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命と心の健やかなる成長のために!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

生ける聖霊の働き(No.16)

                      至聖所を通過する時



 ご存知のように、モーセの「信仰」の歩みに関して聖書から分ることは、生まれた時から「預言的人生」として、「救い」「贖い」「水」という三つのキーワードが、彼の人生に付与されていることです。


 彼はイエス・キリストと同様に、出生した時に「贖い」とは逆の概念である、「死」を通過しなければなりませんでした。モーセの母親(ヨゲベド)は突然ある時、聖霊様を通して啓示を受け、生まれた赤子をナイル川の「水」に流すよう命じられました。その後、彼は父なる神の「ご計画」通りに、エジプト王女の手により「ナイル川(死)」から贖い出されました。この時に、王女を通して「モーセ」と名付けられた訳ですが、彼の人生は既に父なる神の「ご計画」の中で、「預言的人生」を現す名前として、聖霊の啓示によって命名されました。


 私たちがモーセの「預言的人生」を、聖霊を通して再び学ばされる時、父なる神の「救い」の御業が、大いなる「ご計画」にしたがって、神の栄光を現すべくモーセの人生の中に、完成されたことを霊的に見ることが出来ます。再度強調しますが、「モーセ」とは「水」からの贖いを意味する名前です!又「水」の中は、「死」の場所にもなります。「水」の中では、私たちは生きることが出来ないからです。しかし、「水」は「死」と同時に、「命」の復活(救い)の場になり得ることを知って下さい!



・・・・主がエジプト王ファラオの心を頑なにされたので、王はイスラエルの人々の後を追った。イスラエルの人々は意気揚揚と出て行ったが、エジプト軍は彼らの後を追い、・・・・海辺に宿営している彼らに追いついた。ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。・・・・」モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていないさい。」主はモーセに言われた。「・・・・杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。・・・・わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現す時、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」・・・・モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエル人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。・・・・主はモーセに言われた。「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」モーセが手を海に向かって差し伸べると、・・・・水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。・・・・イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。
                                                                                                            【出エジプト記14章】


避けられない「死の道」
 イスラエルの民は、何故エジプトから贖い出されたのか、その真の理由(神のご計画)を理解することなく、ただエジプトの「苦役」から解放されたことだけを喜んで、意気揚揚と故郷カナンに向けて出立しました。しかし、指導者モーセは明確に悟っていました。「私たちが贖い出されたのは、いずれカナンに到着するその時まで、私たちを再び故郷に連れ登らせるためである。それ故主なる神ご自身が、直々にイスラエルの全家を贖い出された!」ことを信じて、彼は「エジプト(この世)」を離れ(出発し)たのです。しかしこの時点で、兄のアロンと姉ミリアムそして他の人々も、主なる神の定めた「ご計画」が、大いなる「救い(贖い)」の完成と、民族悲願の「カナン(シオン)」に至る、麗しい「真理の道」であることを明確には悟っていませんでした。モーセだけが、神の「霊(聖霊)」に導かれて前進したのです。


 さて、私たちも聖霊様の一方的な「選び」と「召し」により、イエス・キリストの「救い」の恵みにあずかり、そして更に「この世(霊的エジプト)」の縄目から解放された、一人のキリスト者としての人生を歩んでいます。しかし私たちは、「もはや私は、霊的エジプトに戻ることが決してないだろう。これから前進すればする程、主の麗しい栄光の行軍に加わることが出来るのだ!」、「私たちが前進する限り、背後(過去)から襲って来るものもないし、前面(将来)に何ら問題はないだろう!」などと錯覚していないでしょうか?特に「救い」の体験が、強烈なインパクトをもって、素晴らしい奇跡的な「救い(贖い)」を得ている人にとっては、大いなる「希望」と「信仰」を抱いて、前進することが出来ると思いがちですが、だからと言ってその人の信仰の歩みに、エジプト的なものが襲って来ることが、今後全く無い訳ではありません!


