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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

生ける聖霊の働き(No.20)

                    主との交わりを聖別する時





ヨシュアは、朝早く起き、イスラエルの人々全てと共にシティムを出発し、ヨルダン川の岸に着いたが、川を渡る前に、そこで野営した。三日たってから、民の役人は宿営の中を巡り、民に命じた。「あなたたちは、あなたたちの神、主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見たなら、今いる所をたって、その後に続け。・・・・あなたたちの行くべき道は分る。」ヨシュアは民に言った。「自分自身を聖別せよ。主は明日、あなたたちの中に驚くべきことを行われる。」ヨシュアが祭司たちに、「契約の箱を担ぎ、民の先に立って、川を渡れ」と命じると、彼らは契約の箱を担ぎ、民の先に立って進んだ。主はヨシュアに言われた。「今日から、全イスラエルの見ている前であなたを大いなる者にする。そして、私がモーセと共にいたように、あなたと共にいることを、全ての者に知らせる。あなたは、契約の箱を担ぐ祭司たちに、ヨルダン川の水際に着いたら、ヨルダン川の中に立ち止まれと命じなさい。」ヨシュアはイスラエルの人々に、「ここに来て、あなたたちの神、主の言葉を聞け。」と命じ、こう言った。「生ける神があなたたちの間におられて、カナン人、ヘト人・・・・、エブス人をあなたたちの前から完全に追い払って下さることは、次のことで分る。見よ、全地の主の契約の箱があなたたちの先に立ってヨルダン川を渡って行く。今、イスラエルの各部族から一人ずつ、計十二人を選び出せ。全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れて来る水がせき止められ、ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう。」ヨルダン川を渡るため、民が天幕を後にした時、契約の箱を担いだ祭司たちは、民の先頭に立ち、ヨルダン川に達した。・・・・ヨルダン川の水は堤を超えんばかりに満ちていたが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れて来る水は、・・・・壁のように立った。そのため、・・・・民はエリコに向かって渡ることができた。主の契約の箱を担いだ祭司たちがヨルダン川の真ん中の干上がった川床に立ち止まっているうちに、全イスラエルは干上がった川床を渡り、民は全てヨルダン川を渡り終わった。
                                                                                                                【ヨシュア記3章】


「葦の海」の教訓に学ぶ
 ヨシュア記三章に記述されている、父なる神の為された素晴らしい御業から、私たちにとって「何」が一番重要なことであるか、この点について私たちは更に学ぶ必要があります。そして、この時に為された神の「しるし」を、前指導者モーセの時に為された神の「しるし(業)」と、霊的に比較しながら学んで参りますと、私たちが神から課せられる(与えられる)、一つ一つの「霊的訓練」や「テスト(試み)」の時にも、聖霊様が導かれることを信じて、私たちが謙虚に従ってゆく限り、主なる神は私たちに対して必ず、「御心」に沿った正しい「信仰の道(歩み)」を備えて下さることを、改めて「知る」ことにつながります。


 先ず、「葦の海」が二分された時の教訓は、人間的な「恐れ」から来る不信仰の歩みを克服し、主なる神だけを畏れかしこむ時に、私たちがもはや人間的な「肉の力」では、不可能だと思えるような状況に陥ったとしても、主なる神はその不可能のフィールド(状況)に、「大路」を用意して下さることを、イスラエルの民が学んだことです。しかし彼らは霊的に学んだのではなく、三次元的に見た(知った)に過ぎませんでした。主なる神の「しるし」を見て、「あーやれやれ、我らは助かったんだ!」などと記憶したに過ぎなかったのです。


 この時、彼らは背後から迫り来るエジプト軍、そして前面に立ちはだかる「葦の海」という、不可能なフィールドに至ったのですが、決して「上」を見上げることをしませんでした。つまり本当に畏れるべき方、「父なる神」を見上げようともしなかったのです。しかしモーセの場合、彼は聖霊様を通して「杖(イエス・キリスト)」を手に取り、高く掲げて明確に示しながら、「見よ!今から為される、神の大いなる御業を。主なる神だけを、畏れかしこみなさい!」と、彼らに告げました。にも関わらず彼らは、単に主の奇跡のみを肉眼で見た、つまり事前に主ご自身を畏れ、信仰をもって大路(葦の海の中)を進んだのではなく、事後にモーセの言葉が正しかったことを、三次元的に確認しただけでした。彼らは、「主よ、私たちの愚かな否定的な信仰の歩みを、どうぞお赦し下さい!今から将来に渡って、あなたが用意される道のみを歩き、私たちは従って参ります!」などと、心から悔い改めることは決してありませんでした。


