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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

生ける聖霊の働き(No.17)

                        マラからエリムへ




モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野に向かって、荒野を三日の間進んだが、水を得なかった。マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことが出来なかった。こういう訳で、そこの名はマラ(苦い)と呼ばれた。民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った。モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった。その所で主は彼に掟と法を与えられ、またその所で彼を試みて、言われた。「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目に適う正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、全ての掟を守るならば、私がエジプト人に下した病をあなたには下さない。私はあなたを癒す主である。」彼らがエリムに着くと、そこには十二の泉があり、七十本のなつめやしが茂っていた。その泉のほとりに彼らは宿営した。
                                                                                             【出エジプト記15章22〜27節】


 このストーリーに記述されているように、マラは「苦い」という意味ですが、果して彼らの喉の渇きを潤すことが出来ない程、非常に 苦い水だったのでしょうか?彼らの味覚にとって、それは確かに「苦い」ものでありましたが、如何なる液体であったのか、私たちは想像も出来ません。


 ところが、私たちは甘い水であるならば、すぐ味覚として想像出来ます。それは喉ごしの良いものであり、ほとばしり出る岩清水のようなものです。ですから、その反対の味覚である苦い水とは、私たちの喉にも口にも、好ましくない(飲むことの出来ない)水と言えるものではないでしょうか。このマラと呼ばれる地名は、実はルツ記のストーリーにも登場します。ルツ記に登場する主要人物の一人ナオミが、自分の不遇な人生について未定的な呼び方、つまり「マラ」と呼ぶよう、近隣の人々に懇願した訳ですが(ルツ記1章20節)、彼女には父なる神から祝福された本来の名、即ち「ナオミ(快い)」という素晴らしい名前が授けられているにも関わらず、「マラ」と呼ぶよう他人に願い出ました。彼女は自分のことを、「私の人生は苦いもの(マラ)であり、実り良きものが何一つ無い人生である!」などと、非常に愚かな信仰の行動を選択したのです。


何を覚え、何を忘れるべきか?
 聖霊様はこのストーリーから、非常に重要な二つのキーワードを提示しています。第一に「忘れなさい(forget)!」、第二に「思い起こしなさい(remind)!」という、相対し合う概念の命令です。第二の「remind」は、「覚えておく(remember)」という言葉と、若干意味合いが似通っていますが、聖霊様は「remind」という言葉を、このストーリーの重要なキーワードとして、あえて提示しています。


 「remind」とは、私たちの意識或いは意志(mind)の中に、再び(re)思い起こさなければならないことを意味します。私たちが常に思い起こし、又覚えておくべき大切なものは「何」なのか?そして、私たちが「何」を忘れるべきなのか?又逆に忘れてならないもの(事柄)もあることを、聖霊様から教えて戴く必要があります。私たちに対して神が命じられることは、エジプトから脱出し終えたイスラエルの民と同様のものですが、「エジプトのことは、全て忘れなさい!」ということです。つまり私たちキリスト者は、「エジプト(この世)」的なものを振り返ることも、あの頃(過去)のことを思い出すこともならず、全て捨て去る(放棄する)よう厳しく命じられています。


 では、私たちは「何」を「remind」すべきでしょうか?彼らは愚かにも、主なる神が為された「葦の海」を分かつという、偉大な奇跡の出来事を見た時から、ほんの数日後に「不平」を呟きました。つい先日に、不可能と思える「葦の海」から贖い出され、主なる神の大いなる御業を直接見て信じたにも関わらず、彼らは神の全能性を「remind」すべきところを、「forget」しているのです。つまり主なる神は、イスラエルの民を三日の間「砂漠」を通過させることで、彼らが何を「remind」し、何を「forget」するかをテストされたのです。


 彼らは三日間「砂漠」を歩き回る中で、「あー、水が無い!今日も水が無い!これでは私たちの生きる力が、尽きるだけではないか!一体何処に辿り着けば、私たちの人生に良き泉が現れることか!」などと、「命の水」を求めて掘り進めるのですが、井戸(泉)は全く見つかりません。彼らはこの間「エジプト」を「remind」し、「神ご自身」を「forget」するに至りました。「あー、あの頃は良かった!エジプトに居れば、いつでも自由に水を飲むことが出来た。確かに苦役を強いられ、労働としては過酷だった。しかし水は飲めたではないか!暑い最中にも、隊長(エジプト人)は水をぶっかけてくれ、冷たい水を飲ましてくれた。なのに何だ、モーセよ!ここは、只の砂漠ではないか!良きものが何一つ無い所を、何故我々は毎日歩まなければならないのか?お前は一体、如何なる計画をもって、我々をここに導いたのだ?単純に北進すれば、すぐにもカナンの地に入れるではないか!わざわざ迂回しなければならない、その理由は一体何なのだ?」などと、モーセに問い詰めました。しかし、モーセは黙り続けました。彼らは三日間という時の経過の中で、主なる神の為さった数々の「恵み」、特に様々な苦難の中にあっても、必ずもたらして下さった素晴らしい奇跡を忘れ、神に対して「不平」を吐くに至ったのです。


