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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

急患診療(No.12)

                   たといそうでなくとも・・・・




さてこの時、何人かのカルデア人がユダヤ人を中傷しようと進み出て、ネブカドネツァル王にこう言った。「・・・・楽器の音楽が聞こえたなら、誰でも金の像にひれ伏して拝め、ということでした。そうしなければ、燃え盛る炉に投げ込まれるはずです。・・・・ユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人・・・・はご命令を無視して、王様の神に仕えず、お建てになった金の像も拝もうとしません。」これを聞いた・・・・王は怒りに燃え、・・・・彼らに言った。「・・・・もしも拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちを私の手から救い出す神があろうか。」シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えた。「この定めに付きまして、お答えする必要はございません。私たちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手から私たちを救うことが出来ますし、必ず救って下さいます。(たとい)そうでなくとも、ご承知下さい。私たちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
                                                                                                    【ダニエル書3章8~18節】


「たといそうでなくとも(Even if~)」の信仰表明
 「(たとい)そうでなくとも(Even if~)・・・・」(18節)に記述されている言葉の「表現(言い回し)」は、「もし~でなければ(If~)」という、一般的な仮定法の表現ではありません。又ご存じのように、仮定法は「条件」を伴う場合に使用する言葉で、断定的な強い「意思」を表す言葉ではありません。


 しかし「たとい(Even~)」という副詞が、「if」の前に付加される場合、その意味合いは如何なる「状況」や、如何なる「時」や「条件」になったとしても、自分はある決断をもって行動する!という、その人の持つ強い意思が明確になる表現です。ありとあらゆる条件、それが自分たちにとって、不利な条件に陥ったとしても、ダニエルの三人の友人は、この「たといそうでなくとも(Even if~)」の表明を、王に宣言したのです。私たちが彼らと同じように、このような危機的(死の)「試練」に遭遇したとしたら、果して「たといそうでなくとも(Even if~)」の信仰表明を、大胆に為すことが出来るでしょうか?


 私たちは建前としては、アブラハムの信仰の如くに、ロトの選択した「低地」ではなく、神が聖別した「高地(フィールド)」を目指すことを表明します。しかし彼らの如くに、予想していない「大試練」に遭遇したとしたら、いつも通りの「建前」の表明は、恐らく唇から出て来ないでしょう。アブラハムの選択した「フィールド」は、三次元的視点(判断)からは、何も産み出すものが無い、いわゆる「荒地(砂漠)」です。アブラハムが「高地」において、先ず最初に為したこと、それは「主よ、どうぞこの地を聖別し祝福して下さい!見たところ、ここには何もありません。どうしたら良いのでしょうか?しかし主よ、私はあなたが命じるまま、この地を聖別すべく祭壇を築きます。そして、その後井戸を掘りますので、どうか見えないこの地の真下から、豊かな命の水が湧き出るよう、掘り進める私たちの手に、あなたの御力を注いで下さい!」などと、祈り(信仰の表明)を捧げたことです。


「火」の試練
 私たちは信仰的には、失敗だらけのアブラム同様に、「この世(ソドム)」に暮らす中で 、何らかの妥協をせざるを得ない、つまり「世の水」を飲みつつ生きています。だからと言って主なる神は、「この世」に生きる愚かな私たちを、決して責め立てることはなさいません。しかし再び私たちが、「高地(神のフィールド)」を目指して、私たちが本来使用すべき、「霊の眼」をもって見えざる地を見つめ、如何なる状況下にあっても、主なる神が私たちを「命の水」で満ちたらせ、決して尽きることの無い、永遠の麗しい「聖なるもの」を、必ず与えて下さるという、確固たる信仰に立つ時、彼ら三人の如くに、神によって練り聖められた「直ぐな器」へと、私たちは造り変えられるのです。


 彼ら三人が遭遇した「大試練」、それは霊的には「火の試練」と言います。私たちは「火」の中を通過しなければ、神の喜ばれる「貴い器」には至りません。私たちは普段の平凡な生活が、三次元(経済的」的に悪化しますと、人間的に誤った計算をしながら、例えば「神が、この状況から救い出して下さるのであれば(if~)、私は再びあなたに仕えます!」などと、取引きの祈り(表明)をするのです。これは、殆どのキリスト者が経験する、霊的「誘惑」です。私たちは当初、神が命じる「高地」を目指して前進している訳ですが、いつしか「低地(ソドム)」に浸かって生きているかを、この時になって気付かされるのです。


 覚えて戴きたいことは、彼ら三人は確かに王から重用され、恐らく「高給」を与えられるなどの、特別な待遇を受けていたかも知れません。しかし彼らは、決して異邦人の「食糧」を口に入れることは無く、その日に生きるだけの「活力」を得る分の、「野菜」のみを食していました。つまり彼らは、真の神が与えて下さる「天の糧」のみに満足する、聖い生活を日々為していたのです。私たちが、「先(将来)」のことを案じながら、様々に人間的な判断で歩んでいくこと、これは「罪」に至る道です。例えば、エジプトを脱出したイスラエルの民は、日々「天のマナ」を与えられていたにも関わらず、「先」のことを欲して、神に「肉(エジプトの糧)」を要求しました。


 そしてロトは、最初「低地」において、世的な繁栄を享受しました。しかし神の「裁きの時」、アブラハムの執り成しの祈りにより、永遠の「滅び」ではなく、アブラハムと同様の「高地」に導かれること、即ち神の「ご命令」に従った結果、彼は贖われたのです。それに対してロトの妻は、「低地」を振り返ったため、「火の裁き」が下されたのです。


 私たちには、彼ら三人の如くに自分の「命」を奉じる、つまり「死刑」に処されたとしても、神に従って生きることを選択する!という、強い信仰は無いかも知れません。しかし「主よ、私があなたを裏切ることが無きよう、どうぞ私の霊を引き上げて下さい!聖霊様が与えて下さるEven ifの信仰を、この私にも上よりの力をもって、是非注いで下さい!」と素直に膝を屈めて、神の御前で祈ることは出来ます。主なる神は、「世」にどっぷりと浸かった愚かな私たちを、必ず聖別して下さいます。


 私たちの父なる神は、私たちが心配する以前から、私たちの「全て」を思い図って下さり、私たちに必要なものを、すぐに用意して下さる方です。それ故私たちは、どんな小さな「誘惑(低地への誘い)」に乗ることなく、父なる神が遣わして下さる聖霊様に導かれつつ、主なる神が臨在される「高地」を目指して、喜び勇んで前進することが出来る、真のキリスト者に造り変えられますよう、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン!


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