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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

信仰の完成(No.30)

                              七つの誓約




これら全てを顧みて、私たちはここに誓約して書き留め、私たちの高官、レビ人、祭司の捺印を添える。・・・・この地の民と関係を断って、神の律法のもとに集まった全ての者も、・・・・主の戒めと法と掟を全て守り、実行することを誓い、確約するものである。①私たちは、娘をこの地の民に嫁がせず、彼らの娘を私たちの息子の嫁にしない。②私たちは、・・・・安息日と他の聖なる日には買わない。③私たちは、七年毎に耕作を休み、あらゆる負債を免除する。④私たちは、神殿での奉仕のために、年に三分の一シェケルの納入を義務として負う。⑤私たちは・・・・毎年定められた時に、神なる主の祭壇の上で燃やし、各家族が順番に薪を・・・・神殿に納める。⑥私たちは、地の産物の初物と・・・・私たちの息子の長男も、私たちの家畜の初子も・・・・捧げる。⑦私たちは決して私たちの神殿を疎かにしません。
                                                                                            【ネヘミヤ記10章】


「署名」と「捺印(刻印)」の持つ意味
 私たちが、何か大きい取引をする際には、①自分の姓名、②実印をもって、契約書等の書類に記載(捺印)しますが、自分の「名」というものは、普段は余り意識しませんが、非常に重要な「役割」を持っています。


 今回の記事は、聖霊様が常に私たちの「名」を呼び、その「名」をもって、ある刻印を押して下さることを、奥義として物語っています。その刻印、即ち「十字架上で屠られた、貴い子羊(イエス・キリスト)の血潮の印(血潮)が、この者には刻まれています!」と、聖霊様が高らかに宣言される時に、主なる神は「お-!まさしく、これは事実である。この者は、御子の花嫁であるから、遠慮なく(至聖場に)入って来なさい!」と、契約を実行されるのです。


 ところが、次のことも私たちは知っています。天国の国籍を保証する、イエス・キリストの花嫁という、立派な身分であるにも関わらず、私たちはこの貴い「神の事実」を忘れ、自分勝手な道を歩む癖があること。


 今回の記事には、イスラエルの全家が、七つの「誓い(誓約)」を、神の御前で交わしたことが描かれています。実は聖霊様も、私たちが霊的な「誓約書」を、常に主なる神に対して署名するよう、様々に働きかけておられます。


 私たちが、ある「契約書」に署名する際には、注意しなければならない点があること、即ち「違反規定」の内容を必ず周知することです。ところが、今回の七つの「誓い(誓約)」には、その「違反規定」が記載されていません。何故ならば、ネヘミヤを始めとして、イスラエルの民の全てが、これ以降の神に対する「違反」は、決してあってはならない!つまり違反イコ-ル、神の「救い」の放棄(死)を、覚悟したのではないでしょうか。


 私たちが十字架の御前に出る時、本来は「出ることが出来ない程の有罪人!」という意識は殆どありません。どちらかと言えば、「また罪を犯してしまいました。どうぞイエス・キリストの贖いにより、この私を再び赦して下さい!」等と、むしろ出易い(祈り易い)意識で、神の「救い」を乞い求めます。そして、今回の信仰告白に見られる、「二度と罪を犯しません!」等の誓いの言葉で祈ることは、滅多にないでしょう。


 高官の代表として、ネヘミヤと副官のヒドキヤ、また祭司が21名、レビ人が17名、民からの各代表が45名、これらの者が順番に「誓約書」に署名する訳ですから、これは非常に時間を要するものでした。最初に署名したネヘミヤ本人が、非常に心配したのではないでしょうか!「彼らは本当に大丈夫だろうか?この私も総督として、果たして最後まで任務を、忠実に完遂できるだろうか?私を含めて彼らの中に、仮に愚かな行為を再び為す者がいたら、もう終わりではないか!」などと。


