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命と心の健やかなる成長のために!
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生ける聖霊の働き(No.22)

                  生ける石(Living-Stone)



サウロは、ダビデに自分の装束を着せた。彼の頭に青銅の兜をのせ、身には鎧を着けさせた。ダビデは、その装束の上にサウロの剣を帯びて歩いてみた。だが、彼はこれらのものに慣れていなかった。ダビテはサウロに言った。「こんなものを着たのでは、歩くこともできません。慣れていませんから。」ダビデはそれらを脱ぎ去り、自分の杖を手に取ると、川岸から滑らかな石を五つ選び、身に着けていた羊飼いの投石袋に入れ、石投げ紐を手にして、あのペリシテ人(ゴリアテ)に向かって行った。・・・・ダビテもこのペリシテ人に言った。「・・・・主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まった全ての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」ペリシテ人は身構え、ダビデに近付いて来た。ダビデも急ぎ、ペリシテ人に立ち向かうため戦いの場に走った。ダビデは袋に手を入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の額を撃った。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた。ダビデは石投げ紐と石一つでこのペリシテ人に勝ち、彼を撃ち殺した。ダビデの手には剣もなかった。ダビデは走り寄って、そのペリシテ人の上にまたがると、ペリシテ人の剣を取り、さやから引き抜いてとどめを刺し、首を切り落とした。ペリシテ軍は、自分たちの勇士が殺されたのを見て、逃げ出した。
                                                                                             【Ⅰサムエル記17章38~51節】


神の「取扱い」を知る
 歴戦の戦闘家ゴリアテ対(vs)、人間の戦闘に未経験の青年ダビテというこの有名なストーリーを、私たちは日曜学校の「お話し」から、各種聖会におけるセミナー(メッセージ)などを通して、今まで何度も聞いてきました。しかしこの章では、「霊的戦い」における教訓という主題ではなく、私たちが単純にこのストーリーから、霊的に「何」を学ぶべきかについて述べて参ります。特に今世紀において、私たちが霊的「キリストの花嫁」として、花婿イエス・キリストをお迎えする際に、「何」を備えなければならないのか?という視点で、ダビテが選択した「行動」と、敵に対して大胆に語った「言葉」から、非常に重要な奥義を知る必要があります。


 私たちは、自分で何かを為すという行動よりも、主なる神ご自身が聖霊を通して、私たちを霊的に如何に取扱われようとしておられるのかを、神ご自身の視点(立場)から常に認識していなければ、私たちの側から「神」を利用するなど、いわゆる御利益主義を信奉する、世的な宗教信者に成り下がってしまう霊的危険性があります。それ故、私たちはこのストーリーを通して、聖霊様が①どのように私たちを取扱って下さるのか?そしてその霊的取扱いを通して、②神が私たちを如何なる方向性で、貴い(重要な)「器」として造り変えて下さるのか?この二点について詳しく学んで参りましょう。


 さて私たちは、聖霊様を通して霊的に取扱われ易い器になることを、心の底から願い求めているでしょうか?このことが先ず問われています。つまり私たちが、主なる神にとって本当に用い易い「器」、例えば熟練の大工職人が常に携行している「七つ道具」のように、自分が神の国を建設するための、重要な「霊的道具(或いは建材)」として用いられるなどの、天的なイメージを常に願い求めているでしょうか?ところで、私たちは「聖霊のバプテスマ」を授かったことにより、それ以前の信仰状態の時よりも、返って激しい霊的試練を被る体験をします。それはあたかも、激流の中に放り込まれた一つの「岩石」のような体験です。物凄く激しく流れる、上流の川のフィールド全体は、例えば「重い石」が川底に沈んで「もう一安心!」などと、簡単に落ち着ける安らぎの場とは決して言えません!


