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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

生ける聖霊の働き(No.15) 

                         偽りの血潮の流れ




 今日の世界情勢は、様々な角度から分析しても、一般の人々も気付いていることですが、それは世界中の人々が、「中東」に目を向けるようになったことです。中東各国の政治情勢、例えばアラブ諸国、エジプト、イスラエルの動向、とりわけパレスチナ問題に見られるテロリズムに対して、マスメディアばかりでなく世界各国の首脳が、緊急に「一致して解決しになければならない!」などの方向で関心を寄せています。


 反キリストという、「偽りのメシヤ」が現れる以前の世界において、イエス・キリストが預言の中で述べられたように、様々な「しるし」と「惑わし」、民族的「争い」と「飢饉(干ばつ)」、そして世界規模の「大地震」と「自然災害」などが、世の終わりの時に起きることを、私たちは聖書を通して知っています。「その時」に私たちが気を付けるべきことは、そのような様々な「艱難(災い)」の中にあって、「何」に信仰の土台を固く据えるべきか?ということであり、これが非常に重要になります。



主はモーセに言われた。「ファラオの心は頑迷で、民を去らせない。明朝、ファラオの所へ行きなさい。・・・・あなたは・・・・杖を手に持ち、ナイル川の岸辺に立って・・・・彼に言いなさい。ヘブライの神、主が私をあなたのもとに遣わして、『わたしの民を去らせ、荒れ野でわたしに仕えさせよ』と命じられたのに、あなたは今に至るまで聞き入れない。主はこう言われた。『このことによって、あなたは、わたしが主であることを知る』と。見よ、私の手にある杖でナイル川の水を打つと、水は血に変わる。川の魚は死に、川は悪臭を放つ。エジプト人はナイル川の水を飲むのを嫌がるようになる。・・・・アロンに言いなさい。『杖を取り、エジプトの水という水の上、河川、水路、池、水たまりの上に手を伸ばし、血に変えなさい』と。エジプトの国中、木や石までも血に浸るであろう。」・・・・彼は杖を振り上げて、ファラオとその家臣の前でナイル川の水を打った。川の水はことごとく血に変わり、川の魚は死に、川は悪臭を放ち、エジプト人はナイル川の水を飲めなくなった。こうして、エジプトの国中が血に浸った。ところが、エジプトの魔術師も秘術を用いて同じことを行ったのでファラオの心は頑なになり、二人の言うことを聞かなかった。・・・・エジプト人は皆、飲み水を求めて、ナイル川の周りを掘った。ナイル川の水が飲めなくなったからである。
                                                                                               【出エジプト記7章14〜24節】


「命」の力の源
 この記事の中で私たちが知るべき重要ポイントは、生物学的に見ても私たちの「体」の、全身に行き巡る「血液(血潮)」は、私たちの「命」の力の源である!ということです。即ち「命」の力の源は、「血」の中にある!のです。では、私たちキリスト者の「生きる力」の源は、一体「何処」にあるのでしょうか?大抵のキリスト者は「それは信仰にあります!」と即答するでしょう。又、「聖霊のバプテスマ」の恵みにあずかった人々は、「それは聖霊様です!聖霊様が、私の生ける命の水であり、私に生きる全てのエネルギーを、供給して下さる方です!」と、大胆に告白するでしょう。


 しかし覚えて戴きたいことは、聖霊様が私たちに働きかけて下さる時、確かに聖霊様は求める者に対して、惜しみなく「命の水」を注いで下さいますが、聖霊様は「命の水」より更に素晴らしいものを、私たちに運んで下さいます。それは奥深い霊的「至聖所」に進み行く場合に、その手前にあるフィールド、つまり「聖所」にて受け取るもので、私たちにとって欠くべからざるもの、つまりモーセを通して始められた「過越しの血潮」の注ぎという、霊的儀式のことです。


 この「血潮」の注ぎを受け取り、「聖所」を通過しなければ、私たちは神の御前に進み出ることは不可能です。ですから、聖霊様が私たちの「霊」に対して、常に語られることは「イエス・キリストの十字架に立ち返りなさい!イエス・キリストの十字架の御元に、あなたは常に行くべきです。イエス・キリストの十字架に、あなたの全てを捧げる時に、あなたはイエス・キリストと共に十字架に付けられ、彼と共にあなた(自己)が死ぬのです。そうすることによって、新しいあなたが、イエス・キリストと共に復活するのです!」と。この時に必要な「力」の源が、イエス・キリストの十字架から流れ出る、貴い「血潮」の注ぎに他なりません!そうです!ある賛美歌の歌詞の如く、「力ある主イエスの血、(あなたは常に)受けよ!」、これが重要です。


