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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

生ける聖霊の働き(No.25)

              「私のもの」全てが尽きる時




「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。私は一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」彼は立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、私に飲ませて下さい」と言った。彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来て下さい」と言った。彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私には焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。私は二本の薪を拾って帰り、私と私の息子の食べ物を作るところです。私たちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言った通りにしなさい。だが、まずそれで私のために小さいパン菓子を作って、私に持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。何故ならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きること無く、瓶の油は無くならない。」やもめは行って、エリヤの言葉通りにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉の通り、壺の粉は尽きること無く、瓶の油も無くならなかった。
                                                                      【列王記上17章9~16節】


 主イエス・キリストを「信仰の土台(礎)」とし、父なる神の「命の言葉」を、私たちの霊的な「柱」として据えたその後が、実は非常に重要となります。神の霊的建築工事が進められる中で、この「土台」と「柱」が建て上げられた後、父なる神は私たちをどのように導かれるのか?この点について私たちは、聖霊を通して霊的に「知る」必要があります。


 父なる神の私たちに対する「導き」は、例えば「私の霊の中にある神の宮は、大黒柱が据えられた以上、もう大丈夫だ!全ての歩みが、万事主の御心通りに勝利の中を進むであろう!全てが成功して行くから安心だ!」などのレベルのものではありません。私たちが神を求めれば求める程、実は悪霊も私たちの「霊」に急接近して、私たちと神との「親しい交わり」の関係を破壊しようと、盛んに攻撃して来ることをご存知でしょうか?私たちは、確かに「聖霊のバプテスマ」を授かることによって、聖霊の「剣」をもって霊的戦いを勝ち進むことが可能になりましたが、はっきり申し上げて「苦戦」を強いられることも度々あります。私たちの「霊的戦い」において、聖霊様が勝利を与えて下さると信仰で受け留めても、私たちの肉の「本音」としては、そのような戦いに遭遇したくはありません。またパウロが宣言するような、「様々な問題(艱難)よ、私の元にどんどんやって来い!私と主を引き離すものはない。」という心境には、私たちは中々至ることが出来ません。大抵の場合、その時に「何故ですか?未だこれからも、問題が来るのですか?(もう止めて下さい!)」などと思うのが、通常の思考パターンです。


聖霊の「第一の要求」
 エリヤは、再び主なる神の「命の言葉」を戴く恵みにあずかりました。それはケリテ川の水が、遂に涸れ果てた時でした。父なる神から「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。私は一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」(9節)という御言葉(ご命令)を戴いた時、彼は「あー、やれやれ。これでやっと私も霊的に安心して、身を落ち着ける場が備えられたんですね。主よ、感謝します!」などと思ったことでしょう。そして実際にサレプタの地に赴き、一人のやもめに出会うことになりました。この時エリヤは、この町と彼女の家の経済(生活)状態について、全く知りませんでした。確かに「水」は少々あるのですが、今度は「食糧」が、いよいよ底を尽くという最悪の状況に、彼は導かれたのです。


 私たちの信仰の歩みにおいて、前進する「その先(将来)」に、何が待ち受けているのか分っていたら、国家的飢饉に備えたヨセフの如くに、私たちはある程度の「備え」と「防御」に、努めることは可能です。しかし実際の信仰生活においては、いつ何が起きるか分らない程の、父なる神の取扱いが聖霊を通して、常に用意されているのです。私たちは「あー、今は勝利ある信仰生活を送っているから、明日もまた次の日も前進できますよ!」などと告白しながら、積極的に歩んでいるのですが、突然予想もしない大規模の問題が襲って来た場合に、私たちは信仰の歩みがペースダウンし、ある時は簡単に後退してしまうのです。


 エリヤは「その時」、何がこれから起きるのか分かりませんでしたが、聖霊に従って一度も面識の無い、この一人の婦人(母親)に「器に少々水を持って来て、私に飲ませて下さい」と願い出ました。エリヤに対する神の取扱いは、私たちに対する聖霊の働きを象徴しています。聖霊様は、常に私たちに対しても命じられます。聖霊様は私たちの「霊の戸口」に立って、丁寧に扉を開きながら「器に少々水を持って来て、私に飲ませて下さい!」と願い出ます。え!聖霊様が私たちに対しても、「水」を要求されるのですか?然り!要求されるのです。イサクの花嫁となるリベカを、必死に探し求めたアブラハムの下僕は、彼女(リベカ)という一人の未婚の女性が、如何なる器であるのか分らなかったにも関わらず、彼女に対して「水瓶の水を少し飲ませて下さい」(創世記24章17節)と要求しました。またイエス・キリストは、スカルというサマリヤの町で休息されていた時、「ヤコブの井戸」に水を汲みに来たある婦人に対して、「水を飲ませて下さい」(ヨハネ福音書4章7節)と願い出ています。


