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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

急患診療(No.26)

                            神のタイマー




愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせているのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に溶け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。
                                                                                                   【Ⅱペテロ書3章8~10節】


忘れてならないこと
 私たちは今日の世界情勢に対して、聖霊様から戴く霊的洞察力をもって、正しく霊的に見張り続けることが求められています。聖霊様は、私たちの霊的飢え渇きをご存知です。そして私たちの「霊の眼」や、「霊の耳」が正しく機能しているか、また「霊」の欲する方向性が、世的なものに向いているのか、それとも霊の次元にある、イエス・キリストの聖なる「御思い(御心)」に向いているかなど、非常に私たちのことを、常に注意深く見守って下さいます。


 その聖霊様の「導き」を覚えながら、私たちが常に注意しなければならないことは、私たちが「愚かな乙女」の如くに、様々な誘惑に陥らないように、良い意味で互いに見張り合いながら、主イエス・キリストが「盗人」のように来られたとしても、私たちは「主よ、私たちはお待ちしていました。あなたの来られる足音から、あなたの心臓の鼓動まで聞こえる位に、私たちはこの時を期待して待っていました。」と、喜び勇んで出迎えられる、そのような「賢い乙女」へと、仕立てられて参りましょう!


 ペテロは、今回の書簡で「このことだけは忘れないでほしい。」(8節)と力説しています。主なる神の御子イエス・キリストが、「盗人」の如くに来られること、この表現の中における重要ポイントは、主なる神が実は激しい「御思い(Passion)」、つまり「熱情の愛」をもって、私たちの元に再び臨まれる(愛される)こと、この「神の事実」です。即ち、私たちが「再臨の時」ばかりに気を取られ、神の「熱情の愛」を忘れてしまったら、サタンの喜ぶ愚かな方向へと傾くことになる訳です。


「神の時」の特徴
 ペテロは「時」の概念を、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」(8節)と説明しています。つまり、主なる神にとって「時」というものは、私たちにとって「千年」のように思える時であっても、神にとっては「一日」と捉える程、私たちの三次元的「思考」にはないことを物語っています。


 ぞこで、私たちが学ぶべき第一の「奥義」、それは私たちが「一日千秋」の思いで主なる神を待ち望む!ことです。決してこれは、「一日千秋」という時のサイクルを、思考することではありません。主なる神の私たちに対する「愛」は、「一日千秋」の如くに、絶えず(変わらず)注がれるものであり、ペテロの言葉(表現)を借りるならば、それは「忍耐」深いものです。つまり、私たちが誰一人滅びることが無いように、ギリギリまで「救い」の御手を差し伸べるものです。


 主なる神にとっては、「99匹の羊」の数よりも、「一匹の子羊」を贖うという、聖なる「忍耐」の御思いが重要であり、その「一匹の子羊(私、あなた)」を購うべく、絶えず「熱情の愛」を注いで下さっているのです。それ故父なる神の「愛」が、「一日千秋」の如き永遠の愛に溢れていることを、私たちが聖霊様を通して知る(学ぶ)こと、これが重要になってくるのではないでしょうか。


 ところで、私たちが考える「時間」と、神が働かれる「神の時」は、相対立するものであることを、先ず覚えて下さい。「神の時」とは、ご自身が「アルファ」であり、「オメガ」であると述べられているように、「始まり」と「終わり」を司どる、霊の次元の中にあります。これが「神の時」に関する第一の特徴です。私たちが考える「始まり」は、例えば「ゼロ」からスタートするのであれば、「60秒後」や「1時間後」が、「終わり」を意味するなど、二次元(線)的発想で時間を捉えます。しかし、父なる神にとって「時」とは、ご自分が「意志」を発せられた時が「始まり」であり、その「意志」を完成(成就)した時が、「終わり」を意味します。ですから「神の時」は、私たちの考える二次元、或いは三次元の中には存在せず、むしろ「一日千秋」の如き、霊の次元に存在しています。


 一人の「魂」の救いのために、「千年」の思いをもって、とりなしの「祈り」を捧げ続ける人は、この世に殆どと言っておりません。しかし「罪」を犯す以前のアダム(エバ)の如くに、私たちの霊性が、神の「無償の愛」によって回復されるのであれば、全ての人が神の御元に馳せ参じ、霊と真をもって礼拝することでしょう。そうです!私たちが、父なる神と同じ霊の次元に浸されて参りますと、三次元的な「人の時」の流れを忘れてしまう程に、圧倒的な神の臨在に覆われて行くのです。


 「神の時」の第二の特徴、それは常に私たちをカバーする(覆う)「愛(アガペー)」の中に、その本質があることです。神の「時計(タイマー)」には、二つの「針」があるのか定かでありませんが、常に「真の愛」とい名の「秒針」が、「神の時」を刻んでいることは確かです。ある時は、私たちの「過去」にまで遡って、私たちの「罪咎」を赦して下さいます。また私たちが忘れているような「過去の傷」まで、聖霊様が「癒し(回復)の時」を用意し、御子イエス・キリストの血潮を注いで下さいます。


 「神の時」の第三の特徴、それはイエス・キリストの「贖い」の完成のために、「神の時」が用意されていることです。つまり、「神の時」の主たる「目的(方向性)」は、常にイエス・キリストの「救い」と「贖い」を、「救い」の初穂である私たちを通して、常に現して下さることです。ですから、未だ「完成の時」に至っていない今日にあっても、父なる神はあえて「忍耐」をもって、イエス・キリストの「救い」が、全ての人々に現れ出ることを待ち望んでおられます。


「神の時」を求めましょう!
 それでは、父なる神の「完成の時」には、どうなるのでしょうか?結論から述べるのであれば、その時にはノアの「大洪水」の時と同様に、全てが閉じられる!のです。そして「アルファの時」を始められた方は、「オメガの時」として、再び「光」の出現を用意されています。即ち、「光」の出現によって万物が創造され、神の「歴史」が始まった訳ですが、再び「真の光(イエス・キリスト)」の来臨によって、今の天地の役目が終わることになります。そして新しい天地が、イエス・キリストを信じる全ての聖徒たちのために、聖霊の働きを通して完成されるのです。


 私たちは時々、自分のこと(現実の姿)を見ては溜息をつきます。「何と自分は、小さな働きしかしていないのだろう・・・・」などと。しかし、主なる神の霊的次元にある「神の時」の枠の中においては、それは「一日千秋」の愛をもって、主なる神が私たちのことを、様々に取扱って下さっている時なのです!そして「神の時」至らば、私たちは時間的(三次元の時)に焦せらなくても、「老人」にも「乳飲み子」にも等しく、常に変わらず神の豊かな「油注ぎ」が用意されます。それ故に私たちは、尚も「賢い乙女」の如くに、「一日千秋」の思い(飢え渇き)をもって、花婿なるイエス・キリストを、激しく求め続けましょう!


 そうです!私たちの主イエス・キリストが、「盗人」の如くに密かに(こっそり)訪れたとしても、「待ってましたー!私の愛する花婿様。」などと待ち構えるくらいに・・・・。あなたが真っ先に、主イエス・キリストの「熱情の愛」に、応える者(聖なる花嫁)でありますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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