 川の激流に押し流されることで、「重い石」は川底を何度も転がり、ある時には岸辺にそびえ立つ、固い巨大な岩壁にぶつかります。その度に「重い石」は、自分の角張っていた部分(形状)が、少しずつ丸みを帯びた形へと砕かれる始末です。このように、私たちの信仰生活の中にも、同様の霊的取扱いを受けることがあり、私たちが聖霊様を求めれば求める程、様々な「霊的な岩(試練)」にぶつかることで、霊的に砕かれて行くのです。それ故、信仰生活における激流は、神の「試みの時」を意味します。そして実は、この神による「霊的取扱い」があって初めて、私たちは霊的に悔いた、砕かれた「重要な器」として、聖霊様が最終的に造り変えて下さることを、霊的に「知る」ことになります。


三つの道具
 青年ダビテは、常に「三つの道具」を携行して出かけました。彼が常に携え持っていた物、それは第一にモーセも同様に携行した、「羊飼いの杖」でした。彼は幼少の頃から、兄たちと共に「羊飼い」としての訓練を受けていましたから、この「杖」とセットで、ある道具も手渡されていました。そして彼は、その道具を使用する方法、そして熟練するための練習を、絶えず欠かすこと無く励みました。その道具とは、第二の「石投げ紐」という武器の一種です。そして、この石投げ紐に必要な「丸石」、これが第三の道具でした。「川岸から滑らかな石を五つ選び」(40節)と記述されているように、それは恐らくゴルフボール程度の大きさで、非常に表面がツルツルした、真ん丸い「川石」であったものと推測できます。彼は少年の頃から、常に数個の「丸石」を携行して、投石の命中度を高めるべく、技術的に磨きをかける練習に励みました。しかしある時は、目標の命中から逸れたり、途中で「石」を落とすなどして、投石袋に入れる必要な数が不足した時は、直ちに川辺に出かけて行き、良き滑らかな石を探し出すことを欠かしませんでした。


 それに対して、ダビデの他の兄弟たちのものも含めて、イスラエル軍の武具は如何なるものだったのでしょうか?サウル王は青年ダビデを初めて見た時、兵隊に適していない小柄な体つきと、「羊飼い」の身なりに思わず溜息をつき、「そんな格好では、とてもじゃないが一発で敵に仕留められてしまう。私は戦いに臨むことが出来ないから、私の武具を貸して上げよう!」と語り、王の武具を彼に着せました。ところが、王の体格とマッチしないこともありますが、ダビデにとって王の武具は返って重すぎて、身軽に動きの取れない不要な道具になりました。ですから彼は、すぐに王に対して「私の身は、主なる神が必ず守り導いて下さいます。それ故王様!申し訳ありませんが、これはお返しします。」と断り、戦場に出かける準備をしました。このようにサウルの武具は、他の兵士のものと同様に固い金属で覆われ、敵の「矢」が飛んできても、決して貫通することが無い頑丈なものでした。しかしそれは重苦しいものであり、皆がこの重い鎧を着て戦闘している訳です。


 ダビデは何故、王の申し出を断ったのでしょうか?前述したように、ダビデは身軽さを要求される野生の敵、例えば百獣の王ライオンや熊との戦いから、数々の経験を経ていたこともありましたが、聖霊様はこの時彼に対して、新しい啓示を示されたのです。「イスラエル軍は、人間の目に見て頑丈な鎧を身に着けているにも関わらず、全くペリシテ軍に対して歯が立たず、勝利できないではないか!この戦いは主の戦いであるから、あなたは常に私が側にいて、共に戦うことを信じて前進しなさい!主なる神が、常にあなたと共に居て下り、杖を持つあなたの手に力を与え、あなたの投石の技術に命中度を高めている!それ故あなたは、主なる神の鎧を身に着けなさい!」と。


 「主の鎧」とは何でしょうか?このことを、私たちは霊的に知る必要があります。先ずサウルの武具は、人間的なものを象徴しています。私たちは、何かとてつもない大激流の如き、大きな「試練」や「困難」に遭遇した場合に、如何なる武具を身に着けるのでしょうか?それを三次元的思考で「あー、過去においても似たような事があった。あの時は、こういう方法で勝利できたから、今回も何とか同じ方法で、勝利できるのではないか?」などと、古い頭(三次元)で計算(判断)して進み行きますと、大抵それは新しい「試みの時」に、失敗(敗北)してしまうものです。


