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命と心の健やかなる成長のために!
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信仰の完成(No.31)

                       エルサレム城の礼拝




エルサレム城壁の奉献に際して、人々は、あらゆる所からレビ人を求め、エルサレムに来させて、感謝と祈りと、シンバルや竪琴や琴に合わせた歌をもって、奉献式と祝典を行おうとした。・・・・祭司とレビは身を清めた上で、民と城門と城壁を清めた。私は、ユダの長たちを城壁に上らせ、二つの大きな合唱隊を編成した。一隊は城壁の上を右へ、・・・・他の一隊は左に向かった。・・・・こうして二隊は神殿の中に立ち、私は役人の半数と共にそこに居た。・・・・その日、人々は大いなる生贄を屠り、喜び祝った。神は大いなる喜びをお与えになり、女も子供も共に喜び祝った。エルサレムの喜びの声は遠くまで響いた。・・・・ゼルバベルの時代と、ネヘミヤの時代のイスラエルの民は皆、毎日詠唱者と門衛に生活の糧を提供した。また、レビ人には奉納物を与え、レビ人はその奉納物をアロンの子らに分け与えた。
                                                                                【ネヘミヤ記12章27~47節】


最大の歴史的「イベント」
 いよいよ、エルサレムの「城壁」と、「城門」が完成する段階に至って、ネヘミヤ自身が「敵」の存在を、さほど意識しなくなっていることが伺えます。その理由は、「敵」に対する恐れを消す程の、主なる神に対する、聖なる「思い」が増しているからです。


 即ちイスラエルの全家を、神が麗しい「新しい段階」へと、更に豊かな「方向性」の中で取扱って下さる!という、ネヘミヤの全き信仰(信頼)により、マグマの如くに沸々と湧き上がるものでした。


 そして「敵」が何処に存在するのか?そのことも分からない程の、霊的高揚の中にある中で、ネヘミヤは最大の「イベント」が、まさしく目前に迫っている、「その時」に向けての行動を開始することになります。


 ネヘミヤ記の11章及び12章の前半には、エルサレム城内に様々な人々が移り住み、行政的にも拡大していることが記されています。何故エルサレムに、多くの人々が移住して来たのでしょうか?ネヘミヤが総督として、「総督令」を発布した訳でもありません。


 ご存知のように、ある場所に「住む」とは、その場所に素晴らしいもの(良い環境、安息、繁栄等)があるから、そこを生活の拠点として選ぶ(住むことを定める)ことです。この時に、エルサレムに移住した人々の「動き」を見ますと、ネヘミヤと同様に聖霊様の導きの中で、歴史的「大イベント」が迫っている、それをキャッチしたからこそ、そこを選んだ(住むことを定めた)のです!


神の「新しい時」を待ち望む備え
 民族的「悔い改め」の後に、聖霊様がイスラエルの民に臨んだ、その聖なる取扱いは、更なる「高み(霊的次元)」へと前進し、主なる神に付き従って行くことです。即ち次(の時代)に来る、神の「新しい時」に向けて、喜びをもって待ち望む、また備えておく、これが問われるのです。


 さて私たちは、主日(安息日)を迎えるに当たり、この時の彼らの如くに、果たして霊的高揚をもって、「礼拝」の時を待ち望んでいるでしょうか?その時に一番大事なことは、前日の「土曜日」の過ごし方です。土曜日を「けじめの時」として、身も心も全て聖別し、また霊的に美しく整えることです。しかし「現実」の私たちは、一週間を経て行く中で、はっきり申し上げて、身も心も「くたくた!」です。


 そのような弱き私たちに対して、今回の記事の中で、二つの霊的奥義が語られています。第一に聖霊様に導かれるまま、祭司及びレビ人が自分の身を聖め始めたことです。第二に「聖め」を行った後に、①民→②城門→③城壁の順番で聖別し祈ったことです。つまりエルサレムの「要め」は、物理的な「城」の堅固さにはなく、「民」全体の「聖さ」にあるのです!


