バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

生ける聖霊の働き(No.9)

                肉の子に対する父の憐れみ




アブラムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった。革袋の水が無くなると、彼女は子供を一本の潅木の下に寝かせ、「私は子供が死ぬのを見るのは忍びない」と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた。神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱きしめてやりなさい。私は、必ずあの子を大きな国民とする。」神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。
                                                                                                        【創世記21章14〜20節】


神の「憐れみ」の法則
 このストーリーには、私たちが霊的に学ばなければならない、父なる神の「憐れみ」の法則が書き記されています。神の「憐れみ」の法則とは、アダム(エバ)が罪を犯した時もそうであったように、神との「契約(約束)」を一度破った者に対しては、「もうお前は駄目だ!私の作品としては、欠陥状態(失敗者)になったから、もう必要ない!私の前から立ち去ってくれ!私が再び、お前を憐れむことはない!」などと吐き捨てる、「この世」の次元には決してないことです。私たちはこの点について、改めて霊的に「知る」必要があります。神の「憐れみ」は、私たちの現実生活において見られる、例えば親子関係から家庭外部などの、様々な人間関係の中に時折生じる、薄情な「仕打ち」という三次元的行為のレベルにはありません!


 不景気が続く今日の日本において、「リストラ」という切捨ての法則は、ごく当り前の「仕打ち」になりつつあります。しかし「人」は、決して商品やロボット(機械)ではありません。「人」の尊厳(価値)は、いったい「何」を基準として成立するのでしょうか?「人」は、簡単に他者の尊厳をおとしめたり、その関係を切り離すことができます。たとえ今は、正常な親子関係や兄弟(姉妹)関係であっても、その中に三次元という「肉なるもの」が支配している限り、一旦「肉の種」がその中に蒔かれ、例えば「憎しみ」が増して行きますと、やがては親子断絶に陥ったり、兄弟が遺産相続を巡って骨肉の争いを展開するなど、非常に愚かな「肉なる次元」の法則が生じるのです。


 しかし、父なる神の「憐れみ」の法則の概念は、私たち「人」の持つ一時的な、「憐れみ(同情)」というレベルには決してありません。旧約聖書に見られる、父なる神の「憐れみ」のイメージは、余りにも父なる神が厳格かつ公平な方である故に、私たちが少しでも罪を犯しますと、酷く叱られ罪人として扱われる(裁かれる)という、誤った「父」のイメージを描く傾向にあります。そして私たちが、一度霊的に失敗しますと、父の「憐れみ」を賜る「恵み」のポジションに、二度と立つことができなくなるのでは?と錯覚するなど、不信仰に陥って行く可能性もあります。


 特に、最近の日本のキリスト教界において、教役者の一部の霊的フィールドに、霊的な「悪しき水」が蔓延しつつあります。それはインターネットを通して、世界各地から流入する「悪しきサイト」のことです。インターネットの普及によって、いつでも何処でも簡単に、自分の知識欲を満たすのに十分すぎる程の情報が、パソコンを通して無制限に開くことが可能になったからです。インターネットを通して、様々な「情報(サイト)」が氾濫する中で、聖職者と言えども「悪しきサイト」を開くという、言わば「インターネット(現代の善悪の木)」の誘惑に陥り、そのサイトを見ている間はよいのですが、実際に悪しき行為(不倫、同性愛、児童虐待など)へと暴走するなど、スキャンダルまみれの聖職者が増加しつつあります。そのような、一度罪を犯した聖職者は、教団(組織)や地域の牧師たちの交わりから、すぐに解雇ないし切り離されますが、果して父なる神からもリストラされ、廃棄物(失格者)に成り下がるのでしょうか?