「血潮」を注ぎなさい!
 イエス・キリストの十字架の「血潮」が、聖霊の「命の水」と共に流れ出て、霊的に枯れ果てた地を潤す時に、「地」は癒され回復して行きます。それ故私たちは、常に地に「何」を注ぐべきでしょうか?それは只一つ、「イエス・キリストの十字架の血潮」です!私たちはこの真理を、「頭(三次元的知識)」の中で知っていますが、決して「上」からの信仰をもって、イエス・キリストの「血潮」を、何にも優る「命」の力の源として、地に注ごうとはしません。


 イエス・キリストは、「ゲッセマネの園」で祈られた時、体中から「血潮」が汗と共に流れ出ました。つまりご自分の貴い「血潮」を、「園」の地の上に注いだのです。十字架にかかる以前から、彼は地に自分の「血潮」を注ぎました。私たちが、霊と真をもって激しく祈り始める時、聖霊様も言い難きうめきをもって、私たちの「霊」の只中に、イエス・キリストの「十字架」を現し、そして私たちの祈るその「唇」から、イエス・キリストの「血潮」が流れ出ることを、あなたは信じますか?ある面でイエス・キリストは、御国に保存されている「殉教リスト」の、第一番目の人物として記述されていることでしょう。あのローマ帝国の迫害の最中で、殉教した多くのキリスト者、また江戸時代初期において、日本各地で次々と殉教していった多くのキリシタンたち、彼らの流したイエス・キリストの「血潮」は、今何処にあるのでしょうか?彼らの信仰による「血潮」の注ぎは、霊的に見れば今も尚、延々と「地(地球)」の中に、「命」の力の源として流れています!この地球が、未だ「滅びの時」に至っていない理由は、彼らの信仰による「血潮」の注ぎが、霊的にとりなしているからではないでしょうか?


 私たちが「聖霊のバプテスマ」を授かった時、確かに霊的に素晴らしい体験をしたことで単純に喜び、新しい力に満ち溢れながら、イエス・キリストの「証人」として、自分の「体験」を証言しますが、この「聖霊のバプテスマ」という体験は、はっきり申し上げて、アブラハムの時から始められた、ユダヤ人男性だけが受け取る体験、つまり「割礼」を受ける時に見られる、「血潮」の注ぎと同様の霊的犠牲が伴います。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生贄として捧げなさい。これこそ、あなた方の為すべき礼拝です。」(ローマ書12章1節)の御言葉の如くに、自らもイエス・キリストの「血潮」をもって、神の用意される「祭壇」に全てを捧げる、つまり「私は死んでも構いません!」という、悔いた砕かれた姿勢(犠牲)が、自分の「霊」の中に備わっていなければ、この霊的割礼である「聖霊のバプテスマ」の恵みを、私たちは日々授かることはありません!自分の「命」のシンボルである、性器の「包皮」を切り取るということは、その後に起こる「出血(血潮の注ぎ)」によって、果して「血」は止まるのか、或いはずっと流れたまま、出血多量で「死ぬかもしれない?」という「恐れ」が、必ず生じる儀式です。


 このように、父なる神が御子イエス・キリストと同様に、私たちキリスト者に要求されているもの、それは私たちの側からの「血潮」の注ぎです。つまり、私たちの側にもイエス・キリストと同様に、自己を切り取り「血潮」を流すことで、霊的な「死」を表明しなければ、神の奥深い「霊的次元」に立ち入ることが不可能です。仮に、私たちが「自分の死」をもって、神の御前に捧げ尽くすという、この唯一の方法(全焼の生贄)ではなく、他の人間的な方法によって、この領域に踏み入ろうとするのであれば、私たちはファラオとエジプトの民に起こった、様々な「災い」と同様の結果を被ることになります。


悪しき流れ「ナイル川」
 エジプト人にとって、「ナイル川」という存在は、「命の源」つまり全てを産み出す、母なる神でありました。この「ナイル川」を、御神体として信仰する民族が、エジプト人だったのです。勿論彼らは、その他にも様々なもの、例えば太陽神(ラー)を最高神とするなど、自然崇拝(アニミズム)を行っていましたが、とりわけこの「ナイル川」に関しては、彼らの日常生活の中で一番重要な、「信仰」の基礎だったことです。


 ご存知のように「エジプト」とは、霊的に「この世」を象徴しています。そして「ナイル川」とは、「この世」を司る様々な偶像(イドラ)の「母体」となる、悪しき源流のことです。つまり、「この世」に至る様々な「流れ」は、ある一つの「源流」からもたらされることを、私たちは霊的に知るべきです。