 このように聖霊様は、私たちの「霊の戸口」に立って命じられることは、「私にも水を飲ませて下さい!」ということです。私たちの「霊の井戸」に、聖霊様が求められる「水」が、果たして存在するのか疑問ですが、聖霊様は私たちの「霊の井戸」から、確かに「水」を汲み上げるべく、私たちの霊的フィールドを、更に奥深く掘り下げるよう促されます。その証拠に、スカルの婦人はイエス・キリストを通して、ヤコブの「井戸水(古い水)」ではなく、「命の水」という尽きることの無い、「真の水(イエス・キリストとの交わり)」を戴く、最高の恵みにあずかることが出来ました。私たちは確かに、「聖霊のバプテスマ」の恵みにあずかりました。しかし私たちの内側から、「世の水」や「私的な水」などの、不純物の入り混じった古い「井戸水」を、聖霊様に対して汲み上げるとしたら、聖霊様は「否!否!」と言われるだけです。聖霊様が要求されることは、「少なくても良いから、私の為に命の水を汲んでもらえますか?」という、単純な「求め(飢え渇き)」です。又これは、霊と真をもって主イエス・キリストを追い求める、あなたの真実な「思い(少々の水)」を、聖霊様に示す態度(姿勢)でもあります。


 それ故、聖霊様は常に私たちに対して問い質されます。「あなたの思いは何ですか?あなたの心を常に突き動かし、あなたを支えているものは、果たして何ですか?」と。私たちが日常生活の中で、日々「生活水」を必要としているように、私たちの霊的生活を支えている「力」は、「命の水」なるイエス・キリストだけです!私たちが常に、「命の水以外のものは、一切飲まない!」という姿勢で、断固として生きているのかを、聖霊様は私たちに問い質すのです。そして、私たちの「霊」の内側から汲み上げる「水」が、混じり気のある場合には「否!あなたは未だ世の水を汲み上げている。もっと井戸を深く掘り下げなさい!純粋な生ける命の水は、更に奥深い領域にあるのですから・・・・」と戒められます。


 主イエス・キリストが、私たちに対して用意して下さる「命の水」は、浄水器から出て来る「水」のようなもの(一時的な清水)ではなく、最初(アルファ)から最後(オメガ)に至るまで、永遠に尽きること無く流れ出る純粋な聖水、つまり「永遠の命」に至るものです。それ故イエス・キリストが、聖霊を通して私たちに対して要求される「少々の水」とは、「ただ純粋に霊と真をもって、イエス・キリストのみを追い求める、絶えざる飢え渇き(熱情)」のことです。聖霊様は常に私たちの汲み上げる「水」を試飲され、ある時には「(この水は)あなたの匂いがする。こんな水では駄目です!イエス・キリストの甘い麗しい命の水だけを、どんどん汲んで来なさい!イエス・キリストだけに渇きなさい!」という、単純な命令を逆に為されるのです。


聖霊の「第二の要求」
 エリヤはこの後、不思議な要求を彼女に告げます。この時の彼女の様子は、恐らく見るから貧しさ故に、身なりも痩せ細って弱々しかったはずです。普通の状況でしたら、初対面のエリヤも彼女に同情して、「ご婦人よ、私が自分で何とかしますから、水のある場所を教えてもらえませんか?」などと、彼女の苦労に配慮する答弁をしたことでしょう。しかしエリヤは、何とあつかましくも「パンも一切れ、もらえないだろうか?」と、更に無理な注文をしました。つまりエリヤに働かれた聖霊は、彼女に対して「一切れのパン」を要求したのです。この時、彼女の家には成長盛りの息子に与える、一食分の「小麦粉」と「油」しか残っていませんでした。このような最悪の状況にある彼女に対して、聖霊様は何故このような要求を為されたのでしょうか?


 私たちがこの記事を、三次元的「肉の眼(判断)」で解釈しますと、「神の為される要求は、何と厳しいものか!とてもじゃないが、私には・・・・」などと思います。しかし、この記事の中には私たちが「知る」べき、非常に重要な「奥義」が示されています。余談になりますが、春の季節に一本の「杉」の立木を、チェーンソーで切り倒しますと、大抵の人々はその倒れた「杉」を見て、「あーこの木は、遂に切り倒されてしまった。もうこの木は、成長することなく死んだも同然だ!」なとど同情して見るはずです。ところが、切り倒された「杉」の枝葉は、尚も新芽が次々と成長していることをご存知でしょうか?何故切り倒された時点で、幹ばかりでなく各枝葉は、「死(枯れ果てること)」に至らないのでしょうか?実は、「杉」の大幹や大枝の小幹の中には、切り倒されても大量の水分が、組織的に保有されているからです。ところが時間が経過して、夏真っ盛りの時期を迎えるに至って、遂に大幹から水分が枯渇した時、枝の新芽は成長がストップし、次第に緑色から茶色へと葉枯れが進み、最終的には組織的な「死の時」を迎えます。


