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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

生ける聖霊の働き(No.21)

                               記念の「石」



民が全てヨルダン川を渡り終わった時、主はヨシュアに言われた。「民の中から部族毎に一人ずつ、計十二人を選び出し、彼らに命じて、ヨルダン川の真ん中の、祭司たちが足を置いた場所から、石を十二個拾わせ、それを携えて行き、今夜野営する場所に据えさせなさい。」ヨシュアはイスラエルの各部族から一人ずつ、かねて決めておいた十二人を呼び寄せて、言った。「ヨルダン川の真ん中の、あなたたちの神、主の箱の前に行き、イスラエルの人々の部族の数に合わせて、石を一人ずつ肩に担いで来い。それはあなたたちの間でしるしとなるであろう。後日、あなたたちの子供が、これらの石は何を意味するのですかと尋ねる時には、こう答えなさい。『ヨルダン川の流れは、主の契約の箱の前で堰き止められた。これらの石は、永久にイスラエルの人々の記念となる』と。」イスラエルの人々はヨシュアの命じた通りにした。・・・・主がヨシュアに命じて民に告げさせたことが全て終わるまで、箱を担いだ祭司たちはヨルダン川の真ん中に立ち止まっていた。全てモーセがヨシュアに命じた通りである。その間に民は急いで川を渡った。民が皆、渡り終わると、主の箱と祭司たちとは民の先頭に立った。・・・・主はヨシュアに言われた。「掟の箱を担ぐ祭司たちに命じて、ヨルダン川から上がって来させなさい。」ヨシュアが祭司たちに、「ヨルダン川から上がって来い」と命じ、主の契約の箱を担ぐ祭司たちはヨルダン川から上がり、彼らの足の裏が乾いた土を踏んだ時、ヨルダン川の流れは元通りになり、以前のように堤を越えんばかりに流れた。・・・・ヨシュアはヨルダン川から取った十二の石をギルガルに立て、イスラエルの人々に告げた。「後日、あなたたちの子供が、これらの石は何を意味するのですかと尋ねる時には、子供たちに、イスラエルはヨルダン川の乾いたところを渡ったのだと教えねばならない。あなたたちの神、主は、あなたたちが渡り切るまで、あなたたちの為にヨルダンの水を涸らして下さった。それはちょうど、我々が葦の海を渡り切るまで、あなたたちの神、主が我々の為に海の水を涸らして下さったのと同じである。それは、地上の全ての民が主の御手の力強いことを知るためであり、また、あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬う為である。」
                                                                                                                【ヨシュア記4章】


「契約の箱」を担ぎ続ける
 ヨルダン川が堰き止められた時、乾いた地が川の中央に出現しました。そしてこの乾いた地の中心部に、レビ族は「契約の箱」を担いだまま、ずっと立ち続けることになりました。これは非常に重要なイメージ(有様)を、私たちに教え示しています。「契約の箱」の荷重が、どれ程のものであったか定かではありませんが、たとえ「担ぎ役」を交替で担ったとしても、相当に重たかったことでしょう。


 レビ族は「契約の箱」を担ぐ役目を担い、他はそれを取り囲む担い手として、ひたすら乾いた地に立ち続けました。つまり彼らは、何一つ他の行動(作業)に携わること無く、身じろぎせずに立ち続けたのです。彼らは他の部族のように、何か特別な才(タラント)や技(業)に優れていた訳でもなく、彼らの為したことは単純な行為でありますが、「契約の箱」を川の中心に据え、ただ立ち続けることでした。そして何よりも重要なポイントは、彼らが立ち続けたフィールドが、乾いた地であったことです。


その時、他の部族の作業は?
 さて他の部族は、「その時」何をしていたのでしょうか?当然彼らは、未だヨルダン川を渡っていません。この時、父なる神はヨシュアの唇を通して、次のように語られました。「(川を渡るのを)ちょっと待ちなさい!今あなた方は、確かに神の業(しるし)を見ました。そして未だ目に焼き付いています。私たちは今、すぐにでも渡りたいところですが、私たちは先代の人々が犯した過ちと、同じ道を辿ってはなりません。それ故、私が既に選定したおいた十二部族の代表は、今すぐに私の元に来なさい!そしてレビ族の立っている中心部から、石を拾って運んで来なさい!」と。恐らく殆どの者が、ヨシュアの命令に対して不思議に思ったことでしょう。


