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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

生ける聖霊の働き(No.14)

                          「血潮」の注ぎ



霊的テストが課せられる理由
 父なる神は、長年に渡って苦役を強いられ、エジプト王による迫害の最中にある、イスラエルの民(全家)に対して、いよいよ「救い」のご計画を始められるに当たり、モーセ夫婦の人生において、ある信仰の行動を促すよう、聖霊様に命じられました。私たちが新しい信仰の領域という、霊的に更なる高い次元において、主イエス・キリストとの「親しい交わり」の場(至聖所)に導かれる時に、実は私たちが通過しなければならない、「霊的ゲート(正門)」がそこにあります。


 ヘブル書に記述されているように、私たちは主イエス・キリストの貴い「十字架の贖い」により、聖所を通過して開かれた垂れ幕の内側へと、自由かつ大胆に進み入ることが可能になりましたが、実はその時に必ず私たちに対して、聖霊様から指示されることは、「血潮」の注ぎを受けることであり、私たちは常にこれを覚えておくべきです。それは既に、イエス・キリストが私たちの罪の身代わり、つまり「贖い」の子羊として、十字架上で「命」を捧げられたことにより、私たちは無代価で自由に、「至聖所」へと進み入ることができる訳ですが、私たちが通過していく場合に、如何に「十字架」の素晴らしい御業が、自分の汚れた全てのフィールドを聖め、本来立ち入ることができない身分であるにも関わらず、十字架から今も流れ出る、イエス・キリストの貴い「血潮」の注ぎを、私たちが受け取ることによって、全ての霊的障壁が撤廃され、ストレートに奥深くへと進入できるようになったことを、必ず霊的に経験させられます。そうです!この貴い「血潮」の注ぎという、主イエス・キリストの恵みを受けなければ、私たちは「至聖所」の奥深くへと進み入ることができないのです!


 ですから父なる神は、あえて私たちに対して、私たちの側からの「生贄」を要求することはなさいませんが、イエス・キリストが「贖い」の子羊として、ご自分の全て(命)を捧げられたのと同様に、私たちも素直に悔いた砕かれた魂を捧げながら、十字架(過越しの門)を通過することが要求されるのです。アブラハムが嫡子イサクを、父なる神に献上した時にも、父なる神はイサクの「死」を彼に要求したのではなく、彼自身の「生贄(悔いた砕かれた魂)」を欲しておられたのです。このことは私たちの「心」と「霊」が、父なる神に対して「完全に捧げ尽くしているか否か?」を、霊的に見測る上での分岐点になります。同様にモーセ夫婦に対しても、父なる神は「新しい使命」を彼らに授ける前に、「主に対して、完全に捧げ尽くすことができるか否か?」という、霊的テスト(課題)を授けたのです。



モーセがしゅうとのエトロの元に帰って、「エジプトにいる親族の元に帰らせて下さい。未だ元気でいるかどうか見届けたいのです」と言うと、エトロは言った。「無事で行きなさい。」主はミディアンでモーセに言われた。「さあ、エジプトに帰るがよい、あなたの命を狙っていた者は皆、死んでしまった。」モーセは・・・・エジプトの国を指して帰って行った。主はモーセに言われた。「エジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けた全ての奇跡を、心してファラオの前で行うがよい。しかし、わたしが彼の心を頑なにするので、王は民を去らせないであろう。あなたはファラオに言うがよい。主はこう言われた。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしの子を去らせてわたしに仕えさせよと命じたのに、お前はそれを断った。それ故、わたしはお前の子、お前の長子を殺すであろう。』と。」途中、ある所に泊まった時、主はモーセと出会い、彼を殺そうとされた。ツィポラは、とっさに石刀を手にして息子の包皮を切り取り、それをモーセの両足に付け、「私にとって、あなたは血の花婿です。」と叫んだので、主は彼を放された。彼女は、その時、割礼の故に「血の花婿」と言ったのである。
                                                                                               【出エジプト記4章18〜26節】


「血潮」の注ぎの奥義
 先ず、私たちが知らなければならない第一の重要ポイントは、確かにアダムとエバは、彼らの犯した罪の故に、「エデンの園」を追放されましたが、だからと言ってそれが、父なる神との「永遠の別れ」、つまり父なる神との「親しい交わり」が、完全に遮断された訳ではなかったことです。その証拠に父なる神は、ご自分の「愛」のしるしとして、子羊の毛皮で作った「聖なる衣」を、彼らに直接着せたことです。父なる神は、わざわざご自分の麗しい両手を、子羊を屠った「血潮」で汚し、彼らにフィットする毛皮の衣服を作られました。