 ある面で、私たちが「神の宮」に霊的な柱として建て上げられる際、「地の水」をたっぷり含んだ柱として据えられるとしたら、その建材は「柱」としては、曲り易い不適格材ということで、「支え柱」には向きません。そのような柱は、屋根の重みに耐えられなくなり、最初は真直ぐに見えたとしても、必ず屋根の重みに少しずつ曲って行き、当然のことですが強度が弱い家(宮)になるのです。私たちの「霊」の中に、「世の水」が少しでもある限り、私たちは必ず「神様、ちょっとそれだけは、ご免こうむります!」などと不信仰な態度を示し、霊的に曲る(ひねくれる)のです。このように水分を含んだ「建材」は、家を建築する場合に余り用いられることがありません。


 ところが、前述した春先に切り倒された「杉」は、夏に葉の全てが枯れた状態になった時に初めて、3m・4m(1F建て用)、そして6m(2F建ての通し柱)の丸太としてカットされ、製材所にて「柱材」として製品化に至ります。ちなみに、このような時間のかかる、製材処理方式によって産み出される木材のことを、「葉枯らし材(ドライ・ログ)」と呼んでいます。この自然乾燥方式は人工乾燥と異なって、どんな重みにも耐え得る強度を持ち、曲らない真直ぐな柱材として高値が付く程、大工さんに重宝がられています。


 私たちが、この婦人が体験したように、例えば「あー何と厳しいことか!こんな事まで要求されるとは・・・・」などと思われる程の、聖霊様からの霊的取扱いを受けた場合、私たちは大抵自分の中に残っている古い「小麦粉」と「油」を固守して、「いや、これだけは私が取っておかないと・・・・」などと拒絶することが多々あります。特に神より賜った「召命」や「賜物(タラント)」に関しては、「聖霊様、これはあなたが、私に与えて下さったものですね。このタラントをもって、主の栄光の為にミニストリー展開したいのです!何故昨日与えたものを、今日取り上げるのですか?私には理解できません。」などと、聖霊様の要求を拒みます。


 ところが、聖霊様は「否!昨日与えたものは、昨日の意味付けがあるのです。今日は、別の意味付けがあるものを与えますから、それを先ず返上しなさい!あなたの持てる全てを捧げなさい!」と、更に要求してきます。それに対して私たちは、「え!私は、未だ何の働きもしていませんよ!」と反論します。すると聖霊様は、「あなたが働くのではありません!私が働くのです。あなたの中に、自分(私)が働きたいと欲する意志(古い水)がある限り、私はあなたの中に十分働くことが出来ません!それ故、生ける神の宮の柱として、あなたを未だ使う(用いる)ことが出来ないのです。」と厳しく諌めます。私たちが、神に完全に取扱われ易い「器」になるには、私たちの中に如何なる古き「水」も、如何なる「私的意志(欲)」も含んではならないのです!ですから私たちという霊的な「器」は、常に「空(ゼロ)」になっていなければなりません。昨日戴いた天の「恵み」に対して、私たちが主なる神に感謝を捧げることは当然の行為ですが、この「恵み」をもって「私はもっと働きたい(頑張りたい)!」などと欲する事に対して、聖霊様は「良し!」とは返答されません。


 この婦人は、エリヤの更なる要求に対して、最初は「私の息子の為に!」という思いから、「え?どうしよう!これが無くなったら・・・・」と困惑したはずです。確かに彼女は、「私たちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」(12節)と告白するのですが、実は彼女の信仰姿勢には、既に明確な「備え」が出来ていることが、その前に語った彼女の告白の中に示されています。彼女は決して、「え?ちょっと待って下さい!」とは言わずに、「あなたの神、主は生きておられます。」と即答しています。これは「あなたの神、全能の主は生きて働かれる方ですから、私は主の御心(ご命令)に従います!」という表明に相当します。


 エリヤは聖霊に促されながら、彼女に対して「恐れてはならない。帰って、あなたの言った通りにしなさい。」(13節)と励ましました。聖霊様は確かに、私たちが予想もしない霊的要求をされますが、必ず私たちが聖霊に聞き従うことで、その要求を為し得る「信仰の行動」を、私たちの「霊」の内側に備えて下さいます。たとえ私たちが、「明日は干からびてしまう!」と思える状況の中にあっても、私たちが聖霊様の要求に応え、全てを完全に明け渡す(捧げ尽くす)時に、主なる神は再び天上から「命の水(イエス・キリスト)」を、豊かに尽きること無く注いで下さいます!