 彼らは、主ご自身の明確な「霊的応答」を正しく見ることができずに、霊的に学び損ないました。それ故「カナン」の地、つまり最終段階に至った時に、彼ら第一世代は既に死に絶えたのです。たとえ如何なる状況に陥ったとしても、「主なる神のみを畏れ敬う」という信仰の歩み(訓練)を、神の御前で謙虚に受けつつ、「真の礼拝者」として霊的に学んでいれば、彼らはもっと短期間で「カナン」に辿り着き、「約束の土地」を相続出来たのですが、最終的に彼らは人生の結末を、「荒野の地」で終えたのです。


「ヨルダン川」の教訓
 さて、今回の神の「テスト(霊的訓練)」は、霊的に「何」を教えているのでしょうか?実は今回の出来事から、モーセの時以上に彼ら第二世代の信仰の方が、霊的にグレードアップしていることを、聖霊様は教え導いています。目に見える現象としては、この時に為されたヨルダン川の「奇跡」は、スケール的に小規模のものです。しかし霊的な面では、更に奥深い真理が隠されています。それでは早速私たちも、聖霊様の「学び」に聞き従って参りましょう!


 先ず第一のテストは、ヨシュアに導かれたイスラエルの全部族が、「ヨルダン川」を渡るべく川辺に辿り着いた時期が、何と「春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていた」(15節)と記されているように、「ヨルダン川」の水量(水笠)が一年の中で一番増加する時であったことです。常識的な考え、つまり人間的(三次元的)な判断からすると、わざわざこの時期を選ぶ必要はなかったはずです。恐らく、水笠が一番少ない時期もあったことでしょう。しかし、聖霊様がヨシュアに命じられた「その時」は、人間的に見て一番不可能な「時」でありました。雨期の中でも最大の降雨量となる時期が、神の「御心の時」でありました。聖霊様は、実に不思議な「導き方」を為されます。人間的に不可能であると思える時に、「試みの時」を与えているのです。


 ヨシュア自身、そしてイスラエルの民も、斥候たちの諜報活動を通じて、あることを知っていました。それは「ヨルダン川を渡らなければ、カナンの地に侵入できない」という条件でした。勿論迂回ルートを立案し、例えば死海の南方に降り、そこからエリコに北進して侵入するという方法もあるのですが、カナン人以上に強力な軍隊を配置している他民族が、当然彼らを待ち受けていると予想されていることから、聖霊様は只一つのコースである、「ヨルダン川」をストレートに渡るという方法を、ヨシュアに指示しました。即ちヨルダン川を渡ること、これが聖霊様の与えた第二のテストでした。


 しかし、ヨルダン川を渡ったからといって「さー、我らは遂に、民族悲願のカナンの地に入ることができた!今から皆で祝宴の時を持ち、その後に部族毎に約束の地を分割しようではないか!」などと、浮かれ気分でハッピー・エンドを迎える訳ではありません。「何」が待ち受けていたのでしょうか?例えば、それが約束の地における「開拓」の時であったら、彼らにとって前向きなイメージで進み行くことが出来るのですが、現実は敵との戦いに突入すること、これが第三のテストでした。第一そして第二のテストである、水笠の増した「ヨルダン川」を渡ること自体が、「死」に至る確率の高い行為です。水笠が増すということは、川の深みも増し加わり、しかも流れが激しくなる訳ですから、小さな子供や年寄りにとって、到底泳ぎ切ることが出来るものではありません。このような、人間的に見て最悪の条件の中、たとえ全部隊が何とか渡り終えたとしても、前面には「敵(エリコ軍)」が対峙し、そして背後には「ヨルダン川」という、絶対絶命の状況に追い込まれることになります。


 ところで前回の、「葦の海」のテストの時は、どのような構図にあったのでしょうか?それは前面に「大海原」、背後に「敵(エジプト軍)」という状況でした。つまり「ヨルダン川」のテストの時は、モーセの時とは完全に逆の状況に導かれたのです。父なる神の為されることは実に不思議です。モーセの時は神の偉大な奇跡の中、「葦の海」を渡り終えたら全員助かる訳ですが、今回はそのような勝利の約束(保証)が、決定している訳ではありません!「前」に進めば更に「逆境(不幸)」、だからと言って「後ろ」にも引けない状況にあって、ヨシュアは如何なる信仰を働かせ、実際に行動したのでしょうか?又あなたでしたら、このような時は如何しますか?モーセが「その時」上(天)を見上げ、父なる神の「応答」にのみ聞き従うという、信仰の行動を選択したことを、「葦の海」の奇跡を目の当たりにしたヨシュアは、当時未だ年若き青年でありましたが、この出来事を霊的に学ばんだ故に、今回も師(モーセ)と同様の行動を選択しました。すると聖霊様が、彼の霊に触れられ「恐れるな、雄々しくあれ!主なる神が、あなたの前に立って進まれるから、あなた方は主の御業のみを見ながら前進しなさい!」と励ます中、彼は「上」からの力を着せられたのです。