 イエス・キリストが「神の国」の福音を、当時のイスラエルの民に語る時に、何故祭司集団からパリサイ人、律法学者やサドカイ人に至るまで、彼らは同朋に対する預言的働きを為されていた、イエス・キリストに対して激しい「憤り」と、理由無き「憎しみ」をもって迫害し続けたのでしょうか?イエス・キリストは、決して彼らが危惧するような、ローマ帝国に対して破壊活動(テロ)を行ったり、民を扇動するなどの独立運動を展開した訳でもありません。彼ら同様に、会堂で律法の書を開き、「福音」を語っただけです。勿論、イエス・キリストの宣教活動においては、彼らが到底為し得ないような、様々な「しるし」と「業」が現れ出ましたから、そのことに対する「妬み」故に、迫害することはありましたが、彼らがイエス・キリストの「教え」の中で、一番に腹立たしく毛嫌いしたことは、「血潮」に関することでした。つまりイエス・キリストは、ご自分の元に集まって来る人々に対して、「私の血を飲みなさい!」という一言をもって、「神の国」に自由に入ることの出来る、フリーパス(通行許可証)を提供したからです。


 当時のイスラエルの民は(今もそうですが・・・・)毎日神殿に赴き、祭壇に大量の子羊の「血潮」を捧げなければ、「神の国」に入ることはおろか、自分の「罪」そのものが聖められないことを、誰もが知っていました。それ故祭司の為す宗教儀式は、非常に人々から尊敬を受けるなど、特別な「行い」でしたから、祭司職にあずかる彼らの殆どが、その儀式を単なる「ショー」として行っているに過ぎず、大量に流される子羊の「血潮」は、いわゆる権威を振りかざす「商売道具」でもあったのです。しかしイエス・キリストは、彼らの「やり方」とは逆の方向で、「神の国」を宣べ伝えました。先ず、何よりも「父なる神」を純粋に求めること、そうすれば必ず神は「真の礼拝者」として、祖国を回復するための「重要な器」として仕立てて下さり、一人一人の中に「神の国」を現して下さる・・・・、このような「正しい礼拝」を促されたのです。


 つまり、イエス・キリストが示された「新しい礼拝」と、彼らの伝統的な「礼拝形式」が、完全に相反するものであったが故に、彼らはイエス・キリストを迫害したのです。イエス・キリストが示される「新しい礼拝」とは、フリースタイルで為されるものです!つまり如何なる時にも、自分が導かれる(立たされる)場を、礼拝のフィールドとして捧げることが大切であり、イエス・キリストと共に在る場所(臨在される場)こそが、「神の国」に他ならない!別に子羊の「血潮」を大量に流さなくても、イエス・キリストが臨在される(行かれる)その場その場で、「地」が霊的に回復されて行く、これが「真の礼拝」である!と、イエス・キリストは宣べ伝えられ、そして実際に「神の国」を現されたのです。


 イエス・キリストの「血潮」の注ぎに反する流れは、全て「ナイル川(世の流れ)」を象徴しています。「この世」というナイル川の「水」を飲むことで、ナイルの「神々」と一体することを、エジプトの民は信じていました。しかし、聖霊様は厳しく言及されます。彼らのように、ナイル川から「水」を飲む者は、全て「この世」に属する者である!と。私たちに命じられていることは、常にイエス・キリストの「血潮」の注ぎを、霊的に飲み干すことです。自分の全身全霊を、完全にイエス・キリストの「血潮」をもって、覆い尽くして戴いた者が、「霊(聖霊)」に属する者です。


「水」が「血」に変わる
 モーセは、父なる神の命令通りに、持っていた「杖」でナイル川の「水」を打ちました。「その時」、ナイル川の「水」は「血」に変わったのです。ある学説によればナイル川は、上流付近で時折大洪水が起きた際に、赤褐色の土質を下流に大量に運ぶことがあり、たまたまこの時も赤褐色の水流が、大量に流されて来ただけである!と説明しています。しかし聖書は、明確に「御言葉」を通して事実を伝えています。「川の水はことごとく血に変わり、川の魚は死に、川は悪臭を放ち・・・・」(20〜21節)ナイル川の「水」は赤褐色の水ではなく、百%「血」に変質した!と。