 私たちが忘れてならない、父なる神の「憐れみ」の法則は、あの人間失格第一号(二号)のアダム(エバ)に対して、何にも先んじて示されたことです。確かに、彼らは「エデンの園」を追放されたとは言え、彼らが「園」を出て行く際の、父なる神の「御思い」は如何なるものであったのか?このことを「知る」ことで、実は父なる神の「憐れみ」の法則が、このストーリーに登場する「肉の奴隷」ハガルに対しても、分け隔ての無い永遠の「愛」をもって、惜しみなく十分に注がれていることを、私たちは改めて霊的に「知る」でしょう。


神の「憐れみ」の雛型
 ご存知のように、一度罪を犯したアダム(エバ)に対する、父なる神の「憐れみ」は、裸同然の彼らに対して子羊をあえて屠り、その裂かれた子羊の体から、毛皮を剥いで衣を仕立て、その後彼らに対して直接着せて下さった、「聖なる衣」に現されています。「私の愛(憐れみ)は、あなた方が常に身に付けられるよう、聖なる衣として与えている。それ故あなた方は、私の憐れみを決して忘れてはならない!」と。彼らは「エデンの園」を出て行った後、恐らく「あー、私たちは何と愚かな選択をしたことか!父なる神は、私たちの側から遠く離れ去った。かつて園では、親しく交わることができていたのに・・・・。今やもう、何処におられるのかも分からない。私たちは、これからどうなるのだろう?」などと、自己憐憫に陥る時もあったでしょう。


 そして、冬の寒さが骨身に染み渡る時、二人は寄り添いあって生きる中で、父なる神の「憐れみ」を再確認することになります。アダムは妻に向かって、「私たちには、父なる神の憐れみを直接身にまとう、聖なる衣としてこの服を着ているではないか!将来私たちから、産まれ出る子供たちに対して、このことを必ず伝えよう!私たちが今後歩む中において、父なる神は再び私たちとの、親しい愛の関係を修復して下さり、私たちの犯した罪を贖って下さる!」などと、語ることで励まし合いました。彼らは如何なる地においても、何よりも先ず「祭壇」を築き、「子羊」を父なる神に捧げたのです。このように父なる神の「憐れみ」は、たとえ「人」が霊的に失敗し、肉の奴隷の状態に陥ったとしても、聖霊を通して「父の御元に帰って来なさい!そして、神との親しい交わりに再びあずかりなさい!」と召し出していて下さることを、私たちは常に覚えようではありませんか!


 このストーリーから、先ず私たちが「知る」べき重要ポイントは、一度失敗したアブラムが、「アブラハム」へと変革(神によって直接命名)されたにも関わらず、更なる失敗を繰り返したことにあります。今回のストーリーに記述されている、アブラハムの第一の失敗は、以前に父なる神から預言的啓示を示され、「子孫の繁栄」が約束されているにも関わらず、愚かにもアダムがそうであったように、父なる神の命令(命の言葉)よりも、妻(サラ)の意見(肉の言葉)を優先したことです。そして彼は、妻の助言通り更に愚かな行為に至ります。何と彼は、妻に仕えていた「肉の奴隷」である、ハガルとの間に子供を設けました。その結果、「肉の子」イシュマエルが誕生しました。


 しかし父なる神は、アブラハムとの契約を遵守し、サラの胎の中に「霊の子」イサクを授けて下さいました。このようにアブラハムを通して、「肉の子」と「霊の子」の二人が誕生した訳ですが、このことは私たちも同様に、「肉なるもの」と「霊なるもの」が、私たちの内側から産まれ出ることを教えています。「え!?私たちは聖霊のバプテスマを授かっていますから、肉なるものを生み出すことなど絶対あり得ません!」と言い切れる者は一人もいません。私たちには、神を通して選択権が自由に与えられていますから、いつでも簡単に「聖霊様、今あなたはこちら側(助手席)に座って下さい!私が自分の技で運転しますから。」などと、自らハンドルを操作する時に、それが「肉なるもの」を既に産み出している訳です。ですからアブラハムの失敗は、常に私たちの内側にも存在するのです。


二人の「母」の願い
 アブラハムの第二の失敗は、当然彼が二人の子を授かったことにより、二人の妻(嫁)を保有することになったことです。私たち「キリストの花嫁」が、二人の夫(主人)に仕えることができないのと同様に、アブラハムは「肉の花嫁(ハガル)」と「約束の花嫁(サラ)」を、同時に愛することができない「苦境」に陥りました。


