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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

急患診療(No.15)

            神の子として生きる力を与える方



もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が 、あなた方の内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなた方の内に宿っているその霊によって、あなた方の死ぬはずの体をも生かして下さるでしょう。・・・・肉に従って生きるなら、あなた方は死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなた方は生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなた方は、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、私たちが神の子供であることを、私たちの霊と一緒になって証しして下さいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
                                                                                                      【ローマ書8章11~17節】


聖霊の「関わり方」
 今回の御言葉のキーワードは、「霊(聖霊)」です。ご存知のように、聖霊様は私たちを、イエス・キリストの「証人」として仕立てて下さる方です。その時に聖霊様は、父なる神の大いなる「力」を、天上から注いで下さる方でもあります。その「力」とは、イエス・キリストが神の「御子」であり、死んだ者(過去の人)ではなく、今も尚生きて働かれ、私たちの現実の生活においても、まざまざと目に見える形で、様々に関って下さる方である!このことを、現実ならしめる(事実として実証する)力のことです。


 そうです!私たちの信仰は、目に見えない神の「事実」を、一つ一つ確認することであり、私たちはイエス・キリストの存在を、この世の人々に証言するために、選び召し出されているのです。イエス・キリストの「証人」としての力を、上(天上)より着せられる時、私たちに必要なものと言えば、それは聖霊によってもたらされる、神の国の福音を大胆に語る「新しい言葉」です。この聖霊による「言葉」をもって、私たちは大胆に語るのです!今までの「不平(つぶやき)」ではなく、「感謝」と「賛美」をもって、神を高らかに褒め称える「言葉」として。また「悲しみ」あるところには、真の「喜び」をもたらして下さる、聖霊様の麗しい内住の働きが、私たちの「霊」の只中に力強く宿る、これが聖霊様の働きの特徴です。


 そうです!たとえ如何なる状況下にあっても、聖霊様が生きて働かれる時に、私たちの肉の力では到底為しえない、不可能なフィールドを乗り越えて、上よりの「感謝」と「賛美」の外套をもって、覆って(着せて)下さるのです。聖霊様はペンテコステという、特別な一日(最良の日)のみに働かれる方ではなく、どちらかと言えば、私たちにとって最悪の日(時)と思えるような時に働かれ、私たちは「その時」に信仰が試されるのです。それは、「聖霊様は、どんな状況下においても、私たちと共に居て下さり、熱心に働きかけて下さる!」こと、このことを信じるか否かのテストです。しかし、私たちがキリストの「証人」として、「証言」を語る場合に、それが私たちの現実生活において、力強い生き方として目に見えないのであれば、その「証言」には何の効力もありません。そこで今回はもう一度、聖霊様が如何なる「関わり方」をもって、私たちに働かれる方であるか、この点に絞って学んで参りましょう。


聖霊の三つの「仕事(働き)」
 先ず第一にローマ書8章において、パウロは聖霊様の働き(仕事)を、ヨハネとは別の観点から描いています。ヨハネ福音書では「弁護者(Helper)」としての働きが、聖霊様の主要な務めとして描かれていますが、パウロは11節において聖霊イコール、父なる神の「霊」そのものである!と力説しています。それ故私たちは、「聖霊様!」と呼びかけた場合、それが「父なる神の霊」を呼ぶのと同じである!という事実に、畏れ多い信仰をもって臨む必要があります。つまり父なる神の「御思い」、そして「意志」の働きを現実ならしめる方が、聖霊様です。


 第二にパウロは、私たちの「死ぬはずの体」を生かして下さる方、それが聖霊様であると述べています。ご存知のように、私たちは「朽ちる体(死ぬ予定の生体)」を備えた器です。私たちは、アダム(エバ)の犯した行為により、「罪」の奴隷としての支配を受けた結果、「霊」も死に至ることになります。しかし父なる神は、私たちの「死に行く体」の中に、再び「聖霊」という新しい霊を内住させたことにより、イエス・キリストと同様に「復活の体」が完成される!という、父なる神の「恵み」にあずかっているのです。


 パウロは更に13節において、この奥義を詳しく説明しています。この御言葉の中にある、「体の仕業を絶つ(殺す)ならば・・・・」という表現ですが、非常に分かりにくい内容です。ご存知のように、私たちは自分で「肉体」を殺すこと、それは「罪」になるので、到底為しえません。パウロはこの御言葉から、実は私たちの「肉体」には、二つの法則が支配していること、つまり①「肉」という罪の法則に縛られて生きるのか、それとも②「罪」という死の法則を打ち破り、イエス・キリストの復活を通して与えられる、新しい体を支配して戴くために、聖霊の「助け」を受けながら自由に生きるという、二つの対立を説明しています。


 しかし、私たちはこの「肉の法則」を、自分の力で絶つ(殺す)ことが出来ません。だからこそ「霊によって・・・・」、即ち聖霊様の「助け」が必要になります。例えば、私たちが信仰を働かせる時、それはあたかも、一生懸命に「畑」を耕作するかの如きイメージです。それ故「聖霊様!私も異言で必死に祈りますから、どうぞあなたも働いて下さい。」などの祈りをしがちです。13節を詳訳しますと、「聖霊によって私たちの肉の動き(行い)を、死の状態に為して戴いたときに、肉ではない新しい体が生きるようになる!」という意味になります。