 実は、モーセの時と比較して今回のイスラエルの民は、その殆どが第二世代でしたから、この時に命じられた神のテストに対して、かなり霊的に柔軟な反応を示しました。彼らは十二部族毎に霊的訓練を受け、その中で「レビ族」も新指導者(ヨシュア)に従う態度を示し、彼らの代表が共にヨシュアと祈り合うなど、謙遜に仕え合いました。ですから、ヨシュアはレビ族に対して「契約の箱を担ぎ、民の先に立って、川を渡れ」(3節)と、大胆に命令を下すことができたのです。そのようなリーダーたちの「一致」した姿勢を見て、全イスラエルの民も「私たちも参ります!」と号令を発して、ヨシュアに付き従いました。


 このように、モーセの時と違ってこの時のヨシュアは、とてもやり易かったのではないでしょうか!ところが、ヨシュアは聖霊を通してこの時、実に不思議な命令を彼らに下しています。「主なる神の契約の箱を、一番最前列に据えて進みなさい!」と。これが非常に、重要な霊的教訓(奥義)を示しています。


最前列に「何」を据えるか?
―第1の奥義―
 何故「契約の箱」を、行軍の中心部ではなく、最前列に配置して前進するよう、聖霊様は指示されたのでしょうか?大抵、私たちは一番大切なもの(重要な事柄)を、人目にさらされるような「最前部(外側)」に置くことはせず、自分にとって一番手近にあり、守り易い「中心部(自分の居る所)」に置くのではないでしょうか!


 「最前部」という位置は敵に発見され易く、敵の攻撃に即さらされるなど、一番危険な場所です。その中で最初の危険は、ヨルダン川を渡る時に現れます。ご存知のように、「レビ族」は戦闘部族ではありません。彼らは三次元(人間)的に見て、十二部族の中で一番ひ弱なグループです。はっきり申し上げて、彼らは「戦い方」を知らないグループであり、為すことと言えば「祈り」と「賛美(礼拝)」など、「戦い」において全く役に立たない人々でした。一体彼らに、「何」が出来るというのでしょうか?しかしこの時、他の部族から何らかの「不安」や「文句(要求)」などが全く無かったこと自体が、聖霊による「一致」が彼らの中に、まさしく現れていたことを物語っています。


 余談になりますが、世界中にリバイバルの炎が燃え広がるという、「聖霊の大収穫」を迎える時は、この時と同様の聖霊による「一致」が、至る所で現される時ではないかと確信しています。それは父なる神の「御業」に対して、誰一人として「文句(不平)」や「批判」を述べる者が無く、全ての者が聖霊様の主導の下に「一致」して、共に仕え合うという現象のことです。私たちは時々、三次元的な判断から「彼らのような学歴も無い、リーダーシップとしても軟弱な、ましてや無名な連中に、一体何が出来るというのか!むしろ、あの有名な先生方のように神学博士号もあり、千名以上もの信徒を牧する、大先生の方々を中心として委員会を組織し、この国のリバイバルを担って戴いた方が良いのではないか!」などと思うことが無いでしょうか?人はとかく、霊的に浅はかな判断をする傾向にあるのです。


 しかしこの時は、例えば「我々ユダ族の方が、戦闘に適しているではないか!何故あのレビ族のような、戦いの経験も無い連中に先陣を任せるのか?」などと、愚かな判断を下す者も否定的な文句も述べる者が、誰一人としていなかったのです。私たち日本人も、「武士道」の精神から判断すると、「先陣を受け賜る」こと程、戦いにおける最高の名誉であることを知っています。そして「是非、我らに先陣の命を下さい!」と主張する場合、それは「我らこそが、この中で最強の部隊である!」と、己の「力」を誇ることに当然つながる訳です。ですからこの時に、決してそのような類の主張をする部族が、全く無かったという有り様(現象)を、私たちも霊的に学ぶべきではないでしょうか!今の日本において、このような霊的「一致」の有り様が、果して見受けられるでしょうか?!無名の人々を集めるなど、聖霊様の主権で導かれるのではなく、例えば「信仰暦」や「学歴」、そして「賜物」の比較による優劣、更には「教勢」という信徒数を基準(中心)として、先生方の「有名度」を誇り合うなど、いわゆる人間的な名の下に一致する、これが現実の姿ではないでしょうか!