 これが、明らかな事実として確証できる証拠は、この後に引き続き起こる、「第二の災い」に見られます。つまり、蛙の大量発生の原因は、ナイル川が「川」としての機能が無くなり、その結果ナイル川周辺の生態系バランスが、全て狂ってしまったからです。赤褐色の「泥水」が大量に流れたとしても、「川」自体は生きています。例えば日本では、「ダム」から「泥水」が大量に放流されたことによって、清流に生存する鮎などの生態系バランスが破壊され、ある「川」では鮎が殆ど確認できなくなるなど、自然環境に異常が現れますが、この時におきた事件は、ナイル川の全生態系に及んだ、魚類から他の生物全体に至るまで、「死」をもたらす程の現象だったのです。つまり、今まで「水」であったものが、完全な「血」に変質したが故に、全ての生物が当然生きられなくなり、すぐに全滅したのです。


 父なる神は、何故このような恐ろしい「災い」を、エジプトの民全体にもたらしたのでしょうか?勿論、エジプトの「権力」及び「神々」の象徴であるファラオ(王)の持つ、真の神に対して頑なに従わない姿勢、つまり彼の「罪」を悔い改めさせ、イスラエルの民を解放するように仕向ける為でありましたが、父なる神は既にご存知でした。「ファラオがこれ位のことで、私の民を去らせるはずがない!」ことを。その証拠にファラオは、この出来事に一時たじろぎはしたものの、すぐに自分の魔術師たちにも、同様の「しるし」を起こすよう指示しています。ここに、サタンの為し得る「しるし」のレベルが、如何なる次元にあるか分ります。ご存知のように、サタンは空中の支配者ですから、霊の次元(四次元の領域)に関する、神の「法(秩序)」には立ち入ることが出来ません。しかし、三次元レベルの「物理の法則」の領域で、「水」を「血」に変えることは可能です。


 ナイル川の「水」を、「血」に変えた父なる神の意図は、実は私たちに対しても、ある奥義を示しています。ところで私たちキリスト者の中にも、誤った「信仰」を持つ人々が存在します。イエス・キリストの十字架の「血潮」のみに、自分の全ての「信仰」の基礎(土台)を据え、イエス・キリストの「十字架」の御元に行く者は、必ず神の臨在する「至聖所」へと、自由に通過して行くことが可能です。そして、それを毎日繰り返し行う、つまり日々「至聖所」に行く度に、イエス・キリストの「血潮」の注ぎを受け取ります。この単純な霊的日課をこなさなければ、私たちは神との「親しい交わり」に、決してあずかることが出来ません!ですから、私たちは神と交わる為に、常にイエス・キリストの「十字架」の御元で、自分の「罪」を洗いざらい告白し、自分の「血」を捧げる必要があります。「あなたとの交わりを、隔てるものがありましたなら、それは全て世的な偶像ですから、あなたの血潮で全てを洗い聖め、私の全てを完全に焼き尽くして下さい!あなたの貴い血潮だけが、私の全てをクリーンな状態に変えて下さいますから。」と。このように祈り求める人々は、霊的に腐ることがありません!


 それに対して、次のような人々が存在します。彼らの「信仰」の特徴は、「スタート(最初)」は良いものです。「主よ、私はあなたの血潮の注ぎを受け続けます!」と。しかし暫くすると、手に持っていた神の「杖(十字架)」を放棄し、自分の「道具」を手に握り締めるようになります。そうなると彼らは、イエス・キリストの「血潮」の流れに、「この世」の流れも少しずつ取り入れながら、最終的には自分の「血肉」の流れに変えようと、必死に活動し始めます。彼らは、神の一方的な「恵み」をいつしか忘れ、自分の「業」によって物事が進み、成功しているかのように錯覚し始めますと、「至聖所」の門前で子羊(イエス・キリスト)の、貴い「血潮」の注ぎを受けるのではなく、自分の「血」を流すことで、神の御心とは懸け離れた、人間的な「計画」を達成しようと試みて行くのです。


 自分の「肉(血肉)の力」で物事を達成していくことは、全て自分の「血」を注ぐことです。イエス・キリストの「血潮」に、如何なる人間の「血」を混ぜてはなりません!神に属する「霊の次元」に、立ち入ることが出来る唯一の方法は、イエス・キリストの「血潮」のみを、へり下って受け取ることです!イエス・キリストの十字架から流れ出る、この貴い「血潮」以外のもの、つまりナイル川の「水」や自分の「血(血肉)」を、神の領域に持ち込み混入させるのであれば、それは即「腐る」ことにつながります。ですから私たちキリスト者は、ナイル川の「水」を飲むことも、聖霊様が用意して下さる「命の水」の中に、私たちの「血」を注ぐことも許されません!


