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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

生ける聖霊の働き(No.18)

                           岩を打ちなさい!




主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の水がなかった。民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「何故、私と争うのか。何故、主を試すのか。」しかし、民は喉が渇いて仕方ないので、モーセに向かって不平を述べた。「何故、我々をエジプトから導き上ったのか。私も子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」モーセは主に、「私はこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、私を石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でその通りにした。彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果して、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。
                                                                                                 【出エジプト記17章1〜7節】


 イスラエルの民が、「エジプト」を脱出するに至った時、そしてその後「荒野」を通過させられるに至った時にも、父なる神は如何にイスラエルの民を、他のどの民族以上に愛して下さり、霊的長子として選び召し出しているかを、様々な「しるし」と「業」をもって示されました。また指導者モーセを通して、様々な「メッセージ」を語ることで、常に彼らを正しい方向へと導かれました。それはまるでイスラエルの民が、霊的に見て一人の「見習人」の如くに、父なる神から直々に指導を受けたのです。


 さて、私たちの信仰の歩みの中にも、父なる神が様々な出来事を通して、霊的に教え諭していることをご存知でしょうか?ある時には「右にも左にも逸れてはならない!ただ私の示す道に従って来なさい!」などと、事細かに聖霊様を通して、直々に案内して下さいます。


 私たちは確かに、この時のイスラエルの民の体験した、神の「奇跡」と同レベルのものを未だ見ていません。もし私たちが、彼ら同様の神の「奇跡」を体験する、素晴らしい恵みにあずかることが出来たら、私たちは果して彼らと同じ反応、つまり不信仰に陥っていたでしょうか?また彼らのように「不平」の言葉など、絶対吐くことは有り得ない!と、言い切れる者はいるでしょうか?これは誰もが陥る、霊的危険性の一つです。前章で学びましたように、彼らは枯れた荒野にあっても、父なる神を通して「エリム(命の水)」に導かれ、また日々の暮らしの中にあっては、天上から「マナ」と「鶉の肉」を賜るという、神の「奇跡」のルートを歩んでいるにも関わらず、この時もすぐ「不平」と「争い」が生じているのです。実は今回の出来事の中に、私たちも聖霊を通して学ぶべき、重要な霊的教訓が語られています。


三つの霊的失敗
 イスラエルの民はこの時、三つの霊的失敗(ミス)を犯しました。その三つの霊的失敗について、私たちも聖霊様を通して謙虚に学ぶ時、私たちの信仰の歩みの中にも、彼らと同様の誤った方向に行く危険性があることを、霊的に「知る」ことにつながります。


第1のミス・・・・
 エジプトを脱出して以来、イスラエルの各部族長は常々モーセに対して、次のように問いかけたことでしょう。「モーセよ、あなたは如何なる方法をもって、この脱出ルートを計画したのか?どう考えてみても、あなたが辿っている方法(ルート)が、カナンに到達する最短ルートとは考えにくい。確かにあなたは、神の奇跡をもって我々をここまで導き、何とか生き長らえることが出来た。しかし今度ばかりは・・・・」などと、必ず「文句(不平)」を述べ立てました。


 そしてこの時も、同様に民の一部が「今回は無理だ。何も無い岩場ではないか!地下水を掘ろうにも固い岩場に在っては、とてもじゃないが無理だ!」と怒り捲くりました。ここに第一の失敗が見られます。イスラエルの民をエジプトから脱出させ、その間の日程及びルートなどの旅程を計画し、ここまで実現に至らせたことの全てが、父なる神の「命令(御心)」から始まっていることを、彼らは何一つ理解出来ませんでした。これが、彼らの犯した第一の失敗です。彼らは、モーセが自分勝手に様々な計画を立て、ルートを模索しながら実行しているものと錯覚していたのです。彼らは、神が為された「しるし」と「業」自体も、モーセの失敗を補うために過ぎず、モーセが最短ルートを選択していれば、自分たちが苦労しなくても良かったのではないか!などと、安易な考え方に陥っていました。それ故、彼らは感謝ではなく「不平」を吐き、一致ではなく「争い」を好んだのです。


 ところが、モーセはその度に彼らに対して、「私が、あなた方を導いているのではない!主なる神が私たちに対して、○○○に行きなさいと、私の唇を通して語られているのだ!そして私は、そのご命令に従っているだけだ。先日の戦いにしても、私が戦闘プランを立てて進めている訳ではない。ましてや、私たちには武器の備えも無い故、勝てるはずが無いではないか!しかし、主なる神が戦って下さるから、私をそれを信じて紅海を前進することが出来たのだ!」と常々語っていました。ですから、今回レフィディムに宿営したことも、主なる神が定めた重要な地点として、モーセは受け留めていたのです。しかし彼らは、神の「御心」を全く理解出来ませんでした。彼らは、この時も三次元的な「肉の眼」で、レフィディムの地点を見ていたため、再びマラ的なフィールドに到着した時、「え!これが本当に主の御心なのか?」などと疑ったのです。このように彼らの第一の失敗は、父なる神の「ご計画」に対して、人間的な判断から誤った解釈を下したことです。