 神の側からの一方的な「愛」のしるしとは、子羊の「死」という「贖い」の生贄であり、それから作られた「聖なる衣」には、父なる神の御手を通して、子羊の「血潮」が注がれているのです。この点について私たちが、常に覚えておかなければならないことは、私たちから見て子羊が、たかが小動物とは言え、父なる神にとっては「子羊」も、ご自分の愛する貴い対象であることです!その子羊の「命」を犠牲にしてまでも、アダムとエバを「永遠の孤児」とはしたくなかったのです。ここに父なる神の、最初の「血潮」の注ぎが現れています。これは神の側からの、一方的な「愛」の注ぎを表しています。


 第二の重要ポイントは、後の時代に「信仰の父」と呼ばれるハブラハムが、信仰を働かせつつ全身全霊をもって、神に「全焼の生贄」を捧げる時に、父なる神は彼の信仰を見届けるために、愛する霊的長子(イサク)を捧げるよう命じられた際の、彼の一連の信仰の動きの中に見られます。つまり第二の「血潮」の注ぎは、人間の側から「血潮」を流すことができるか否か?ということです。ご存知のように彼にとってイサクは、信仰の約束として与えられた、たった一人の息子でした。信仰を通して授かった「約束の実」を屠るということは、自分の思い描いていた「子孫繁栄」が、途絶えることになる訳です。父なる神は、その「約束の実」をも捧げるように命じられたのです。


 「その時」に彼は、どうしたのでしょうか?彼は、私たちが想像できない程の、霊的葛藤(闘い)を覚えたことでしょう。しかし「主が要求されている以上、このイサクを捧げることを、何よりも優先的に為そうではないか!この子を捧げ尽くす時に、主なる神は新しい祝福(契約)を、再び私の中に、又私たち夫婦の中に及ぼして下さるはずだ!」という決断に至って、彼は「イサク」を実際に屠るため、刀を振り下す段階に至りました。つまり「イサク」という子羊を、祭壇上で突き刺そうとしたのです。すると主なる神が、「待ちなさい!あなたの信仰の決断は、まさしく本物である。私が、あなたの信仰を受け取った。イサクの代わりに、贖いの子羊を用意しよう!」と語り、一匹の子羊を備えられました。この時にも、父なる神は「子羊」を用いましたが、第一の「血潮」の注ぎの時とパターンが違いました。即ちアダムとエバに対しては、一方的な神の側からの注ぎであったのに対し、この時は「信仰の人」アブラハムとの共同作業、つまり彼の信仰の行動に応える形で「子羊」を用意し、アブラハムの側が直々子羊を屠り、「血潮」を祭壇上に注いだのです!そうです!父なる神は、アブラハムの信仰の行動を見て、「御心」を動かされたのです。


 ここに素晴らしい「信仰の法則」があります。つまり私たちの側に、父なる神の「御心」を動かすことのできる、信仰が与えられているのです。何故なら「本来の人」アダム(エバ)は、創造された時点から父なる神の「御心」を求めて、常に連結(一体化)しようとすることを欲する存在であり、それ故私たちの中から生じる、神(創造主)への純粋な「愛」は、父なる神の「御心」を動かすことのできる、「信仰の力」を引き出すことができるのです。それ程までアブラハムは、父なる神を慕って止みませんでした。


 アブラハムが、信仰を働かせてイサクを捧げた後に、父なる神はイサクの身体に「約束の証印」を施す旨を、アブラハムに告げました。「包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなた達との間の契約のしるしとなる。いつの時代でも、あなた達の男子は全て、直系の子孫は勿論のこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。」(創世記17章11〜12節)この「約束の証印」とは、イサクに割礼を施すことでした。「あなたは私のもの、私はあなたの神である。この永遠の一体関係の契約を、今結ぼうではないか!」、これが割礼を施す真の理由です。この割礼の儀式は、父なる神ご自身が直々「人」に対して、処置を施す行為ではなく、「人」の側が神との間に結ぶ「永遠の契約」として、イサク(全ての男子)の包皮を切り取り、その流された「血潮」を神に対して、注ぐ(見せる、表明する)よう命じています。アブラハムはこの命令にも従い、「人」の側からの「生贄(血潮)」を、父なる神に捧げ(注ぎ尽くし)ました。これが割礼の霊的奥義です。


 ところで、モーセの場合はどうであったかと言えば、彼は生後三ヶ月目の時期から、エジプトの王女の元で暮らしていましたから、割礼を施される理由も知らずに、成長したものと推測されます。一般のヘブライ人の家庭では、必ず家長がある時期になったら、男子全員に対して割礼の奥義について、「性教育」を兼ねて教える訳ですが、モーセは何も知らないまま、エジプトの男子として成人しました。そして彼はツィポラと結婚し、二人の男子を授かりました。しかしモーセの場合、エジプト式教育の中で過ごしたこともあり、「割礼」に関してヘブライ人から、教育を受けていませんでしたから、当然彼の息子たちも、「割礼」を受けることなく、成人したのではないでしょうか?