七つの「誓約」
 具体的に、彼らが果たすべき七つの「誓約」とは、どのような内容(規定)でしょうか?それは別に難しいことではありませんが、「肉の歩み」を彼ら(私たち)が優先しますと、七つの「誓約」は難しくなってきます。しかし私たちが持つ、その「肉」の弱さを超えて働かれる、聖霊様の「助け」と、主なる神の「御力」の元に、私たちが謙虚に従って歩むのであれば、それは果たすことが可能になります。


 私たちの「行動」は、全て「霊」が発する、私たちの強い「意思」から始まります。この「霊」の発する自由意志を与えた方は、主なる神ご自身ですから、私たちはそれを自由に使ってもよいのですが、「主よ、私は二度と罪を犯したくありません!肉の次元に生きることに耐えられません。どうぞ、この弱き私を救って下さい!」等と、必死に乞い願うのであれば、私たちは必ず贖われます。


 先ず第一の「誓約」とは、「異邦人と絶対に交わらない」(31節)ことです。この誓いは決して、彼らとの「交易(商い)」を禁じるものではなく、彼らとの血縁(姻戚)関係に組することを禁じるものです。


 さて「世の終わり」の時代には、異なる(異邦の)「教え」が登場してきます。その時に、 私たちが「彼らの言うイエス様像も素晴らしい!」などと、知識(情報)として取り入れて行きますと、福音書が示す一番大事な「真実(真理)」が、必ず歪められて行くことになります。


 それ故に私たちは、正しい「真理」を見極める、「霊の眼」をもって、「私」と「イエス・キリスト」との、正しい関係(霊的つながり)を証言するなど、真実の「イエス・キリスト」を伝えて行く、これが「異邦人と絶対に交わらない!」という、私たちの「誓い」になるのです。


 第二の「誓約」は、「安息日に売り買いしてはならない」(32節)ことです。仮に「安息日」に、どうしても仕事があるのであれば、「いつか離れることが出来るよう、私を助けて下さい。私は必ず(束縛から)離れます!」と、真剣に祈り求めるべきです。


 第三の「誓約」は、「六年間耕作し続け、収穫を得た畑は、必ず七年目には一年間耕作を休み、また七年毎に負債を免除する」(32節)ことです。これ(6+1=7)は主なる神が定めた、「祝福」にあずかる法則(公式)です。このシステムは、一見「矛盾(不可能)」な方法に見えますが、あくまでその「目的」は、「儲け」におごらず、イスラエルの同胞を相互に助け合う、神の家族としての生き方を優先するためのものです。


 第四から第六番目の「誓約」(33~40節)は、献げ物に関する規定です。神殿に捧げる「奉納物」は、決して義務的な行為ではなく、あくまで神に対する「信仰」の表明です。そして何よりも、自分の「罪」が贖われたこと、日々の糧が与えられていることを感謝する、最後は「レビ人」に対する「報い」として捧げるなど、イスラエルの共同体全体で、「献げ物」を捧げるシステムが、この「誓い」を通して、再び回復し始めたのです。


 最後の第七の「誓約」は、「決して自分たちの神殿を疎かにしない」(40節)ことです。この「疎かにする」とは、原語では「ネグレクト」を意味します。具体的には、自分の「欲」を優先するあまり、「神」中心の霊的生活(交わり)を「後回しにする」ことです。「礼拝」という行為は、物理的に「出席」することは簡単ですが、「神」中心で生きるという、この霊的生活は中々為し得ないことです。


 しかし私たちの「歩み」を、確かなものとして下さる主なる神が、聖霊様を通して、一つ一つ聖別された方向性の中で、私たちを日々聖め、取扱って下さいます。「弱さ」を覚えるのであれば、「主よ、どうぞ安息日を守り通すことの出来る、あなたの御力を与えて下さい!」と、素直に祈ることが出来ますように。また「神の宮」を常に心の中に描きましょう。そこに座しておられる方は、麗しい花婿イエス・キリストです!


 イエス・キリストとの「親しい交わり」が、あなたの「信仰生活」と「祈りの場」において、聖霊様を通して豊かに現されますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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