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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

生ける聖霊の働き(No.19)

                  ヨルダン川を渡りなさい!




主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた。「私の僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民全てと共に立ってヨルダン川を渡り、私がイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。モーセに告げた通り、私はあなたたちの足の裏が踏む所を全てあなたたちに与える。荒れ野からレバノン山を越え、あの大河ユーフラテスまで、ヘト人の全地を含み、太陽の沈む大海に至るまでが、あなたたちの領土となる。一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。私はモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。あなたは、私が先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。ただ、強く、大いに雄々しくあって、私の僕モーセが命じた律法を全て忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたは何処に行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることを全て忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。私は、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたが何処に行ってもあなたの神、主は共にいる。」ヨシュアは民の役人たちに命じた。「宿営内を巡って民に命じ、こう言いなさい。各々食糧を用意せよ。あなたたちは、あと三日のうちに、このヨルダン川を渡る。あなたたちの神、主が得させようとしておられる土地に入り、それを得る。」
                                                                                                     【ヨシュア記1章1〜11節】


「神のテスト」の意義
 父なる神の私たちに対するテストは、私たちが常に聖霊を通して、真剣にその与えられた「意義(目的)」を受け留めないのであれば、私たちは霊的に正しく把握できないまま、「神のテスト」を見過ごしたり、神の「掟」を人間的に判断し、ある時は別の解釈をするなどして吐き捨てたり、立ち塞がる状況に対して何も為し得ないまま、打ちひしがれ最終的には後退していくなど、様々な間違った行動に移ります。しかし、主なる神が私たちに対して、常に命じておられることは只一つです。それはモーセを通して語られた、十戒の中にも記されている「主なる神のみを崇める(仰ぎ求める)!」ことです。


 私たちは、何故「天」に向かって両手を挙げ、全能者を礼拝するように創造されているのでしょうか?それは「本来の人」、即ちアダム(エバ)の中に備えられた天的機能である、主なる神との「親しい交わり」の中にあって初めて、私たちは「強く、雄々しく、父なる神の全き平安の中で立つ」ことが可能になるからです。逆に言えば私たちが、主なる神から離れて生きようとするから、立ち塞がる状況に対して恐れおののき、遂には後退してしまうのです。


 さて、モーセが死を目前にしてカナンに進入しようとした時、12人の斥候(間者)をカナンの敵地に派遣しました。その際モーセは、各部族の中から若い勇者(リーダー格)を選び、密かにカナンに進入させました。そして彼らは、幾多の危険に会いながらも、無事に偵察及び情報収集業務を終え、モーセの元に帰って報告しました。しかし、ヨシュアとカレブ以外の10人の斥候の報告の全てが、モーセにとって失望を与えるもの、否定的かつ消極的な内容のものでした。彼らは、ただ「恐れ」と「不可能」の言葉のみを携えて帰って来ました。それとは対照的にヨシュアとカレブは、彼らのような三次元的判断から来る言葉ではなく、肯定的かつ積極的な「霊の言葉」を、収穫物としてモーセの前に差し出しました(民数記13〜14章参照)。彼ら全員の報告を聞き終えた時、モーセは聖霊を通して既に決断していました。この二人の若者こそ神が選び召している器、つまり自分が亡き後の後継者であり、イスラエルの第二世代をカナンに導く指導者である!ことを。


 モーセが、ヨシュアとカレブに残した遺訓の全ては、「十戒」の中に記されていることでした。「主なる神のみを崇め、主に信頼しながら常に前進しなさい!たとえ如何なる問題(状況)が立ち塞がったとしても、その歩みをストップしてはならない。主なる神が常にあなた方と共に居まして、正しい道へと導いて下さるからである。それ故あなた方が、神と共に前進して行く限り、神の臨在が常に幕屋の中にあり、主の霊が必ず先頭に立って導かれる!」と。