 さてイシュマエルが産まれたことで、「肉の子」の母親になったハガルと、その後産まれる「霊の子」イサクの母親サラに関して、この二人の母としての「願い」は何であったのか?この点について、私たちも霊的に学ぶ必要があります。ハガルの場合、サラより先んじて後継ぎ(長子)を出産しました。最初の頃は、全ての既婚女性がそうであるように、純粋に「初子」を授かった喜び(感謝)に浸りながら、今まで通り女主人(サラ)にも仕えていました。しかし、次第にイシュマエルが成長し、主人アブラハムに「息子」として愛され、より大いなる父親の期待が、我が子に向けられて行くに従って、彼女は変わり始めました。つまり「奴隷」としてのハガルから、母親としてのハガルへと、我が子の成長と共に「願い」が変貌していったのです!変貌したハガルの抱く、その思い(欲)の根底にある「願い」とは、少しずつ「真の花嫁(サラ)」の霊的ポジションを奪い取り、いずれは「肉の花嫁(ハガル)」として、アブラハムのパートナーの立場に就くことでした。勿論それは、「肉の子」イシュマエルの存在(権威)によって成立することですが・・・・。


 実は、このハガルの「肉なる願い」は、私たちの霊的フィールドにも存在します。例えば私たちは、神に対して様々な「願い」をもって祈ります。この時、私たちが願い求めるものは大抵の場合、「賜物」や「力」、そして「しるし」と「業」を伴う奇跡など、霊的にも具体的な「現象」を求めようとします。確かに、最初の動機としては「主に、もっと栄光を現したいのです!」、「もっと神の救いの御業が、この地に現されますように!」などという、純粋な「願い」から来る場合もあるでしょう。しかし、次第に父なる神の「御心」を助手席に置き、自分の「願い」を運転席に置きつつあることに、私たちは気付かない場合が多いのです。この時に、サタンが私たちの「肉なる思い」に囁きかけます。「あなたの願いは何ですか?あなたが、もっと大きくなることではないですか?大きく成長して、遂には力ある栄光のポジションに、あなた自身が就くことではないですか?」と。この種の誘惑は、正直言って誰の「願い」の中にも必ず存在します。


 それに対して、サラの「願い」は何だったのでしょうか?サラが当初「サライ」の頃、彼女の「願い」を占めるものは、「いいえ!私のような老婆に、今さら赤子なんて!」などの、否定観念しか存在しませんでした。しかし、彼女は遂に「その時」至りて、聖霊の御言葉通りに「霊の子」イサクを身ごもりました。この時のサラの心境は、如何なる「歓喜」に溢れていたことでしょう!「このはした女に、主は喜びの恵みを授けて下さいました。私の願いは、全てあなたにあります!」と、今度は真心から感謝の礼拝を捧げました。しかし、その度に「肉なるもの(ハガルの願い)」が、彼女の霊性を妨げてきます。ハガルの、度重なる迫害(試練)の中で苦しんだサラは、更に霊的に砕かれて行きました。


 ある面で、サラの「願い」に対して働きかけられる聖霊の取扱いは、「聖別」を表しています。恐らくサラの「肉なる思い」としては、「何よ、あの奴隷女め!奴隷如きの者から産まれた肉の子が、私の愛するイサクの地位を、盗み取ろうとすることを私は絶対に許さない!」などと不快に思いながら、ハガルとイシュマエルに対して敵対意識を抱いていました。しかしその中で、実際にイサクの方が成長も遅いし、何となく主人アブラハムの視線が、イシュマエルの成長ぶりだけに、向けられているのではないか?という疑いから、激しい妬みを起こした時もあったことでしょう。


 この種の三次元的比較思考は、誰の心の中にも存在します。「先生は何故、私よりあの人の意見だけに、優先して耳を傾けるのだろうか?」、「父なる神は何故、私でなくあの人を大きく用いるのだろうか?」、「あんな奴が(たいした器でもないのに) 何故、皆からチヤホヤされながら尊ばれるのだろうか?」などと、自分の「霊」の中で、「肉なる思い」との激しい格闘(葛藤)があります。又「私は純粋に、あなたを求めているではありませかん!それなのに私は、どうしてこんなに惨めな状態にあるのですか?」などと、父なる神に問い詰める過程、実はこれが霊的に「へり砕かれる」上での、最初のステップになります。この時に聖霊様は、「人を(肉の眼で)見るのではなく、父なる神ご自身だけを、霊の眼をもって見るように!」と、私たち(キリストの花嫁)に対して命じられます。同様にサラも、聖霊様から励ましを受けたことでしょう。「あなたは、ハガルとその子に目を向けるのではなく、あなたの胎を開き、そして実際に胎の実を宿らせ、イサクを産み出して下さった主なる神ご自身を、霊の眼で見続けなさい!」と。