第2のミス・・・・
 彼らは、第一の失敗である人間的判断を下した結果、当然愚かな反応を示しました。これが第二の失敗につながります。彼らは、地下の水脈まで完全に掘り起こすことが出来ない状況、つまり目の前にある岩肌だけを見て、「不平」と「文句」をモーセにぶつけ、群集を煽るように言い争いました。このストーリーの記述には、彼らが実際に如何なる文言をもって、指導者モーセと言い争ったのか、その具体的な内容が記録されていませんが、大体想像は付きます。「どうしてくれるんだよー、ちゃんとツケ(落とし前)を支払ってもらおうではないか!」などと。


 ある物事の問題を、人間的な判断で解決しようとしたり、人に「不平(呟き)」などを言うことで、その問題の責任を他人になすり付けることは、全て父なる神を試みることと同じであることを、私たちは是非覚えて(肝に銘じて)下さい!神の導きに関して、例えば人間的判断から自己中心的に解釈すること、また神が立てられた指導者に対して争ったりすること、そして更に指導者を通して語られた神の「命令」に背き、自分の「肉の力」で解決策を見出して行くことは、ある面で神を試みることになるのです。実はこの人間的解決によって、一人歩きしようとする習性は、「バベル革命」の出来事の中に、はっきり見受けられます。


 例えば今日の「教会組織」の中において、様々なプラン(行事計画)や奉仕組織などを運営していく上で、必ず問題になってくるものが、「お金」に関することではないでしょうか!また教会が成長すればする程、教会の要職にある人々が目指すべきものが、イエス・キリストの「み体」を霊的に建て上げることよりも、目に見える「バベル・タワー(立派な会堂)」を建立しようとするなど、三次元的な発想しか生まれません。え!?私たちキリスト者の中に、わざわざ「バベルの塔」を建築しようと思う人など、絶対いる訳ないですよ!と思われるかも知れません。


 聖書には「あなたの天幕に場所を広く取り、あなたの住まいの幕を広げ、惜しまず綱を伸ばし、杭を堅く打て。」(イザヤ書54章2節)という、有名な御言葉がありますが、私はこの御言葉をもって、例えば「(信者数が増えてきたから)教会の会堂を、大きくて立派な建物にしなさい!」とか、単純に「宣教活動の領域(幅)を、今よりも拡大しなさい!」なとど解釈する、安易な考え方(発想)に陥って欲しくはありません!それよりも、私はこの御言葉の持つ神の奥深い「ご計画」と、私たちには測り知り得ない「摂理」を求める姿勢で、例えば「神との麗しい交わりからもたらされる、聖霊の聖い命の水が拡大する程、至聖所から神の臨在(御国)が、至るところに流れ出る(解き放たれる)!」と解釈した方が、より聖書的ではないかと思います。そしてこの約束の御言葉通りに、イスラエルの全家に満ち溢れる神の永遠の祝福(神の川)が、最終的には異邦人にまで行き渡ること、これが「天幕(至聖所の礼拝)」の拡大を意味しているのではないでしょうか!


 しかし、「この世」にどっぷり浸かっている教会は、教会が成長し始める時に、すぐ発想することは「あー何と多くの人々が、私たちの教会に集まり始めたことか!今までは百名収容出来ていたが、もうそろそろ限界だ。次は五百名収容出来る、立派な教会堂を建て上げよう!」などの思い(考え)であり、続いて具体的なプランを立案するに当たり、「今までの年間献金の総額は・・・・位だったから、予算的に一人当たり〇〇万円相当の、約束(予約)献金を募ろうではないか!」などと、人間的計算(判断、計画)に移ります。


 私は、「教会堂」を不要と述べているのではありません。覚えて戴きたいことは、神の民が増え拡がることは、確かに神の「御心」ではありますが、その時に単純に人間的判断を下して、「神の栄光を現すために、教会堂を更に大きく建て上げ、麗しい教会形成と成長(発展)を促して行こう!」という安易な発想をすることが、悪魔サタンに隙を与えることにつながることです。何故なら私たちの殆どが、すぐに三次元的発想をすることで、例えば「お金」や「数量」の計算をしてしまう、非常に愚かな習性があるからです。そしてこの「会堂建築」の立案は、信徒の分裂(分派)の引き金とも為りかねない、重要な問題の一つです。教会分裂の中で最大の要因の一つが、実は「お金(献金)」の取扱いに関することではないでしょうか。このように私たちキリスト者と言えども、再び「バベル・タワー」を建て上げようと試みる、霊的に愚かな「弱さ」があることを、決して忘れないで下さい!