 十二人の代表は命じられた通りに、「石」を担いで運んで来ました。さて、私たちはこの時のイメージを、「あ、ただの石ころか!簡単に手で持ち運ぶことが出来る!」などと、三次元的判断から安易に思い浮かべてはなりません!「石を一人ずつ肩に担いで来い」(5節)と記述されているように、決してそれは「石ころ」程度の軽いものではなく、小さくても「つけもの石」程度のものを、二人以上で川底から掘り起こすなど、かなり重い石であることが分ります。彼ら十二人の代表は互いに協力し合って、乾いた地から「大石」を掘り起こし、十二部族毎に「石」を担いで、対岸(敵地)に宿営する予定の場所に運搬しました。


 ところでこの一連の出来事(流れ)の中で、ヨシュアは「何」を為したのでしょうか?実は何も、他の作業などに従事していません。ヨシュアがこの時、どのポジションに位置していたのか、具体的に何も記述されていませんが、恐らく彼は一連の流れを監視して、じっと見守っていたことでしょう。即ち自分の本心(思い)の中では、「私も彼らに協力したい。少しでも、リーダーとして役に立ちたい!」などと思いながらも、霊的「とりなし手」として、彼は主の為される全ての「業(しるし)」を見、そして主のご命令通りに聞き従う彼らの行動を、ずっと見守っていたのです。私の推測では、恐らくレビ族と共に、つまり乾いた地の中央で、同様に立ち続けていたものと思われます。


指導者(ヨシュア)の務め
 十二部族の代表が十二個の「石」を、遂に対岸の宿営地に据え終えた時、聖霊様はヨシュアの内なる「霊」に、次のように語りかけました。「あなたも為しなさい!」と。つまり彼らが、「石」を運び対岸に据え終えた直後に、初めて聖霊様は指導者ヨシュアにも、乾いた地から十二個の石を運び、対岸ではなく乾いた地の中央に、それらの石をもって祭壇を築くよう、直々に命じられたのです(9節参章)。これは大変な命令です。聖霊様がこの時に命じられた、指導者ヨシュアが為すべき「務め」は、ただ見ているだけのものではありませんでした。つまり自らも十二の「石」を川の中央に運び、そこに祭壇を築くよう命じられたのです。


 その後、ようやく全イスラエルの民が、一斉にヨルダン川を渡るよう命じられました。この時のレビ族は、どのポジションに位置していたのでしょうか?彼らは、依然として父なる神を礼拝すべく、乾いた地に立ち続けました。そして、イスラエルの老若男女から家畜全てに至るまで、ヨルダン川を渡り終えた後に初めて、レビ族も最後の「しんがり」として、行軍を許されたのです。では「先陣」を司ったのは、如何なるグループ(部族)だったのかと言えば、実はこの時にようやく四万の軍隊が、先頭集団として民を引導した訳です。この四万の精鋭部隊が、来るべき「敵」との戦いに備えるよう、遂に聖霊を通して「軍令」が発せられたのです。


 今回の行軍時における、「レビ族」と「精鋭部隊」の位置関係の推移は、実は聖霊様が私たちに対しても、重要な奥義を描写しています。霊的戦いに臨む際に、私たちはとかく「肉(精鋭部隊)」の力を頼みとして全てを解決すべく、三次元的な「判断」や「知恵」に頼ろうとしますが、聖霊様が私たちに要求されることは、自らが先ず神の御前にへり下り、霊的祭壇を築く(十二の石を据える)、つまり霊と真による礼拝を優先した後に初めて、聖霊様が天上から具体的に、様々な啓示(戦略)を教えて下さいます。


 続いて聖霊様が、直々に霊的戦いの先陣を切って下さる訳ですが、私たちが聖霊様の導き(軍令)に従って行くだけで、確実な勝利が保証されるのです。この霊的重要事項を忘れてしまっているが故に、私たちは一気に物事の全てを、「肉」によって推し進め、何とか勝利(解決)しようとするなどの、霊的愚かさがあるのです。ですから、たとえ前面に「敵」が存在したとしても、主なる神の臨在があることを信じて、私たちが進み出る際に聖霊様が命じられることは、「更に主なる神を仰ぎ求め、先ずあなたの前に祭壇を築きなさい!」ということであり、私たちがその「ご命令」に対して、素直に聞き従うことによって初めて、如何なる霊的戦いにおいても、確実な「勝利」が約束として与えられることを覚えて下さい!


