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急患診療(No.14)

※この記事は、2009年11月15日に行われた、故人(義父)の召天七週記念礼拝でのメッセージを要約したものです。


                           午後三時の凱旋



既に昼の十二時頃であった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、私の霊を御手に委ねます。」こう言って息を引き取られた。
                                                                                                 【ルカ福音書23章44~46節】


故人の残した「遺言」
 本来は告別式の時に、皆様方にお知らせすべき、故人に関するある重要な「事実」を、今回のメッセージとして紹介します。実は故人には、私たち身内にも語って(伝えて)いない「遺言」がありました。即ち、彼自身の「生き様」と「死に様」を通して、あるメッセージを「遺言」として残したのです。その紛れも無い事実である「遺言」とは、担当医が記録した「死亡時刻」、即ち午後三時(PM3:00)という「その時」です。


 私たちキリスト者にとって、この「午後三時」という時刻は、イエス・キリストが「息を引き取られた」(46節)という、重要な「神の事実」を物語っています。ご存知のように、「全て」の事柄(事象)に「その時」があります。例えば私たちが、「この世」に生を授かったことにも、「その時」が用意されていました。また「死ぬ時」も、私たちの「人知」では、到底測り知れない次元にあります。しかし私たちは、この「時」という概念を、様々に考えながら生きていることも事実です。


 私たちキリスト者の場合、この「時」の概念について、全ての物事に「始まり(始まる時)」と「終わり(完成の時)」がある!と信じています。自分で計画した訳でもないのに、父なる神が一方的に母親の胎の中に、「私(あなた)」という命を宿らせ、神が定めて下さった「その時」に、「この世」に産み出して下さった。そして私たちは、各自に定められた「人生の齢」を経て、最終的には「神がご計画の中で完成して下さる、本来の麗しい私(あなた)へと造り変えられる!」と、このように信じている訳です。


 人類史上、最高の知恵者と謳われたソロモン王は、著書『伝道者の書』の中において、次のように述べています。「何事にも時があり、天の下の出来事には、全ての定められた時がある。生まれる時、死ぬ時。・・・・、求める時、失う時。・・・・、愛する時、憎む時。戦いの時、平和の時。人が労苦してみたところで何になろう。私は神が、人の子らにお与えになった勤めを見極めた。神は全てを時に適うように造り、また永遠を思う心を人に与えられた。


 ご存知のように故人は、人生の齢が「76歳」という、一般的にも「もう少しだけ長生きしていてくれたら・・・・。」などと惜しまれる、非常に早い「死ぬ時」でした。しかし父なる神にとっては、故人を完成に至らせる「その時」が、平成21年9月28日の午後3時という、神の「ご計画」通りに定めた時刻だったのです。つまり「全て」が、故人の人生にとって、神の時に適う麗しいご計画として現され、最後の死ぬ瞬間にも、決して苦しむこと無く、安らかに息を引き取った、その時刻が午後三時でした。


十字架刑に処されたイエス・キリスト
 天文学者によれば、「昼の十二時頃であった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。」という天候事象を、今年(2009年)の7月にも世界各地で見られた、「日食現象」として説明しています。僅か三時間という「時」の中において、イエス・キリストが、どのような状態にあったのか、このことを故人も今日、この者の「唇」を通して、皆様方に語っていることと思います。


 イエス・キリストは確かに、十字架による「死罰」として処刑されました。しかし彼の中には、「有罪」と断定(確証)できる証拠は、何一つ見当たらなかったことも歴史の「事実」です。彼の弟子たちの中には、当時イスラエルを支配していた、ローマ帝国軍を革命(武装闘争)で一掃しようとする、熱心党員に組する者もいましたが、イエス・キリストの説く「神の国」の再興とは、「人々の心の中に巣食う、悪しき汚れた罪と肉欲からの解放(救い)を、先ず何よりも父なる神に祈り求め、その後に神中心の生き方に造り変えられること、即ち心の中に常に神の国が建て上げられること!」この一点でした。ですから、イエス・キリストが人々に説く「福音」とは、武闘派集団の説く「力」による理想論では決してなく、神は全てのことから必ず贖い出して下さる、真の創造主としてイスラエルを愛される、そればかりか最終的には、ローマの人々を圧倒する程の祝福を用意される。それ故に、父なる神の御心に立ち返るように!と、分り易く紐解くものでした。


 しかし、「有罪」と立証できるものが、何一つ見当たらないイエス・キリストを、偽証し告発した人物が、あの裏切り者ユダでした。彼の手引きにより、イエス・キリストは不当に逮捕され、正当な「裁判」手続きを経ないまま、拷問と処罰を受けた後、イエス・キリストは民衆の「曖昧な判断(裁き)」により、十字架刑を下されたのです。何と不当逮捕から、24時間後には十字架上で処刑されるという、今日の司法制度からは、絶対在りえない程の迅速な「刑の執行」が、この時は為されました。イエス・キリストは、「無罪」であるにも関らず、他の死刑囚よりも残酷な方法、つまり両手両足を五寸釘で打たれ、その状態のまま十字架上に、数時間も張り付けられるという、想像を絶する苦しみを受けたのです。


