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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

生ける聖霊の働き(No.23)

                  世の水が尽きたとしても



ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私が告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」主の言葉がエリヤに臨んだ。「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。私は烏に命じて、そこであなたを養わせる。」エリヤは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった。数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。水はその川から飲んだ。
                                                                                                        【列王記上17章1~6節】


エリヤの人生の意義
 私たちは、神に選び召し出された預言者エリヤの人生から、何を霊的に学ぶべきでしょうか?またご存知のように、エリヤは変貌山においてイエス・キリストと共に出現した訳ですが、彼は御子イエス・キリストと共に、栄光ある場にあずかれる程に、霊的な面において神に喜ばれる器であることを、私たちはエリヤの人生から知るべきです。


 エリヤとは、如何なる人物でしょうか?彼は、預言者という特殊な器であるにも関わらず、幾多の「迫害」や「苦難」を被りながら、彼の人生全てに渡って聖霊様が、ある一つの法則をもって導き出していることを、私たちが改めて霊的に知る(学ばされる)時、今日に生きる私たちもエリヤの辿った預言的人生を、霊的に歩まされることを知るでしょう。たとえ私たちが、エリヤのような「偉大な器」でなくても、「この世」という悪しき環境において、霊的訓練を受ける時があるでしょう。その時に、私たちがエリヤ同様に「直ぐな心」をもって、父なる神の御前に立ち続けることが出来るか?そのことを「知る」ことが、実は自分の信仰の成長につながるのです。


 エリヤの人生の特徴は、大別すると三つ挙げられます。 先ず彼は、当時アハブ王を初めとして、偶像崇拝を盛んに行うユダヤ人国家の中にあって、「我は、父なる神のみを崇める!」という、真の礼拝者としての信仰姿勢を貫きました。彼は名も無き、ある面で「田舎者」の出身でありましたが、イスラエルの民ばかりでなく、王の前にあっても大胆に宣言し続けました。このように、彼は「世のもの」には一切膝をかがめない、つまり世的なものを絶対求めようとしない「真の礼拝者」として、生涯父なる神だけを崇める者であったこと、これが第一の特徴です。


 更に「この世」に決して流されることなく、また妥協することが絶対無い、神の「しもべ」としての生き方を貫くこと、これが第二の特徴です。第三に彼は、常に「天」のみを見上げ、父なる神が賜る「天上の良き物」を乞い求める、つまり「天的なもの」を求めて、常に飢え渇き続ける者であったことです。この生き方は、「金持ちとラザロ」の喩話に出て来るように、たとえ「この世」という繁栄(金持ちの生き方)が、目の前に置かれ手に入ることが出来たとしても、「全ての良きものは、ただ天から与えられる!」、そして「自分の命の保証から私の全ての支えに至るまで、ただ天から与えられる!」ことを信じて、ラザロは神を最優先に求めることで、霊的に謙遜な生き方を選択しました。


 何故ラザロやエリヤは、このような生き方を貫き通すことが出来たのでしょうか?それは単純な信仰によるもので、「主が生きておられる限り、私も生きることが出来る!」という、神に対する「全幅の信頼」があったからです。仮に「主は何処におられ生きているのか?私の側にはおられない!」などと呟き、不信仰に陥って行く者は「あー、もう駄目だ!何か良い方法はないだろうか?」などと、世的な解決方法を求めて、必ず「この世」に妥協して行きます。しかし、ラザロやエリヤは常に「主が生きておられる限り、私が心配することは無い!主が私の命から人生の全てを支えて下さり、必ず保証して下さる!たとえこの世において、私の命が絶たれたとしても、私の霊は父なる神の御元に帰ることが出来る!」と告白するなど、全き「平安」と「確信」の中に生きました。


「命の言葉」の三つの目的
 彼はある時、イスラエルの最高統治者(支配者、行政官)であるアハブ王の前に立ち、大胆にも次のように宣言しました。「イスラエルの真の神である主は、今も生きて働いておられます!その証しとして、私に託された預言を語りましょう。主なる神が必ず、生きて働いておられることを証明するために、あなた方が頼っているこの世の水は、ある時から完全に絶たれるでしょう!小さな露から大粒の雨水に至るまで、あらゆる水を管理しておられる方が、その流れを止められるのです!」と。この時のアハブ王と人々の反応は、ノアの時代と同様のものでした。「お前は、何を馬鹿げたことを言っている。天気を支配しているのは、自然界の神々ではないか!我らの神官が、神々に対して雨乞いをすれば、必ず雨が降って来るのだ!」と。しかしエリヤは断固として、王に繰り返し警告しました。「王よ、主なる神が生きておられることを、あなた方は必ず見ることになります!」