 その結果、サラは霊的に砕かれて行きましたが、所詮「肉なるもの(イシュマエル)」と、「霊なるもの(イサク)」は共存できませんから、更に彼女は父なる神に対して、渇き祈り求めました。「どうぞ主よ、私は肉なるものと一緒に居ることができません!私が自分の肉の力で、肉なるものを追い出すことはできませんから、せめてあなたの聖なる安息の中に、私たちを贖い入れて下さい。」と。私たちが迫害や試練に遭遇した時、大抵次のような祈りをします。「主よ、どうぞあの先生(リーダー)を、交替(長老制度の教会において見られるもの)させて下さい!」、「あの者に、もっとあなたの天罰が落ちますように!」など。


 そして実際に、そのような祈りの結果でなくても、少しでも自分の願う(期待する)ような、何らかの変化の兆しが起こったり、その人が悪い事態に陥った場合、「それ見たことか!私は間違っていなかった。私の祈りは聞き届けられた。」と思うことでしょう。しかし、はっきり申し上げておきますが、父なる神はこのような人間の論理(誤った動機)から、願い求めた祈り(因果応報的な願望)に対して、聞き入れることは絶対ありません。主なる神の「御心」は常に、全ての者に対して公平に「愛」と「憐れみ」を注ぎ、主の「御心」に反逆する者だけには、公平な「裁き」を下されます。ですから、サラが仮に主の「御心」に反するような、人間的な祈り(願い)を捧げたところで、父なる神はハガルとその子を、打ち滅ぼすことはありませんでした。


共に「死す」べきものとは?
 父なる神の「聖別(世との分離)」には、「肉なる者」は果して、あずかり得るのでしょうか?この問いは、父なる神の「御心」から離れて、肉なる次元に誘惑され霊的に失敗した者が、神の「憐れみ」によって再び、霊的回復の「恵み」にあずかり得るのか?このことも逆に問い返しています。答えは後述しますが、ハガルにもたらされた神の「憐れみ」は、ハガルの「肉なる願い(人知)」を超えた次元で、神がハガルとその「肉の子」に対して、永遠に変わらぬ「愛」をもって見守り続け、暖かく力強い御腕をもって、彼らを「命の水」の存在する方向へと導かれたことにあります。ですから私たちは、父なる神が全ての面で彼らを回復させるべく、常に導いて下さっていたかを「知る」必要があります。


 ハガルは確かに、主人(アブラハム)とその妻サラの裁断により、「追放処分」という最悪の結果を被ることになりました。この時アブラハムの「肉なる思い」としては、イシュマエルの実の父親ですから、それはとても辛かったことでしょう。母親(ハガル)の悲しみ(訴え)も、それまで聞いてきました。「どうぞご主人様、天幕の片隅にでもいいですから、ここに置いて下さい!今までの無礼を、どうかお赦し下さい!」と。しかし彼は、今度は父なる神の「御心」を優先したので、「それはできないよ、ハガル!何故なら、父なる神は私とサラとの間に産まれた、この霊の子イサクを通して、大いなる国民とするという契約を賜っている。あなたの子ではないのだ!私の肉の情(思い)としては、あなた方を置いておいても構わないのだが、いずれ再び対立し合うことになるから、今すぐここを立ち去りなさい!」と、涙混じりに命じたことでしょう。その証拠として、アブラハムは立ち去る彼らに対して、ハガルが担える程度のものではありましたが、食糧と水を十分に与えました。


 この時アブラハムは、彼女に対して「あなたが本当に、主ご自身を求めるのであれば、父なる神が必ず必要なものを、その時に応じて備えて下さるから、安心して行きなさい!」などと、霊的助言も与えたことでしょう。しかしハガルは、アブラハムの霊的アドバイスを、全く聞いていませんでした。「何故ご主人様は、私たちを追い出したのだろう!」などと苦々しく思いながら、荒れ野をトボトボ歩いて行きました。最初の頃は「水」がありましたから、未だ元気に歩き進むことができました。しかし数日経ち、次第に「水」と「食糧」が底を尽き始めた時、彼女は「もう駄目だ!」と、その場に座り込んでしまったのです。


