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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.14)

                全ての門に血を塗りなさい!




イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。「今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、即ち家族ごとに子羊を一匹用意しなければならない。・・・・その血を取って、子羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。・・・・あなたたちの居る家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、私はあなたたちを過ぎ越す。」
                                                                                               【出エジプト記12章3,7,13節】


子羊の「血潮」を塗っていますか?
 聖霊様は、私たち「キリストの家族」に対して、「子羊を一匹用意し、その血を取って、家の門の全てに塗りなさい!」と命じられていることを、あなたはご存知でしょうか?実はこの命令は、私たちが上からの信仰を持って、大胆に実行する時に初めて、神の大いなる「救い」が現れ出てくるのです。私たちが普段語る「言葉」から、考え巡らす「思い」や、実際の手の「業」、踏みしめる足の「歩み」など、それら全ての「行動」の上に、贖いの子羊(イエス・キリスト)の、貴い十字架の「血潮」を塗ることによって、神の大いなる「救い」の御業が現実のものとなる、これがこの「命令」の目的(方向性)を指し示しています。


 私たちは確かに、イエス・キリストの十字架の「血潮」を受け取った時に、全ての「罪」が聖められ、神の「救い」を自動的に付与される、つまり永遠の命を戴く「証明書(資格)」を発行されます。しかし私たちは、この時モーセがイスラエルの全家に、具体的に命じたように、子羊の「血潮」を全ての「門」に、まんべんなく塗るという、霊的行動には移っていません。例えば、私たちの語る「言葉」の戸口(門)は、「唇」のことを指しているのですが、そのような私たちの器官から、実際の行動の全てに渡って、子羊(イエス・キリスト)の「血潮」を注ぎ、まんべんなく塗るという、重要な霊的行動に移らないのであれば、父なる神が「キリストの家族」に用意しておられる、将来の「大艱難」における、「救い(エジプトからの脱出)」には至らないのです。


二つの具体的な命令
 第一の命令である「子羊を用意する」とは、常に「贖いの子羊」イエス・キリストを、信じぬく(全幅の信頼をもって従う)ことです。イエス・キリストは、私たちの唯一の真の神、即ち父なる神の「御子」として、この世に産まれました。それは御子を信じる者が、誰一人として滅びることなく、永遠の命を得るためです。それ故私たちは、イエス・キリストを信じることによって、自動的に永遠の「御国」に入ることの出来る、ライセンス(資格)を得る訳ですが、それと同時に私たちには、この御国のライセンスをもって、「この世」に打ち勝つことの出来る、神の「権威」も授けられていること、この点を常に覚えて下さい!


 この子羊の「ライセンス」を右手に持って、私たちは第二の命令である、「血潮を(戸口に)塗る」という、具体的行動に移行する必要があります。実際にペンキを塗った、経験のある方はご存知のように、塗料缶のペンキを丹念に混ぜながら、対象物の表面に、「刷毛」や「筆」などをもって、むらなく丁寧に塗る作業が必要になります。ですから「塗る」とは、能動的な意味合いを持つ行為で、適当に「刷毛」を使用していれば、何とか仕上げられるといった類の、生易しい行動では決してありません!非常に時間と根気の要る、細かい作業の一つです。


 私たちは三次元的に、「肉の法則」には殆どと言ってよい程、無防備な「器」ですから、いとも簡単に「霊」が、「この世」の色(流れ)に染まってしまう、そんな「門」を抱えています。例えば「思い(予想)」も掛けない、「苦しみ」や「不幸」な出来事に陥った場合、私たちはすぐに「あー、もう駄目だ!あの時、〜しておけば良かったのに・・・・」などと、先ほどまで神を賛美していた「唇」が塞がり、遂には「思い」の中に、様々な否定的イメージを描きます。実は、この時に私たちは、子羊の「血潮」ではなく、私たちの「血肉」から流れ出る、自己中心の「血潮」を、自分の「霊」に塗っている訳です。私たちが、このような自分の血を塗る限り、何ら解決(解放)には至りません。