 水が無いフィールドに導かれた彼らは、すぐに誤った反応を示しました。これが第二の失敗です。つまり「神」に向かうのではなく、「人」と争ったことです。「人」と争うこと自体は、神から見て何でも無いことのように、私たちは思うかも知れません。しかし、主なる神が聖霊を通して導かれている、一つの「ライン(正しい道)」に対して異を唱えることは、それがたとえ「神」に向かっていなくても、全てが神を試みることになるのです。「争い」と「試み」は、ヤコブが一晩中神の使いと、「肉の力」を頼みとして格闘したように、ある面で表裏一体の関係にあると言えます。


第3のミス・・・・
 彼らにとって、現在置かれている水の枯れた状況は、「私たちには何も良きことなど、今後引き続き起こり得ない!」という、不信仰を生み出すことになりました。そして、彼らは神の使い(モーセ)に対して、次々と争いの言葉を吐いたのです。この時の状況は、荒野で四十日の断食に導かれたイエス・キリストに対して、サタンが「争い」と「試み」の言葉を投げかけた出来事に似通っています。サタンが吐いた「お前が本当に神の子であるなら・・・・」という言葉と、彼らがモーセに対して争った言葉「お前が本当に神の遣わした預言者なら、我々に飲み水を与えよ!」、続いて「何故、我々をエジプトから導き上ったのか。私も子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか?」などです。


 これらのセリフは、非常に恐ろしい内容の言葉です。今まで為された神の「導き」と、驚くばかりの「しるし」と「業」を体験した彼らの中には、エジプト軍の手により殺された者は、誰一人いませんでした。又荒野で飢え死にしたり、水が全く無くなって完全に干からびるなどの、死者が出た訳でもありません。にも関わらず彼らの代表(年長組)は、前述したような恐ろしいセリフを吐いたのです。彼らは第一世代で、非常に常識と知恵ある大人でした。しかし、彼らは主なる神の「導き」を、明確に信仰で掴んでいなかったのです。


 現在導かれている状況の原因(理由、根源)を、「神ご自身(神の御心)」の方向に探り求めようとするのではなく、「エジプト(この世)」の方法で人間的に判断すること、これが第三の失敗です。例えば自分の望んでいた以上の素晴らしい状況が、目の前に用意される場合には、私たちは決して「文句(不平)」を述べません。しかし予想もしないような、悪条件(水の無いフィールド)の状況に導かれた場合、あなたは自分の置かれた状況に対して、如何なる解釈(判断)をもって、その原因(根源)を探ろうと試みるでしょうか?恐らく多くの人々が、「過去」というエジプトを振り返るでしょう。


 私たちが「過去」に原因を求めようとする時、それはエジプト的思考に当たります。「あの時〜しなければ、今は・・・・だったのに。」などの思いは、誰の中にもあります。特に霊的な傷を多く被ったキリスト者が、この類の思考に捕われる傾向にあります。しかし覚えて下さい!「主なる神が、あなたの人生の全てを支配し、今も尚支えているのです。そして、あなたの人生の旅程を定めている方は、まさしく主なる神ご自身であり、あなたの信仰の歩み全般に渡って、いつも共に居て下さり、あなたを神の栄光を現す貴い器とするべく、様々な荒野(霊的精練の時)を通過させている!」のです。ですから、今あなたが導かれているフィールドが、たとえ水の枯れた不毛の地(状況)であっても、主なる神が聖霊様を通して、確かに神の定めた旅程通りに、「カナン」へ導いていることを信じて下さい!


エジプト的思考
 彼らの三次元的なエジプト的思考(表現)は、7節にも記述されています。「果して、主は我々の間におられるのかどうか」この発言は神に対する、非常に傲慢極まる言葉です。私たちの霊的思考の中にも、この種の「疑い」と「不信仰」が、悪霊によって呼び起こされることをご存知でしょうか?「果してこれは、主の御心かどうか、どうも疑わしいねー・・・・」などの思いに始まり、「こんな事をするとは、やはり私の歩みの中に問題があるのだ!」などの罪責感に陥ること、更に水の無いフィールドに導かれている人々を見て、「それ見たことか!あの人は余り礼拝に出席しなくなったし、この私(先輩)を差し置いて、勝手に独り歩きし出したから、あのような不幸な事態に陥ったのだ。」と解釈するなど、これらは日本人の好む仏教的思考の一つです。