 ヨシュアとカレブだけが、モーセを通して語られた主の「掟」を、ことごとく忠実に守り行いました。それ故モーセは、二人に対して最後のミッションを託しました。それは「カナン征服」という、今までの歩みには無かったミッションでした。彼らの出エジプト後のルート(旅程)は、一般的に考えられる最短コースではありませんでした。何と驚くべきことに、殆どが荒野地帯という時間と労力を要する、極端な迂回ルートを辿るものでした。そしてイスラエルの民が、いよいよ「カナン」に進入する為に宿営したポイントが、ヨルダン川の東地区でした。


 今回のテキストに登場するエリコの町は、このヨルダン川の西地区にある城塞都市です。当然の如くイスラエルの民が、先ずカナン征服の第一段階として、手始めとしてエリコを占領する為には、このヨルダン川を越えなければなりません。


ヨルダン川の規模
 ヨルダン川の流れの殆どは、私たち日本人が思い浮かべるような川、例えば長良川や木曽川の中流を流れる、緩やかな規模ではありません。はっきり申し上げて、その殆どの流れが激流状態の川です。又ヨルダン川は、平野地域を流れる激流でもありません。それはアメリカやカナダにおいて見られる、ゴムボート(カヌー)等で川下りするような、蛇行した激流に似通っています。当然、途中のポイントには「滝」もある程の大激流です。とにかくその激流の中にあっては、こちらの岸から対岸に渡ることのできる、絶好のポイントが殆ど無い程、断崖絶壁が数多くある地形、それがヨルダン川の形状です。ただ唯一安全に渡れる場所が、「死海」に流れ込む付近にあります。その「死海」付近に位置する都市がエリコなのです。ですからイスラエルの民は、当然エリコの町から離れたヨルダン川の北側から、再び迂回して進入してもよかったのですが、その辺りのヨルダン川の流れは、舟(筏)でも渡り切ることが出来ない程のものであり、断崖絶壁の地形にあっては、舟さえも川に降ろすことが出来ない難所が数多くあったのです。


 それ故に彼らは、流れの緩やかなエリコ周辺部のヨルダン川を渡ることに決定したのですが、対岸には当然の如く「砦」が立ちはだかっていた訳です。エリコの軍隊は、ヨルダン川東側から浸入を試みようとする「敵」に対して、「砦」において見張り兵を立てて、臨戦態勢に入っているのです。そのような警戒態勢の中で、恐らく彼ら12人の斥候部隊は夜陰に紛れて、物音を立てずに命がけで川を渡り、城壁をよじ登り城内に侵入したのでしょう。


 以上からヨルダン川という川は、人が簡単に渡ることの出来ない環境であり、敵の見張り兵が対岸に常駐している所であることを、私たちはエリコを「知る」上で再確認すべきです。ですからヨシュアに命じられた父なる神の命令は、生半可な意思では簡単に成就(実行)し得るものではなく、文字通りそれは「命」を投げ捨てる覚悟が無ければ、守り行えるものではないことを覚えて下さい!


神の命令に対する人間的恐れ
 ヨシュアに命じられた神の命令は、「イスラエルの民の中から、強力な若い勇者のみを選抜し、彼らを先陣として先ずヨルダン川を渡らせなさい!」などと決して語られてはいません。父なる神は、「イスラエルの民の全てが、つまり老若男女を問わず漏れることなく、ヨルダン川を渡りなさい!」と命じられました。この時点でのイスラエルの民の人口が、何人であったのか定かでありませんが、第一世代が既に死んでいることもあり、出エジプトした時点より、人口が減少したかのように思われますが、彼ら民族の最大の特徴が多産型ですから、第二・第三世代は四十年間に渡る旅程の中で、最低二〜三倍増加したものと予想されることから、数百万単位(民数記一章のデータからの推計)の総数ではなかったかと思われます。


 それ故、一国家に等しい民族大移動の「噂(情報)」は、当然のことながらエリコの城主(王)の耳にも届いていますので、王は全軍を招集して城壁の守りを完全に整え、臨戦態勢に入っています。このような敵の状況の中にあって、わざわざ敵軍の中に突進していくこと程、恐しいことはありません。又全員がヨルダン川を一機に渡るということで、ある面それは「丸腰」の中にあって、いつ敵軍の放つ何千本もの矢の攻撃を受けるか分かりません。しかしこの時も、父なる神は「葦の海」を分けた時と同様に、ヨルダン川の中に「大路」を備えて下さいました。