霊的「贖い(割礼)」とは?
 父なる神はモーセに対して、彼を通してイスラエルの民を、エジプトから贖い出すという、新しい使命を与えるに当たって、実は強烈な試験を課しました。この「贖い」という言葉は、出エジプト記を読み進めて行く上で、非常に重要なキーワードとなりますが、これは単にイスラエルの民を、エジプトの苦役(隷属的状態)から、完全に解放(独立)するという意味合いではなく、父なる神が預言的指導者モーセを通して、イスラエルの民が父なる神の御元に、再び回帰(贖い出)される、神の「ご計画」の中にあることを意味しています。つまり、父なる神はイスラエルの民に対して、完全な霊的回復をもたらすために、一人の名も無きモーセを選び召し出したのです。


 さて、モーセが父なる神から、新しい命令を与えられた時、彼は如何なる心境にあったのでしょうか?恐らく彼は人間的に見て、自分の生まれ育った故郷(エジプト)に、約四十年ぶりに遣わされるのですから、自分の本当の肉親の元に初めて里帰りできるという、安易な考えもあったことでしょう。しかし、ここで父なる神はモーセを試され、「エジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けた全ての奇跡を、心してファラオの前で行うがよい。しかし、わたしが彼の心を頑なにするので、王は民を去らせないであろう。」(21節)と彼に命じました。


 彼がこの命令を受け取った時、同朋から認められるような、一般的な指導者(族長、祭司など)の地位にあったら、「よし、やるぞー!」と奮い立ったことでしょう。しかし、この時点でのモーセは、イスラエルの十二部族という大組織から、正式に認められた器ではなく、どこかそこら辺りに居る、名も無き田舎者の如き人物です。ですから、いきなりエジプトに帰ったところで、「あなたは一体、何処の誰ですか?」などと馬鹿にされるだけです。その田舎者が、エジプトの大王ファラオの前に立って、イスラエルの十二部族の推薦も取り付けないまま、エジプト王に直談判することは、普通でしたら考えられない程、恐怖でしり込みする行動です。死刑は免れても、家族全員が投獄される危険性もあります。


 モーセは、父なる神のこの命令に対して、「分りました!」と答えながらも、心の中では葛藤します。「主なる神は、何故この私を選ばれたのだろう?私は特に口下手で、何もできない臆病者ではないか!このような者が大王の前に出て、果して直談判できるだろうか?他の雄弁なリーダーでも、良いのではないか!私より勇者が、もっと多くいるだろうに・・・・。」などと、否定的な思いが交錯する中で、彼は思い悩みました。彼の「思い」の中で、「不信仰」と「不安」と「恐れ」が覆い被さり、彼の「霊」を次第に支配しつつあります。ですから、彼のこの時の心境は、自分の「命」を賭けてまで、神の命令を実行しようとは考えていませんでした。


 恐らく、モーセも一人の夫ですから、奥方に相談したことでしょう。「実はなー、遂に主なる神が、私にお命じになった。これは非常に私にとって、受け難い至上命令なんだ。」などと、自分の気持ちを一部始終語りました。しかし、それを聞いた妻ツィポラは、「えらい事が、私の夫に起こり始めたわー!やはり私の夫は、神に選ばれた器だったんだ!」と、信仰をもって受け留めました。実はツィポラは、モーセと結婚するに当たり、「いつか私の夫は、イスラエルの民を最終的に贖い出すという、神のご計画のために選び召し出されるだろう。それ故、夫はミディアンという片田舎において、ずっとくすぶり続ける人生を、神は良しとはされないだろう。その時には、私も神の御心に従おう!」という覚悟を決めていました。