 では、どうしたら「新しい体」として、私たちの「霊」が生き始めるのでしょうか?私たちの三次元的「思考」や「動き」は、殆どの場合「目」に見える事実や、耳に入って来る情報など、いわゆる外界からの「肉の次元」に浸水されるという、霊的弱さがあります。しかし「その時」に、聖霊様も強く働きかけるのです。「イエス様を見なさい!彼は産まれた時から、汚い馬小屋に寝かせられ、神に召し出された後は寝床も枕も無い、ホームレスの如き者であった。文句ばかり並び立てる弟子たちの中にあっても、不平一つこぼさず、最後は彼らからも裏切られるという、惨めな指導者でしたね。あなたは、このような指導者のイメージを、自分の中にも確立できますか?」と。聖書の中に登場する「信仰者」は、「最初」から祝福を手にし、「最後」も栄光の内に死すという人物は皆無です。それ故に、聖霊様は弱い私たちを助けて下さるのです。


 余談になりますが、私は初めて今年(2010年)の春、じゃが芋の「種(種芋)」を畑に植えました。その時期は、近畿地方ではじゃが芋植えるのには、未だ早いと言われる三月下旬(3/25頃)でした。ところが四週経っても、植えた部分の畑の畝には、何の変化も見られませんでしたので、思わず「寒さにやられて、もう腐ったのでは?」などと思う始末。そのような懐疑的な私に対して妻は、「あなた、慌ててはダメ!じゃが芋の芽は、そんなに早くは出てこないもの。待ってたら必ず、暖かくなった時期に出てくるから。」とたしなめました。すると植えてから約40日後に、もぐらが顔を出すかの如くに、土の中から新芽がもっこりと出てきたのです。


 このじゃが芋の「新生プロセス」を通して、私は次のことを学ばされました。目に見える事実として、「かれこれ四週間経つのに、いっこうに芽が出てこない!あー(種芋は)もう腐ったのかも・・・・」などと、勝手な判断をする自分(肉の次元に支配された者)。ところが、目に見えざる「事実(土の中の状態)」としては、神が確実に一つ一つの新芽に生命の力を与え、大いなる成長プロセスを与えていたのです。同様に、私たちに内住の働きをもって、様々に関わって下さる聖霊様が、私たちの三次元的に弱い「信仰」を、遥かに優った霊の次元において、折に適った「恵み」と「助け」を用意して下さるのです。


「神の子」としての証印
 「親」でさえ我が「子」のために、様々な犠牲を払ってでも、何とか「恵み」を与えようと努力します。ならば父なる神は、聖霊様を通して私たちを導く限り、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子」(14節)として下さる!この第三の奥義に、私たちは改めて信仰を働かせるべきです。そうです!私たちは「神の子(実子)」なのです。霊的に私たちは、決して「この世」が主張するような、「人の子」ではありません!私たちはイエス・キリストを、「救い主」として信じた時から、「神の子」としての証印を押されているのです。


 それ故に父なる神は、私たちのことを決して見放すことも、見捨てることも無く、「子」としての祝福にあずからして下さいます。ここで覚えなければならない、もう一つの重要な事実は、私たちは「イエス・キリスト」を長子とする神の子である!という点です。私たちは「キリスト教」という、一宗教を信じる民(群れ)ではありません。「神の子」としての力を帯びながら、イエス・キリストと共に生きる民なのです。ということは、「イエス・キリスト」との共同相続人として、「恵み(祝福)」のみを求めるばかりではなく、イエス・キリストの「苦しみ」をも享受することが、私たちの生き方には要求されているのではないでしょうか!


 聖霊様は、常に私たちに問いかけます。「あなたは、キリストと共に苦しんでいますか?あなたの描いている恵みのイメージ、それはこの世の人々と、同じ類のものではありませんか?イエス・キリストのリーダー像には、この世のご利益主義を説く、巨大宗教の教祖の如きものが、何一つ見当りません!彼の語る言葉の中には、集まって来る大群衆を前にしても、威圧的に語ったり扇動したりすること、またマインドコントロールによって、献金(お布施)を要求したりすることが、全く無いでしょう。むしろ、そのような状況からすぐ遠ざかり、語ることは唯一つ、神の国と神の義のみを求めること。その為に、常に自分の十字架を負いつつ、神に従うように促していた。あなたも、このイエス・キリストのイメージの中に、自分の全てを捧げる必要があります。」と。


 私たちは、本来「罪の法則」に縛られ、その「罪」故に死に行く身でありましたが、イエス・キリストは私たちが「死」の状態ではなく、新しい「復活の命」を与えることてで、「神の子」として生きる力を、常に用意して下さる方です。そして、聖霊様が共に居て下さるという、大いなる「恵み」をも備えて下さいます。苦しんでいる時こそ、あなたがキリストの「弟(妹)」である!という、明らかな事実が確立される時です。そしてその「苦しみ」の先にあるもの、それはイエス・キリストと共に受け継ぐ、父なる神の「栄光」です。


 それ故あなたは、「失望」と「絶望」の中にある者ではなく、上よりの「力」と「信仰」と「希望」を、惜しみなく注いで下さる内住の御霊(聖霊)を通して、大いなる「歩み」が確立されますように。そしてあなたの人生に、「神の子」として生きる力が常に与えられることを、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン!


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