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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

急患診療(No.17)

                 人事を尽くして天命を待つ



イスラエルの人々も再び泣き言を言った。「誰か肉を食べさせてくれないものか。・・・・今では、私たちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない。」マナは、コエンドロの種のようで、一見、琥珀の類のようであった。民は歩き回って拾い集め、臼で粉にひくか、鉢ですりつぶし、鍋で煮て、菓子にした。それは、こくのあるクリームのような味であった。夜、宿営に露が降りると、マナも降った。モーセは、民がどの家族もそれぞれの天幕の入口で泣き言を言っているのを聞いた。主が激しく憤られたので、モーセは苦しんだ。


さて、主のもとから風が出て、海の方からうずらを吹き寄せ、宿営の近くに落とした。うずらは、宿営の周囲、縦横それぞれ一日の道のりの範囲に渡って、地上二アンマ程の高さに積もった。民は出て行って、終日終夜、そして翌日も、うずらを集め、少ない者でも十ホメルは集めた。・・・・肉がまだ歯の間にあって、かみ切られない内に、主は民に対して憤りを発し、激しい疫病で民を打たれた。そのためその場所は、キブロト・ハタアワ(貪欲の墓)と呼ばれている。貪欲な人々をそこに葬ったからである。
                                                                                             【民数記11章4~10,31~34節】


人事を尽くして「何」を待つのか?
 「人事を尽くして天命を待つ」という格言は、中国の宋の時代に書き記された、ある論評集の中の一節です。ご存知のようにこの言葉は、何事も人の為すべき事として努力すれば、必ず「天」はそれを見て、その努力に相応しい「実(結果)」を与えて下さるという、人の道を説いたものです。


 ところで私たちキリスト者の場合、この格言は実に聖書的であると言えます。何故なら、私たちは常に「肉の法則」と「命の御霊の法則」が、対立し合う状況にある中で、頭で「御霊の法則を優先しなければ・・・・・」と思いながらも、実際の行動としては「やはり自分の力で何とかし、自分の血肉で全てを解決する(乗り切る)!」という、矛盾した行動を選択しているからです。


 「全て」の事が良き方向で進むのであれば、「天命を待ちますよ!」と表明出来るのですが、現実に自分の思っている次元とは、別の方向に進んだ場合には、「あーもう駄目だ。もしかしたら~なるのではないだろうか?」等と逆の発想に陥り、「先」の不安を埋め合わせをすべく、「血肉の備え(天命とは懸け離れた己の努力)」をすることに悪戦苦闘するという、愚かな部分があるのではないでしょうか!


 神が私たちに示す「人事を尽くして天命を待つ」とは、如何なる状況下にあっても「天命」を待ち望むこと、即ち「命の御霊の法則」を司る父なる神が、私たちのことを天の「恵み」をもって、日々導いて下さる方であることを信じることです。それ故真の神は「明日」のこと、「明後日」のこと、「将来」のこと、「数十年後」のことを、なおざりにされる方では決してありません。むしろ「先」のことは、心配する必要が全く無い!のではないでしょうか?ところが私たちは、「人事」を尽くして、その後に「人事」の結果を待つという、愚かな霊的貪欲もあるのです。


「命の御霊」の法則
 今回のストーリーには、「マナ」と「うずら」という、二つの物質(食糧)が描かれています。「命の御霊」の法則とは、ご存知のように父なる神が、天地万物を創造される際に、既に聖霊を通して開始されています。つまり父なる神の「命の息」が、「無」から「有」を生じせしめた、この天地創造の出発点に起源があります。それは、全ての「命」の源となる力は、「天」より降りて着せられる!という、神の不変の法則のことです。


 勿論、私たちの内側から出て来るもの、即ち「肉の力」もある訳ですが、ここで述べる「力」とは、私たちの内側から出て来るものではなく、全てが「天(上)」より降りて着せられるもので、私たちの「命」を生かすもの、「命」の源となるエネルギー等、それらの「力」の根源の全ては、「天」より降るものであり、私たちがそれを着せられる(充満される)時に初めて、生きることが可能になります。この「天の奥義」を、私たちは絶対忘れてはなりません。


 それに対して、サタンが教え導く「肉の法則」は、常に「下(内側)」から来る力を頼みとする生き方です。確かにこの「肉の法則」は、一時的には大いなる力を発揮します。ところがこの「肉の力」は、いつかは腐れ果て、必ず「死」に至るものです。


 父なる神は、大いなる「天の力」をもって、イスラエルの民を「エジプト(死の世界)」から贖い出されました。ところが彼らは、「神(天)」の力を日々覚えること無く、ある時から「不平(泣き言)」を発し始めました。ここで覚えておくべき重要な「事実」は、イスラエルの民が「不平(肉的な要求)」を発したから、父なる神が「天(上)」よりマナを降らして下さった訳ではないという点です。実は父なる神は、全ての「先(カナンまでの旅程)」を見通した上で、彼らに必要な「糧(マナ)」を、日々用意し与えていました。


 その「糧(マナ)」が、ぎょりゅうの木に集まる、マナ虫が出す甘い「分泌物(地の産物)」でした。この「分泌物」は、一人が一日中集めても、約1kgしかない訳ですが、この分泌物を集めて焼いたもの、つまり一日1kgの糧(栄養エネルギー)を、彼らは毎日食していたのです。ですから、一日中歩き回りながら、毎日同じものを食す!というこの務めに、彼らは飽き飽きして、遂に「今では、私たちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない。」(6節)と、モーセ(神の代理人)に「不平(泣き言)」を吐くに至ったのです。それ故、この「不平」の言葉の中にある「マナ」とは、「地上のマナ(ぎょりゅうの木の分泌物)」のことです。


