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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

生ける聖霊の働き(No.13)

                        井戸で闘われる方



「霊の井戸」から飲んでいますか?
 私たちの霊的フィールドにおいて、本来「エデンの園」で為されていた頃の、神との「親しい交わり」が回復されていくことを、聖霊様は切に望んでいます。父なる神が、私たちの霊的フィールドを訪問される時に、「おー!あなたのフィールドには、何と豊かな命の水を貯えた、霊の井戸があるではないか。私がゆっくり休むのに、もってこいのフィールドだ!私は、ここに居るのがとても嬉しい。」と語られたら、どんなに素晴らしいことでしょうか!


 例えば「お父さん」が、その日の仕事を終え帰宅した際に、子供たちが夕方遅くまで遊んだおもちゃ類で、家の中がスッチャカメッチャカ、つまり片付けがされていない状態だとしたら、(たとえ霊性が、平安な状態で帰宅したとしても)大抵のお父さんは、「お前たち、何だこの様は!早く片付けないとゲンコツだぞ!」と、雷鳴を響かせることでしょう。それと同様に、もし私たちの花婿イエス・キリストが、突然私たちの「霊」の中に訪問される時、花婿が望む通りの霊的状態、つまり私たちの霊的フィールドが整えられていなければ、「今まであなたは、何をしていたのか?」と問われるでしょう。このように問われるなら、未だましな方ですが、「もう私は、あなたの元を訪問するのが嫌になった!」と言われたら、その時は終わりです。


 それ故、私たちは自分の霊的フィールドを、「肉の力」でクリーンな状態にすることは不可能なことであり、これは聖霊様だけが為して下さる、霊の領域にあることを先ず覚えて下さい!そして聖霊様が、私たちの霊的フィールドを取扱って下さる時に、如何に麗しいフィールドへと変革されて行くのか、その鍵となるものが「霊の井戸」の存在です。その井戸から、生ける「命の水」が豊かに流れているかどうかを、聖霊様は常に見張っておられます。私たちの「霊の井戸」から、「命の水」が豊かに流れている限り、私たちの「霊の井戸」の傍らで、聖霊様は安心して「命の水」を飲むことができますが、仮に井戸が「敵」によって塞がったり、又私たちが「この世(古い井戸)」から、「世の水」を飲んでいますと、聖霊様は非常に悲しまれ、「否!否!あなたが飲むべき井戸は、ここにある!ここから飲みなさい!」と軌道修正されます。



・・・・モーセはファラオの手を逃れてミディアン地方に辿り付き、とある井戸の傍らに腰を下ろした。さて、ミディアンの祭司に七人の娘がいた。彼女たちがそこへ来て水を汲み、水ぶねを満たし、父の羊の群れに飲ませようとしたところへ、羊飼いの男たちが来て、娘たちを追い払った。モーセは立ち上がって娘たちを救い、羊の群れに水を飲ませてやった。娘たちが父レウエルのところに帰ると、父は、「どうして今日はこんなに早く帰れたのか」と尋ねた。彼女たちは言った。「一人のエジプト人が羊飼いの男たちから私たちを助け出し、私たちのために水を汲んで、羊に飲ませて下さいました。」父は娘たちに言った。「何処におられるのだ、その方は。どうして、お前たちはその方を放っておくのだ。呼びに行って、食事を差し上げなさい。」モーセがこの人の元に留まる決意をしたので、彼は自分の娘ツィポラをモーセと結婚させた。
                                                                                               【出エジプト記2章15〜21節】


霊的阻害は必ず起きる!
 さて、私たちが「聖霊のバプテスマ」を授かった時から、実は新しい「霊の井戸」が与えられていることをご存知でしょうか?この「霊の井戸」は、私たちと父なる神との交わりによって、新しい「命の法則」にあずかる祝福の井戸であり、聖霊様は私たちのために、この井戸を霊的フィールドの中に用意して下さいました。そして私たちは、この「霊の井戸」を管理し掘り進めるという、重要な務めがあることを知って下さい。つまり私たちも、祭司レウエルの七人の娘のように、毎日「井戸」から「命の水」を汲む務めがあるのです。日々為される、聖霊様との「親しい交わり」によって、私たちは初めて霊的に前進できるのです。