 何故、主なる神は私たちに対して、新しい「試みの時」を用意されるのでしょうか?それは、私たちが人間的なものを頼みとせず、主なる神が私たちの前を歩かれることによって、私たちを安全なフィールドへと、必ず守り導かれる唯一の方であることを、私たちが全幅の信頼をもって従順するためです。青年ダビテは、常に聖霊を通して「私自身からは、何も為し得ません!」ということを、常に学ばされました。しかし私たちは、「え!何故、主は何度も同じテストを、私に与えるのか?私はもう、今まであなたの与えたテストに、百点採って合格したはずです。次の別のテスト(成功)を与えて下さい!」などと、不従順な反応を示します。そして仮に主なる神が、新しい別のテストを与えたとしても、私たちは第一回目のテスト(試みの時)を忘れ、自分の「肉の力」で何かを為して行こうとするなど、アダム(エバ)の罪に由来する霊的愚かさがあるのです。


「五つの石」―三つの奥義―
 次に、ダビテはサウル王の元を離れ、直ちに「あるフィールド」に向かいました。彼は何処に行けば、「滑らかな石」が存在するかを熟知していました。彼は少年の頃から、常に「滑らかな石」を探し求めていました。そして荒野における、野生の「敵」との戦いの後に必ず、聖霊様を通して「石を用意しなさい!石を欠かしてはなりません!」と命じられていました。それ故この時も、直ちに彼は川の中流に赴き、聖霊様から示される「これだ!」という、滑らかな「五つの石」を探して拾い上げ、投石袋に詰め込みました。


 遂に、戦いの火蓋が切られました。ダビデは、イスラエル軍に対して激しく嘲笑する、敵将ゴリアテに向かって走り出しました。そしてゴリアテの前に対峙した時、彼は聖霊を通して「この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」(47節)と、大胆に宣戦布告したのです。そして彼は、すばやく持っていた石投げ紐に「石」を入れ、それをぐるぐる振り回して、力一杯に「石」を放出しました。この時の戦闘シーンは、ある外国映画によればダビデが、一回から四回まで投げるのですが、決して命中すること無く失敗しているように演出しています。そして最後の「石」、つまり五回目でゴリアテの額に命中し、見事に打ち倒すというシナリオ(設定)になっています。私はこの映画のシナリオは、観賞する者を非常にハラハラさせるなど、人間的(三次元的)発想から来る演出であると思います。


 しかし主なる神が為されることは、「失敗したから・・・・になる。それ故、必要な措置(準備)を講じておく」などの論理ではなく、「一番適切な石を用い、そして一番適切な時に応じて、ダビデの右手を用い、一発で敵を仕留める(一発必殺)!」こと、これが神の「ご計画」の筋書きです。ですから主なる神にとって、何回目(例えば最後の五回目)という筋書きはありません。仮に神が、ダビデが四度も失敗することを予めご存知で、あえて五回目の「石」を用意したという、愚かな人間的解釈をするのであれば、それは決して神の素晴らしい「栄光」には至りません。また神の為される勝利の確率は、「あー五分の一か!」などと、人間的に誤った計算(論理)の判断に陥る危険性すらあります。


 余談になりますが、日本の霊的フィールドを常に蹂躙し、様々に汚している敵将サタンが、この時のゴリアテの如くに私たちのことを、霊的に激しく嘲笑していることをご存知でしょうか?彼ら悪しき敵軍は、確かに世界中に散らばっている、霊的「とりなし手(祈りの器)」によって、少しずつ勢力が後退しつつあるとは言え、依然として「お前たち日本人キリスト者に、一体何ができると言うのか!それよりも、私の部下が支配する世の宗教の方が、勢力的にも拡大しているではないか!お前たちが、いくら祈ってみたところで、我々の働きを止めることは出来ない!お前たちの祈りは無駄だ!弱々しいダビデみたいではないか!」などと、悪しき言葉(欺き、疑い)をもって嘲笑します。しかし、私たちは覚えようではありませんか!聖霊様は必ず私たちを、この日本のリバイバルの働きに携わる重要な「五つの石」、つまり「生ける石」として用いて下さることを。