 このストーリーに記述されているように、私たちが主なる神を求めて前進すればする程、エジプト軍が必ず後を追って来るのです!ダビテが「命のある限り、恵みと慈しみは、いつも私を追う。」(詩篇23篇6節)と述べている如くに、主なる神の「恵み」だけが、常に自分の後を追う人生であれば、私たちは何の苦労も要りません!しかしダビテは、「エジプト軍」が後を襲って来るかの如き人生をも、同扁の中で表現しています。「死の陰の谷を行く時も、私は災いを恐れない。」(詩篇23篇4節)と。ダビデは知っていました。自分の人生が、主なる神との霊的交わり、つまり「至聖所」を求めて前進すればする程、迫害の追っ手が自分に差し向けられ、「暗闇」と「飢え」と「寒さ」から逃れることが出来ない程の、様々な苦難の道を強いられる、つまり「死の谷」を通過せざるを得ない人生も、同時に付きまとうことを。しかし、そのような「死の谷」の最中にあっても、彼は主なる神の「光」を求めて前進することで、災いに対する「恐れ」から解放されつつ、次々と勝利して行ったのです。何故なら父なる神が、彼の人生において常に共におられ、また彼の人生の「先」を歩まれ、彼を正しい「真理の道」へと案内して下さったからです。


 ダビデ同様にモーセも、イスラエルの民をエジプトから解放する以前に、四十年間に渡る霊的訓練を「荒野」において受けました。荒野という霊的「暗闇」の中において、彼は主なる神の「御心」のみを求め、神の「ご計画」に従うよう聖められました。「父なる神が、私の人生の全てを支配しておられる。それ故私は、ただ主に依りすがって、主の御言葉(命令)のみに従う限り、私の前面にある如何なる道も、主ご自身が用意されたもの、つまり至聖所に至る正しい道として、必ず私たちを無事に通過させて下さる!」と、このように彼は主に対して、全幅の信頼をもって前進し続けたのです。何も産み出すことのない、「荒野」の如き人生の最中にあっても、父なる神は「至聖所」に至る道を、私たちのために必ず用意されます。ですから、私たちが信仰をもって通過した後には、素晴らしい神との「親しい交わり(祝福の時)」が、既に整えられている、このことを常に覚えましょう!


最後のテスト
 さて、父なる神はいよいよ最終段階に至って、イスラエルの民をエジプトから完全に贖い出すべく、最後のテストを彼らに課しました。その「最後のテスト」とは、前面において「紅海」が前進を阻み、そして背後からはエジプト軍による「襲来」という、絶体絶命(最悪)の事態のことです。


 実は父なる神は、故意にそのような「場(フィールド)」を選んで、イスラエルの民を導き入れています。このことは、非常に重要な奥義を私たちに教えています。主なる神は、私たちをそのような「最悪の事態(苦難)」に、故意に陥れることなど為さらない!と、固く信じる人々がいます。そのような人々は、ある人が「不幸」や「苦しみ」に遭遇した場合に、古来から続く日本的な仏教思想(発想)をもって、例えば「あなたの信仰上の歩みが、主の御心に適っていないから、そのような災いを被ったのです!」、「それ見たことか!あなたが先生の教えに従わなかったから、そういう事態になったのだ!」などと、三次元的解釈(判断)を下します。しかし、主なる神は私たちに対しても、ヨブに対して為されたように、私たちを「この世(エジプト)」から完全に聖別するべく、「最後のテスト」を課し、ある決断を必ず迫ることがあることを、私たちは覚えておくべきです!


 例えば本当の「霊的迫害」は、私たちを更に主ご自身を追い求める方向へと、必ず聖別して行きますが、私たちがそのことを正しく認識しないまま前進しますと、実は「至聖所」から後退することになることを、私たちは先ず知るべきです。又私たちが後退し始めると、急に今までの「迫害(苦難)」が無くなり、むしろ「この世(エジプト)」から「あー、よく戻って来たね!」などと暖かく歓迎され、人間的に見て「幸福な人生」が再開します。