 その結果(そのこと故に)、彼らは「マラ」に辿り着きました。憶えて戴きたいことは、全ての物事(事象)の中に、「原因(始まり)」と「結果(終わり)」があることです。神の「真理の法則」においても、私たちが神に対して「remind」する時、つまり神の「恵み」の中にあって、常にそれを慕い求めて思い起こす限り、私たちは決して「マラ」に導かれることはありません。たとえ「マラ」的な環境の中に、一時期(暫く)置かれることがあったとしても、父なる神は不思議な方法をもって、「そこ」を泉の湧く素晴らしい所に変えて下さいます。しかし、彼らは「不平」を吐き続けたのです。私たちが「不平の井戸」を掘れば掘るほど、そこから湧き出て来る水はリビング・ウォーターではなく、マラ(苦い水)しか出て来ないことを、いつも憶えて下さい!


 元々彼らは、「マラ」を求めた訳ではなかったのですが、一番大事なことを忘れてしまったが故に、マラ的な環境(状況)に陥ったのです。これは、非常にシンプルな原則です。私たちが父なる神を求める時には、必ずそれを阻む「マラ」が登場して来ます。それ故私たちが、リビング・ウォーターを求めて「井戸」を掘り進めるだけで、すぐにも清い「水脈」を見出せる訳ではありません。ある時には、「汚い水」しか湧き出て来ません。しかし、それでも更に深く掘り下げて行く時、最初は泥まみれで汚かった水も、次第にきれいな水質に近づいて行くことを、聖霊様は強く促して下さいます。ですから、私たちが更に深く掘り下げて行く中で、ある時は巨大な岩盤層に出くわし、掘り進めるのに非常に困難を覚える時があるかも知れません。しかし私たちは、それでも尚掘り進めるべきです!もし私たちが「マラ」ではなく、リビング・ウォーターを見出したいのであれば、掘り進めるという単純作業を継続すべきです!その時に、私たちが「いやー、もう駄目ですよ。私が求めていた水は、これ位掘れば出て来ると思っていたのに、出て来た水はこんなものですか!私はもう作業を止めます。またいつか、別の所を掘りますから。」などと言ったら、信仰の歩みが霊的に停止し、「マラ」しか飲むことが出来ません。


第一のテスト
 彼らは、三日間に渡って掘り進めたのですが、「マラ」しか飲むことが出来ませんでした。この時に、父なる神は彼らに対して第一のテストを課しました。それは、この時に彼らが何を「remind」するか?ということでした。今まで「forget」していたものを全て放棄し、聖霊を通して正しく「remind」すべき方向へと、父なる神が導いて下さることを、彼らはこの時に学ぶべきでした。


 ところで、何故モーセは度重なる彼らの不平に対して、何らかの言葉をもって厳しく指導する、例えば「父なる神が私たちを、このような状況に置かれたことには、必ず正しい意味があるのだ!そのことを何故、あなた方は未だ分からないのか?私に働かれる父なる神の御業を信じて、とにかく付いて来なさい!」などと叱咤しなかったのでしょうか?ご存知のように、「出エジプト記」の著者はモーセです。ということは、モーセ自身は自分の為した行為や言葉も、記憶に留めて記述している訳ですから、やはり彼はこの時、彼らに対して何の指導もしていない(というより、神のテストを見守っている)ことが伺えます。常に自分を導いている神のご命令無くして、自ら何も為し得ないことを、モーセ自身が荒野における訓練の中で学んだ故に、彼はこの状況を見守り続けることが出来たのです!また14章で学びましたように、モーセは神に直接打たれ(殺され)るところを、妻のとっさのとりなし(預言的行為)により贖い出された結果、彼はへり下った器へと変革されたのです!ですから、モーセは「私がするのではなく、主ご自身が戦って下さる!神のお言葉にのみ、私は従い続ける!これ以外に、私が為すべき正しい行いは在り得ない!」と固く信じ、この状況を見守ることが出来たのです。