乾いたフィールドに立つ
―第1の重要ポイント―
 レビ族に命じられた霊的ポジションが、ヨルダン川の中央に出現した乾いた地であったこと、これが第一の重要ポイントです。主なる神は私たちに対しても、「常に乾いた所を通過しなさい!」と命じられていることを、あなたはご存知でしょうか?モーセの時にもイスラエル民は、「葦の海」が二分された後、「乾いた地(大路)」を通過しました。彼らは決して、水溜りが点在するドロドロした、ぬかるみの地を行軍した訳ではありません。私たちの三次元的思考で判断する限り、「え!水が引いた後、すぐに地面は乾くのですか?」などと疑問に思うかも知れません。しかし主なる神は、聖書に記述されているように、「乾いた地」を用意して下さったのです。つまり、イスラエルの民全員が通過し易いように、聖霊様は川の中央に出現したフィールドを、完全に硬く乾いた状態へと造り変えました。ヨルダン川も同様に、彼らは「乾いた所」に石を据えて、「契約の箱」を供えているのです。


 ですから私たちは、常に「乾いた地」というイメージを、霊的思考の中に覚えるべきです。このことは、如何なる霊的奥義を私たちに教えているのでしょうか?私たちの進み行く「信仰の道」には、必ず前進を阻む様々な霊的障害物が立ちはだかります。その時に私たちが、三次元的思考(判断)から「あー、この泥沼のような状況にあっては、とてもじゃないが、歩くことも出来ないではないか!もう無理だ。」などと、現実を「肉の眼」だけで見て、その場(泥んこフィールド)に座り込む可能性は多々あります。しかし「その時」に、主なる神が聖霊を通して私たちに命じられます。「もっと更に神に信頼して飢え渇き、ひたすら神を求めなさい!」と。主なる神が、不可能と思えるような泥沼のフィールドを、「乾いたフィールド(地)」に造り変えるという過程は、実は私たちの霊的フィールドにおいても、先ず私たちの「霊(中央)」の中から、主なる神のみを求める「霊的飢え渇き」が増すかどうかを、聖霊様ご自身が監視されるという、一つの霊的テストであることを覚えて下さい!それ故主なる神が、「乾いた地」を霊的フィールドの中央に現して下さることは、私たちが神を飢え渇き求めた当然の、霊的「証明」になるのです。


 あなたは「何」に渇いていますか?障害物が取り除かれることだけを、求めて渇くのでしょうか?否!主なる神との「親しい交わり」、即ち神の「臨在」のみが「霊」の中に、固く据えられることを求めて渇くことが重要です!どのような状況に置かれても、先ず主なる神の「臨在」が自分の前に据えられる(置かれる)ことを、ひたすら求めて渇き続けることが、実は何よりも大切なことです。例えば迫害に次ぐ迫害の中で、青年ダビデは何を求めたのでしょうか?彼は「主の御手が、もっと私を支えて下さいますように!この滅びの穴の中にあっても、主の臨在が豊かにありますように!」と祈り続けたのです。


―第2の重要ポイント―
 彼らレビ族が「乾いた地」に立ち続け、神の「臨在」をイスラエルの民に指し示すなど、非常に重要な務めを果たしたこと、これが第二の重要ポイントです。彼らは前述したように、「石」を選定して運搬するなどの作業には、一切手を貸しませんでした。ひたすら「契約の箱」を担いで、「乾いた地」に立ち続けました。彼らの中には恐らく、他の部族の務め(作業)を見ながら、「私も、あのような務めを果たしたい!実際に人々の役に立つ仕事がしたい!」などと思った者もいたことでしょう。レビ族(祭司)的な奉仕の中にも、この種の「思い(誘惑)」が付きまといます。私たちは祈りや賛美ではなく、実際に目に見えてくる奉仕、例えば伝道(宣教)やしるし(業)などの、「素晴らしい、実りある奉仕がしたい!」と、とかく外側に現れ出る奉仕(ミニストリー)を求める傾向にあります。しかし、聖霊様がレビ族に命じられたことは、「立ち続けなさい!」の一言でした。神の「臨在」の中に立ち続けること、これは簡単なことのように思われますが、非常に忍耐を要する厳しい務めです。