 しかし、ある時には今回の記事にあるような、突然の「事件(事態)」に遭遇します。私たちは聖霊様を通して、どのような方向で取扱われて行くべきかが、「その時」に問われます。そして実は、このような事件を通して、聖霊様は私たち一人一人に対する、大いなる「ご計画」と「召し(使命)」を用意していることを、私たちは学ばされるのです。この記事に見られる「事件」は、何故起きたのか?先ずこの点について、私たちは霊的に教えられるべきです。


 砂漠(荒野)に住んでいる人々にとって、「井戸」や「オアシス」の存在は、生きていく上で死活問題であり、当然その「水利権」をめぐって、「争い」などが起こり得ることでしょう。しかし私が疑問に思う点ですが、何故レウエルの娘たちが水汲みをする度に、わざわざゴロツキ集団(独身男性の集団?)が、井戸場に居る彼女たちの元にやって来て、ちょっかい(からかいを含む)を出したか?ということです。彼らは毎日、彼女たちの行動をマーク(監視)していました。そして恐らく彼女たちも、毎日井戸に行く時間を変えながら、ある時は早朝なら大丈夫だろうと来てみるのですが、その度に彼らは現れて邪魔するのです。そのため彼女たちは、いつも帰る時間が遅くなりました。それ程彼らは、常に「井戸」を長時間に渡って占領し続けました。


 彼らは何故、このようなことを続けたのでしょうか?実は、私たちの霊的飢え渇きが起こる際にも、このようなことが起こり得ることを、聖霊様は教え導いて下さいます。私たちが霊的に、イエス・キリストを激しく飢え渇き求めたり、聖霊様との「親しい交わり」、更に父なる神の「導き(御心)」のみに、従うことを決意すればする程、何らかの阻害するものが立ち塞がって、私たちの信仰の歩み(前進)が為し得ない、霊的ジレンマを感じる時がないでしょうか?そのような時に、私たちの神を求める「姿勢」に関して、父なる神は「あなたの努力が足りないからだ!」などと、決して言われる方ではないことを知って下さい!


 神との交わりの場(至聖所)に行く度に、必ずそれを阻もうとする様々な問題がやって来た時、それは「どうして?」起きるのではなく、「当り前」のこととして起きることを、私たちは再認識すべきです!つまりあなたが神を追い求める、その霊的飢え渇きの度合いが増せば増す程、実はそれを阻害する霊的問題も大きくなる!ということです。そのことに対して、「どうして?」などと疑うのではなく、「主よ、この問題を私の手によって解決するのではなく、あなた自身の御手の中で完全に一掃されることを、私は特に聖霊様、あなたに期待します!」と祈り求めることが重要です。


 勿論彼女たち全員が、問題が起きる度に、このような祈りをした訳ではありません。しかし彼女たちの霊的飢え渇きが、決して尽きることがないことを、父なる神はご存知でした。だからこそ彼らは、彼女たちが絶え間なく「井戸水」を求める行為に、恐らく何らかの悪意(妬み)をもって、攻撃し続けたものと推測できます。彼女たちは朝早くから、自分の為すべきことを終えた上で、父である祭司レウエルと同様に、父なる神への礼拝を捧げたかったはずです。しかし彼女たちは、いつもその大切な務めを果たすことなく、井戸の水汲み作業が夕方近くまでかかったのです。


神の「助け」来りて・・・・
 しかし「その時」は、いつものパターンと違っていました。ある名も無きエジプトの男性が、「井戸」の傍らに座っていたのです。その男が、いったい何者なのか知る術もなく、彼女たちは恐る恐る井戸場に近づき、水汲みの作業を開始しました。すると「待ってました!」と言わんばかりに、いつもの連中が現れると、彼女たちに対して、「脅し」と「嘲笑」を吐きかけます。からかい気味に、「お前たちは、いつまでも祭司の務めなんかしてないで、俺たちの一族に嫁いで来ないか?」などと、挑発的な嫌がらせをした者も中には居たことでしょう。


 私たちの霊的飢え渇きに対して、悪魔サタンは「疑い」を持ち込んだり、「嘲り」をもって次のように挑発することがあります。「お前が、一生懸命に神を愛したところで、何も変わらないぞ!むしろそんなことは止めて、今起きている問題を一つ一つ解決して行けば、必ずお前の求めていることが実現するのではないか?!」、「お前の問題は大き過ぎる!これを解決できなくして、何が出来ると言うのだ!お前の罪、弱さ、恐れの問題は、余りにも大きいだろう?お前の家庭を見なさい!心を見なさい!現実の姿を見なさい!このような状態で、何が主を求めるレベルにあると言うのか!そんな身分ではないだろう?」などと、霊的にからかって来るのです。そして最終的に、私たちを「命の木(イエス・キリスト)」から切り離し、「善悪の木(この世の方法)」の元へと誘うのです。「あなた自身の知恵と力によって、この問題を解決しなければ、神の御心を知り、神のご計画を為すことは出来ない!」と。つまり悪魔サタンは、あなたの主を求める純粋な霊的飢え渇きを、完全に塞いでしまいたく、常に働きかけて来るのです!