 ところが、結婚生活を何十年も経て行きますと、夫は普通の亭主(お父さん)になって行く訳です。いつしかモーセも、家族の幸せにだけ満足する、そんな「老い」を迎えるだけの羊飼いになりました。世間的に見たらモーセは、舅(しゅうと)と仲良く暮らしている、立派な「婿殿」です。ところが、それでも彼女の「霊」の中では、「いや違う!主なる神は必ず、私の愛する夫を召し出す時を用意している!その時に私は、覚悟しなければならないだろう。」という信仰がありました。つまり「私たちの命と引き換えに、主なる神のご計画に従って、全てを捧げる!」という覚悟です。恐らくモーセは、自分の息子たちに「割礼」の儀式を施していませんでしたが、ツィポラは霊的に教え諭していました。「私は主の時が来たら、必ず私の命と引き換えに、全てを捧げる用意が出来ているけど、あなた達はどうする?もし神の要求されることが、あなた達の命であったら、それに従うことが出来るかしら?」と。すると彼らは、「母上!私たちも主の御心に従います!」などと、既に母子三人は霊的に一致していました。


 モーセの場合は、霊的に如何なる状態だったのでしょう?彼は、未だ迷っていました。そこで父なる神は、彼を「殺す」という、最終割礼を施すことにしました。モーセは、自分が父なる神によって殺されるとも知らずに、家族を伴って里帰りの旅に出かけました。ところが旅の道中、突然「何か」が彼を押し倒そうとしました。しかしその瞬間、ツィポラは「あ、遂に来た!」と、その光景をしっかりと見守りました。それは、完全なる主の取扱いが、遂に夫の元に訪れたことでした。モーセに対する神の「完全な取扱い」とは、モーセの命を「死」をもって贖うことでした。しかしツィポラは、神がモーセの「命」を要求されることはあっても、モーセ自身をこの世から抹殺するはずはない!という信仰が、既に彼女の中に備わっていました。これは「信仰の父」と呼ばれたアブラハムが、霊的長子イサクを捧げた時の「信仰」と同じものです。


霊的割礼に至るプロセス
 ツィポラは、いよいよ父なる神が夫を殺そうとされた時、思わず咄嗟の行動に出ました。それは、自分の腹を痛めた二人の息子の「命」を、夫の身代わりとして神に差し出したことです。具体的な彼女の行動は、「とっさに石刀を手にして息子の包皮を切り取り、それをモーセの両足に付け、『私にとって、あなたは血の花婿です。』と叫んだ」(25節)という内容のものでした。


 何故、彼女はこのような不思議な行動に、咄嗟的に移ることが出来たのでしょうか?それは恐らく、彼女の「霊」に対して働きかける聖霊が、「あなたの大事な息子の命の象徴として、男性性器の一部を切り取り、その流される血潮(命の源)を神に見せなさい!」と命じられたからでしょう。ここで重要なことは、聖霊様は彼女に対して、息子の「命(血潮の注ぎ)」を要求しましたが、決して「長男」若しくは「次男」のどちらかの血潮、或いは両方の血潮と、具体的に「人数」を指示していません。人間的に考えるならば、イスラエル(霊的長子)をエジプトから贖い出す訳ですから、その代償はモーセの長子の「命(血潮の注ぎ)」を、捧げるよう命じられているものと判断してもよかったでしょうが、何と母であるツィポラは、全ての息子(二人)を指し出していることです!ある面で二人の息子の「命」は、自分(母親)の「命」の全てを表しています。


 この妻の突然の行動に対して、夫であり父親でもあるモーセは、妻は気でも狂ったのかと、当然驚き慌てふためいたことでしょう。「お前は一体、何てことをするのかー!」などと、再び立ち上がって怒る暇も無い程(彼は依然として倒されたまま)、彼女は瞬時に息子から切り取った包皮二枚を、モーセの両足(恐らく太もも)目掛けて、バン、バン!と貼り付けました。それは当然、血まみれになった皮ですから、大事な息子の「血潮」が、モーセの両足をしたたり流れます。ツィポラが夫の両足に、息子の血まみれになった包皮を貼り付け、ある信仰の言葉を叫んだ、まさにその瞬間に、神の御怒りの手がサー!と引いて、モーセを殺そうとする霊的な力(臨在)が消え失せました。


 この時に彼女が叫んだ言葉は、「私にとって、あなたは血の花婿です。」(25節) という信仰宣言でした。彼女が思わず叫んだ「あなた」とは、「モーセ」のことを指しています。この言葉の意味することは、「私の夫は私の命、そして私の家族の命と引き換えに捧げ尽くす、血潮の花婿(贖いの生贄)です!どうぞ受け取って下さい!」と、神に対して信仰表明することで、自分の全て(夫も子供も含む)を祭壇上に捧げ尽くす、「真の礼拝者」を指していることです。つまり彼女の信仰には、「私も愛する夫と共に、贖いの血潮をもって捧げます!」という、至聖所における霊的「犠牲(死)」が、既に備わっていました。