 実はこのストーリーには、エリヤの人生の中に働かれ、聖霊を通して選び召し出された、彼(私たち)に対する神の「命の言葉」の目的が記されています。それは第一に、「主が語られた言葉(命の言葉)は、必ずそのように成る!」ことです。主ご自身が発せられる「命の言葉」は、必ず確実に成就する(明確なものとして現れ出る)ことを、私たちは「知る」必要があります。神の「命の言葉」は、例えば聖書を読んでいる時に示された「御言葉」、預言を通して語られた「知恵(洞察)の言葉」、個人的に神に祈り求め、神と交わる中で与えられる「啓示」、また夢や幻の中で示される「教え(示唆)」など、様々な方法をもって神が語られます。そして神の「命の言葉」は、私たちの三次元的な時の概念で遅くなることはあっても、神の御心の時の流れの中では、決して遅れることはありません(全て時に適って美しいものです)。必ず成就するものです!エリサベトがマリヤに語った次の言葉が、まさしくこの奥義を物語っています。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう。」(ルカ福音書1章45節)


 神の「命の言葉」の法則は、三つの役目をもって効力を現します。第一に神の「命の言葉」は、その言葉が発せられた瞬間に、必ず三次元的にも「現れ出る(説明できる)もの」として実現します。エリヤの唇を通して発せられた「命の言葉」、即ち「主は生きておられる」という言葉が、父なる神の「意志(御心)」である以上、「生きておられる」ことを説明できるものとして証明するため、神は補足として「真の神だけが、全ての自然界の管理者であることを、天の水をストップさせることをもって証明しよう!」と予告しました。


 第二に父なる神の「意志」は全て、命の言葉を通して現れ出て来るもの、そして不変のものである!ことです。「この世」の宗教は、必ず時代毎に内容(教義)を変え、言葉(法則)自体に「命の力」がありません。しかし神の「命の言葉」は、唯一なる真の神が絶対不変の方であることを証明し、ご意志を必ず現す(実現する)べく、聖書を通して教え導いています。


 第三に神の「命の言葉」は、最終的には神の「美」を現すため生きて(働いて)いることです。え!エリヤの唇を通して、この時に語られた神の「命の言葉」の何処に、神の「美」があるのでしょうか?天の水が絶たれ、地の水が枯れる時に人々は困り果てるだけで、決して神の栄光(美)につながるとは、とても考えられません。ところで、この世の人々は「何」に頼って生きているのでしょうか?彼らの依り所は、何処にでもある「世の水」を飲み続け、「世の光」を求めて生きる姿勢からも明らかです。しかし、「この世」が与える水が尽きた時、彼らは最終的に宗教的ではありますが、雨乞いなどの儀式を行います。そしてそれでも得られず、遂に彼らの魂が弱り果てた時に、真の神から遣わされた預言者が、「主なる神は今まで、天の水をストップされていたが、まさに今この地に、再び雨を注ごうとしておられます!」などの神の「命の言葉」を語り、実際に雨が降り出したとしたら、彼らの中から「まさしくあなたの信じる神は、真の創造主である!」と、神の栄光(美)を賛美することにつながるのではないでしょうか。


 このように父なる神の「命の言葉」は、一度ご自身が語られた以上、必ず「神の美」となって現れ出ます。そして神の「命の言葉」は、決して私たちに対して「呪い」や「恐怖」などを与えるものではなく、私たちが「真の人生」に立ち返るべく、必ず「神の美」を私たちに現そうと、「祝福」と「喜び」を与えるものです。例えば聖書の御言葉や、講壇から語られるメッセージにしても、その中に「悔い改め」のメッセージが投げかけられる時、それは私たちが神に従うことで、最終的には神の「栄光(美)」を現すためにあるのです!