 今回も「敵」の挑発と脅しが始まったことで、彼女たちは「あー、いつもと同じだわ!今日も惨めに敗北するのかしら?・・・・」と気落ちしかけたのですが、「その時」は全てのことが違っていたのです。モーセは暫く、この状態を座って静観していたのですが、如何に「悪しき者ども」が、彼女たちの務めばかりか、彼女たちの飢え渇き(生きる使命)そのものを、圧迫して汚しているかを、彼は瞬時に悟りました。そして彼は、自分が「逃亡者」というレッテルを貼られ、恐らく全国中に「犯罪者」として、指名手配されていることを知っていたので、いつもは冷静に行動するのですが、この時は彼の「霊」に父なる神が働きかけ、上から正義の「思い(勇気)」を与え、座っていた状態から遂に腰を上げ、雄々しく立ち上がったのです。


 この時「悪しき者ども」が、何人存在したのか定かでありませんが、モーセVS複数の敵という闘いにおいて、彼は完全勝利を為し遂げたのです。例えば、私たちが神の御前に出ようとする際に、それを遮断するかのように、仮に「十(複数)の問題」が襲って来た時、あなたはどうしますか?ところで、出エジプト記全体に見られる「モーセの人生」の特徴は、聖霊様が私たち一人一人に対して、様々に取扱われる霊的働きを示しています。ですから、ある面で「モーセの人生」は、聖霊様が私たちに対して望まれること、例えば①どのような信仰の歩みをすべきか?又②どのように変革されて行くべきか?更に③私たちが本来、どのように生きて行くべきか?などの人生の目的を、模範的に教え導いているのです。そしてモーセの働きは、後の時代に生きる私たちキリスト者に、大いなる「霊的励まし」を与えています。


 私たちは「この世」という、霊的エジプトに住んでいる訳ですが、モーセはこの「エジプト」に対してどのように闘ったのか?そして私たち「キリストの花嫁」が、霊的エジプトに住みながらも、霊的に高き次元にある「神の国」を目指して、「エジプト」から脱却(脱出、離れる)させて戴くべきか?この時に、「モーセ」に従ったイスラエルの一部の民のように、私たちも真の指導者「聖霊様」に依り頼みつつ、常に従順して行くと時に初めて、祝福の地「カナン(至聖所)」に至ることが出来ることを、霊的に学ぶ必要があります。このようにモーセの歩みは、聖霊様が私たちに対して取扱われる、様々な霊的「促し」と「命令」、そして「導き」を現しています!


 ですから、彼女たちに起きたこの出来事は、名も無き「エジプト人(実はヘブル人)」から救い出されたとは言え、明確に申し上げれば、これこそ彼女たちの霊的飢え渇きに対する、聖霊様の取扱いの応答(結果)でした。その証拠に、彼女たちの井戸場での水汲みを阻んでいた「敵」は、これ以降完全に一掃されたのです。つまり聖霊様主導の元で、複数の霊的問題が一度で解決されたのです!


全ての「問題」の解決法
 私たちは、再度覚えようではありませんか!「全ての問題の解決は聖霊様にある!」ことを。私たちが、自分の「肉の力」で「敵(問題)」と闘ったら、それは常に敗北です。聖霊様に全ての問題をお任せしながら、私たちは聖霊様の権威(霊的取扱い)を、静かに見守るだけでよいのです。モーセが立ち上がり格闘し始めた時、彼女たちは恐らく驚いたことでしょう。何故なら、彼女たちはモーセに「お願い」を申し述べたり、「誰か、助けてー!」などと、叫んだ訳でもなかったからです。


 この時「モーセ」という一人の器に、神の国の「権威」と「力」を油注いだ方は、まさしく聖霊様でした。この時のモーセの心境は、如何なるものであったか定かでありませんが、「一対一だったら何とかなるが、これだけ多くのゴロツキが相手となると、果して・・・・?」などと、多少の不安もあったことでしょう。しかし彼の内なる「霊」に対して、聖霊様は「否!あなたが闘うのではない。私自らが闘うのだ!」と励まし、油注ぎを与えました。これにより、ほうれん草を食べたポパイの如くに、モーセは「敵」の攻撃を粉砕しました。