 ところが、ある指導者は過去の実績や指導経験から、次のように告白する傾向にあります。「あ!私の牧会する群れは、今誤った方向に行きつつある。だから私が指導しなければ、彼らを誤りから正すことは出来ない。」、「あなたは、そんな勝手な行動をすると、必ず信仰の破船に遭遇しますよ。だからあなたの牧師である、私の言うことに聞き従いなさい!」などと、支配的指導を実行します。覚えて戴きたいことは、主なる神の「御心(命令)」にのみ聞き従うことを、何にも優る霊的生贄として捧げる者が、神のテストに合格することが出来るのです。私たちが様々な状況に遭遇しても、そのことを三次元的に判断して「不平(否定的な言葉)」を呟くのではなく、神のテストとして正しく理解するか否かが、信仰がその後成長するか後退するのか、その分岐点になります。私たちが信仰をもって前進すればする程、すぐさまカナンに辿り付けるのではなく、神のテストが用意されていることをも知るべきです。


 アブラハムとロトが、信仰の分岐点(神のテスト)を通過させられた時、ロトは三次元的に見て緑豊かな潤った地(ソドム)を、すぐさま選択しました。しかしアブラハムの場合、選択肢を父なる神の「御心」に委ねる形で、何も実り良きものが産まれないような、「荒れ地(高きフィールド)」を受け取りました。そうです!私たちの主なる羊飼い(イエス・キリスト)は、私たちを「水」の枯れた谷へと必ず伴われ(導かれ)ます。そして「マラ」を歩まされる時に、私たちは神のテストを受けているのです。その時、あなたが自分の「肉の判断」で、例えば「もう止めた!これは神の御心ではない!」などと思い違いすること、これも実は「霊的不平(呟き)」の一つです。


 モーセは、彼らの採った愚かな選択を黙って見守り続けていましたが、一人の「とりなし人」として神に祈りました。「主よ、彼らは自分の採った愚かな選択により、マラに導かれました。しかしマラの水を飲む限り、彼らはあなたのことを思い起こすこともなく、あなたに立ち返ることもないでしょう。どうぞあなたの贖いの御業を、再び彼らに正しく知らしめ、思い起こすことが出来るよう、彼らを打ち砕いて下さい!私の判断で動くのではなく、あなたの法(御心)を示して下さいますように!」と。すると父なる神は、聖霊を通してモーセの「霊」に、ある啓示を与えて下さいました。「一本の木を、マラの泉の中に投げ込みなさい!」と。「その木を水に投げ込むと」(25節)に明確に記述されているように、ある木の枝を折って投げ込んだのではなく、一本の「生きた木」を丸ごと、モーセは投げ込んだのです。父なる神は、罪を犯したアダムとエバに対して、贖いの印として「生きた子羊」を屠り、その毛皮を引き裂いて「聖なる衣」を仕立てられました。


 同様にこの時も父なる神は、「生きた木(イエス・キリスト)」を地上から抜き取る(屠る)ことで、彼らの度重なる罪に対して「贖い」の御業を示されたのです。それ故、私たちは父なる神の「贖いのシンボル」、つまり子羊イエス・キリストを、いつも(片時も)「remind」すべきです!しかし彼らは、父なる神の愛(贖いの御業)を、今まさに見ているにも関わらず、大切なことを「remind」することは決してなく、甘くなった水を物欲的に飲んだだけでした。そして、父なる神に対して感謝の生贄を捧げるなどの、悔いた砕かれた「礼拝」も起こりませんでした。


第二のテスト
もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目に適う正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、全ての掟を守るならば、私がエジプト人に下した病をあなたには下さない。私はあなたを癒す主である。」(26節)
 彼らは、三次元レベルから生じる人間的な判断をしたため、父なる神に対して不平(不信仰の言葉)を吐き続けました。その結果、「マラ(苦い水)」を飲むに至りました。この時彼らは、父なる神が与えた第一のテストに、へり下って受け取ることが出来なかったが故に、例えば「父なる神は、何という酷い所に導かれる方なのだ!私たちを贖うと約束したにも関わらず、私たちの歩みに何一つ良きものが産まれ出ていないではないか!」などと、自己憐憫の思いに陥っています。実はこの類の「思い」は、今日のキリスト者の抱く信仰概念にも、必ず見受けられます。彼らは真剣に求めているのですが、求める方向性が「神ご自身」ではなく、自分の「私利」「目的」などのご利益的な願いのために、神を利用する方向で求めているため、自分の願い(野心、欲求など)が成就しない時に、勝手に自分で気落ちする傾向にあります。つまり、人間的な業に先走りして行動している故、自分の思い込みの中で神の「御心」を、誤った方向性で利用している訳です。


