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命と心の健やかなる成長のために!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の時(No.2)

                 嵐の中でも安眠できる信仰




主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった。船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ、積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした。しかし、ヨナは船底に下りて横になり、ぐっすりと寝込んでいた。
                                                                                                              【ヨナ書1章4~5節】


「神の定め」に生きる
 父なる神は今回の御言葉を通して、私たちキリスト者に対して、一つの霊的チャレンジを与えています。ご存知のようにイエス・キリストは、荒れ狂う嵐のガリラヤ湖において、おじまどう弟子たちとは対象的に、父なる神の臨在に覆われて、決して起きることが無い程、ぐっすり安眠していました。


 実は今回のヨナの場合も、イエス・キリストと同様のものでした。イエス・キリストの場合と違って、今回のヨナの行動は、大嵐になったことを気付いた状態の中で、慌てふためく船員たちに、何らかの「声かけ」や、「手伝い」等をすることなく、一人で勝手に船底に行き、ベッドに横になり眠ってしまったという点です。つま彼は、父なる神が為される「事」の一部始終を、じっと見守っていた訳です。


 最初の数日間は、海はまるで自分の船旅を祝うかのように、平穏の状態(凪)が続きました。ところが、そうは簡単に問屋が卸しませんでした。今回覚えて戴きたいことは、神が一度命じられたことは、命じられた側(私たち)が不信仰であろうが、「罪」に陥っていようが、責任をもって最後まで面倒見て下さる程に、確実に遂行(成就)される!ということです。確かに私たちの「現実」は、霊的に「この世」の法則に、縛られている愚かさがあります。しかし父なる神は、私たちが世的な法則にではなく、神が決めて下さる聖なる「定め」の中に、生きることを望んでおられます。


 ご存知のように「この世」に生きる人々は、まるで奴隷の如くに、世的な「運命(定め)」に縛られています。しかし主なる神が、私たちに強く約束されることは、私たちが神の聖なる「定め」を受け留め、「神の時」に従って生きることであり、その結果本来の麗しい神との関係にあずかることが、いつでも可能になるのです!そうです!私たちは神の「定め」に従って安心して生きるのか?それとも、世的な「定め」に縛られて生きるのか?それが問われているのです。


「しかし」という神の働き
 「主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった。」(4節)の部分を新共同訳英語訳版では、明確に日本語訳には見られない、「but(しかし)」という接続詞が記述されています。1~3節では、ヨナは別のルートを選択して、神の「御心」から逃げたことが、この世的な「事実」として描かれています。その後に「but」という接続詞を用いていることから、ここに神の大いなる「事実」が、今までとは違った「流れ」として、霊的に描かれているのではないでしょうか!例えば私たちが、人間的に様々な「努力(肉の行い)」を為したところで、父なる神は必ず、ご自分の「しかし」という働きを為される方です。私たちが、この「しかし」を用いる時は、否定的かつ不可能なイメージをもって、人間的に判断する時などです。


 主なる神は今回のストーリーの中で、ヨナに対して二つの大いなる出来事を起こしました。まず第一の出来事、それは「強力な大嵐」を起こしたことです。例えば、私たちの信仰生活の「歩み」は、最初の頃は順調な状態、つまり「凪」の如き状態で前進するかも知れません。ところがある時、大嵐の「強風」が吹いたかの如くに、その「歩み」が揉みくちゃにされる等の、信仰の試練に遭遇する時が多くなります。


 実は、ヨナがこの時体験したのと同様に、私たちの人生にも、聖霊様の大いなる取扱いか為されることを、私たちは改めて知るべきです。つまりヨナの「人生」に対して、聖霊様が大いなる「強風」をもって介入し、本来の父なる神の「御心(正しい航路)」へ、全面的に回帰させる出来事が、この時スタートしたのです。


 すると結果的に、第二の出来事が起こりました。ヨナが乗っていた「船」が、今にも壊れんばかりにバキバキと音を立て、大波が押し寄せ船にぶつかる度に、それを繰り返し始めたのです。そればかりか船上のマストや、針路を操舵する舵などが全て破壊され、もはや大波の中で沈没する、寸前にまで追い込まれたのです。


 この二つの出来事は、まさしくヨナの「歩み」を、神が定めた本来の「ルート(航路)」へと変更させる、神の大いなる霊的介入(取扱い)、つまり神の「しかし」という働きでした。「船」とは、ヨナが決めた「自分の歩み」のことであり、「タルシシュ行き」とは、神の「御心」に反する、「自分の計画」を意味します。それ故に主なる神は、ヨナの「私的なもの」の全てを破壊することで、ヨナの「歩み」を、「肉の力」で確立するのではなく、神の聖なる「定め」の中で、全て放棄するように転換させたのです。この神の大いなる「介入(出来事)」は、この世的に見るならば、「死」と隣り合わせにある非常に危険な領域、つまり危機的状態にあります。しかし実は、これこそが神の「導き」と「守り」の中に、再びヨナが歩み始める転機となっているのです。