 ・・・・そして、ある夜「宿営に露が降りると、マナも降った。」(9節)のです。この記事に関してモーセは、『出エジプト記』の書物の中で、更に詳しく神の「事実」を描いています。「夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。」(出エジプト記16章13~14節)


 ですから、明らかにここで描かれている「マナ」が、「天」から降ったものであることが分かります。実はこの二種類のマナを通して、父なる神が私たちに対して、ある重要な奥義を教え示しています。即ち、私たちが霊的に求めるべきもの、それは地上で得られる「恵み(産物)」に満足するだけでなく、更に「天上」から降り注がれる、命の御霊の「産物(命のパン)」を求めること、この霊的へり下った姿勢を、父なる神は私たちに望んでおられるのです。


 ところが、全てのキリスト者が経験するのですが、私たちは時々自分の惨めな状態(有様)を見て、次のような「泣き言(不平)」を言います。「いい加減にしてくれ!もうこんな状況は我慢できない!」と。そのような不平だけであったらまだしも、私たちはイスラエルの民と同様に、父なる神に対して「うなじ」を向ける、つまり神に対して背を向け(反抗し)ながら、「あなたが真の神であるなら、今△△△を下さい!△△△が与えられるのであれば、私はあなたに正面を向きます(立ち返ります)!」などの横柄な態度をとります。


 このような横柄極まる、不信仰なイスラエルの民に対して、父なる神は確かに憤りましたが、「天のマナ」と同時に、夕暮れには「うずら」を運んで下さいました。ところが、ある時遂に父なる神は怒って、彼らの予想(期待)を上回る程の、大量の「うずら」を強風と共に運び、彼らの宿営地周辺に放り込みます。


 私たちの信仰の歩みを守られる方、即ち父なる神は、地の「(マナ)」を日々与えながら、私たちの現実生活に必要な力を注ぎつつ導いて下さいます。それに対して私たちが為すべきこと、それは日々の「糧(恵み)」を与えて下さる、父なる神の臨在に服し、賛美と祈りを捧げながら前進して行くことです。これが、神に対して「人事」を尽くすことです。ところが彼ら(私たちも含む)は、エジプトの「糧」を要求するという、愚かな努力(泣き言)を神に対して吐くのです。勿論そのような場合には、「天命」が降ることはありません。来るのは、神の御怒り(大量のうずら)だけです。


 この時に運ばれて来た「うずら」の総数を、モーセは計測した訳ではないのですが、一人が集めた「うずら」の数量を、「平均値」として算出しました。1リットルのビーカーに、「うずら」が何羽詰め込めるのか、正確には分かりませんが、約2羽と計算しても、一人が集めた「うずら」が、4,000~4,500羽位であったものと思われます。私はこの数値に驚嘆します。何と「人」は、飽くなき「貪欲」に支配された生き物か!と。おそらく「人」は、自分の周囲1メートル四方(縦1m×横1m×高さ1m)に渡る、大量の百万円札束に囲まれたとしても、それだけでは満足しないことでしょう。それ程に、この時のイスラエルの民は、霊的貪欲に汚されていたのです。一日に何羽食すれば足るかを、十分に知っていたにも関わらず、彼らは「先(明日)の糧」をも、貪り集めたのではないでしょうか!


 死んだ「うずら」は明日になれば、ただの「死肉(腐ったもの)」です。ですから、その直後にイスラエルの民の中に、疫病が蔓延したことが記述されています。その場所は、「キブロト・ハタアワ(貪欲の墓)」と呼ばれるようになります。彼ら同様に、私たちの日々の現実生活の中には、この愚かな霊的貪欲が多くあります!私たちの「先」を歩まれ、「先」のことを用意される方(イエス・キリスト)が、共に居て下さるにも関わらず、私たちは自分の「肉の力」で、「先」のことを図り、様々に「世のもの」を集めようとする、不信仰な歩みをするのです。


「天命(神のご意志)」を待つ
 今回のストーリーの中に働かれる神の「教え」は、私たちが「何」を為すべきか?を明確に示しています。それは、「奇跡」そのものを求めたり、「世のもの」をもって満たすことの出来る方(人間)に、「世のもの」を更に求めていくことではなく、日々の歩みを確かなものとされる、「真の神」と共に生きる!ということです。即ち父が「インマヌエルの神」として、私たちの日々の生活の中に臨在して下さる以上、私たちは「真の神」に従い、神の「恵み」の中に感謝しながら、更に「上(天)のもの」をもって常に導いて下さるという、神の「ご意思(天命)」を待つ信仰が何よりも必要です。これは「天のマナ(命のパン)」のみで、私たちは十分に生きることが、可能であることを教え示しています。


 この後イスラエルの民は、カナンの地に辿り着くまで、「天のマナ」が尽きることは無かったことを、モーセは記述しています(16章35節参照)。私たちは「人事」を尽くす、即ち日々の生活の歩みの上に、日々の糧を与えて下さる「真の神」が、常に「天のマナ」をもって、私たちに必要な霊的な力(エネルギー)を、必ず与えて下さることに感謝しながら、その日に科せられた「歩み」を、一歩一歩と前進して行くことが、私たちの信仰上の務めです!


 私たちが「この世」にあって、日々前進して行かなければならない「理由」とは、如何なる状況下にあっても、父なる神は私たちを日々聖別し、「天のマナ」をもつて成長せしめ、最終的には麗しいカナンの地へと連れ上らせるためです。私たちの日々の歩みを確かなものとされる父なる神が、私たちのことを放っておかれる方では決してありません!私たちは「先」を思う(心配する)のではなく、私たちの「先」を歩まれる方、即ちイエス・キリストを見上げる者として、信仰が更に増し加えられますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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