 彼女の咄嗟の行動は、ある面で聖霊様によって為される、一方的な「霊的割礼」に至るプロセスを意味します。私たちが、新しい「信仰の領域」に前進する際に、父なる神は私たちの「霊的割礼(犠牲)」を見たいが故に、聖霊を通して一方的に要求されることがあります。つまり私たちが、どこまで霊的に割礼されて行くべきか?このことが、非常に重要となります。ご存知のように「聖霊のバプテスマ」は、霊的割礼に至る入口です。そして、私たちが日々聖霊の満たしを受ける理由が、このバプテスマにあります。「聖霊のバプテスマ」は、一度限りの体験で十分である!と主張する人々がいますが、私たちは父なる神の御前に静まって、聖霊様によって為される、イエス・キリストの完全な「血潮」の注ぎを、日々受け取るべきです。そして、自分の全てを至聖所の祭壇上に、神に喜ばれる生きた聖なる犠牲として捧げなければ、私たちは神からの新しい「召し」に、あずかることが出来ないのです。その時に父なる神が要求されるものが、私たちの側からの「血潮」の注ぎです。


 この「血潮」とは、決して自分の血肉の努力から流れ出るものではなく、イエス・キリストの十字架から流れ出る、貴い「贖い」の血潮があなたの全てを覆い、一体となって初めて流れ出る、霊的「血潮」のことを指します。そうです!父なる神は、あなたと「血の息子(イエス・キリスト)」が一体化する姿、つまり花婿の「血潮」が注がれたあなたの全てを、見ることを欲しておられるのです。イエス・キリストの「血潮」は、私たちが必要とする時にだけ(例えば癒しのミニストリー、解放のミニストリーを受ける時)求めるものではなく、片時も手放すことなく大切に慕い求め、十字架上から流れ出る「血潮」が、自分の全てを覆い尽くすほどまで浸り切る、そのような貴い価値ある「犠牲」なのです。


イエス・キリストの「血潮」
 このようにツィポラの預言的行動は、自分が一番大事にしているもの(全身全霊)を捧げ尽くす時に、花婿イエス・キリストの流された、貴い「血潮」の注ぎを受けることで初めて、私たちは花婿と霊的に一体化され、父なる神の御前で「喜ばれ、受け入れられるもの」になることを、私たちに教え導いています。確かに私たちは、神に「喜ばれる犠牲」を捧げようと、一生懸命に努力します。しかしその時に、イエス・キリストの「血潮」を無視して、例えば「主よ、私は・・・・のために、私の全てを捧げます!」などと表明したところで、父なる神はそれを「芳しくない!私が見たいのは御子の血潮であり、御子の香りである。それ故、子羊(イエス・キリスト)と一体化した、あなたの全てを要求する!」と、改めて命じられるだけです。


 私たちが、霊的にイエス・キリストと分離した状態で、いくら「犠牲」を捧げたところで、聖霊様は決して喜ばれません!また聖霊様は、そのような「犠牲」を捧げた祭壇に、「炎」を点火することもありません。この奥義を忘れてはなりません。モーセはこの時から、「霊的割礼」を日々受けることになります。その結果モーセは、二度と神の「御心」に反する(逆らう)ことがなくなりました。勿論、モーセも只の「人」ですから、霊的に躊躇することもあったでしょう。しかし、その度にツィポラが宣言します。「あなた!あなたは既に血の花婿です。聖霊様が確約した以上、あなたは前進して下さい!あなたの人生は、この一点に尽きますから・・・・」と。


 そうです!あなたの人生は、イエス・キリストと一体化した、この「血潮」の注ぎを受けることによって、初めてスタートできると言っても過言ではありません!私たちがイエス・キリストの、この貴い「血潮」の注ぎを無視して前進したところで、神のミニストリーは始まりません!真の礼拝も起こりません!神の臨在もありません!益々、神の「取扱い」から逆に離れて行く、つまり「この世」の方向に傾いて行くだけです。父なる神は、ツィポラのように自分の全てを、「血の花婿」として捧げ尽くす、そのような「真の礼拝者」を捜し求めておられます。また父なる神は、私たちが「血潮」の注ぎを受けることで、更にイエス・キリストと一体化されるという、この素晴らしい特権を、約束として与えて下ることを信じながら、私たちは自らの「全て(命)」を、聖霊を通して捧げ尽くす人生を、喜んで受け取って参りましょう。


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