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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

急患診療(No.8)

                  聖霊を受け続けなさい!




「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真中に立ち、『あなた方に平和があるように』と言われた。・・・・・・・・そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」
                                                                                             【ヨハネ福音書20章19~22節】


聖霊を受け続けよ!
 聖霊様は「命の息」として、私たちキリスト者のために働かれています。「命の息」を吹きかけながら、弟子たちに語られたイエス・キリストの、「聖霊を受けなさい!」という「ご命令」は、私たちにとって非常に、理解し難い「奥義」の一つですが、私たちはイエス・キリストの、この「ご命令」を素直に信じて、純粋に受け留める必要があります。


 それ故にイエス・キリストの、この「ご命令」に対する私たちのシンプルな言葉は、「はい主よ、私にも命の息を下さい!」と、この返答で十分です。「え?私は既に、異言を伴う聖霊のバプテスマを、受けていますから大丈夫です!」などの言い訳ではなく、聖霊様が私たちに要求している、「私から命の息を、いつも受け取りなさい!あなた自身の中にある、自分(肉の息)に頼って生きることを止めなさい!」という霊的促し(導き)に、私たちは素直に聞き従いましょう。


 しかし、私たちの中に「自分の力」、「自分の名声」や「自分の方法」などの、私という「肉の息」が残っている限り、聖霊様が語りかけて下さる、貴い「御声」は素通りしていくだけです。神の「命の言葉」を与えられた私たちが、聖霊様の「御声」に聞き従い、「主よ、あなたが語られた御言葉は、必ずその通りになります!」と告白し受け留める時に、「肉の息」は私たちの「霊」の中から、少しずつ後退して行くのです。


 このように「聖霊を受けなさい!」と、父なる神が常に命じているその本当の理由は、私たちの「霊」の中にある、「肉の息」に頼ろうとする、愚かな「自分」が依然として残っているからです。そのような私たちのために、聖霊様は尚も「日々私から、命の水を飲み続けなさい!あなたという器の中に、神の命の言葉ではなく、何か別のもので満たそうとする、そのように肉の言葉(思い)がありませんか?だからこの私から、命の水を飲み続けるのです!」と、熱心に語りかけて下さいます。


 ご存知のように「水」は、器の中に溜め込んでしまったら、腐り果てるだけです。それ故「水」は、常に流し続けなければ、純粋(聖い状態)に保つことが出来ません。仮に私たちが、「私は既に、聖霊のバプテスマを受けているから、これで十分です!力と賜物にも溢れ、強く生きています!」などと、霊的に立ち止まってしまったら、私たちの「霊」は腐り果て、必ず信仰が後退します。




天上から来る霊的権威


ペテロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペテロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペテロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「私たちを見なさい。」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペテロは言った。「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
                                                                                                          【使徒行伝3章1~8節】


 実は、この時のペテロとヨハネは、師イエス・キリストと同様に、聖霊に遣わされ宣教に赴く際、何も持たずに出かけたことが、「私には金や銀はない」(6節)というペテロの言葉から分ります。この重要な「事実」が、このストーリーの「鍵(キーポイント)」となります。三次元的に何も持たなかった彼らは、では一体「何」を基(頼りとなるもの)にして、出て行くことが可能だったのでしょうか?それは、ナザレ人イエス・キリストの「御名」による、天上から来る霊的権威でした。


 全ての「救い」の源は、イエス・キリストという、この「名前」に存在します。私たちが、「イエス様!」と口から言葉を発した時、それは「命の言葉」の完成者そのものの、救いの「働き」に対して、「開始宣言」を告げるようなものです。すると父なる神は、「うん?ようやく御子の働きに、ゴー・サインが出せるぞ。聖霊よ、準備は整ったかな?・・・・よし!イエス・キリストと共に、完成して行きなさい!」と、三位一体的に共同作業を為されること、これが「イエス・キリスト」の御名から現れ出る、霊的権威のプロセスです。


 続いて聖霊様は、私たちに次のように促します。「彼らと同様に、大事に持っているものを全て捨てなさい!」と。私たちが持っているもの、それは「自分の思い」と「自分の言葉」、つまり「肉の息」です。何も持たざるペテロとヨハネを見て、恐らく何も知らない足の不自由な男は、いつも通りに「お恵みを下さい!」と、彼らに何らかの「もの(お金や食べ物)」を要求しました。すると二人は、不思議な返答をします。「私たちを見てごらん!」と。彼は言われるがままに、二人の姿格好(有様)をじっと観察しました。