 遂にネヘミヤは、今回の「イベント」に至りて、不思議な行動を取ります。先ず第一隊に命じて、城壁の上部を右側へ、第二隊は左側へと、それぞれ配置させました。ちなみに各隊には、ユダ族の長たちと合唱隊が配置しています。そして城壁の下部には、イスラエルの民全員が、群れを成して集合しました。


 続いて神殿の中央において、ネヘミヤは祭壇上に「生贄」を捧げ、それから祭司たちが「詠唱」し始めます。するとラッパの号令と共に、左右に配置している合唱隊が、まるでステレオ・サウンドの如くに、両方から賛美を歌い出し、民全員も一斉に(一体となって)、「賛美」と「感謝」の声を上げたのです。


 そうです!この大いなる「賛美」礼拝が、主なる神の「御心」を動かし、天からの「幸(祝福)」を呼び起こしたのです。その結果、女も子供も共に喜び合い、このエルサレムの「喜び」の声(サウンド)は、遥か遠くまで響くことになったのです。


「ダビデの幕屋」の回復
 これが今回の「イベント」の根幹、即ち真実の「礼拝」の回復の時でした。城の内外に「敵」が存在していても、全くそれを気にしない程の、神の麗しい「臨在」にひれ伏し、聖なる取扱いに全てを委ねるという、本来の神の宮(ダビデの幕屋)が、正しい「姿(エルサレム)」となって、この時に回復したのです。


 そして、「イベント(儀式)」が一旦終了した後に、配置していた合唱隊が城壁から降りて、イスラエルの民と合流した時、ネヘミヤは各役職の人々に対して、次のように祝福しました。「ダビデの幕屋が回復した、まさに今日から、この聖なる務めを、ずっと継続しようではないか!祭司及びレビの皆様方も、この儀式を絶対に疎かにすることが無きように!合唱隊、また門衛隊の皆様も、同様である。」


 すると民全体が、この時を待っていた!とばかりに、次々と「献げ物」を携えて来ました。そうです!彼らは強制されて来たのではなく、神の麗しい臨在を求めて、喜んで捧げる行為に及んだのです。この「イベント」に関しては、何の「予算」も「計画性」も無いのですが、「献げ物」が尽きることがありませんでした。


 さて、私たちも今回の奇跡の「記事」から、自分の「霊」のボ-ド(刻み板)に、常に焼き付けるべきデザインがあります。それは私たちが目指すべき最終的な霊的「姿(在り方)」、即ち「ダビデの幕屋(真実の礼拝)」の回復です!「その時」が如何なる時期なのか、私たちには分からなくても、「ダビデの幕屋」の回復という、神の「新しい時」が、着実に近づいているからです!


 ですから私たちも、この時の各奉仕隊の如くに、エルサレムの城壁の上を右に、左にへと、着実に一歩一歩進軍していることを、是非信じて下さい!「その時」至りて、大いなる「天上の窓」が開き、エルサレムの城門から、一斉に聖なる賛美の号令が発せられる、その日に向けて、私たちは日々前進しましょう。


 もう一度、繰り返し確認しますが、「ネヘミヤ記」は私たちにとって、決して過去の「歴史(記録)書」ではありません!「ネヘミヤ記」は、神が直接招集した(呼び集めた)、「エクレシア(真の花嫁)」に対する、神の「デザイン」が描かれている、言わば霊的設計図書です。


 ですから私たちが日々為す、霊と真による「真実の礼拝」が、更に研ぎ澄まされて参りますよう、また一人一人が互いに聖められるよう、各自が祝福し合って祈り求めて下さい。「あなたは必ず、神の素晴らしい花嫁になります!神の麗しい次元を語り、麗しい声をもって神を賛美する、キリストの花嫁だからです。」と。


 イエス・キリストの豊かな臨在が、あなたの捧げる「祈り」と、日々前進する「信仰」の歩みの上に、麗しい「天上の礼拝」として現されますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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