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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

急患診療(No.9)

                                 第二の罠



次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当ることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
                                                                                                   【マタイ福音書4章5~7節】


サタンが選んだ「第二の場」
 イエス・キリストと、サタンとの第一回の霊的闘いは、ご存知のようにサタンの敗北に終わりました。そして、次にサタンが挑んだ第二回の闘い、これも実は聖霊様が全て、イエス・キリストに対して導いたものでした。


 さて、サタンが第二の闘いの場所として選んだ所は、実はサタンが一番忌み嫌う聖なる場所でした。私たちは、悪しき場所よりも「聖なる場所」、そして汚れよりも「聖なる清さ」の中に、霊的にあずかる(浸る)ことを求めます。不信仰の罠に陥るよりも、信仰的に勝利ある人生を全うすることを求めて、様々な「聖所(聖会の場)」に行きます。私たちキリスト者でさえ、このように「聖なる場所」を求めるのであれば、イエス・キリストも神の住まわれる「聖所」、つまりエルサレム神殿に、度々赴いていたのではないでしょうか!


 サタンもイエス・キリストの、霊的な飢え渇きを察知していますから、イエス・キリストを聖所へと誘いました。しかしそこは、「聖なる場所」であっても、「至聖所」ではありませんでした。つまりサタンが導いた場所は、神殿という物理的な建物の、「屋上(top)」だったという点です。何故サタンはイエス・キリストを、そのような「場所」へと導いたのでしょうか?非常に興味をそそられる場面です。


二つの「問いかけ」
 続いてサタンは、イエス・キリストに対して、次のような質問を投げかけながら、実際に闘いを挑んできました。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。・・・・」(6節)この種の類の「問いかけ」は、私たちの信仰生活の面においても、①良き問いかけである場合と、②悪しき問いかけである場合の、二種類の働きかけをもって、常に現れ出てくるものです。①の場合、これは聖霊様からの問いかけになりますが、例えば「あなたが真の十字架の下に、いつも身を捧げ、霊と真をもって、罪赦された子羊として、イエス・キリストの御前に出るならば(出る時)、無条件であなたは、父なる神に受け入れられるのです。ですから、更にイエス・キリストを求めて、飢え渇いて行きなさい!」などの聖なる誘導です。


 それに対して②の場合、これはご存知のようにサタンの問いです。例えば「あなたは、本当にクリスチャンですか?水と火のバプテスマを授かってから、もう何十年という月日が過ぎましたよね。あなたが、本当にキリスト者であるなら、そろそろ高いレベルの信仰者に、成長していても良いのでは?奇跡としるしを行うことの出来る賜物も与えられ、多くの魂を刈り取ってもよい頃ではないですか?」などの霊的疑いを投入しながら、「不信仰の道」に引き込みます。


 神の「命の言葉」である御言葉を、人間的に解釈してゆく時に、私たちはいとも簡単に、サタンの巧妙な「仕掛け」によって、いと高き所へと誘われる可能性があることを、あなたはご存知でしょうか?「信仰に満ちたあなたでしたら、必ず勝利ある信仰生活を、送る(得る)ことが出来るでしょう!」などの預言(励まし)は、サタンの好むアプローチです。しかし、この時のイエス・キリストの如くに、自分の人間的な「判断」ではなく、聖霊様が用意して下さる、父なる神の「御心」をもって、静かに「その時」を待ち望む「慎み深さ」が、私たちには必要となります。私たちも確実に主なる神が、「命の言葉」をもって語りかけて下さる時に、父なる神の「御心」の領域へと至る、真の「聖なる場所(至聖所)」へと行き着くのです。ところが逆に私たちが、霊的な律法主義などの「罠」に陥りますと、「~しなければ不信仰です!」、「聖霊に満たされた者は、霊的に強く・・・・でなければなりません!」などの思いに縛られるため、サタンの「悪しき問いかけ(仕掛け)」に気付くことが出来ません。


「真の助言者」に従う
 聖霊様は、サタンが働きかけるような「~であるなら」、「~しなければならない」などの、人間的判断(論理)に基づく「問いかけ」をもって、働きかけることはありません。聖霊様が、私たちに対して働きかける方向性は、「たとえ、あなたがどういう状況にあっても、イエス・キリストは失われた子羊を捜し、見出した真の羊飼いの如くに、いつもあなたを、正しい方向へと導いて下さいます!だからあなたは、イエス・キリストの元に帰って来なさい!」という、父なる神の「御心」に沿ったものです。


神は私たちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えて下さいました。文字は殺しますが、霊は生かします。
                                                                                                         【Ⅱコリント書3章6節】


 ご存知のように、使徒パウロはキリスト者になる前、人間サウロとして「~しなければならない」などの、律法主義に凝り固まったエリートでした。それ故に、キリスト者を迫害するなどの、悪しき罪を多く犯しました。仮にイエス・キリストが、今回のサタンの「罠」に引っかかり、「そうだ!確かに御言葉の中にある通り、父なる神はこの私を、つまり神の子(皇太子)である私を、必ず救助して下さる。だから、飛び降りてみようじゃないか!サタン君、あなたに私が神の子であることを、今証明して見せよう!」などと強がって、高き所から身を投じるのであれば、この時から父なる神の「救い」の計画は破綻し、翌日『イエス・キリストも、ただの人の子であった。彼は狂気の末に自殺した!』というニュースが、エルサレム住民の間に伝わるだけです。


 「文字(古き言葉)」は人を生かすよりも、殺すことを得意とします。サタンは、この人間的な「古き言葉」をもって、神の御言葉をも「~でなければならない」などの、律法主義に傾くよう働きかけます。つまりパウロが述べている、「行い」と「業」に依存する生き方です。それによって、あたかも「自分は救われている!」と信じ込んでいるのであれば、それは「この世」の宗教と何ら変わりません。しかし聖霊様は、私たちの「霊」を生かすべく、父なる神の「御心」を、「命の言葉」として豊かに示して下さる方です。


 私たちは本当に、「誘惑」だらけの世界に生きています。そして人間的な「言葉」ほど、いい加減なものはありません。それ故私たちは、この世の「古き言葉(文字)」に翻弄されないためにも、聖霊様が直接届けて下さる、神の「命の言葉」に堅く立ちましょう。聖霊様に、私たちはいつも依り頼みながら、正しい「霊の眼」と「霊の耳」、そして「霊の唇」をもって、主なる神だけを礼拝する者として仕立てられることを、イエス・キリストは強く望んでおられます。


 覚えて下さい!サタンは「偽りの教師」「偽りの助言者」です。聖霊様だけが、私たちをねんごろに取扱い、常に正しい道へと導くべく、叱咤激励を与える「真の助言者」であることを覚えながら、「命言葉」が豊かに示され、神の「御心」が明確にあなたの、一つ一つの「歩み」に実現することを、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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