 この時は人間(グループ)の「名」ではなく、聖霊様の主導の下に神の「御名」を何よりも畏れつつ、各部族に与えられた「賜物」に応じて仕え合っていたのです。「レビ族」は文字通り、「契約の箱(神の言葉)」を司る(担う)という、「賜物(使命)」を与えられていたが故に、主なる神のご命令通りに、最前列に配置されたに過ぎません。他の部族は、人間的な「恐れ」を抱き易い人々が多かったことでしょうが、「主の契約の箱がある所に、神の臨在と守りが常にある!」という、「上」からの信仰を与えられていた部族が、この「レビ族」でもありました。


 彼らの「武器」とは、一体何だったのでしょうか?それは目に見えないもの、つまり「祈り」と「賛美(礼拝)」でした。そして彼らにとって「死」は、常なる経験でもありました。何故なら年に一度とは言え、「幕屋」に入ること自体が、「死」を前提とする霊的体験だったからです。この時の「レビ族」のような、「上」からの信仰を戴いた無名のリーダーたちが、この日本にも聖霊を通して起こされ始める時に、日本のリバイバルは霊的に、予想を超えたレベルで拡大されていくことでしょう。「私は死を恐れないで、イエス・キリストの御名の故に、この日本の地において、私(自己)に死にます!」などと宣言するリーダーが増えたら、信徒(聖徒)を人間的な牧会で、コントロール(支配)しようとすることも無くなるでしょう。何故なら、「先生(師)が死ぬのであれば、私たちもイエス・キリストの為に、命を惜しまず捧げます!」などと、信徒の側からも「信仰」の表明が、次々と起こされるからです。


―第2の奥義―
 ところで「契約の箱」は、霊的には「何」の象徴でしょうか?それは父なる神の、不変の「愛」を人間に教え示すべく、「石板」に記した神の十か条の「命の言葉」のシンボルです。その「十戒」の中で一番重要な「掟」は、二大律法の中にも明言されていること、即ち「神を愛すること」です。ですから、「契約の箱」自体が神の「愛」を現し、また「神を更に求めて、命を捧げて愛し仕える」ことを、その文言の一つ一つが物語っているのです。麗しい神の臨在が満ち溢れたシンボル、それが「契約の箱」です。


 ですから「契約の箱」を、最前列に配置する(据える)ことは、神ご自身が行軍の先頭に立って進まれることを意味します。そして神との「親しい交わり」を司るレビ族を、他の部族よりも前面に配置して、「契約の箱」を中心に前進していくことは、「敵」を前にしても「至聖所」の交わりを優先する、つまりモーセの「幕屋」を据えるという、「真の礼拝」の霊的雛型を指し示しています。私たちは「敵」を前にした時、霊的に「ユダ族」や他の有力な部族を前面に据えるべきではありません。私たちが最優先に据えるべき部族は「レビ族」、つまり「真の礼拝」です!「真の礼拝」が為される所に、悪霊(敵)は近付くことが出来ません。


 「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」(新改訳詩篇22篇3節)と語ったダビデは、常に経験していました。主なる神のみを愛し、主なる神のみを畏れかしこみ、主なる神と常に交わることこそ、自分の最高の「平安」と「喜び」であることを。「敵」に追われる最中にあっても、彼は霊的に学んでいました。「主の守りの中にある限り、敵が私を害することなど、決して在り得ない!主は、敵の前にしても祝宴を用意して下さり、主との麗しい交わりの場、緑の野辺に私を導いて下さる。そして必ず、美味しいリビング・ウォーターを飲まして下さる。これこそが、私の求めるものである。日もすがら、夜もすがら主を称えること、これが私の喜びである!」と。


最前列は霊的SL!
 神の「契約の箱」が、「敵」が待ち受ける最前線に突き進み行くことは、イメージ的に貨物列車を引っ張る、蒸気機関車(SL)の働きのようなものです。ご存知のように蒸気機関車は、「石炭」という燃料があって初めて、前進し続けることが出来ます。また蒸気機関の先頭列車は、走行速度を上げる場合、「石炭」を増加して燃焼率をあげるなど、重要な役割を担っています。神が聖なる行軍(走行)を進めるに当たって、霊的にお選びになった先頭車両に、私たちは三次元的な「判断」や、浅はかで常識的な「憶測(思考)」を据えて(持ち込んで)はなりません!私たちが先頭車両として据えるべきことは、神との「親しい交わり」であり、そのことを常に導かれる方、つまり聖霊様にのみ聞き従いつつ、私たちは前進し続ける必要があります。