 さて「その時」ヨナは、如何なる行動(状態)を選択していたのか?ここに注目することで、神の大いなる「取扱い」に中にあっても、乗り越えることの出来る神の「導き(守り)」に、私たちもあずかることが出来るのです。この二つの神の「事実」から分ることですが、私たちに与えられる如何なる「時」も、「自分の時」ではなく、また「自分の計画」にあるのではなく、更に「自分の人生」と「歩み」のために使うのではなく、主なる神の大いなる「恵み」と「守り」があるからこそ、私たちは生かされている!という点です。それ故に私たちは、いつもこの「真理」を覚えて、如何なる時にも主なる神の御顔を慕い求め、神との「親しき交わり」の中に入ることが重要です。


 ヨナは突然の「強風」が来た時に、既に覚悟を決めていました。「あ、参りました!主よ。やはり、あなたは私のことを、忘れていません(放っておかれません)ね!」と。「主が必ず(私を)掴んでいて下さる!」という、神の大いなる「取扱い」を、私たちは決して忘れてはなりません!


「嵐」の中で安眠できる信仰
 「事」の一部始終を見ていたヨナは、ある決断をします。「しかし、ヨナは船底に下りて横になり・・・・」(5節)船員たちが、自分の「神々(海の神)」に命乞いをする中、ヨナは「あ、いよいよ神が、自分のことを呼んでいるな!」と覚悟を決めます。そしてヨナは、自分の以外の全員が、この世の「生」としての終わりが間近に迫る中にあっても、彼らが異教の偶像に祈り続ける姿を見て、まさしくその光景の中に、自分がアッシリヤに遣わされる、神の「御心(ご計画)」を見出しました。


 ご存知のように今日の世界経済は、今まで経験したことの無い巨大な津波が、ヨーロッパから発生するのではないかと、誰もが危惧しています。そのような最中にあって、いずれ「日本」丸という商船は、まさしくヨナがこの時経験したのと同様に、巨大な津波によって揉みくちゃにされる、国家的危機に直面しているのではないでしょうか。


 そして日本人キリスト者も、ヨナと同様の信仰的行動が、霊的に試される時が来ているのです。それは具体的に、如何なる霊的行動のことでしょうか?私たちが「日本」丸の船底から、真っ先に向かうべき階段、それは既に「天」から降ろされています。そして「事」の始終を見る「霊の眼」も授かっています。私たちが採るべき「決断の時」、それはヨナと同様に、神が定めた運命の時、即ち神の「御心」の時が遂に来たことを悟り、神の「介入」に身を委ねることです!


 ヨナは、他の船員の行動とは全く逆の行動、つまり船底にある自分の寝床に戻り、何も起こらなかったかの如くに、ぐっすりと寝込んだのです。それは船員たちに、あえて自分の行動を見せるためでした。仮に私たちの周囲に、この世的に見て経済的「大嵐」や、自然的な「巨大地震」などが来たとしても、神の「守り」と「介入」により、常に平安(凪)の中を前進するかの如くに、常に守り導いて下さる信仰生活、即ち「その日」暮らししか出来ない場合にあっても、神の麗しい「御守り」の中で、日々感謝を捧げて生きる様を、私たちはこの世の人々に、堂々と見せる時が遂に来たのです!


 「嵐」の中でも安眠できる信仰が、再びヨナの「霊」の只中に復活しました。今後襲来するであろう、世界規模の経済的「大嵐」の中にあって、私たちは人間的な「運命」を見定める必要はありません。また、この世的な「備え(対策)」を講じる必要もありません。私たちの周囲が、経済的に揉みくちゃにされたとしても、私たちは霊的に破綻することがありません!主なる神が直接「御手」をもって、私たちを掴んでいて下さる限り、神の麗しい「守り」の中で安眠できるからです。私たちは、父なる神の「眠ることも無く、まどろむことの無い」熱情の愛と、聖霊様を通して為される、力強い「取扱い(介入)」の中で、いつも生かされているのです!ならば私たちは、父なる神の御前に出ることを、常に求めましょう!


 全知全能の神の「守り」と「導き」により、あなたが常に「嵐」の中でも安眠できる信仰が、更に強められますように。また人間的な備えを、絶対にすることが無いように。むしろ主なる神の御前に進み出て、「天」より注がれる「平安」を戴きながら、神の次なる「介入」に期待する!という霊的備えの中で、日々主の「御顔」を慕い求めて、祈り続けることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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