 ヨルダン川を渡るということは、「死」を意味します。仮にヨルダン川を渡り切り、対岸に辿り着いたとしても、更に「死」の確率が高くなる戦場に、あえて行く者は常識ではいないでしょう!しかしヨシュアとカレブは、それでも神の命令を忠実に守り行いました。何故なら彼ら二人は、以前に偵察業務を行った時に、主なる神が斥候部隊の全員を、敵地にあっても確実に守られる!という事実(証拠)を、「信仰」として掴んで帰って来たからです。


 今回はどうだったのでしょうか?彼ら二人も自分の家族がいる身分ですら、「主よ、私たち二人だけが行くのでしたら、私たちは死をもってご命令通りに、敵地に向かって前進します。しかし、この民はどうでしょうか?この民も共に連れて前進するには、ちょっと問題が出て来るのでは・・・・?」なとど恐れを抱き、思わず躊躇したはずです。


 余談になりますが、私たちは今まで様々なメッセージを通して、ヨシュアとカレブの人物像に対して、「強力なリーターシップを持ち、指導性に優れた、積極的(肯定的)な若き神の勇者」などのイメージを描きますが、私のイメージするヨシュアとカレブは、今の私たちと何ら変わらぬ、極普通の中堅サラリーマン・タイプ〔小学生、中学生を養うお父さん〕だったのではないでしょうか!ただ、他の同世代の男性と比べて違う点は、「恐れ」と「不安」を抱きながらも、神の命令に対して素直に聞き従う、霊的に柔軟な信仰を持った誠実な指導者であったことです。


 そういう意味で恐らく彼らも、ゲッセマネで祈られたイエス・キリストの如くに、今回の最大難関「死」を前にして、「父よ!まさに今、あなたが約束として与えて下さる、カナンが目前にあります。しかし見て下さい!私たちイスラエルの民を。何も軍事訓練を経ている訳ではありません。小さい子供から年寄りに至るまで、とてもじゃありませんが、戦いには向いておりません。この小さな渡し場を渡るにしても、きっと川の流れに溺れてしま程の激しいものです。そして更に先方には、大いなる敵軍が待ち構えています。どのようにして渡ったらよいのか、私には分かりません!」と、言い難き言葉(涙の叫び)をもって祈ったことでしょう。


父なる神の願い(命令)
 そこで父なる神は、聖霊を通して彼に語られました。「強く、雄々しくあれ」(6節)と。父なる神は、ヨシュアの抱く「不安」と「恐れ」の全てをご存知でした。続いて「あなたが前進し続ける限り、あなたに立ちはだかる者は、一生の間何一つない!私はモーセと共にあったように、永遠にあなたと共に居る。」と返答されました。このメッセージは神の子(聖徒)にとって、大いなる「安息」を与える「命の言葉」です。


 例えば子供が「不安」になる時というものは、大抵「両親」が不在の時や、いつ帰って来るか分からないなどの、「不安」な思いを抱いた時ではないでしょうか?そのような「不安」に陥った子供に、「パパとママは、いつも居るよ!」と、この一言を語った瞬間に、子供は再び「安心(平安)」を取り戻し、心がようやく落ち着くのです。父が「居る」という言葉の概念は、父の守りの中に愛する子の全てを覆い尽くすことを意味します。「子」が心配するのではなく、「父(親)」が子の「悩み」と「不安」の全てを請け負う故に、「子」は「父」の御翼の陰の中に宿るだけでよいのです。


 ある面でこの6節の御言葉は、聖霊様の働きの予型です。聖霊様の働きは、私たちが如何なる状況に陥り、言い難き「苦しみ」の中に追い込まれたとしても、常に「助け」と「慰め」と「励まし」を与えて下さる訳ですが、その場合に語られる言葉の特徴が、6節の御言葉と同じものです。あなたを一生の間、「見放すことも、見捨てることもなく、いつも共に居て下さり、天の力を行使して下さる」お方、それが聖霊様です。