 イスラエルの民はこの時、神が命じた命令が如何なる意味を持つのか、未だに気付いていませんでした。しかし、モーセだけは知っていました。「・・・引き返してミグドルと海(紅海)との間のピ・ハヒロトの手前で宿営する・・・・」(2節)の記述から分ることは、モーセは40年間という、荒野における長期の訓練の過程で、シナイ半島の荒野の地勢を熟知していましたから、「ピ・ハヒロトの手前」の場で宿営することが、前面には「紅海」が存在している故、イスラエルの民全てが一度に前進することが、人間的に見て不可能である、つまりエジプト軍にとって一機に襲来し易い、絶好ポイントであったことです。モーセは「その時」、聖霊を通して神の「ご計画」を、確実に受け取りました。主なる神が、イスラエルの民を完全に贖い出すべく、今まさに「救い」の計画を始めておられることを。ですから、モーセはこの非常事態にあっても、決して動揺しませんでした。


 しかし、時至りてファラオとその軍勢は、イスラエルの民が「ピ・ハヒロトの手前」で宿営していることを、放った間者(スパイ)から知らされました。ファラオは全軍を前にして、「な、なに!モーセとヘブルの奴隷どもは南下しているのではなく、再び引き返してピ・ハヒロトの手前に居るだと!これは、絶好の機会ではないか。我々は、愚かな選択をしたこのツケを、今こそ奴らに支払ってもらおうではないか!さー我が全軍よ、奴らを再び奴隷として連れ戻そう!」と号令を発しました。


 当然、モーセも斥候たちからの情報により、すぐ各部族のリーダーに、このことを伝達しました。すると彼らは、すぐに否定的な反応を示しました。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。」(11節)と。実は、この種の否定的な「呟き」と「不従順」は、私たちキリスト者が語る(思考する)、数々の「言葉(思い)」の中にも見られるものです。私は、自分自身の「罪」を含めてこのようなセリフを、かつて吐いたこともありますし、今後も遂吐いて(漏らして)しまう、肉的な弱さがあることを認めます。聖霊様は言われます。「善きことを経験している間は、あなたは主なる神を賛美し、感謝して前進することでしょう。しかし、予想もしない悪しき事態に遭遇する時、あなたは必ず悪しき事態ばかりに目を向ける、肉的な弱さがあるのです。それは、あなたの中から生まれたものではなく、あなたの霊的先祖であるアダム(エバ)が為した罪の結果、あなたをそのように仕向ける、悪癖が生じているのです。


 あなたが、主なる神ご自身だけに目を向けるのであれば、たとえ如何なる状況に追い込まれたとしても、確実に主があなたを掴んでいて下さるという、全き平安の中に導かれることが分るのですが、あなたの目は霊的次元を求めていても、肉の次元(この世)のことをも、遂見てしまうという肉的な弱さがあるために、三次元的な現実の状況だけを見て、霊的に気落ちするなどして、例えば『主は私から離れてしまった!』などと呟くようになるのです。このようにあなたは、いつも信仰が霊的にアップダウンを繰り返します。そして、あなたがダウンした時が、実は一番問題の分岐点になるのです。この時に、尚も聖霊の助けを信じて、霊的井戸を掘り進める者は、確実に主なる神の臨在される至聖所に導かれます。」と。


 しかし私たちは、現実の状況を肉の次元で判断し、「あーもう駄目だ!目の前にある状況を見ると、主との交わりを為すことが、もはや不可能である。毎日、忙しさや問題に追われているではないか!これでは無理だ。昔の方が良かった。こんな目に逢うくらいなら、以前の状態に戻して欲しい!」などと思い悩むことが、どれ程多いことでしょう。


 私たちの思考の面においては、「時の次元」を支配される神ご自身を信頼し、その中に働かれる神の「御心」を求めることよりも、「時」そのものを自分の尺度で測るなどして、過去の「善き時点」を今の状況と比較して、三次元的に判断するなどの悪癖があります。「今の時」が将来に現される、神の「ご計画」の実現(成就)に至る、ただの通過点に過ぎない、つまり自我の「死」を通過させられる、重要な聖別の時であると、聖霊を通して啓示される者は、決して「今の時(現状)」を見ようとはしません。「先」に用意されるものを霊の次元で見て、信仰の創始者であり完成者である、イエス・キリストのみを見ることを、絶えず飢え渇きながら前進します!