 モーセの武器は、「羊飼いの杖」一本だけでした。「敵」も、数多くの武器と腕力を持ち併せていたでしょうが、モーセに与えられているこの「杖」こそが、私たちキリスト者にも同様に与えられている、主イエス・キリストの「十字架」に他なりません!私たちに与えられている霊的武器には、「この世」の血肉の武力を打ち負かす程の霊的権威が、「賜物」として授けられていることを知って下さい。しかし、私たちはこの「賜物」をもって、自分の「肉の力」で闘うとするのであれば、その時は必ず敗北に至ります。聖霊様が「否!あなたが闘ってはならない!」と命じられる時、私たちはその命令に従う必要があります。


 例えば私たちが、霊的ジレンマに陥っている場合、たとえ自分の中から三次元的「知恵」を搾り出しても、それは「古い言葉」である以上、一時的な解決方法は見つかっても、完全なる解決には至りません!むしろそのような時には、言い難きうめきをもって、聖霊様に依り頼みつつ祈るべきです。「私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成して下さるからです。」(ローマ書8章26節)


 そうです!聖霊様自らが、私たちの全ての問題のため、突然神の定めた「その時」に、「天上の知恵」をもって一掃されるのです。このような、聖霊様の取扱い(権威)に従順した者は、必ず後日「私が闘わなくて良かった。もし私が、自分の方法と知恵で動いていたら、かえって二次、三次的問題が、更に降りかかっていたことでしょう!自分がただ静かに見守り、そして祈り続けたから勝利できました。それも自分の祈りの力ではなく、ただ主ご自身が闘われた(執り成された)結果、勝利できたのです!」と証言できます。


 私たちは、「この世」から降りかかる、様々な問題がやって来た時に、それが仮に一つの軽い程度のものであった場合、「あ、これくらいの事だったら、過去に実例があるから大丈夫だ。何とか私の力で対処できる!」などと思う(判断する)ことがありますが、それは大きな「誤り」です。たとえ、それが「一つの問題」であろうが、「百の問題」であっても、私たちの取るべき姿勢は「聖霊様、私は見守り続けます。私は何も為し得ません。だから私は、あなたにだけ依り頼みます!」と告白することが重要です。


 イエス・キリストご自身も「ゲッセマネの園」にあって、自分の中にある「肉の力」に対して、必死に闘われたことを思い起こして下さい。「十字架刑(死刑)」を目前にして、神の御子であったイエス・キリストが、「肉の力」という最大の問題と闘われたのです。それを見守る(神の御心に従う)のか、自分の「肉の力」で闘うのか、その選択(杯)が迫られている場面です。聖霊様はこの時も、何度もイエス・キリストに対して、「霊的励まし」と「天上の力」を注ぎました。「待ちなさい!弟子たちがいくらあなたを、革命のリーダーとして祭り上げ、闘いの号令を発したところで、全ての問題が解決する訳ではない!・・・・」と。しかし、その度にイエス・キリストは「私が十字架にかかることで、本当に全ての問題が解決するのですか?父よ、あなたの御心に従うだけで、本当に聖霊様が後の事を為されるのですね?私はそれを肉の思いでは、どうしても信じられません。ですから聖霊様、どうぞ確信を与えて下さい!私が、自分の杯を取ることがないように。聖霊様が用意して下さる、父の杯のみを受け取ることができますように!」などと、言い難きうめき(苦しみ)を発せられました。


 聖霊様は、イエス・キリストの長時間に渡る、その苦しみに応えられ、天上から再び父なる神の「愛」で、彼の「霊」の全てを覆って下さり、「あなたは何のために、この世に産まれ出たのですか?それは全て父の御心に従い、父の栄光を現すためです!その最後の(完成に至る)栄光の場が、十字架上なのです!あなたが、とやかく心配することではありません!私の計画を、ただ実行するだけです!後の事は、全て私に任せなさい!あなたはこれから、皆の前に引きずり出され、裸にされ唾を吐きかけられ、鞭打たれることでしょう。しかし、私に全てを委ねなさい!あなたのゴールは、それらの過程ではなく、ただ十字架上です。あなたの命を、十字架上に捧げ尽くしなさい!その後に起きる復活の計画、そしてその後に至る弟子たちの霊的変革の業、それは全て父のご計画通りに始まる故、あなたが計画することではありません!」と激しく彼の「霊」に、「全焼の生贄」に至る上からの「力」を油注がれました。