 このように、私たちは「何」を優先的に据えるべきなのか?このことを、常に覚えようではありませんか!私たちは先頭車両に、例えば「私のミニストリー」や「私の願い(野心)」、また「私の計画」や「私の牧会理念」などを、決して据えるべきではありません。日本のリバイバルという大目標を掲げながらも、実際に為していることが、先頭車両に据える肝心要なことを忘れて、「私の車両」どうしが足を引っ張り合っているため、中々前に進み行くことが出来ません。神の選定した「先頭車両」を、動かすことの出来る者は誰一人いません。父なる神からの、大いなる天的な「力(エネルギー)」が伴わなければ、私たちは霊的に前進することも出来ないのです!それを自分の「肉の力」で動かそうとするから、エジプト(敵)の侵入を許したり、「葦の海」を前にして初めて、「主よ、助けて下さい!」と叫び始めるなど、霊的苦境(愚かな次元)に陥るのです。


 この時も「敵」は、エジプト軍と同様に彼らを嘲笑しました。「あー何と彼らは、愚かな民だ!一番水笠の増す時期に来るとは、馬鹿な奴らだ。しかも見ろよ、あの先陣を進み行く隊を・・・・。激流に呑み込まれる程、ひ弱な体つきではないか!心配することはないぞ。上陸する前に、彼らの殆どが死滅しているはずだから。」と。私たちキリスト者も、「この世」の人々から尊敬されることが殆ど無く、どちらかと言えば嘲笑される理由がここにあるのです。「この世」という、霊的に不毛(不可能)と思える領域にあって、私たちキリスト者が聖霊様による親しい交わり、主なる神の麗しい臨在、御子イエス・キリストとの愛の交わりを、先頭車両として霊的に据えない限り、「敵」は更に嘲笑し続けることでしょう。


 私たちは聖霊様が導かれる、主なる神を第一とする「真の礼拝」、そして神の「御心」を第一とする「生活(Life)」にあって、聖別しなければならないものがあります。それは「至聖所」の交わりです。聖霊様の命じられることは、非常に単純な命令でありますが、守り行うには非常に難しいものです。しかし、私たちが今まで据えてきたものを、「至聖所」から完全に聖絶(廃棄)し、再び神の御前にて悔い改め、日々父なる神との「親しい交わり」を、霊的に据えなおす(最優先にする)時に初めて、聖霊様は先頭車両を駆動して下さいます。そして、私たちにとって不可能と思えるフィールドの中に、主なる神は「大路」を用意して下さり、私たちがその「大路」を進み行く時に、聖霊様が「右にも左にも逸れることなく、契約の箱を最前列に据えがら、恐れずに真直ぐ前進しなさい!」と命じられるのです。それ故私たちは、「聖霊様、私は主の契約の箱を最前列に据えます!どうぞ、あなた様からお進み下さい!私は、あなた様に従います。この弱き愚かな私を、常に正しい道へと引っ張って下さり、導いて下さいますように!」と、信仰の告白を表明することの出来る謙遜な器へと造り変えられることを、主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


祈り
 主よ、あなたの安息の中で、常に身を安らぐことの出来る者でありますように!


 主よ、常にあなたを思い(想い)、あなたと交わる為に、あなたの麗しい臨在を、至る所において備えて下さいますように!


 主イェス様、あなたの臨在が私を生かし、私の全てを覆い祝福して下さいますように!


 あなたの臨在の中で、今日から始まる一週間の旅路を、守り導いて下さいますように!


 あなたの御元に行く、一つ一つの旅路を導いて下さり、経済的に苦境に思える状態、政治的に不安定な状況など、この世的な全てのことを、あなたはご存知です。不安に思えることが数多くありますが、この進み行く旅先の全ての道のりを、あなたが聖霊様を通して照らして下さり、不可能と思える旅路にあっても、常に守り導いて下さることを感謝します。この曲った時代に、あなたが全て平安(安息)をもって、私たち一人一人を導いて下さいますように!


 ヨルダン川の崖っぷちに立たされる時にも、あなたは全ての「隠された大路」を示し、私たちに乾いた地を渡らして下さることを感謝します。常にあなたが共に居て下さいますから、あなたを決して忘れること無く、あなたを常に心の中心に据えて、霊と真をもって礼拝することが出来ますように。アーメン!


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