 何故私たち親の立場にある者は、我が子を叱るのでしょうか?確かに「子」を叱りつけ、「子」に鞭などの罰を与えることは、親にとってつらいことです。しかし、このことを通して父の愛、母の愛の中にある「懲らしめ」を、我が子が受け留めて、「親」の戒めに従っていく時に初めて、「子」が立派な大人へと成長していく為に、「親」は我が「子」を叱るのです。つまり「子」が正しく成長すること自体が、「親」の栄光(誉れ)につながるのです。この時に「親」は、我が「子」に対して何を注ぐべきでしょうか?それは親の「愛」という意志です。それに対して「子」は、親の「愛」に何をもって応えるべきでしょうか?それは「子」として、直ぐなる心をもって「美(感謝の言葉)」を現すことです。


 ですから、この時にエリヤに語られた父なる神の「愛」の意志は、「主が生きておられる、このことを知るために天の水をストップされた!」ということです。天の水をストップすること自体が目的ではなく、「主なる神、真の創造主である父が、現に生きて働いておられる」ことを、彼らが知るようになること、これが父なる神の本当の目的(意志)でした。この世の人々は、霊的に盲目(鈍感)である故、真の創造主が今も存在し、一人一人のために働いておられることを知りません。ですから、彼らが真の神を知る機会を設けるべく、私たちの唇の上に聖霊様が、「霊の言葉」を豊かに注いで下さるのです。ところで、この時のエリヤの如くに自然界の秩序に対しても、神の「命の言葉」をもって命じるなど、天的な権威が授けられる時があることを、あなたは心から信じることが出来ますか?私たちが霊的に完全に打ち砕かれ、聖霊様の取扱い易い器に仕立てられる時、イエス・キリストと同様に、暴風雨をともなう嵐に対して、「静まりなさい!」と命じることの出来る、天の力が着せられるのです!


「世の水」が尽きろうとも
 エリヤは、預言的な神の命令(命の言葉)をアハブ王に告げた時、彼自身はどのように考えていたのでしょうか?確かにエリヤの信仰には、「主は生きておられる。それ故に私は、如何なる状況においても必ず守られる!」という確信はありました。しかし人間的には、多少の「不安(心配)」もあったことでしょう。何故なら、自分の生きる環境においても、「世の水」が尽きる訳ですから・・・・。実はこの時が、彼の信仰が試される時でした。果たして彼は、この時どのように思考が変革され、如何なる行動を選択したのでしょうか?


 「たといそうでなくても・・・・」という、ダニエルの三人の友人たちの語った、有名な信仰告白の言葉がありますが、エリヤも「世の水」が尽きた時、「たとい世の水が尽きたとしても・・・・」という、大胆な信仰の行動を選択したのでしょうか?恐らく、多少困惑気味なエリヤに「主の言葉がエリヤに臨んだ」(2節)と記述されている通り、まるで神の「命の言葉」が生き物の如くに、彼の全身全霊に覆い被さったのではないでしょうか!あの「聖霊のバプテスマ」を授かった、弱小集団と思われていた百二十人の弟子たちに臨んだのと同じ有様で、主の霊(聖霊)が神の「命の言葉」を携えて、エリヤに臨んだ(訪れた)のです!


 そしてエリヤは、神の「命の言葉」に覆われた瞬間に、天上の「平安」を得ることが出来ました。先ず神はエリヤに対して、「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ」と命じられました。常識的に考えるならば、全ての「天の水」が尽きるということは、「川の水」もいずれ枯渇する訳です。それ故、普通でしたら「ずっと川辺で生活していくことは不可能だ!」などと疑ってもよいところですが、彼は「主なる神の命の言葉は必ず成就する!」ことを、今までの歩みから知っていましたので、彼は信じて「何か」を待ち望みました。


 この時、彼は具体的に如何なる行動を選択したのでしょうか?第一に彼は、次に来る神の「命令(指令)」を待ったことです。彼は不安の余り、例えば「主よ、ではどうすればよいのですか?」などの問いかけを、決して語っていません。何故なら彼は、主なる神が「命の言葉」を発せられた場合には、必ずそれに伴う明確な「説明できる言葉」も、続いて発せられることを知っていたからです。それ故父なる神は、第二の指令として「その川の水を飲むがよい。私は烏に命じて、そこであなたを養わせる。」(4節)と告げられました。


 第二の行動は、エリヤは父なる神からの第二の指令を受け取った後、「天のもの」を求めて引き続き第二指令に従ったことです。ここで私たちが覚えるべき重要ポイントは、エリヤは決して父なる神に対して、例えば「私にだけは、水とパンを確保して下さい!」などと、何らかの「保証」を要求(取引)していません。彼は単純に「天のもの」だけを求めて、それをひたすら待ち望みました。彼は、この時に語られた父なる神の「命の言葉」の中に、「主が生きておられる!」ことを、人々が知るようになるのであれば、自分にも「あなたが生きておられることを、更に知る(知りたい!)」権利があることを、前もって確信していました。つまり彼は「更に神の奥深い天的次元を知る」べく、天上のものを乞い求めた訳です。


