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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

急患診療(No.16)

                                革命の時



真夜中になって、主はエジプトの国で全ての初子を撃たれた。・・・・死人が出なかった家は一軒も無かったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった。ファラオは、モーセとアロンを夜のうちに呼び出して言った。「さあ、私の民の中から出て行くがよい、・・・・行って、主に仕えるがよい。・・・・そして、私をも祝福してもらいたい。」エジプト人は、民をせきたてて、急いで国から去らせようとした。・・・・民は、まだ酵母の入っていないパンの練り粉をこね鉢ごと外套に包み、肩に担いだ。・・・・彼らがエジプトから追放された時、ぐずぐずしていることは出来なかったし、道中の食糧を用意するいとまも無かったからである。イスラエルの人々が、エジプトに住んでいた期間は430年であった。430年を経たちょうどその日に、主の部隊は全軍、エジプトの国を出発した。その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。
                                                                                             【出エジプト記12章29~42節】


神の「その時」は近い
 私たちの国家「日本」は、今回イスラエルの民が置かれている状況と、霊的に何ら変わりません。そして、私たち日本人キリスト者も、完全に練り聖められた、神の「軍兵(戦士)」であるとはとても言えません。エジプト国家の経済的混乱と、様々に引き起こされる「災い」という、大いなる社会的不安の中で、イスラエルの民は如何なる心境で、毎日を過ごしていたのでしょうか?


 イスラエルの民は、私たちと何ら変わらぬ、不完全な器であったかも知れませんが、彼らは主なる神の「ご命令」に関して言えば、出来るだけ忠実に守り行い、特に「什一の献げ物」の規定、そして今回の「災い」に関して強調された、「子羊の血潮」を塗り、これらを記念とすること(過越しの祭りを行うこと)を、全員が怠ること無きよう、共に励まし合いながら過ごしていたことでしょう。最後の「災い」が、いつ起こるのか分からない中にあって、彼らは「その時」を待っていたのです。


 するとある日の真夜中、突然に聖霊様が「死の霊」を呼び起こすや否や、その「死の霊」はイスラエルの全家を過ぎ越し、エジプトの全家を覆い尽くしました。その瞬間、「恐怖」と「悲しみ」の叫び声が、エジプトの全家から起こります。人も動物も、全ての生物の「長子(初子)」が、原因不明の病いに襲われ、次々と「突然死」に至ったからです。


 ご存知のように、この「災い」を引き起こした方は、主なる神ご自身です。そしてイスラエルの民は、モーセとアロンという偉大なリーダーのもとで、この最後の「災い」のために、また「災い」の後のアクション(行動)を計画するなどの、何らかの「備え(準備と対策)」を為した訳ではありません。エジプトの王(ファラオ)が、「さあ、私の民の中から出て行くがよい」(31節)と、逆にモーセたちに「お願い(懇願)」を要求したのです。これが私たちが覚えるべき、第一の奥義(重要ポイント)です。


 ご存知のようにエジプトとは、霊的に「この世」の象徴です。私たちが「この世」から、霊的な「悪意」や「そしり」、そして「中傷」などの迫害を受けている間は、神の「その時」には至っていません。しかし仮に「この世」から逆に、例えば「あなた方の信じる神は、真の神かも知れないから、この国の危機的状況のために、どうか祈ってもらえないだろうか?」などの「お願い」の声が、政治家や公務員、或いは指導的立場にある人々から起きた時、それはいよいよ、神の「その時(終末の時)」が、近いことを意味します。


「その時」に向けて・・・・
 では「その時」に向けて、私たちは何らかの「準備」をすべきでしょうか?答えは、この時同様に、何もする必要が無い!ということです。私たちは、確かに「この世」において、様々な「困難」や「苦しみ」の中にありますが、それは決して「この世」、つまりエジプトが私たちを、苦しめているのではありません。


 余談になりますが、かつて2009年8月30日の夜遅くに、今までの既存の与党が、衆議院選挙に大敗し、野党の第一党が次の国政を担うことになりました。だからと言ってその後の日本が、バラ色になった訳ではありませんでした。むしろその後、幾年にも渡って日本は、国家としての様々な「欠陥」が問われることになります。全ての業界の中に蔓延する悪しき部分、それまで偽っていた部分が顕わにされ、私たち日本人が「何」を信じ(頼みとし)て、それまで歩んできたのか?それらの言わば、日本人的「信念(信仰)」や「価値観」の土台が、もろくも崩れ果てることになるでしょう。そして、幾多に渡る「大艱難」の後、「この世」の人々は、真のキリスト者の持つ不動の信仰を見て、次のようにお願いすることでしょう。「どうか、あなたの信じる神、真の神にお願いしてくれませんか?この国を建て直すべく、キリスト者の皆さんに、ご協力を仰ぐしか無いのです!」と。