 しかし覚えて下さい!このような時こそ、子羊(イエス・キリスト)を用意し、その流される十字架の贖いの「血潮」を、あなたの全ての「戸口」に塗るべきです!「私の思いは、今汚れています。不可能だと思える、どうしようもない、やりきれない思い、苦しくて耐えられない程の、恐れに満たされています。聖霊様、どうぞ助けて下さい!今、あなたの命令を信じて、イエス・キリストの血潮を、私の全ての戸口に塗ります。今、イエス・キリストの血潮が、大いなる救いをもたらすことを信じます。どうか聖霊様、今働いて下さい!」と宣言しながら。


イエス・キリストの「血潮」を塗りなさい!
 イエス・キリストは確かに、今から約二千年前に十字架に架けられ、御体を裂かれつつ「血潮」を大量に流されました。これは一見、「過去」の出来事のように思われます。しかしイエス・キリストは、霊的には今も尚十字架上から、人々の持つ「罪」「苦しみ」「悲しみ」「病い」などの、災い全てを担って下さり、ご自分の「死」をもって、全てサタンに決済すべく、血潮を流して働いておられる方です!イエス・キリストが、「命」を引き取れられる前に語られた最後の言葉は、「テテレスタイ(All is over)」でした。この言葉は、「全てのことが過ぎこした!」という意味のヘブル語ですが、具体的には「終了した!」、「完成した」、「成就した」、「決済された」という内容の言葉です。


 あなたの、「過去」から「現在」に至る全てのこと、そして更にあなたの「家族」全員から、関わってくるであろう「人々」、そしてあなたの人生の「将来」全てに渡って、イエス・キリストは十字架上において、その流される「血潮」によって完了し、既にあなたは神の「救い」の中で、勝利の人生を歩んでいるのです。このことは、非常に単純な信仰が無ければ、とても信じることが出来ません。しかし、この単純な信仰をもって、「主よ、分かりました。今私に起こっているこの出来事も、あなたが十字架上で、既に完成している霊的次元にあるのですね。私の為すべきことは、今も十字架から流れ出る、あなたの貴い贖いの血潮を、信仰をもって使用することです!私の今の苦しみよ、お前に命じる。イエス・キリストの十字架の血潮によって、全てが完了している!お前の全てに、イエス・キリストの血潮を塗る!」と大胆に宣言して下さい!そうすればサタンと悪霊は、あなたの霊の「戸口」から、一目散に逃げ出すことでしょう。


あなた方には世で艱難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。
                                                                                                  【ヨハネ福音書16章33節】
 
イエス・キリストは、今も尚ご自身の「はん祭」をもって、あなたの「信仰」を完成しようと、様々に働きかけて下さっています。主イエス・キリストの十字架の「血潮」により、「全て」が完了している!この御言葉を信じる時に、私たちが今まで思い悩んでいた次元、例えば「開かれない!」、「打ち破ることが出来ない!」、「どうしても突き進むことが出来ない!」、「乗り越えることが出来ない!」、「もう無理である!」、「とてもじゃないが我慢出来ない!」などの、全ての「不可能(不信仰)」の領域に、聖霊様は更に命じます。「イエス・キリストの血潮を塗りなさい!」と。私たちがこの「命令」通りに、実際にイエス・キリストの「血潮」を塗り始める時、イエス・キリストの「テテレスタイ(All is over)」が、永遠の命となって流れ始め、豊かに「報い」として返ってくるのです。それは「天上」からもたらされる、神の偉大な「救い」があなたに完成される、「新しい出来事」です!


 主イエス・キリストの「命の言葉」は、ご自身の貴い「血潮」をもって証明されるのです。ですから私たちは、もっと更にイエス・キリストの「血潮」を、全ての「門」に塗りましょう!そうすれば子羊の「血潮」は、あなたの「全て」を支配し(守り)、神の御心通りに「完成」へと導き、最終的にはあなたを、大切な神の国の「家族」の一員として、御国へと招き寄せて下さいます。主イエス・キリストは昨日も今日も、永遠に変わることがありません!主イエス・キリストは、私たち「キリストの家族」の、唯一真の「救いの君」として、今も尚「御座」から私たちの為に、永遠の命に至る「血潮」を、豊かに流して下さることを、更に信じようではありませんか!イエス・キリストの「血潮」を塗る!という、あなたの信仰の行動によって、神の豊かな祝福の領域へと導かれるためにも、エジプトを完全に屈服させた、父なる神の偉大な「御手」が、あなたの前に立ちはだかる「バベル」や、「紅海」の全てを打ち破ることを、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン!


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