 私たちは時々「試練」や「迫害」、そして「困難(苦しみ)」に遭遇した際、「主よ、私は確かにこの苦難を感謝します。しかしそれと同時に、この苦難から逃れる方法や避難所を示して下さい!」、「いつ、この苦しみが終わるのでしょうか?」などと祈る傾向にあります。これらの言葉は、ある面で神と「取引する」ことです。しかし主なる神は、「私は生きている。それ故あなたを、常に守り導く。雄々しくありなさい!」などと、聖霊様を通して曖昧に(三次元的判断から見て)語られるだけです。それに対して私たちは、更に「もっと具体的な言葉を示して下さい!」などの押し問答を繰り返します。神の「霊の法則」によれば、「私は必ずあなたを贖い出す!それ故、ただ単純に待ち望みなさい!」という「命の言葉」ほど、明確な言葉はありません。


 あなたは、この神の「命の言葉」を、「霊の言葉」として信じることが出来ますか?神が語られる「必ず・・・・」という言葉の中には、私たちが抱く三次元的な「時の概念」は存在しません!しかし、神の「四次元的な概念」で把握するならば、この「必ず・・・・」という言葉の持つ「意味」は、文字通り「必ず成就する(その通りになる)!」ことを意味するのです。決して「九十九点」でもなく、それは必ず「百点(完全)」になることです。「贖い出す!」と神が語られた以上、それは必ず「贖い出される時が来る!」ということなのです。


 「天のもの」を求めて第二指令に従った結果、エリヤは実際に「ケリテ川」から、水を毎日呑むことが出来、そして烏を通して「パン」を食することが出来ました。エリヤはこの時点まで、烏が人間に食糧を運んで来るという奇跡を、経験したことも耳にしたこともありませんでした。ご存知のように烏は、非常に鳥の中では賢い種目に入りますが、その習性は一匹一匹が非常に自己中心的です。この時、例えば聖霊様が「鳩が毎日、あなたにパンを運んで来るでしょう!」と語っていたら、エリヤは直ぐに信じたことでしょう。そして烏は、死肉や腐った残飯でもむさぼる鳥ですから、私たちは「烏が口に運んで来る食べ物なんて、とてもじゃないが食えたものではない!病気にでもなってしまう!」などと思いがちです。しかし父なる神は、数羽の烏たちに働きかけて、上等の「肉」と焼き立ての「パン」を、何処からともなく決まった時刻に、彼の元に届けて下さったのです。


「天のもの」を求める


私たちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。・・・・私たちにとって有利であったこれらのことを、キリストの故に損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストの故に、私は全てを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています。
                                                                                                      【ピリピ書3章3,7~8節】


 パウロは、イエス・キリストを「知る」ことの素晴らしさが、あまりにも自分にとって、「命」以上に価値あるものと分りました。それ故、彼は他のものを「塵あくた」と見なす程に、神の四次元的領域に生きる者へと変革されました。しかし現実の私たちは、未々パウロのこの信仰の領域に踏み入っているとは言えません。どちらかと言えば、「世のもの」が尽きた時には、「主よ、今これが足りません。どうぞ与えて下さい!」などと祈りがちです。「世のもの」が尽きる時、それこそ私たちが、イエス・キリストを「知る」ことの素晴らしさを、聖霊を通して味合う神の導きに他なりません。


 「天の水が尽きろうとも、私は主なる神が用意して下さる、天のものだけを求め続ける!」と告白し続けたエリヤの如くに、聖霊様が「世のもの」をストップさせ、私たちを真の生ける神の領域に生きる者へと造り変え、少しずつ変革の道を用意して下さることを信じ受け留めて下さい!私たちがこの世において生きる限り、たとえ「世のもの」が尽きたとしても、聖霊様は「烏(天の助け)」を用意して下さいます。鳩と比較して烏は、確かに悪しき部類の鳥のように見えますが、彼らは天空にあっての「賢さ」と、何が何でも貪り求める「ハングリー欲(熱心な飢え渇き)」が、生まれつき備わっている生物です。ある面でエリヤの信仰と、これらの烏の習性は似通っていると言えます。ですから私たちも、「天のもの」だけを求める霊的飢え渇きを、聖霊様の油注ぎを通して益々与えられるよう、主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


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