―第一の霊的奥義―
 この時の「戦い」における霊的奥義は、第一に青年ダビデが少年の頃、預言者サムエルを通して油注がれる際に、神がサムエルに告げられた戒めの言葉にあります。「あなたは見誤っている。確かに人間的に見て、ダビデよりも兄たちの方が、容姿が立派で賢そうに見える。しかし私の視点は違う。人はうわべを見るが、私はその者の直ぐな心(霊的に滑らかな状態)、つまり悔いた砕かれた霊を見る!」(Ⅰサムエル記16章参照)この主なる神の御言葉は、今に生きる日本人キリスト者にも、同様に投げかけられています。「日本のうわべ(現状)を見てはいけない!」と。人間は、すぐうわべ(現実)だけを見て判断し、うわべ(サウルの武具)だけを装おうとします。


 聖霊様は決して、「○○○神学校を卒業し、△△△博士号を授与されて、教会会員数□□□名を牧会する有名な大先生(リーダー)」を用いて、日本を造り変えようとしているのではありません!人から見捨てられ、見向きもされないような「石」を打ち砕いて、非常に滑らかな状態へと造り変えて、神の一番適切な時に、日本を占領する悪しき「敵陣」へと、その「生ける石」を投石すること、これが聖霊様の単純な「戦略」です。私たちは人間的に見て、見捨てられた「器」に思える時があることでしょう。しかし覚えて下さい!私たちは、決して見捨てられてはいません!主なる神は常にあなたを見守り、霊的に直ぐな状態へと取扱うことを欲しておられます。イエス・キリストの雛型である、ダビデが探し求め見出したように、主なる神は聖霊を通して、あなたが霊的に滑らかになる「その時」まで見守り続け、そして「生ける石」に造り変えられたあなたを、絶えず探し回っておられるのです。そしてあなたは、遂に主なる神の聖なる「投石袋」に中に入り、神が計画しておられる一番「適切な時」に、敵の要塞をも打ち壊す程の、重要な武器として投じられるのです。


―第二の霊的奥義―
主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされない」(47節)
 主なる神はこの日本、そして一人一人の家庭の中に大いなる「救いの時」、即ち大収穫(リバイバル)を用意される際に、人間的なものを一切必要とされません!つまり人間的方法、例えば「・・・・すれば~なる」などの人間的努力(肉の業)を、主なる神は全て忌み嫌われます。では、主なる神が必要とされるものとは何でしょうか?それはまさしくダビデが川辺に赴き、滑らかな石を求めて探し回り、そして遂に拾い上げた時の行動と同様に、私たちの霊的に悔いた砕かれた状態、つまり「生きた聖なる生贄」(ローマ書12・1)のことです。私たちは、とかく自分の「願い」や「行動」を基準として、信仰的な希望(願望)を抱く可能性がありますが、主なる神が全ての主権者であり、主なる神だけが私たちを正しく取扱われる、唯一の方であることを再認識して 下さい!私たちを通して愛する家族の中、また私たちの置かれた地域の場に、そして更に最終的に主なる神は、私たちの祖国(日本)の「救い」のために、実は私たちの悔いた砕かれた姿勢(状態)を、必要とされることを覚えて下さい!


―第三の霊的奥義―
 ところで「五つの石」は、必ずしも五役者などの数字に見られる、「特別な器」を意味する概念ではありません。彼は自分が拾った「五つの石」を、投石袋の中から取り出す時、決して「一回目は、これ位の石で試してみよう!」などと、あれこれと選んでいる訳ではありません!勿論ゴリアテを前にして、そんな余裕はありません。彼はとにかく、投石袋の中から何も考えずに取り出し、ゴリアテの動きを睨み据えながら、迅速に「ある石」を石投げ紐の中に入れました。