「世の王」が登場する時
 モーセが手に持っていた「杖(十字架)」をもって、ナイル川の「水」を打つや否や、ナイル川の「水」は「血」に変質しました。この「血」は、イエス・キリストの「血潮」のことではありません。このモーセの預言的行動は、「この世」の流れ(ナイル川の水)に頼り切っていた、ファラオとエジプトの民に対して、ナイル川の「水」が真の「命の水」ではなく、只の人間的な「血(血肉)」に過ぎないことを証明しました。モーセに働きかけた父なる神は、この出来事の「結末」をもご存知でした。つまりナイル川に依存していた、全ての「生き物」が死んだのです。


 私たちは、神の用意される「命の川」の流れに赴き、真の「命の水」だけを飲む時に初めて、霊的に生き続けることが可能です!決して腐って死ぬことはありません!ナイル川の「水」に頼り切っていた彼らは、恐らく「真水」を求めて、ナイル川の周辺部から遠く離れた地において、「井戸」を掘り進めたことでしょうが、何とそこでも湧き出てくる「水」は、「真水」ではなく「腐った水」でした。そんな状況に追い込まれながらも、彼らは決して真の神に対して、悔い改めることがなかったのです。彼らは明らかに、「真水」が無くて苦しんだはずです。そして、恐らく神官たちに「血の水を、元の真水に戻しておくれ!」と懇願したことでしょう。しかし彼らは、逆のことが出来なかったのです。ここに、サタンのもたらす「業」の真髄が見えて来ます。つまりサタンのもたらすものは、全て「災い」であることです。「水」が「血」に変わることは、「災い」の象徴です。それに対して、「血」が「水」に変わることは、「祝福(幸い)」の象徴です。サタンは、「本来の人」が望んでいる、天上の「幸い」をもたらすことの出来ない存在です。ですから、「血」を「水」に変えることが出来なかったのです。


 間もなく「その時」が近づいています。主イエス・キリストの「再臨の時」も近づいているのですが、私が今から記す「その時」とは、反キリストが登場してくる時のことです。彼は、私たちキリスト者が気付かないような形、つまり卓越した「外交」手腕を持ち、「知恵」に長けた統治政策、そして何よりも地球規模の「平和」を唱え、あらゆる民族紛争を解決する人物(真のリーダー)として、やがて登場して来るのかも知れません。そして、「その時」彼は宣言します。「地球上の全ての同朋の民よ、この地球を一つの命として守るために、皆が一つ所に集まり、この一つの地球の水を共に飲もうではないか!」と。


 このメッセージは、何となく新しい「真理」を説いているかのように語られます。つまり全ての民が、同じ「地球の水」を飲み合えば、あらゆる「争い事」が無くなる故、全ての者が「ナイル川」に来るよう誘いかけるものです。だからと言って彼は、実際のエジプトに赴き、「ナイル川」に集まるよう命じている訳ではありません!恐らく彼は、ある重要地点に人々を集め、その地点で彼らに対して、偽りの「命の水」を与え、偽りの「血潮」を注ぐことでしょう。彼らは、反キリストによる「注ぎ」を受けた結果、一時的に回復を得て繁栄するでしょう。まさしく、ファラオの神官が為した「奇跡」をもって、彼は全ての民族を惑わして行くのです。


 モーセとイスラエル民を迫害し続けたファラオのように、反キリストは必ず「真の花嫁」を迫害する形でも登場します。今日の地球は、霊的に見て「ナイル川」の氾濫によって、地球自体が被造物として「産みの苦しみ」を経験しています。しかしそれと同時に、今まで理由無き「迫害」によって、モーセの時代と同様に、霊的長子イエス・キリスト故に、苦しみの「血」を流さなければならない、「真の花嫁」が存在していることも事実です。そのことを当然知っているサタンも、遂に反キリストを登場させ、世的なキリスト者を「ナイル川」へと誘い込むべく、様々な偽りの「神学(教え)」を流していることにも、私たちは警戒しなければなりません!


 イエス・キリストの「血潮」以外のものは、エクレシアの中に絶対持ち込んではならない!と固く信じる「群れ」と、イエス・キリストの「血潮」以外に、人間的な「血」も取り入れて、ミニストリーなどを展開していく「群れ」とに、いずれ二分されて行くことでしょう。しかし、イエス・キリスト以外の「血」を混入した「群れ」は、霊的不純物によって必ず「信仰」が腐り始め、いずれ「信仰」自体が死にます。私たちの信仰を生かす「命の源」は、イエス・キリストの十字架から流れ出る、貴い「血潮」だけです!聖霊様は、イエス・キリストのみを追い求める、真実の「群れ」に対して言われます。「イエス・キリストの十字架を高く挙げなさい!そしてその血潮の注ぎだけを、常に受け取りなさい!恐れてはなりません!」と。


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