「主を求める」こと
 「主を求める」ということは、この世の「商い(取引)」に見られる、「私が~したから、神は・・・・して下さる。」などのレベルの、三次元的概念では決してありません。「主を求める」ことは、「私的」なものが一切無い、全き無条件の要求を意味します。ですから主なる神が聖霊を通して、私の中に未だ残っている「一切れのパン」を要求される理由は、①ただあなた自身が、無条件でイエス・キリストの元に来て、純粋にイエス・キリストを求めることであり、神の完全なる「御心」を私たちが求め知るには、②私たち自身も「完全なるもの(私の全て)」、つまり全焼の生贄を捧げることが要求されること、この二点にあります。


 この婦人が「小麦粉」と「油」をもって、エリヤの為に「一切れのパン」を焼く時点で、彼女は「息子の死」と「自分の死」を既に覚悟していたはずです。一本の「杉」の立木は、切り倒された後に最後の「一滴」の水分が、幹と枝の中からなくなった時に初めて、それは家(宮)の「大黒柱」、つまりどんな重みにも耐え得る、豊かな美しい建材として用いられます。それと同様に、私たち自身も無条件で「主を求める」時に初めて、主なる神ご自身が私たちの「救い」のために、無条件で御子イエス・キリストを「この世」に遣わし、十字架上で「全焼の生贄」、つまり私たちの「罪」の身代わりとして屠った、その「永遠の愛」に私たちは至るのです。


 父なる神が「御子の死」をもって、私たちを贖い出すべく愛されるのであれば、私たちは尚更自分の中に未だ残っている、「一切れのパン」を捧げ尽くすことは当然ではないでしょうか!これは非常に厳しい、信仰の行動(要求)のように思われますが、パウロが「自分の体を神に喜ばれる聖なる生贄として献げなさい。これこそ、あなた方の為すべき礼拝です。」(ローマ12章1節)と述べる如くに、「私の全て」を祭壇(十字架)上に完全に捧げ尽くすことで、父なる神の「御心(ご計画)」が私たちの人生全般に渡って、豊かに現されて行く(成就する)のではないでしょうか!


 私たちは、聖霊様の度重なる霊的取扱いに対して、時々「え!未だ苦しまなければならないのですか?」などと絶句し、そして意気消沈します。しかし、過去の霊的取扱いを思い巡らすその度に、「あー、私のいたらぬ汚れた部分を聖める為に、父なる神は御子イエス・キリストの十字架の血潮を、今も(この私に)注いで下さっている!それならば今回の苦しみも、必ず私の為に何らかの霊的取扱いが為され、その後に聖なる報い(益)が与えられるはずだ!」と、信仰の告白をすることが大切です。その時、聖霊様は私たちの「霊の戸口」に立って下さり、「あなたの水を飲ませて欲しい。あなたの水が、どんな味がするのか、私はそれを確かめたい!イエス・キリストの豊かな命の水が、あなたの霊の泉(井戸)にあるのであれば、必ず(その水は)麗しい甘味に満ちている。又、私は更にあなたの霊の井戸から、命の水を尽きること無く溢れ出し、あなたを通してイエス・キリストの御心を、完全に現したいのだ。きっとあなたは、十分にその備えが出来ている。あなたの、その完全に捧げ尽くした空の器の中に、私は天上から豊かに命の水を注ごう!」と応答して下さいます。


 エリヤに全てを捧げ尽くした、サレプタの婦人(母)とその息子は、確かに天上から尽きることの無い、新しい「小麦粉」と「油」をもって、生き長らえることが出来ました。さて私たちは、自分の「霊」の中の状態を探る時、聖霊様から先ず「器に少々水を持って来て、私に飲ませて下さい」と要求され、更に「パンも一切れ、手に持って来て下さい」という、二つの命令が発せられることでしょう。「その時」に私たちが、どのような「備え(応答)」をしているかを、私たちが今後信仰の歩みの中で、聖霊様から具体的に示して戴きながら、霊的に正しく取扱われて行くことが求められます。


 私たちがサレプタの母子の如くに、聖霊様の要求に対して素直に、「分りました!霊と真をもって、私の全てを捧げます。十字架上で、私はイエス・キリストと共に死にます!あなたの霊(聖霊)によって、新しい私を創造して下さることを期待します。私の願い(意志)ではなく、あなたの御心のみが私の全てを支配し、そして成就(完成)しますように。私の杯を返上します。あなたの杯(御心)を、私に与えて下さい!そしてあなたの命の水で、私の全てを満たして下さい。」と応答できる者でありますよう、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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