 しかしそのような者であっても、主なる神は「癒す主」であることを覚えて下さい!この御言葉の中に、父なる神の「永遠の愛」という、聖なるご性質を見ることが出来ます。父なる神は、たとえ私たちが不信仰の状態に陥り、誤った判断(選択)をしようとも、忍耐の限りを尽くして「マラ」そのものではなく、イエス・キリストという「一本の木」を見るよう、必ず聖霊様を通して私たちに示されます。「イエス・キリストの十字架の御元に行きなさい!そうすれば、全てのあなたのマラが癒されます。あなたの人生のマラを癒す方は、この方以外にあり得ません!この一本の木を受け取りなさい!そして、それをあなたの霊の中に沸き出る、マラの泉の中に投げ込みなさい!」と。


 「聞き従うことこそ、全ての生贄に優る!」のです。26節に記述されている、モーセに語られた父なる神のご命令(メッセージ)は、今に生きる私たちキリスト者の信仰の歩みの中にも、同様に投げかけられている言葉です。一番重要なことは、父なる神の「御心」と、イエス・キリストの一番願っておられること、そして更に聖霊様が私たちに強く望んでおられることを、何よりも先ず私たちが聞き、そして従うことです。このこと無くして、「真の礼拝」はあり得ません!私たちは「悔いた砕かれた魂」を捧げようと、必死に努力します。しかもそれは、「マラ」的な環境ではなく良き環境の時には、簡単に為し得るものです。


 ところが私たちが、「枯れた谷」に導かれた場合に、果して「何」を捧げるべきか?これが問われるのです。誤った判断(選択)などの、自分の「肉の業」を頼みとした礼拝を捧げている限り、聖霊様はお働きになりません。その時に、今為されていることが父なる神の第二のテストであり、たとえ私たちがマラ的なフィールドに導かれたとしても、イエス・キリストの十字架の御元に再び立ち返るよう、神が一本の木を私たちに「その時」託していることを信じて、「従います!」と受け取る時に初めて、真の安息の場「至聖所」へと、聖霊様が案内して下さるのです。しかし「否!これは神の御心ではない。私は別のものを求めよう。ここには、何一つ良きものが産まれ出ない!私は、もっと麗しい水(ロトの求めたもの)を捜し求めよう。」などと、愚かな肉の判断に頼っていく者は、益々主ご自身から離れて行くことになります。


エリムに至る唯一の道
 神の掟に「聞き従う」こと、そして「正しく実行する(守り行う)」ことが、真の安息の場「エリム」に至る唯一の方法です。その後彼らは、父なる神の約束通り「エリム」に導かれる訳ですが、実はその場(エリム)において、彼らは学ぶべきでした。父なる神は本来、彼らに対して「マラ」を用意した訳ではなく、次の段階である「エリム」に導くためであること、つまり「マラ」は通過点に過ぎなかったことを、彼らは霊的に「知る」べきでした。同様に、主なる神はあなたの人生に対して、決して「マラ」を最終ゴールとして定めている訳ではありません!


 ですから、私たちが歩む信仰生活の中において、たとえマラ的なものに遭遇したとしても、父なる神は私たちを最終的には、「エリム」という「真の安息」の場へと導いて下さることを、一つ一つ霊的に「学ぶ(知る)」べきです!このことを「remind」して下さる方が、助け主「聖霊様」なのです。この聖霊様の働きを、私たちが忘れている(聞き逃している)ため、後ろ(エジプト)を振り返り「あー、あの頃は良かったのに・・・・」などと呟くのです。再度覚えて下さい!「マラ」は、ただの通過点に過ぎません!「エリム」とは、12の泉と70本のなつめやしが茂っていたフィールド、つまり砂漠の中の「エデンの園」です。真のオアシスが存在する場、それが「エリム」です。聖霊様を通して、「エリム」という聖なるフィールドが、私たちの信仰の歩みにも必ず用意されていることを覚えて下さい。それ故、私たちのことを常に「remind」して下さる方、聖霊様に依り頼むのです。


 さて、エジプトを脱出した彼らは、「エリム」において何を学んだのでしょうか?このことが非常に、彼らのその後の歩みにおける、重要な分岐点となっていく訳ですが、結局彼らは何も学びませんでした。彼らの殆どは、最終的には「金の子牛(偶像)」を礼拝する、滅びの道を選択します。しかしモーセは、「聞き従うことこそ、最高の生贄である!私は自分の判断で、マラ的なものを解決しない!私が導かれる最終ゴールは、先ずエリム(聖所)に至ることであり、最終的にはそれより更に先にある、カナン(至聖所)に辿り着くことである!」と、このことを信じて歩み続けたのです。


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