尽きる時に必ず、その「土台」と「柱」がぐら付き倒れます。しかしエリヤの如くに、神の「命の言葉」を土台の上に据えている者には、聖霊様が次のような啓示を与えることでしょう。「あなたは今、確かに動揺していますね。しかし、天の水を創造される方は誰ですか?」と。するとエリヤは、「それは勿論、主なる神です!」と即答します。聖霊様は続いて「あなたの三次元の肉の眼では、ケリテ川の水は無くなったように見えるでしょう。しかし私の四次元の霊の眼では、ケリテ川を流れていた地の水は、天のフィールド(父の御元)に戻っただけです。ということは、再び地に降り注がれる時が、必ず来るのでは?天の水を全て支配しておられる方は、父なる神お一人です!あなたが動揺するレベルにはありません!」と諭して下さいます。


 私たちは三次元の「肉の眼」で、たとえ「天の水」や「地の水」が尽きたように見えることがあっても、それは決して「無くなってしまったのではない!」という、聖霊様を通して示される「新しい発想(霊の思い)」が必要です。ですから、私たちの三次元の「肉の眼(思い)」で、「何もかも無くなり、地の水が尽きてしまった!」と見える時に、聖霊様は言われます。「否!父なる神は、いつでも天の水をあなたに降り注ぐため、次(必要な時)に用意しているのです!」と。


再び「神の言葉」が臨む時
また主の言葉がエリヤに臨んだ。」(8節)
 第二の重要ポイントですが、エリヤは「地の水」が尽きた時、聖霊を通して父なる神の「ご計画(意志)」を知った瞬間に、再び父なる神から「命の言葉」を賜りました。つまり、エリヤに対して父なる神は、多少動揺している彼の「霊」を、五旬節革命の時と同じ有り様で、「命の言葉」をもって覆い尽くしたのです。


 私たちは、思い掛けない出来事が起きた場合、大抵「あーどうしよう?こうなってしまったら、もう駄目だ!」などと、三次元的不信仰から来る「古い言葉」に、「霊」が覆い尽くされることが度々あります。それは殆ど、私たちの頭(思考)の中で「古い言葉」と、神から来る「命の言葉」が対立することから始まり、最終的には「古い言葉」の勢力が、完全に支配する(覆い尽くす)結果となります。この状態は前述した如くに、主イエス・キリストという「信仰の土台」の上に、神の「命の言葉」を柱として据えたものとは、全く懸け離れた姿です。例えば今起きている様々な「困難(試練)」に対して、「・・・・しておけばよかった!」、「何故私は、今こんなに苦しむのだろう?多分あの時、・・・・しなかったからだろう!」などと、「過去」を分析しながら、「今(現在)」の惨めな自分の姿(状態)を見る(比較する)ことで、「将来」に対しても否定的(不信仰)な「思い」と「行動」を、簡単に選択することがありますが、私たちの「霊」はいとも簡単に、「古い言葉」に覆い尽くされ易い状態と言えるのではないでしょうか!


 しかし私たちはエリヤの如くに、全能の神の「創造の法則」に期待して下さい!たとえ「地の水」が尽きたとしても、次に来る神の「命の言葉」を待ち望むこと、これが私たちが選択すべき「信仰の行動」なのです!「地の水」が尽きた場合に、「無くなった!じゃー(これからは)自分で動きます!」などの、愚かな行動を選択すべきではありません!「私が動きます!」と告白しながら、それでも前進する人々はまだ積極的ですが、大抵の人々は出エジプトしたイスラエルの民のように、神に対する「不平」と否定的な「呟き」が、自分の「霊」を覆い尽くしてしまう!ことを、私たちは常に慎んで覚えようではありませんか!


 更に私たちは、「信仰の土台」イエス・キリストの上に、「私的思い(意志)」や「私的計画」を、霊的な「柱」として据えることが無きよう、聖霊様の「助け」を仰ぎ求めて前進しましょう。そうです!私たちは「しかし時至りて、あなたの上に聖霊が降られる時、あなたは天から力を注がれ、イエス・キリストの証人として必ず仕立てられる!」、この信仰に堅く立つ必要があります。いつかは腐ってしまうような、三次元から来る「古い言葉」に依存するなどの、人間的に愚かな歩みを完全に一掃し、永遠に朽ちざる神の「命の言葉」に、私たちは信仰を働かせて期待しましょう!


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