「午後三時」の持つ霊的意味
 何故「三時」の時刻まで、イエス・キリストは、苦しみを受けなければならなかったのでしょうか?天文学者が説明するような、人間レベルでの「時の理論」ではなく、父なる神にとって「午後三時」とは、如何なる時であるのか?この点を私たちも知る必要があります。故人の「死ぬ時」も、イエス・キリストと同様に、「午後三時」であった訳ですが、これは決して本人の望んだ(意志から起きた)「時刻」ではありません。


 「午後三時」という、父なる神が「ご計画」の中で定められた、「その時」の第一の意味は、「日食」の終了時刻であったという点です。つまり「暗闇」が終わりの時を迎え、次には再び「光」が天を覆い始める時(出発点)でした。イエス・キリストは、想像を絶する「痛み」と「苦しみ」の中で、いよいよ「その時」が近づいていることを悟りました。そして「父よ、何故あなたは私をお見捨てになるのですか?」と、心の叫びを必死で訴えます。すると走馬灯の如くに、「思い出」が次々と浮かんでは消えます。母マリヤの暖かな笑顔、そして早死にした育ての父親ヨセフ、そして弟子たちとの出会いなど。自分が「革命家」として生まれたのではなく、父なる神によって直接、この世に遣わされた「贖いの子羊」であること、この「思い」に立ち返った時、イエス・キリストは最後の叫び(羊飼いの声)を上げました。「全ては終わりました!父よ、私の霊を御手に委ねます。」と。


 この「全ては終わりました!」とは、人間的なレベルでの「もう終わりだ。立ち行かなくなった」という意味ではありません。父なる神の「救い(贖い)」のご計画が、遂に「終了します!」、つまり「成就(完成)した!」という、素晴らしい「完成の時」を意味します。何故「父」が「子」を殺さなければならないのか!それは、全ての人が誰一人として、神の「救い」に漏れること無く、イエス・キリストという「贖いの子羊」により贖われるためです。そうです!「午後三時」という時刻は、ご自分が遂に「死ぬ時」、即ち「贖い」が完成された時という、神にとって最大の「目的」が実現したの時刻なのです。これが第二の意味です。


 ソロモン王は人生の「終わり」を迎えるに当たって、「何事にも時があり、天の下の出来事には、全ての定められた時がある。」と悟りました。私たちは「時」の概念を、「始まり」の次は「終わり」が必ず来る、しかしそれで何もかも終了!などと考えます。しかし父なる神にとって、全ては「終了」ではなく、絶えず「完成」から「完成」に至るプロセス、つまり永遠の「御思い」をもって、「全て」の物事の責任を担って下さる方なのです。


 今日の日本は確かに、何らかの「暗闇」に覆われ、先行きに対する「不安」におののく状況が続いています。「いつ晴れてくるだろうか?」という状況の中で、人々はさ迷い歩きながら生きています。故人は、そのような「暗闇」の中にあって、如何なる「思い」で先立たれたのでしょうか?


 「神のご計画の中で生かされている!」という思いで生きますと、「気」が楽になります。しかし「残された時間は、あとこれ位かも知れないから、私が一生懸命頑張らなければ・・・・。」などと無理しますと、逆に「気」が豪(えら)くなるだけです。故人の場合も、自分の病気のことを思う度に「気」が塞ぎ込み、「いつその時が来るのか?」が分からないまま、「死」に対する「不安」があったかも知れません。しかし父なる神は、故人に対する「完成の時」を定め、いよいよ「その時」来たりて、「我が子よ、私の元に帰っておいで!」と、午後三時に命じたのです。


神の「贖い」が始まるとき
 イエス・キリストの「十字架」の死という出来事は、私たち信じるキリスト者にとっては、「終わり」ではありません。この世の人々は、「人は死んだら、それで終わり!」などと考えます。しかしイエス・キリストは、死んだ神ではありません!何故ならイエス・キリストは、以前に弟子たちに明言していた如くに、死んだ後三日目に復活されたからです!それ故に、イエス・キリストの「十字架」の死は、「終わり」を意味するのではなく、イエス・キリストの復活によって、神の「贖い」が始まることを意味しているのです!


 「贖い」という言葉は、非常に現代人にとって分かりにくい概念です。一般的に「贖い」とは、罪を償うことを意味しますが、その償いの方法として、それに相当することを行ったり、償いに見合う代金を支払うことを含んでいます。イエス・キリストによる「贖い」の場合、彼は「無罪」であったにも関らず、「罪」ある者(私たちのこと)の負債を全て帳消しにすべく、本来は私たちが受けるべき「刑」の全てを、身代わりに受刑されました。


 ですから、私たちはイエス・キリストを通して、この「午後三時」の時に、父なる神の「贖い」を、無代価で与えられるという、最高の特権(資格)が付与されているのです。その「特権」を授かっていた故人は、「午後三時」の時を迎えるや否や、父なる神が待っておられる、永遠の御国へと凱旋して行ったのです。イエス・キリストは、多くの人々に今日も語りかけています。「私はよみがえりであり、命である!私を信じる者は、永遠の命を得ることが出来る!」と。私たちの「人生」と「時」を支配して下さる方、即ちイエス・キリストが、愛する皆様方にも故人同様に、素晴らしい人生の「完成の時」、「贖いの恵み」を用意して下さることを、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン!


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