私たちの信仰姿勢(応答)
 それ故、聖霊様から約束の保証として「命の言葉」を与えられた時に、私たちが採るべき第一の信仰姿勢は、「ただ、強く、大いに雄々しくあって、私の僕モーセが命じた律法を全て忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。」(7〜8節)ことです。この御言葉は、使徒行伝1章8節に通じる内容です。私たちの採るべき信仰姿勢が、例えば恐れおののき、否定的になって信仰が後退する場合があるかも知れません!しかし前進させて下さる父なる神に依り頼み、天からの「力」を着せられた時に、私たちの信仰の歩み(行軍)を指揮して下さる聖霊様が、私たちの歩調に合わせて共に歩んで下さり、私たちが如何なる状況にあっても、そこに大路を用意して前進するよう導かれるのです!


 父なる神が、私たちに対して「右にも左にもそれてはならない。」と言われる理由は、イスラエルの民と同様に、私たちが「〜(右の状況)してしまった時には、・・・・(左の状況)しよう!」などと、神の「御心」から逸脱した(離れた)行動を選択するならまだしも、むしろエジプトに後退する可能性があるからです。私たちが、「右」にも「左」にも逸れている間は、主なる神は寛容を示して赦して下さいますが、エジプトに後退することは、霊的にも肉的にも「死す」ことにつながります。ですから、神が与えて下さるテストを受けている時、私たちがたとえ「右」や「左」に逸れたとしても、必ず主の「大路」がその中に用意され、聖霊様を通して御心に沿った「正しい道」が示される時、私たちは恐れずに、そして大胆に前進して行くことが出来ること、このことを忘れないで下さい!


 私たちが「聖霊のバプテスマ」を授かった目的は、何のためでしょうか?それは私たちが「至聖所」において、神との深い「親しい交わり」にあずかるためですが、このことを私たち罪深き「人」は、ストレートに為すことが中々出来ません。何故なら、私たちは「右」にも「左」にも、自分勝手に人間的歩みを確立しようとする存在だからです。「至聖所」に入るということは、「死」を意味します。


 その霊的な「死」により、聖霊を通して完全に聖別されるまでには、私たちは「右」にも「左」にも逸れてしまう悪癖がある故、神が与えて下さるテストを通して、霊的に軌道修正される必要があります。つまり私たちが、神が定めた「祝福の道」から離れて、自分の「肉の業」に依り頼みながら、「この世」の祝福(栄誉)を得ようとする時に、主なる神は私たちの自己中心の歩みを、完全に停止させられるのです。主なる神が「天」から与えて下さる、「イエス・キリストの恵み」にのみ、私たちは依り頼み求めるべきです。昼も夜も神の「命の言葉」を口ずさむこと、即ち神との「親しい交わり」という霊的生活を求めること、これが私たちが採るべき第二の信仰姿勢です。


 モーセを通して、神の「油注ぎ」を授かったヨシュアは、生涯に渡ってこの二つの神の命令(信仰姿勢)を、最高の遺訓として守り行いました。ですから、私たちもヨシュアの如くに「聖霊のバプテスマ」を授かった目的を、改めて学び直す必要があります。その目的は第一に、「天(上)」からの「力」を授けられるまでは、私たちは決して人間的な業によって、、「右」にも「左」にも自分の歩みを確立してはならないことです。ただ忠実に神の「掟」を守り行うこと、これが第一の目的です。第二に神の「掟」を、この世にある貴い金銀にも優って、麗しい価値あるものとして貴び、神との「親しい交わり」の中で、聖霊様を通して霊的に味わっていくことです。神との深い「至聖所」の交わりの中にこそ、全き平安があります。その全き平安の中にあって初めて、私たちは「この世」から来る、人間的な「恐れ」や「不安」などから、完全に解放されることを信じて下さい!


 そういう意味で私たちは、必ず自分に課せられた神のテスト、即ち「ヨルダン川」を渡る時が来ます。その時に、この御言葉を思い出して下さい。私たちの目前に迫り来る「ヨルダン川」は、「今の時」かも知れません。「ヨルダン川」を渡る時、遂に私たちはカナンの地に踏み入り、約束の保証として「シオンの山」に立つ恵みにあずかることを、主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


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