 「〜したから、・・・・になる」という考え方(思考)は、「因果応報」という仏教思想から生じる二次元的思考です。しかし主なる神が定めた「旅程(道)」は、たとえ「泉」の無い所であっても、豊かに泉の湧く所と作り変え、断崖絶壁の連なる高き山の峰にあっても、そこに大路を用意されるなど、確実な「導き」が用意されるのです。そうです!涙の谷を過ぎ行く時にも、必ず主が共に同伴して下さり、喜びの収穫を用意されるのです。このような四次元的思考に立った「信仰」が、本来私たちが為すべき正しい思考です。「主なる神が私と共におられる限り、たとえ如何なる状況に導かれたとしても、私は主なる神を頼みとし、主なる神を求めて従って行きます!」と告白する姿勢が、私たちには是非必要であり、重要な霊的課題ではないでしょうか!


岩を打ちなさい!
 度重なる彼らの不信仰の態度を前にして、遂にモーセは父なる神に対して、怒りの抗議を訴え出ました。しかし、主なる神は次のように返答しました。「あなたはとりなし人に過ぎません!彼らに代弁して伝えなさい。岩のみを打ち叩きなさい!と。」聖霊様は今に生きる私たちキリスト者にも、次のように命じられます。「人や環境に対して打ち叩いても、何も水(良きもの)は出て来ません!救いの岩(イエス・キリスト)だけを、打ち叩くべきです!」と。


 モーセは神が命じられた通りに、授かった「杖」をもって岩を叩いた時に、今まで如何なる道具で打ち叩いても、何の変化も起きなかった岩盤が裂け、そこから大量にリビング・ウォーターがほとばしり、そして溢れ流れ出て来ました。モーセは『出エジプト記』において、この素晴らしい神の「しるし」と「業」を見た彼らが、畏敬の余りに礼拝した!とは記述していません。では彼らは、この時如何なる行動に移ったのでしょうか?恐らく彼らは、我先に「飲み水」を求めて奪い合う、そんな愚かな光景が目に浮かぶのではないでしょうか。彼らは神に対して、何一つ感謝することがありませんでした。


 さて私たちが、仮に水無きフィールドに導かれた場合、どうすればよいのでしょうか?モーセは最初「何故あなた方は、この私と言い争うのか?」と、彼らに問い質しました。そうです!私たちが打ち叩くべきポイントは、「人」や「環境(状況)」や「問題」などではなく、霊的に正しく求める(飢え渇く)べきお方、「救いの岩」イエス・キリストです!


 何故、私たちは主なる神の「救い」のみを、ひたすら求めようとしないのでしょうか?私たちに与えられている唇は、何のために与えられているのでしょうか!「人」と口論し、言い争うためでしょうか?私たちが、自分の目の前にある「不毛の地」を見て、「不平(不満)」を述べたところで、何一つ進展はありません。私たちは、常に主なる神の「救い」を見上げましょう!そして霊的に、堅固なる「岩(イエス・キリスト)」を打ち叩いて、「命の水」を求めて行くべきです。イエス・キリストを叩けば叩くほど、主なる神はイエス・キリストを通して、「命の水」を与えて下さるのです。ですから、私たちが為すべき最優先事項は、「主なる神を追い求め、イエス・キリストだけを打ち叩きながら、神との親しい交わりから得られる、豊かなリビング・ウォーターを欲すること」です!この世のもたらす「汚れた水」を飲み、そして主なる神を試みようとする人間(エジプト)的思考で、全ての物事を判断するなどの悪しき歩みから、私たちは完全に離れましょう!


 父なる神は、私たちの人生に様々なテストを課せられます。しかし神のテストは、決して私たちが試練に打ちひしがれ、霊的に干からびさせてしまうために、課せられているものではありません!私たちが常に天のみを見上げる者、つまり「この世」の三次元的な眼で、様々な神のテストを見る(判断する)のではなく、霊的な眼をもって天を見上げ、神が注いで下さる「命の水」を求めるよう、私たちを聖別しているのです。ですから、私たちが激しく打ち叩くべきものは、「救いの岩」イエス・キリストだけです。「全ては神の御手にある」そうです!私たち自らが、人生の「旅程」を決めるのではありません!主なる神が、私たちの「人生の旅」のルート、そして様々な「ご計画」を立てられるのです。私たちはこのことを信じて、「命の水」の源であり、「救いの岩」イエス・キリストを打ち叩きながら、神との「親しい交わり」に、いつもあずかろうではありませんか!


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