―第3の重要ポイント―
 レビ族が立ち続けた「乾いた地」から、十二部族の代表が「石」を運搬し、向こう岸の「乾いた地」に据え直したこと、これが第三の重要ポイントです。この十二部族の代表は、レビ族が祭司の務めにあずかる「神のしもべ」であるのに対し、「キリストの聖徒」を表しています。ですから、全てのキリスト者に共通する務めは、祭司の立ち続けた神の「臨在の場」から「石」を運搬し、神が備えられる次のフィールド「信仰の場」においても、一番最初に為すべき務めが、神との「親しい交わり(礼拝)」であることを教えています。


 また彼ら十二人の代表は、各自で勝手に「石」を選定し、自分の好む場に自由に据えた訳ではありません。彼らは協力し合って、主なる神の定められた「乾いた地」に、一つの祭壇を築きました。十二の「記念の石」を立てること、これは聖霊を通して一致するという、霊と真による礼拝者のへり下った姿勢です!ここで私たちが覚えるべき奥義は、彼らが「川」から十二の石を運搬したことです。「川」とは、霊的に「死のフィールド」を意味します。そして、この「死のフィールド」から贖い出された「石(イエス・キリスト)」を、再び「乾いた地」に据えて、これを記念とする為に彼らが為しことが、「真の礼拝」だったのです。


―第4の重要ポイント―
 それに対してヨシュアの為した行動、これが第四の重要ポイントですが、9節に記述されているように、レビ族が本来為すべき行動を、ヨシュア自身が「身代わり」として、次のような行動を採りました。ご存知のように、ヨシュアの語源「イェシュア」は、イエス(Jesus)と同じものです。彼は、先ずレビ族が立ち続けた場所に、イスラエルの民と同様に「十二の石」を自ら選び、時間をかけて一つ一つ運搬しました。そして運び込まれた場が「川」の真ん中であり、この「死」の中心部に自らの手で祭壇を築いたのです。


 イエス・キリストの歩まれた「十字架」、即ち「死の道」は如何でしたでしょうか?彼は十字架という、最も恐ろしい「死のフィールド」にて、自分の「肉」と「体」から裂け出た、貴い犠牲の「血潮」を流すことにより、父なる神の御前に「全焼の生贄」として、ご自身を捧げられました。私たちが、イエス・キリストによって召し出されている「証し」が、この中に記述されています。私たちが「この世」の人々に対して、イエス・キリストの豊かな「命の水」を流す場合、私たちはヨシュアの採った行動と同様に、自らも「川」の中央に死す「真の礼拝者」として、霊的に仕立てられる時に初めて、聖霊様は私たちの「死んだ体」を霊的に復活させ、「命の水」を豊かに流す貴い「器」へと、霊的に造り変えて下さるのです!


 ヨシュアは恐らく、次のように思ったことでしょう。「私も彼ら十二人と同じように、代表(先頭)として石を向こう岸に運搬し、祭壇を築きたい!」と。しかし聖霊様は、「あなたは為してはならない!あなたには、私が用意する命令があるから待っていなさい。あなたは彼らが為すことを見守り、彼らの為に祈り続けなさい!」と命じられました。そして聖霊様は、彼ら十二人が作業を終了した後に、ヨシュアに対して再び「あなたは、ここに死になさい!あなたもここに、記念の石を築き上げ、霊的な死に場所を設けなさい!」と語られました。そうです!ヨシュアは自らの「命」をもって、父なる神に「真の礼拝者」として表明するよう、聖霊様に導かれました。


「記念の石」の霊的意味付け
 17章で学びましたように、モーセに導かれた第一世代は、肝心要のことを霊的に忘れてしまったが故に、「この世(エジプト)」を思い起こしたり、「この世」に戻ろうとするなどの罪を犯し、結果的に「約束の地」に入ること、つまり「ヨルダン川」を渡ることが出来ませんでした。「主なる神のみを見上げる時に初めて、主は私たちの信仰の歩み(前進)に対して、必要な力と助け手(聖霊)を送って下さり、たとえ不可能(不毛)な状況に置かれたとしても、主は必ず贖い出して下さる!」という、モーセを通して教えられた肝心要の「教訓」を、彼ら第一世代は忘れていました。


 しかし今回の第二世代のの経験は、実に不思議なことを物語っています。「葦の海」の時はイスラエルの民全員が、一気に「葦の海」を行軍したのに対し、今回の「ヨルダン川」の時は、一般のイスラエルの民が、ひたすら見守ることになりました。そしてレビ族が「何」を為し、また指導者ヨシュアも「何」を為すべきかを、聖霊様は具体的に教え諭し、聖霊様の管理(主導)の下に導かれる中で、彼ら一人一人が肝心要の「教訓」を、正しく学ばされているのです。それ故彼らは、この時の経験を忘れること無く、「ヨルダン川」を渡る正しい意味付けを、霊的に記憶したのです。