 目前には立ちはだかる「紅海(現実の問題)」、背後から迫り来る「エジプト軍(過去の遺物)」という、絶体絶命の状況の最中にある時、あなたならどう行動(思考)するでしょうか?当初は、「信仰」という名の乗用車の「助手席」に乗車していたあなたが、運転手(聖霊様)と交替して「運転席」に乗車し、それまでの前進運転を止めて、早速バックギアに切り換えて後退するのであれば、「この世」の君サタンはあなたに迫り来ることを止め、返って喜んで歓迎してくれるでしょう。そして今までの問題は、確かに次々と解決されていくでしょう。しかしそれでは、「至聖所」を求めていた信仰の歩みは、霊的な「死」に至ります。


聖霊様の「四つの命令」
 さて聖霊様は、モーセがイスラエルの民に対して語った、「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていないさい。」(13〜14節)の言葉をもって、私たちにも忠告しています。このモーセの言葉の中に、「時の次元」を表現する言葉が、幾つか記述されています。「今日」と「永久に」という明確な言葉と、「恐れてはならない」の言葉の中に暗示されていることですが、イスラエルの民が「現実」を恐れ、「過去(エジプトの状態)」に戻ってはならないことも、モーセは「時の次元」で訴えています。


 聖霊様は「今から為される、主なる神の御業に期待しようとするのではなく、あなた方は現実の状況だけを見て恐れ、過去に戻って世の君(サタン)に頼ろうとするのであれば、完全な贖いを戴くことは出来ない!しかし今日(今)のこの時を、支配して下さる完全なお方、主なる神の救いを、先ず何よりも見る姿勢が大事なことではありませんか?今あなた方が為すべきことは、過去に頼ることでもなく、今の現実を恐れることでもありません!」と、私たちに対しても訴えているのではないでしょうか!これが聖霊様による第一の命令、「恐れてはならない!」ということです。


 第二の命令は、「落ち着いていなさい!」ということです!私たちは、何か問題がやって来た時に、急に慌てふためくなどの行動をしがちです。「心」が不安になり、今まで神との「親しい交わり」によって定まっていた、聖なるポジションから少しずつ離れてしまい、「あー、どうしよう!」などと、「恐れ」と「不安」にさいなまれながら、身も心も落ち着かない行動をするのです。そして「思い」の中でも、「・・・・という状況になったら、その時はどうしよう?」、「〜しておけば良かったのに」などと、様々な「条件」を思考の中に取り込みます。しかし聖霊様は命じられます。「とにかく落ち着きなさい!静かにしなさい!」と。つまり、元あった聖なるポジションに、再び立ち返るよう命じられるのです。問題によって離れてしまい、様々な「条件」付きの三次元的ポジションを動き巡っても、何ら問題が解決する訳ではありません!聖霊様は「ここに戻りなさい!」と命じられるだけです。あなたが本来存在していたポジションとは、一体何処にあるのでしょうか?それは神との「親しい交わり」が、再び開始する元々のポジション、つまり「至聖所」の中にあります。


 第三の命令は「主の救いを見なさい!」ということです。私たちが本来の聖なるポジションに、再び立ち返るよう聖霊様に促される時、先ず私たちは「至聖所」に至る、「聖所」の中の「直ぐな道」を歩まされます。その「直ぐな道」を歩いて前進して参りますと、次に「垂れ幕」にぶち当たります。この「垂れ幕」の内側には、モーセの幕屋においては大祭司だけが入るこの出来る、しかも「死の衣(恐怖)」をまとう程、人間的には通過したくない霊的フィールドが待っています。しかし、ヘブル書に記述されているように、私たちは子羊(イエス・キリスト)の流された、貴い十字架の「血潮」により、破り裂けた「垂れ幕」の内側へと、大胆に通過することが可能になりました。つまり「至聖所」に至る唯一の門は、新約においては完全に「オープン」です。「その時」私たちは、確かにこのオープンになった「垂れ幕」の内側へと、臆することなく通過することが可能になりましたが、実はこの時に、屠られた子羊から流れ出る、貴い「血潮」をあおぐ(注がれる)という、霊的体験をしなければなりません。つまり、十字架上の主イエス・キリストの「救い」を、信仰の目をもって見上げることが必要になります。