 ここから私たちが、霊的に学ぶべき最重要ポイントは、ハガルは「命の水」が尽きた時、如何なる行動(態度)を採ったか?ということです。私たちも信仰の歩みをしていく中で、天から「命の水」を流して(注いで)下さる、聖霊様との「親しい交わり」が途絶えてしまう程の、霊的な苦境に陥った場合、私たちは果して如何なる行動に移るのでしょうか?その時私たちは、「命の水」を与えて下さる方に、霊の眼を向けるべきです。「神は私たちに無いものを、天から与えて下さったのであるならば、再び与えて下さるはず!」などと、信仰的態度を表明すること、これが正しい信仰の選択(行動)です。しかし、彼女にとって「命の水」は、単なる主人が施したものであり、三次元的な捉え方をしたに過ぎませんでした。


 霊的な「命の水」を慕い求める者は必ず、「霊的なもの」を与えて下さる方を求めて前進して行くのですが、三次元的な「世の水」を飲み続けている者の場合、それが無くなった時に「革袋の水が無くなると、彼女は子供を一本の潅木の下に寝かせ、・・・・矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。」(15〜16節)という、愚かな選択をするのです。ぐったりとなった愛する我が子を、照りつける強い日差しから守るために、ハガルはこのような行動を採ったとも解釈できますが、「死にゆく」我が子が、強い日差しの下に置かれるより、せめて日陰の中で少しでも涼しく(殆ど涼しくはないのですが・・・・)、臨終の時を迎えられるように!との、母親の「愛情」から生じた行動ではないでしょうか!このハガルの行為は、確かに「人間の愛」としては素晴らしいものですが、聖霊様は厳しく指摘します。「ハガルは、我が子イシュマエルが死に行く様を、まともに見ることができないから、自らは遠く離れた所に座り込み、何もできなくなっただけです。」と。


 さて私たちは、自分の愛する者(子、親、伴侶など)が、もはや死ぬ運命にあると分かった時、如何なる行動を採るのでしょうか?ハガルのように、見るに忍びないからと言って、愛する者から離れるでしょうか?私でしたら日陰が無くても、せめて最後の一時(ひととき)まで、自ら愛する者の「覆い」となります。仮に自分が日射病(熱中症)になり、先に死んだとしても、愛する者を必死に守ろうと努力するはずです。つまり、できるだけ「共に居る」ことに命を賭ける、これが「真実の愛」です。しかしハガルの場合、「共に死す」行為ではありませんでした。これは非常に重要な奥義です。聖霊様は、私たちの「霊」の中にも、「肉なるもの」が存在することをご存知です。そして、表現としては残酷になりますが、私たちの「肉なるもの」、例えば「肉なる願い」などを、あえて聖霊様は「殺す」時があります。つまり、霊的に「聖める」ことがあるのです。その時に、あなたの「霊」は何処に在りますか?


 具体的な例えで説明しましょう。あなたには、素晴らしい優れた賜物があり、その賜物を通して神の栄光を豊かに現す、「器」として益々用いられているとします。ところがある時、その賜物を主ご自身が奪い取り、あなたは突然用いられなくなります。その時、あなたならどうしますか?「私は、せっかくこの賜物を用いて、神の力ある業(ミニストリー)を為してきたのに・・・・。もはや、今の私には何も無い!もう駄目だ。哀れな自分を見るに耐えられない!」と、ショックの余り神との「親しい交わり」、即ち霊的「至聖所」のポジションから遠く離れるでしょうか?私たちが信仰の歩みをしている中で、試練(迫害)や苦難(苦しみ)に遭遇した時、霊的に自己憐憫などに陥ることが、ある面でこれに相当します。


 この時の、自分の「霊」は何処にあるのかと言えば、大抵「自我(エゴ)」という要塞に立てこもっているだけです。しかし「賜物」や「召し」など、神が与えて下さる全ての「良きもの」は、「天」から賜った「恵み(恩寵)」であると、へり下って受け留めている者にとって、「あ!分かりました。私の役目は終わったんですね、主よ。私は、あなただけを待ち望んでいます。次なる霊的指示を与えて下さい!」などと、必ず感謝して祈り進み続けます。このような人は、「賜物」のみを求めているのではなく、「賜物」を与えて下さる方ご自身を求めていますから、何があっても聖なる霊的ポジションから、離れることは決してありません。


 このように、聖霊様が私たちに取扱われる「聖別」は、私たちの中に必ず「肉なる部分」が存在するため、それら全てを自我と共に死すようにと、願われているから為されるのです。ハガルはこの聖霊様の取扱いに、へり下って従順することができませんでした。彼女が本来為すべきことは、「肉なる子」と共に死すことでした。そうです!私たちは、「自己(我)」にも死ななければなりません。「肉なるもの」だけを、聖別して下さるように祈り求めるのではなく、私たちの「霊」の中に巣くっている「我(私という意識)」も、「贖いの子羊(イエス・キリスト)」と共に、祭壇上で焼き尽くされなければならないのです!