 「地上の全ての民が主の御手の力強いことを知るためであり、また、あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬う為である。」(24節)この御言葉には、私たちが学ぶべき重要な霊的意味付けが、明確に示されています。先ず「地上の全ての民」と記述されているように、イスラエル民族だけが体験(享受)するのではなく、世界に住む全ての民族に対しても、神の恵みの「御業」は開かれていることです。え!私たちの実際の信仰生活の中にも、この「ヨルダン川」の奇跡は起こり得るのでしょうか?私たちが、前進し難き「苦境」や「貧しさ」の中に追い込まれる時、私たちは「何」を記念の石として、自分の信仰フィールドに据えるべきでしょうか?この時レビ族は、ひたすら立ち続けました。そして、他のイスラエルの民は十二部族毎に、祭壇を築くための「石」を掘り起こしました。


 「掘り起こす」という作業は、私たちキリスト者の「祈り」の務めを意味します。私たちは「祈り」を通して父なる神と交わり、そして堅固なる「岩(石)」イエス・キリストを、霊的に積み上げて(再確認して)行く時に初めて、「あー何と父なる神は、私の前に素晴らしい石を用意して下さっていることか!私は今まで(過去)、このことを忘れていました。再びあなたと交わることが出来ること、これが一番大切なことです!」と、へり下って告白するようになります。ですからあなたも、聖なる「岩(Living-Stone)」を掘り起こして下さい!私たちが如何なるフィールドに追い込まれても、聖霊様は私たちが更に「岩」を見出すべく、激しい飢え渇きを起こして下さいます。これが、「乾いた地」に「記念の石」を据える、霊的意味付けです。


 24節の御言葉には、明確に二つの目的が記されています。第一に次のことを「知る」ためです。それは「神の力強い御手が、常に私たちを守り、そして支えている!」ことです。彼らがこの時、実際に「何」を見たのか定かでありませんが、三次元的視覚レベルでは、確かにヨルダン川が堰き止められるのを見ました。しかしこの時のヨシュアは、「契約の箱」に臨在している父なる神が、(両方の)御手をもってヨルダン川の「水」の動きを、全てストップしている御業(光景)を、「霊の眼」をもって見る(確認する)ことが出来たのです。実はイエス様も十字架上から、両手両足に釘打たれて肉体的に弱っていても、力強い霊的権威を示す御手を両サイドに伸ばし、「さー、私の十字架の元に集まる全ての民よ、唯一の救いである、十字架の門をくぐって来なさい!」と命じておられます。この十字架上にあるイエス・キリストのイメージを、私たちは常に「霊の眼」で仰ぎましょう!主なる神の御手が常に私を支え、確実に守り導いて行くこと、私たちはこのことを聖霊様を通して、明確に「知る」のです。


 第二に「あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬う」ためです。これは霊と真をもって、私たちが常に神を愛する(礼拝する)ことです。主なる神が臨在されるフィールドに、全ての「平安(安息)」と「守り」があることを体験した彼らは、自然(自発的)に神ご自身を礼拝しました。彼らは決して、全ての民が「ヨルダン川」を渡り終えた後、即座に敵陣に向けて突進して行った訳ではありません。彼らは先ずその場に留まり、「記念の石」を築いて礼拝しました。私たちはこの点を忘れている為に、自分自身の身勝手な判断から、自分で動こうとする傾向にあるのです。


 それ故、私たちが霊的に学ばなければならない重要な奥義が、この時の出来事に示されているのです。自ら決して動かず、主なる神の命令だけに聞き従っていく時、その「ご命令」は只一つ「記念の石をあなたの霊の中心に、いつも据えなさい!」、これが重要なことです。聖霊様は常に命じられます。「自ら動かず、自らは死す者でありなさい!」と。この命令に従っていく時に初めて、主の御手が私たちを守り支え、如何なる不毛のフィールドにあっても、主の臨在が私たちを覆い尽くし、「祝福された民」として仕立てて下さいます。そうすれば必ず、祝福された私たちを通して、この世の人々が「主なる神こそが、真の神である!」と次々と告白し、イエス・キリストの民に増し加えられることでしょう。


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