 「うーん!?お金持ちにも見えないし・・・・。でも何かは持っているだろう」と思いながら、次の言葉を待っていると、ペテロが彼の期待を超越する、驚くべき「命の言葉」を発しました。「金銀(お金)は、私には何一つない!しかし有るものが一つだけある!それは、イエス・キリストの御名から来る、命の言葉の権威だ!」と。仮にあなたが、この時の彼と同様に、どうしようも無い状況に陥った場合、果して神に対して「何」を期待し、「何」を要求するでしょうか?「この世」の方法を、余すことなく試しても、少しも好転することが無く、むしろ悪化して行った彼の元に、たまたま通りすがった(彼にとってはそう思えても、実は神の御心通りに、ペテロとヨハネが彼の元に遣わされた)二人には、実際三次元(物理)的なものは、「何」一つありませんでした。


 しかし四次元的に見るならば、彼らには明確に「私の内(霊)には、イエス・キリストが生きている!イエス・キリストの御名により、あなたに命じる。立ち上がり、歩きなさい!」と宣言できる程の、「天上」からの信仰と、神の「命の言葉」に溢れていたのです。聖霊様は、あなたにも宣言されています。「あなたが、あなたの心(魂)から出て来る言葉や、思いから判断する(見る)限り、私はあなたに働くことが出来ません。しかしあなたが、命の言葉の源なる方、イエス・キリストの御名により、天上から豊かな権威が授けられていること、つまりあなたには、世的には何一つ持てるもの(残るもの)が無くても、霊の目で見る限り一番あなたが持っておくべき、イエス・キリストの御名が、あなたにはあるのです!この信仰に立って、あなたは歩き始めなさい!」と。


 「命の言葉」とは、神が私たちに与えている、イエス・キリストの御名の権威を、具体的に実現する一つの「命令」です。父なる神が私たちに対して、「イエス・キリスト」という御名を与えている以上、私たちは「イエス・キリスト」の御名を、「勅令(王から直々に賜る命令)」の如くに、「天(御国)」の権威を行使していく時、それはあなたの「信仰」を通して、必ず成就(完成)していくこと、これを常に覚えておきましょう。あなたが聖霊様の「促し(導き)」を戴いた時は、すぐにイエス・キリストの「御名」の権威により、立ち上がる(立ち返る)必要があります。自分の中にある、「私には出来る(まだまだやれる)!」などの思いをもって、私たちは歩み続けることも可能ですが、あなたが聖霊様からの、何らかの「促し」を感じているのであれば、すぐに聖霊様の「促し」に聞き従って、「イエス・キリストの御名の権威を、私にも授けて下さい!私もイエス・キリストの、豊かな現れ(ご臨在)が見たいのです!」と、へり下って祈り求めることが出来るよう、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!



祈り
 主よ、私の中に今、聖霊様から戴いたイエスの信仰が、働いてることを感謝します。


 聖霊様、どうぞ純粋に飢え渇き求める、この弱き私の祈りに、永遠の命の水であるイエス・キリストご自身を、十分に注ぎ満たして下さい!

 足の不自由な者が、イエス・キリストの御名の権威を授かったのと同様に、聖霊様!私は今、イエス・キリストの御名を受け取ります。


 私の言葉と思いの中に、この世の判断(視点)ではなく、イエス・キリストの御名による、天上の権威をもって立ち上がり、歩み始めることが出来るよう、イエス・キリストの御名を、大胆に宣言することの出来る上よりの信仰を、今与えて下さい!

 イエス・キリストの豊かな、命に満ち溢れた救いの御業が、私の語る言葉、宣言する言葉、祈る言葉の中に今現れ出るよう、イエス・キリストの御名によって命じます。


 聖霊様の豊かな臨在が現される時、今まで苦しんできた問題の数々が、たちどころに消え失せ、イエス・キリストこそが真の救い主であり、父なる神が何と麗しい全能のお方であるか、その栄光の訪れの時が、聖霊様の力ある働きとして、この私に既に起きていることを、イエス・キリストの御名で解放し祈ります。アーメン!


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