 チャールズ・スポルジョンが少年の頃、神から召命を受ける際に「主の救いのみを見上げなさい!」という、単純なメーセージを通して「罪」を悔い改めました。その時から彼の人生において、聖霊様による奇跡的な「召命」の歩みが用意されていく訳ですが、私たちは主なる神の「救い」のみを見上げる際に、この真理を「頭(三次元)」で理解できたとしても、主の「救い」を霊的にへり下りながら、純粋に見上げようという思いは、例えば危機的な「問題」が生じた時には、殆ど「頭」の中から消え失せています!そして殆どの場合、主の「救い」のポジションから離れ、他の安易なポジションを求めるなど、自分の「手」と「足」が動き始めるのです。


 主の「救い」を、黙って静かに待ち続けることが出来ない者は、自分の「手」と「足」をフルに使ったり、一生懸命に「頭」を働かせようとします。問題解決のためであったら、「過去(エジプト)」の事例を参考にしながら、「・・・・しておけば〜だろう」などと前進を止めたり、またジンクスめいた発想をしながら、ただ「嵐(問題)」が過ぎ去るのを、ボンヤリ(投げやりに)待つ人々がいます。そのような人々は、主なる神との「親しい交わり」において、イエス・キリストの十字架を見上げ、霊的にへり下ることは決してなく、「あー、これは私のせいではない!主が為されたことだから、主ご自身が動くべきだ!」などと、消極的な信仰(これは高ぶりに等しいもの)で生きる、つまり世の宗教が盛んに説いている、「困った時の神頼み」と同様の姿勢です。


 しかし聖霊様は、第四の命令「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていないさい!」と、慌てふためく人々にも発せられます。私たちが、いくら「肉の力」を行使して頑張ったところで、一時的な解決は出来たとしても、それは必ず「霊的失敗(敗北)」に至ります。むしろ全ての「問題」は、主ご自身が闘われる(取扱われる)ことを信じて、全面的に神の主権に委ねる、つまり自分の「手」の業を直ちに放棄し、私たちは主の「救い」を見続けることです。そして「先」に用意されている、麗しい神との「親しい交わり」の場(至聖所)を目標に、常に前進し続けることが肝心です。


「紅海」を渡る時
 「紅海」を渡るということは、霊的に「何」を意味するのでしょうか?「水」の中から贖い出されたモーセの人生が、「紅海」という水のフィールドを通過して、イスラエルの民を先導したこと自体は、非常に素晴らしい奇跡(しるし)です。そして私たちの人生には、彼らと同様の危機的体験、つまり実際の「死」に直面することは、殆どと言ってないかも知れません。しかし私たちは、いつ如何なる時にも、特に信仰の歩みが前進すればする程、大小問わず霊的な「紅海(妨げ)」が前面に立ちはだかり、背後からは「この世(エジプト)」の君(サタン)が、「こっちに戻っておいでよ!」と囁きかけるなど、信仰の試練(テスト)を通過させられる「時」が、必ず来ることを覚えて下さい。


 「その時」が重要です!「その時」に聖霊様は、このストーリーと同様の霊的啓示を、必ず私たちに示して下さいます。それは「これこそが、主ご自身があなたに対して、先に用意しているものです。あなたが明確に神の御心を認識し、大いなる天上の祝福(恵み)を、更に飢え渇き求めるよう促されていることを、あなたが霊の眼で見ていく時、あなたは紅海(至聖所)に入ることによって、あなたという霊的自我を屠る(死す)ことが可能になるのです!」という聖霊様の励ましです。