 第二の奥義になりますが、エジプトの王がイスラエル人に対して、「お願い」を述べた時、彼らイスラエルの民は、如何なる行動を採ったのか?という点です。彼らは確かに最終的に、今までさんざんに苦しめられてきた、敵(エジプトの民)に勝利しました。だからと言って彼らは、「よし、しめた!今までの借り(迫害)を、返してもらおうではないか!」などの、ある面で「復習(仕返し)」などの、人間的行動には走らなかったことです。むしろ彼らは、直ちに神の「ご命令」に従い、急いで「出立(脱出)」の行動に移っているのです。何と驚くべきことに、イスラエルの全家は各家庭毎に、急いで財産を整理したり、家財道具の一式を荷馬車に載せるなどの、引越し作業は一切せずに、エジプトにおける全ての「財」を放ったまま、酵母を入れないパン(練り粉)のみを持参して、堂々と出立したのです(勿論、牛や羊などの家畜は、自力で移動できるものとして引率しますが・・・・)。


 仮に私たちに対して、主なる神が「脱出(革命)の時」を命じられたとしたら、私たちの場合は「脱出」するのに、必要な「時」と「準備(支度金)」などと、様々な「計画」を先ず練り上げることでしょう。しかし「その時」至らば、それら全てが一切無駄なものであることを、私たちは知ることになります。「私が心配する以前より、主なる神は全てのことをご存知で、前もって用意されていた!」と。そうです!私たちは「何」も準備する必要がありません。「何」かを持つ必要もありません。ただ「霊」が興奮するままに、「上」からの力を着せられた彼らは、部族どうしで打ち合わせすること無く、一斉(同時)に聖霊様に導かれるまま、「酵母を入れないパン」を携えて、大胆に勇気をもって踏み出したのです。


 日本におけるキリスト者の中で、今!働かれる主の「御業」を見て、霊的に察知した真のキリスト者は、更に祈り求めて行くことでしょう。何故なら、もっと更なる「旅立ち」が始まっているからです。つまり主イエス・キリストの、「来臨の時」に向けて前進すればする程、遂に「その時」、約束の地(カナン)に辿り着くことが出来ることを、「霊」が飢え渇き知っているからです。私たちが前進すべきゴールには、真の統治者なる主イエス・キリストが、私たちのことを待っておられます。それ故私たちは、「何」も持たずに出て行きましょう!「心配」や「不平(不信仰)」を携え持つ必要は無いのです。


「酵母を入れないパン」を携えて
 「その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。」(42節)私たちの主なる神は、眠ること無く、まどろむことも無く、常に私たちを見守り、傍らにて導いて下さる方です!私たちは既に、「ゴール」を目指して踏み出しているのです。主によって贖い出された「私たち(シオンの民)」は、神の大いなる「約束」を得るべく、着実に一歩一歩と進み行く民です。私たちの「寿命」が、いつ果てるのか?それを推し測ることが出来ないのと同様に、主なる神の「ご計画」は、私たちの三次元的「計画(準備)」の先を越えて、御子イエス・キリストによって、完成を目指して進んでいるからです。


 神の「革命の時」は、あなたが「この世」に、生(命)を授かった時から、あなた自身に定められた、神の「ご計画」の中で進められています。これから始まる「大艱難の時」に向けて、私たちは「不信仰」と「つぶやき」ではなく、聖霊様の「導き(ご命令)」のみを、大切に携え行くべきです。


 「酵母を入れないパン」とは、聖霊様の「働き(取扱い)」を指します。私たちの「霊」は、「酵母」を入れる部分(肉的な弱さ)が多くあります。しかし聖霊様は、それでも私たちのことを霊的に取扱うべく、イスラエルの民に「天上のパン(マナ)」を、毎日降り注いで下さった如くに、聖いパンへと毎日練り上げて下さるのです。それ故、是非祈り続けて下さい!日本のキリスト者は、聖霊様によって今後、更に練り聖めらて行くことでしょう。


 私たちは「世界」から見れば、「小さな群れ」の如き存在です。しかし、この「小さな群れ」の元にも、多くの人々が「お願い」を持って、訪ねて来ることでしょう。主イエス・キリストの、大いなる「約束の時」が、既に始まっていることを信じて、聖霊様の絶えることの無い「導き」の中で、あなたが聖なる民へと練り上げられることを、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン!


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