 するとサタンも、激しく彼を罵りながら諌めます。「お前が十字架にかかったところで、将来に起きる神の歴史を見てごらん!様々な民族紛争、そして二度に渡る世界大戦が実際に起こり、一つも問題が解決される訳ではない。お前が本来為すべきことは、十字架上で死ぬことではなく、現実的に平和な世の中を創るべく、世の君(君主)として建て上げる(統治する)ことであろう!お前にはその力と政治的手腕があるはずだ。さー、弟子たちに革命の号令を発しなさい!」と。しかし、聖霊様は「否!否!否!あなたのゴールは、十字架上だけです。後は私に委ねなさい!」と、再び命じられました。私たちは、この「聖霊に全てを委ねる」ということが中々できません。殆どの場合、「あ、この問題は自分で何とかなりますから、聖霊様!今日はお控え下さい。」などと先走って、全て聖霊様に依り頼むことをしない、「肉の弱さ」があります。ですから聖霊様は、「全ての問題の解決は私にある!だから、あなたの小さい思い煩いから、大きな問題に至るまで、全てを私に委ねなさい!」と、今に生きる私たちに対して、厳しく問い質しているのです。


思いもかけない結果
 聖霊様に、「全き信頼」をもって従順する過程には、いつもレウエルの七人の娘が、「肉の方法」で解決できなかったように、私たちの「肉の業」では何も為し得ないことを霊的に砕く、つまり正しく神の「御心」を理解できるよう、聖霊様が常に導いていることを、私たちは知る必要があります。


 ですから私たちは、聖霊様の闘われる領域に、踏み込んではなりません!ただひたすら、「見守る」だけでよいのです。全て聖霊様の働きに身を任せ、「全き信頼」をもって、「その時」を待つのです!そうすれば、聖霊様は私たちを更に、全てを管理して下さる父なる神、そして愛する花婿イエス・キリストとの、全き「愛の交わり」の場へと導いて下さいます。ツィポラは、神の使い「モーセ」が現れる以前は、「あー私たちは、いつも敗北だわ!私たちは、ずっとこんな状態にあるために、生きている訳ではない!私たちはこれから、どうしたらいいのかしら?・・・・」などとふさぎ込み、打ちひしがれた人生を過ごしていました。しかし、神が用意した「その時」以降、二度と「敵」は彼女たちの井戸場に現れず、何とツィポラは神が遣わして下さった、モーセの花嫁になりました。


 そうです!神の使者(聖霊様)が来られた時から、全ての問題が解決(一掃)したのです。何故「敵」は、二度と井戸場に現れなくなったのでしょうか?答えは明瞭です。モーセがツィポラ(キリストの花嫁の雛型)の元に、愛する伴侶として永久に留まる決意をしたからです。あなたの「霊」の中に、「聖霊様が永遠に留まって下さる」か否かは、あなた(キリストの花嫁)の信仰の決意(霊的飢え渇き)次第です!あなた自身が、「いや、今日は大丈夫だから、私がやります!」などと告白するのであれば、聖霊様は留まることはなさいません。しかし聖霊様の願いは、「私はあなたと、常に親しく交わりたい。その契約を結ぶことだけを欲している!」ことです。


 ツィポラは、モーセと結婚したが故に、ある面で神の良き御業が、自分の人生に次々と起こります。彼女の人生に、今まで経験したことのない神の麗しい「ご計画」が、モーセとの出会いを通して始まったことを、次々と経験して行きます。聖霊様は、何故私たちを選び召し出し、私たちの中に留まる決意をされるのか、それは単に問題(苦しみ、試練)が来た時のためばかりではありません!私たちの人生の全てに渡って、父なる神の「ご計画」を推し進めるために、私たちの霊的井戸を様々な「敵」から守り、絶えず「命の水」が沸き出るように働きかけるためです。このことを覚えて下さい。


 聖霊様は、私たちが困った時だけの「助け主」ではなく、ある時は「慰め」を与える方、又ある時には本当に「最前線で闘って下さり、私たちを勝利から勝利に導く」方、又私たちを「変革の器として、主イエス・キリストの大いなる栄光を現すために、霊的に整えて下さる」方であることを覚えながら、益々麗しの花婿イエス・キリストとの、「交わりの場」が確立されますように!それも聖霊様が、必ず用意して下さることを信じつつ、主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


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