 イスラエルの民は、モーセが「杖」を上げ「紅海」を左右に分けるという、神の偉大な奇跡(しるし)を見ながら、「紅海」の中央に用意された「直ぐな道」を歩く時、「あー、これで助かったぞ!もう我らの勝利だ。さー急いで、喜び勇みながら前進しようではないか!」などと、まるでお祭り騒ぎの如くに前進した訳ではありません。自分がその場に居て、彼らと共に歩いていると仮定して想像する限り、背後から迫り来るエジプト軍に対する「恐れ」よりも、今にも「死の恐怖」で心臓が張り裂けんばかりに、左右にある巨大な海壁(時間停止した津波みたいなもの)を見て、彼らは急いで前進したものと思われます。「もし今、神の御手が紅海から離れたら・・・・」という思い、つまり「死」を覚悟しながら通過する、まさしく大祭司が垂幕の内側を通って、「至聖所」の中に立ち入る時の心境と同様のものです。


 実は聖霊様は、イスラエルの民が「紅海」の海底を通過する際、前進(歩行)するのに支障となるものが全く無い状態、つまり乾いた地を用意されました。私たちがある面で、自分の「霊」の只中に少しでも、「この世」の水が存在する(残っている)限り、イエス・キリストに対する霊的飢え渇きは生じません。しかし私たちが、聖霊を通して完全に干からび切る(乾いた状態になる)時、聖霊様は本物のリビング・ウォーターを、天上から注いで下さるのです。「乾いた地」にある時、私たちは初めて真の「命の水」を求めて、井戸を掘り進めようとします。聖霊様が私たちの霊的フィールドを、「乾いた地」の状態へと聖める、つまり「乾いた所」を通過させられる時に初めて、私たちはその先にある神との「親しい交わり」から流れ出る、永遠の「命の水」を飲むことが出来るのです!そうです。「紅海」を渡ることによって初めて、私たちは「死の衣」を身にまとい、「至聖所」の奥深くに立ち入り、「命の水」を汲み上げることが出来るのです!


 さて、あなたは主なる神を求めて止まない程、霊的に乾き切った状態になっていますか?もしかしたら、未だ「世の水」を多く含んだフィールドにあって、「私の中には未だ種を蒔いても、成長して何らかの実を結ぶ力がある!」などと思っていませんか?1章で学びましたように、父なる神は「乾いた地」の上に、「天の水」を降り注がれるのです!その時に初めて「土」は、神の御心通りに生きるようになるのです。


 この日、「エジプト」から完全に贖い出されたイスラエルの民は、神の為された大いなる「しるし」を見て、「主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。」(31節)と記述されています。しかしこの時点での彼らは、はっきり申し上げてモーセの「霊」の中にある、「至聖所」に至る道と同様の聖別の道を、全く歩んでいませんでした。何故なら、彼らは直接主なる神ご自身を求めた結果、「エジプト」から贖い出された訳ではなかったからです。ですから、この後も「問題」が次々と襲来し、一時 (限定) 的に神に助けを乞い願いますが、最終的に彼らの第一世代は、「憩いの地(カナン)」に辿り着くことはありませんでした。


 「しるし」と「わざ」のみに期待する信仰、「人(カリスマ)」を頼みとする信仰、最新の「リバイバル聖会(イベント)」に群がる信仰、これらは全て主なる神の御前では、忌まわしき「偶像礼拝」に当たります。私たちは「何」を頼みとして、信仰の歩みを続けるのでしょうか?「至聖所」の中において、完全に生きた聖なる「生贄」として、私の全てを祭壇上に捧げ尽くすという、聖霊様の霊的促しに従う時、私たちは「紅海」に入り、「死の道」を通過させられることを選択するのか、それが問われます。あなたは、「紅海」に入ることを覚悟する程に、主なる神を飢え渇き求めているでしょうか?あなたの前面に立ちはだかる、様々な「紅海」が問題になるのではありません!「至聖所」の先にある、主なる神との麗しい「交わり」は、今まさにあなたの前にも、聖霊様が用意して下さっています。それを必ず受け取って下さい!私たちは、霊的な「死」を体験した者だけに与えられる、神の大いなる祝福を求めようではありませんか!決して後ろを振り返り、エジプト(この世)に戻ることが無きよう、主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


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