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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の時(No.24)

                 救いの記念日を尊びなさい!
 



その夜、私はエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国の全ての初子を撃つ。また、エジプトの全ての神々に裁きを行う。私は主である。あなたたちの居る家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、私はあなたたちを過ぎ越す。私がエジプトの国を撃つ時、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々に渡って守るべき不変の定めとして祝わなければならない。
                                                                                             【出エジプト記12章12~14節】
 
 ご存知のように、全ての被造物の中で私たち人間だけが、「時間」というものを様々に意識しながら生きています。この素晴らしい特性を覚えながら、私たちの「脳」の中にある、「記憶」の領域の中で、実は私たちが非常に大切にしなければならない、「霊」の記憶の領域に働かれる、主なる神の「取扱い」について、私たちは学ぶ必要があります。
 
 しかし、それと同時にサタンも、私たちの「記憶」の領域において、私たちが思い起こしたくない、様々な悪しき「体験(経験)」や、「傷」などを掘り起こしては、私たちを霊的にコントロールし、私たちが神の「正しき道」へと、前進するのを阻んでいることをも、私たちは知っておくべきです。
 
「時」を大切に扱う
 父なる神は、いよいよ私たちキリスト者に対して、「この世」という霊的エジプトの支配から、脱出させようと計画しています。その「脱出の時」に当たり、私たちは大いなる霊的大収穫を束ねて、霊の故郷「カナン(御国)」へと旅立って行く訳ですが、「その時」に私たちは、実際「何」を携えて行くのか?が問われます。
 
 すると熱心なキリスト者たちは、即答することでしょう。「勿論、それは多くの魂です!私たちは多くの人々を、主イエス・キリストの救いへと、刈り取ることが目標です。」などと。それも大事なことですが、同時に私たちの「記憶」の中にある、主なる神が定めた「麗しい時」というものを、神の「時」の法則の中で、重要な時の「記憶」として、正しく刻んでいくことが問われます。
 
 「時」というものを甘く考えます(見なす)と、私たちは実際の「生活」面において、いい加減な体質になって行きます。神が与えた、この大切な「時」というものを、私たちが無駄に過ごしますと、それはサタンの「虜(とりこ)」になることでもあるのです。ですから神の「救いの時」、また「恵みの時」を忘れ去ってしまうこと程、恐ろしい事態はありません。神の「救い」の記念日は、実は全てのキリスト者に対して、毎日用意されていること、これを先ず覚えて下さい!
 
 余談になりますが、皆さんの中で「聖霊体験日」や、「受洗(新生体験)日」などを、「それは〇〇年〇〇月〇〇日〇〇時〇〇分です!」と、正確に記憶しておられる方は、どれ程いらっしゃいますか?殆どの方が私を含めて、正確さが不十分だと思われますが、さほど「人の時」としては、忘れていても問題ありません。大事なことは神の「救い」と、「恵み(油注ぎ)」の時は、日々用意されており、求める者に「刻々」と与えられこと、これだけは忘れてはなりません!
 
 そして私たちは、神の豊かな「祝福」を授かった時に、更にそれを多くの人々に語り伝える、即ち「証言の時」が用意されていることを、是非覚えておいて下さい。と言うことは、私たちが「証言」する、その時に向けて、私たちも小さな「使徒」として、「証言内容」を記録していくべきではないでしょうか!何故なら「その時」には、真の神を求める多くの魂が、あなたに対して具体的に聞いてくるからです。
 
神の「救い」と「恵み」を記録する
 「今」まさに、神の「救い」を求める人々に対して、神の生きた、それもずっと継続している「証言」が、絶対に必要となるからです。それが今回の「過越祭」の霊的奥義です。この「祭り」は、旧約に生きるイスラエルの民に対しては、確かに「年に一度」行えばよい行事です。しかし、新約においてイエス・キリストは、ご自分が十字架上にて、過越の生贄として屠られるに当たり、「私の救いの時を、いつも思い起こしなさい!」と、弟子たちに命じられました。
 
 神の「救い」を思い起こすこと、それは毎日(日々)の霊的業務(責務)です。主なる神の驚くべき「御恵み」によって、私たちが生かされていることを、日々思い起こすが故に、私たちは大胆に生きること、そして前進することが出来るのではないでしょうか!このように、イエス・キリスト(子羊)の聖なる「血潮」は、信じる私たちキリスト者の額に、霊的に刻印されている(塗られている)のですが、それと同時に私たちの「体(生ける神の宮)」にも、霊的に塗る(注ぐ)必要があるのです。
 
 そうすることで初めて、「この世」がもたらす、様々な「惑わし」や「汚れ」などの災いから、完全に過ぎ越されるのです。そうです!私たちキリスト者には、イエス・キリストの聖なる「血潮」を使用する、大いなる霊的特権(権限)が与えられているのです。この「血潮」を使うだけで、神の国の大いなる「御力」が、地上に拡大して行くことになります。
 
 「過越」という、大いなる神の「御恵み」を祝うこと、これは主なる神が定めた不変の定めです。つまり、永遠に変わらざる「定め」のことです。と言うことは、私たちが為す「礼拝」も、天国に向けての準備段階に当たります。ですから「毎日」為すべき礼拝の中に、「過越祭」も含まれているのです。
 
 それ故に私たちが本来為すべく、「過越」の恵みに対する「証し」というものは、イエス・キリストの十字架の「血潮」の恵みと、その裂かれた「御体」の祝福があったからこそ、自分は「今」このように立つことが出来るなど、主なる神に対する、シンプルな「感謝」の姿勢を表すこと、これで十分です。
 
 私たちはイスラエルの民と同様に、神による日々の「恵み」を、具体的に書き記す(残す)という務めがあります。私たちの人生には、必ず神の「介入(取扱い)」によって、重要となる「節目の時」が備えられています。それは、大いなる「悲しみの時」かもしれません。或いは、一方的に注がれる「恵み(祝福)の時」かも知れません。主なる神は、私たちの小さな実生活の「渇き」まで、漏らすことなく熟知しておられます。
 
 いずれ私たちは、神の大いなる「証言台」に立つ時が来ます。それ故に、私たちの日々の「証言集」、つまり霊的成長の日記(記録)が、いつか重要となって来るのです。そしてこれから、神による大いなる出来事が次々と起こりますから、私たちは絶対に(それを)、書き洩らすことがありませんように!
 
 あなたは、イエス・キリストの「救い」を束ねる収穫人です!「エジプト(この世)」を脱出するプロセスの中において、必ず主イエス・キリストが「あなた」を、麗しいイエス・キリストの花嫁として、霊的に聖めて下さいます。その「聖め」の記録も、事細かく書き記しておいて下さい。後々その記録集が、今後救われて来る人々の霊的歩みに、大いに役立つことになるからです。そういう意味で、私たちが正確に「時の記録」を残しているのであれば、その全てが有効的に用いられることになります。神が与えた一つ一つの「時」を、大事に用いて下さい!
 
 主なる神の豊かな「救いの時」が、イエス・キリストの不変の「御恵み」を通して、あなたの日々捧げる礼拝の中に、益々注がれますように!そして、更に聖霊様による「取扱い」を受ける中で、様々な「過越」の恵みが与えられていることを、「神の時」として記録することが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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