 この一連の動きは、非常に単純なイメージに写りますが、この中に重要な第三の奥義が示されています。主なる神が、私たち(器)を選び召し出される時、それは主なる神の「ご計画」が優先するということであって、例えば私たちが時々思い悩む、「神は何故あの者を用いて、この私を用いて下さらないのだろうか?」などの、低レベルの「考え(私的計画)」には存在しません。「一番目、二番目、三番目・・・・」という考え方は、人間的思考の典型例です。


 主なる神が、あなたを選び召し出した目的(理由)は、私たちが例えばスポーツ競技に見受けられる、人間的レースを展開する為ではありません。あくまで主なる神の「ご計画」が優先して、あなたを「この世」から選び召し出し、その「ご計画」の中にあって、神の定められる最善の時に、聖霊様があなた(生ける石)を拾って下さること、このことをあなたが信仰をもって受け留めるか否かが、今後の霊的成長の分岐点となります。この点について私たちの側に、明確な信仰表明があるのであれば、「あ!今の試みの時、そして神の栄光に至る恵みの時を感謝します。私の霊的状態には、未々角張った部分があるのですね。もっと更に滑らかな状態へと、霊的に打ち砕いて下さい!」などと、神が用意される聖霊様の取扱い(生ける川)の中で、柔軟な器へと造り変えられ、そして遂にはダビデがゴリアテを打ち倒した時と同様に、主なる神が私たちを用いて、一石を投じて下さるのです。


 今あなたは、確かに「試みの時」にあるかも知れません。しかし「神の時」至らば、神の戦いにおける重要な「要石」として、一番重要となる霊的戦いにおいて、あなた(生ける石)を必ず用いて下さることを、信じようではありませんか!私たちの霊的戦いの中において、私たちが勘違いしてならない点は、霊的戦いの最前戦の領域(分野)は決して、敵の占領地から失われた人々(捕囚の民)を、霊的に奪還していくなどの、伝道(宣教)的な働きという外側の領域にあるのではなく、私たちの「霊」という内側の領域にあるのです。私たちは自分の「霊」が、主なる神と密接につながる程、聖霊を通して完全に捧げ尽くされた状態に、霊的に造り変えられているか否か?という「戦い(葛藤)」が、実は霊的戦いの最前戦になるのです。


 悪しき霊は、必ず私たちに語りかけます。「いやー、あなた自身の中にある素晴らしい力(能力)を、今まさに発揮してみたらどうだい?」と。もし仮に私たちの「霊の耳」が、この種の霊的惑わしをキャッチ出来なかったら、それこそ既に「敗北」していると言わざるを得ません。この悪しき声が聞こえている間は、聖霊様も未だ私たちに対して、警告して下さっている証拠です。「主よ、私はもうすぐで、サタンの捕虜になるところでした。再びイエス・キリストの捕われ人として、イエス・キリストと密接につながり、霊的に一体化した状態になりたいのです。聖霊様!どうぞイエス・キリストの元へと、私を引き寄せて下さい!」と告白するなどの、生きた聖なる捧げものとしての霊的飢え渇きが、私たちには是非必要となります。


この主のもとに来なさい。主は、人々から見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなた方自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。・・・・あなた方は、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなた方を暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れて下さった方の力ある業を、あなた方が広く伝えるためなのです。
                                                                                                          【Ⅰペテロ2章4~9節】


 ダビデは何故、「川」の岸辺にて「生ける石」を探し求めたのでしょうか?それはイエス・キリストが、私たちを探し求めている理由と同じものです。私たちという「一つの石」が、果たして悔いた砕かれた状態に、霊的に造り変えられているか否か、このことを正しく見定めながら、イエス・キリストは常に私たちに語りかけます。「私の袋(ふところ)に入りなさい!私の袋に入るために、聖霊があなたを砕いて滑らかにしています。父なる神の一番最善の時に、あなたを呼び(召し出し)ます。その時まで、砕かれ続けなさい!」と。


 あなたは常に「生ける石」として、主なる神にとって取扱い易い「器」になることを、何にも優って強く欲していまかす?あなたが、たとえ激流の如き霊的状態の中にあっても、主なる神は常に囁かれることでしょう。「あなたは、私の生きた聖なる石です!私が用いる重要な要石です!」と。


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