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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

急患診療(No.31)

                        神の救いのしるし
 


主はモーセとアロンに言われた。「この月をあなたたちの正月とし、年の始めの月としなさい。・・・・今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、即ち家族ごとに子羊を一匹用意しなければならない。・・・・その子羊は、傷の無い一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、子羊を食べる家の入口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。・・・・これが主の過越である。・・・・その夜、私はエジプトの国を巡り・・・・エジプトの全ての初子を撃つ。」
                                                                                                   【出エジフト12章1~12節】


「太陽」の如くに
 イソップ物語の『北風と太陽』の話は、非常に霊的な真理の要素を含んでいます。「人」といものは、他者から様々な圧力を受けたところで、結局「守り」の姿勢を貫くだけ・・・・。ところが、その人に優しく近付き、親しみのある態度で接することに心がけ、その人の喜ぶことを分け与えることが肝心・・・・。「救い」にしても「愛」にしても、分け与える姿勢に徹すれば、必ずその人は「心」を開き始める・・・・という喩えです。
 
 ご存知のように人間関係においては、肉的な「誤解」と「偏見」等により、様々なトラブルが付きまといます。さて、神の「救い」というものは、暖かな「太陽」の日差しの如くに、いつも私たちに降り注いでいること、これを常に覚えて下さい。しかし、「その時」に私たちが、「北風」の寒さを感じた時と同様に、「太陽」の恵みを拒みますと、いつまで経っても「太陽」のぬくもりを、感じ取る(受ける)ことが出来ません。
 
 今回の記事に出て来るユダヤ人の儀式は、私たち日本人キリスト者にとっても、あまりピンと来ない儀式の一つです。果たしてこの儀式が、どれ程重要なものであるか、その意味合いが見えてこないからです。しかし私たちにとっても、イエス・キリストが成就された、新しい契約(新約)の奥義を通して、この「過越しの祭り」が、如何なる「恵み」を与えているのか、そしてイエス・キリストが完成して下さった、十字架の「贖い」による、ご自身の血潮(二本の柱と鴨居に塗られた子羊の血)のしるしが、三次元的には目に見えませんが、ある重要な働きを為していること、この二点について、私たちは改めて教えられるべきです!
 
 即ち、主イエス・キリストの貴い「血潮」が、私たちの人生全般に渡って、霊的に注がれているからこそ、全ての「問題」と「艱難」、また「苦しみ」と「災い」等が、通り過ぎていく(去っていく)ことにより、私たちは神の祝福の中で、まさに生かされているのです!
 
「過越し」の奥義
 ところで、人間だけが他の生物と違って、他者(外部)から受けた、様々な「傷(心の傷も含む)」や「痛み」に対して、「禍根」や「復讐心」が残る場合がありますが、果たしてこれらの「苦しみ」は、忘れ去ることが出来るのでしょうか?これも実は「災い」の一つです。それ故に、私たちは人間関係における、様々なトラブル等を避けたいところですが、如何せん必ずトラブルがやって来ます。
 
 しかし聖書には、それら「全て」のトラブルをも解決するこの出来る、神の「贖い」の知恵(方法)が記されているのです!今回の御言葉の中にある「過ぎ越す」とは、英訳では「pass over」となります。文字通りそれは、様々な「問題」を通過することです。「通り過ぎて、二度と戻らない!」ことを祝う儀式、それが「過越しの祭り(過越祭)」です。
 
 新約に生きる私たちキリスト者の場合は、「子羊」の代わりに神の御子(イエス・キリスト)を、「贖いの代価」として十字架上に屠り、そのイエス・キリストの「救い(贖い)」を堅く信じて、私たちの霊のフィールド「全て」に、その貴い血潮を注いでいます。そうすることで、全ての「罪」に伴う「苦しみ」、そして「病い」から「問題」等の災いの全てが、完全に通り過ぎている(血潮によって守られている)!という、大いなる神の「恩寵(恵み)」にあずかっている訳です。
 
イエス・キリストによる「過越し」
 ところで、メル・ギブソン監督作品『パッション』という映画を、御覧になられた方はご存知のように、イエス・キリストの「贖い」の血潮は、十字架刑に処せられる前の時から、即ち突然の「逮捕」の時と、リンチに近い取り調べの時、そして一法的な裁判における、鞭打ち刑の追加を受けたことにより、おびただしい「血液」が流されました。
 
 そして、実際に十字架に架けられた後、最後の「苦しみ(パッション)」を受けた訳ですが、何とイエス・キリストは、この時も「恨み」や「苦しみ」の言葉を、一切漏らすことがありませんでした。彼は最後に一言「全てが終わった(All is over)!」と語った後、「命」が絶えたのです。
 
 この最後の言葉「be over」は、➀終了した(している)、そして②完成(成就)に至ったという、二つの意味に区分されます。そして「be over」は、「pass over」よりも、動詞の熟語として、非常にその「意味(真意)」の度合いが、強力な内容を含む言葉です。即ち「pass over」は、どちらかと言えば、時間的経過を表すものであるのに対し、「all is over」は、万事が通り過ぎた状態にあるのだから、如何なる「苦しみ」と「問題」などの「災い」は、再び近付いたり、覆ったりすることは絶対にない!という、約束の保証を意味する言葉を含んでいます。
 
 最後に覚えて戴きたい、驚愕の「歴史(神の事実)」を紹介しましょう。ご存知のように最後の晩餐は、木曜日の出来事でした。そして金曜日の午後3:00に、イエス・キリストは十字架上で絶命しました。この金曜日こそが、ユダヤ人の「過越祭」の当日だったのです。
 
 イエス・キリストが死ぬ直前に、「全てが終わった(All is over)!」と語り息絶えた「その時」に、旧約(ユダヤ教の律法)の最大のシンボル、つまり神殿の最奥(至聖所)を覆う、垂れ幕が真っ二つに引き裂かれ、新しい神の「契約(約束の保証)」がスタートすることになります。この「神の事実」は、不変の歴史的イベントであることは言うまでもありません。
 
 イエス・キリストは復活された後、弟子たち全員にご自身を現されるのですが、「その時」にも「救いの記念として、私の血と肉を食べなさい!」と、念を押すかのように教え示しました。イエス・キリストは常に、ご自身の流された、その大量かつ貴い血潮をもって、私たちの「全て」を守り導いて下さっています。そうです!あなたの「人生」の全てに渡って、救い主イエス・キリストの、血潮の「覆い(守り)」が約束されているのです。
 
 寒い「冬」が過ぎれば、暖かな「春」が到来するが如くに、イエス・キリストの十字架の御許に行きさえすれば、神の「救い」が必ず訪れます。イエス・キリストの「十字架」こそが、神の「救い」のしるしです!この重要なメッセージ(福音)を聞いた(読んだ)全ての人々に、必ず神の「救い」の守りがあることを、是非信じて下さい!自分が着込んでいた「心配」や「悩み」、そして「苦しみ」と「悲しみ」等の服を脱ぎ捨てて、主なる神の「救い」の次元に入ることで初めて、暖かな主イエス・キリストの「恵み」の保証を、私たちは豊かに受けることが出来るのです!
 
 どうかあなたが、神の「恵み」を何一つ忘れること無く、通り過ぎ去った様々な「災い」が、決して偶然の出来事ではなく、あくまで神の「救い」の守り、即ち主イエス・キリストの贖いの「血潮」により、完全に過ぎ去った(all is over)ことであることを、謙虚に受け留めることが出来ますように。そして主イエス・キリストの血潮は、今も尚、あなたを完全に覆い続ける、偉大なる神の「救い」のしるしであることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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