二種類の叫び声(求め方)
 父なる神は、母親ハガルの悲しみの叫び声か、それとも「肉の子」イシュマエルの、言い難き苦しみの声の、どちらの「泣き声」に耳を留められたのでしょうか?ハガルの「泣き声」の根源(本質)は、自分(私)の人生における不遇を呪い、「何故私たちは、このようになってしまったのか?全てはイサクの誕生のせいだ!あー愛する我が子が、今にも死のうとしている。可哀想に、可哀想に!私の悲しみは、誰にも聞き届けられない!私たちは死ぬだけだ。」などという、自分の悲しみの大きさを嘆くだけのものでした。普通の母親でしたら、子供の苦しむ叫び声に対して、嘘でもいいから「お母さんが付いているからね。必ず助けてあげるからね!」などと励ましつつ、「誰か助けて下さい!」などと、共に必死で叫ぶはずです。ところがハガルは、我が子の「泣き声」を聞くことができないほどの、「自己の悲しみ」の中に打ちひしがれていました。


 それに対して少年イシュマエルは、「何」を求めて泣き叫んでいたのでしょうか?「あーお母さん!僕は喉が渇いて、もう我慢できないよ!」という、とにかく喉の渇きを少しでも潤すことのできる、「命の水」を求める純粋な叫びではなかったでしょうか!私たちの「肉なる部分」は、確かに聖別されなければならない状態にあります。しかし、私たちが忘れてならない重要な真理は、この「肉なる部分」も本来は、罪を犯す以前のアダム(エバ)に備わっていたものであり、それは主なる神を純粋に慕い求め、天から流れる「命の水」を渇き求めるという、聖なる思い(欲)が将来的に回復されるよう、私たちの「霊」に残っているのです。


 私たちの「霊的フィールド」が、アダム(エバ)の罪故に汚されているから、本来備わっていた純粋に渇き求める「思い(欲)」自体も、罪の汚染に毒されているのです!ですから聖霊様は、私たちが更に「霊の井戸」を掘り下げるように、日々要求して来るのです。イシュマエルは、ひたすら「水を与えて下さい!」と叫び求めました。その結果父なる神は、ハガルの悲痛な「泣き声」ではなく、「肉の子」の純粋な「叫び声」に耳を傾けられ、聖霊に対してGOサインを出され、御使いを遣わされたのです。そうです!父なる神は母親ではなく、その子の「叫び声(願い)」を聞き入れられたのです。


 私たちの「肉なる領域」、つまり「自我」の中には、確かに「汚れたもの」が多く存在します。しかし本来の「肉なる領域」は、主なる神ご自身を求めて止まない霊的飢え渇きがあり、聖なるポジション(神との正しい関係)に立ち返りたく、霊的回復を求めて止まないものがあるのです。それ故聖霊様は、「あなたの心から霊に至るまで、全ての状況を見張りなさい!それがどちらの方向を求めて飢え渇いているのか、そのことを注意深く見張っているように!」と警告して下さいます。特に霊的苦境に陥った時、私たちはハガルのように、愚かな信仰の行動を選択しがちです。ですから、聖霊を通して常に「聖別」されることが求められるのです。ペテロも然り、イエス・キリストの弟子(使徒)の全員がそうであったように、全てのキリスト者は、日々聖別されて行くべきです。


 しかし最終的には、イエス・キリストと同様に、「私自身の全てを捧げます!」と告白することで、完全な「聖別の道」、つまりイエス・キリストと「共に十字架で、自己に完全に死す!」という恵みにあずかることができます。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱きしめてやりなさい。私は、必ずあの子を大きな国民とする。」(17〜18節)


 使徒パウロの手紙(ローマ書)によれば、私たちの内なる領域では、「肉なるもの」と「霊なるもの」が、常に格闘している状態にあります。大抵「肉なるもの」が勝利しているのですが、父なる神の「聖別」が始まりますと、「肉なるもの」はズタズタに打ち負かされます。その結果「肉なるもの」が砕かれて、まるでこの時のイシュマエルのように、衰弱しきった状態になります。


 その時に聖霊様は、私たちの砕かれた「肉なる領域」に対して、言い難きうめきをもって命じます。「とにかく、あなたの自我から来る肉なる思いの全てを、主なる神に捧げなさい!主イエス・キリストの、貴い十字架の下に持って行きなさい!あなたが主イエス・キリストの、力強い愛の御腕に抱かれなければ、あなたの肉なる思い(願い)は、いつまでもボロボロですよ。さー、あなたの肉の心全てを主に捧げなさい!」と。これが、18節の御言葉の霊的奥義です。聖霊様による、この「とりなしの言葉」に私たちが従った時に初めて、霊的回復(変革)がスタートし始め、本来の霊的ポジションに立ち返ることができます。そうです!今私たちの前に置かれた試練の壁を、聖霊を通して通過させて戴くことで、私たちは必ずもっと更に「上」にある天的なもの、つまり最終の霊的ポジション(至聖所)に至ることでしょう。ハガルはこの御言葉を聞いた時に、ようやく聖霊を通して「霊の眼」が開かれました。


「命の水」が見えますか?
 父なる神を通して、再び天の「恵み」を戴いた結果、ハガルは「霊の眼」が開かれ、「命の水」の潤う井戸を見出すことができました。これは、非常に素晴らしい真理です。ハガルはそれまで、神の「恵み」が全く見えませんでした。何故なら、余りにも「この世」から来る悲しみに、「霊の眼」が覆われて(支配されて)いた為、「行けども行けども、私が見る限り砂漠だけではないの!何処に命の水が在るのかしら?」などの否定観念に捕われるなど、彼女は神の「恵み」を見出すことができなかったのです。しかし何と、彼女が悲しみの余り塞ぎ込んでいた現場から、数十mも行かない丘を下っていった所に、神のオアシス(井戸)が存在していました。


 私たちが、自分の内側から聞こえてくる「肉の声」に聞き従った為、正しい信仰の道から逸れた時にも、霊的ガイダンスを為される聖霊様が、実は私たちの側近くにおられることを、あなたはご存知でしょうか?私たちが、霊的な試練(迫害)や苦難に逢えば逢うほど、聖霊様は私たちの「霊」の内側へと、最接近して下さっていることに、霊的に鈍感な私たちは気付いていません!何故なら、私たちが「自我」にしか目を向けていないからです。つまり、自分の今の「悲しみ」や不遇な「現状」、または逆に自分が用いられた時の「思い出」や「栄光」などにしか、私たちは関心を向けようとしません。このような「自我」を求める聖職者が、悲しいことに増加しています!


 主ご自身が、自分に対して何を語ろうとしておられるのか?そのことに耳を傾けようともしない、又愛する主イエス・キリストの御顔が、自分の前に置かれているのを見ようともしない、只見るのは「下(この世)」ばかりで、「私は何と惨めな者だろう!」などと不平(不満、愚痴)をこぼす、そのような「肉なる次元」に留まるのではなく、「あなたの目の前には、生ける命の水が溢れているではありませんか!豊かに流れ出る、神の恵みのサウンドを聞きなさい!」と促しておられる、聖霊様の御声に聞き従う時、ハガルとその子イシュマエルに起こった、霊的回復(変革)の恵みに、私たちもあずかることができるのです。


 主なる神の「憐れみ」は、何と素晴らしいことでしょうか!「肉の子」イシュマエルは、天から賜った「命の水」を飲むことで、再び元気(活力)を取り戻したのです。聖霊様は、全てのキリスト者に対して、たとえ一度失敗(罪)を犯した者であっても、平等に励ましのメッセージを投げかけています。「失望してはなりません!あなたの信仰は、上(天)からの力によって必ず回復します。決してあなた自身の肉の力によって、完成することがないように!あなたが目を向け、そして求め続ける霊的ポジションは、天に居ます主なる神との親しい交わりだけです!」と。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する