バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

急患診療(No.6)

                霊の窓を正しく開けなさい!



                                             恋しい人はかもしかのよう
                                                 若い雄鹿のようです。
                                    ごらんなさい、もう家の外に立って
                                                     窓からうかがい
                                        格子の外からのぞいています。
                                                                      【雅歌2章9節】


 花婿の「訪問」の有様  私たちの花婿イエス・キリストは、再臨の時に「ようやく来られる方」では決してありません。花婿を、いつも恋い慕い求める花嫁の元に、「必ず訪れて下さる方」です。さて、花婿の「訪れの時」は、如何なる形(有様)で為されるのでしょうか?私たちはこの点について、改めて正しく「知る」必要があります。
 
 雅歌2章の筆者は、自分が本当に愛する方、捜し求める方、恋い慕う方、必死に求めて止まない方を、遂に見出した時に得る「喜び」、またその「喜び」を、愛する方と共に分かち合った時に、自分が如何に「麗しい次元」に導かれているか、このことをストレートに表現しています。そして、私たちの花婿イエス・キリストが、突然に訪れて下さる方であっても、それは決して私たちを驚かせるためのものではないこと、この点についても、筆者はある動物の行動から、比喩的に詳しく表現しています。それはまるで、「かもしか」や「若い雄鹿」の如くに訪れると。
 
 この「かもしか」は具体的には、日本に生息する「ニホンカモシカ」ではなく、中東地域の高山に生息する「ガゼル」を指します。「ガゼル」や「雄鹿」は、高山にあって険しい岩山を移動する、極めて俊敏な草食動物です。そして彼らの「眼」は、必ずあらゆる物体に対して焦点を合わせ、状況を片時も見逃すことなく静かに移動します。その中で「群れ」のリーダー格は、威風堂々とした姿勢で、「天敵」の動きを監視しながら、最後まで視線を離すことはありません。このような、「ガゼル」や「雄鹿」の行動の如くに、「花婿(恋しい人)」は、私たちの「霊(神の家)」をじっと見守り、私たちが気付かない程、またたく間に私たちの「霊の窓」に立ち、格子からじっと優しく、様子(私たちの全て)を覗う方です。


 「恋しい人」は、またたく間に・・・・  私たちの「霊」や「心」には、いくつかの「窓」があることを、あなたはご存知でしょうか?そして、私たちは自らの「意思」をもって、自由に「霊の窓」を開けたり閉じたりしているのです。例えば、私たちの信仰の歩みにおいても、よくあることですが、自分が望みもしていなかった、逆境や苦難に置かれた時に、私たちは「霊の窓」をパタン!と閉めて、不信仰に陥る訳です。しかし、「上」からの信仰に望みを置く者は、「天の窓」が開かれることを求めて、もう少しで閉じようとしていた、その「霊の窓」を再び大きく開けるのです。
 
 このように私たちの「霊の窓」は、最愛の「恋しい人(イエス・キリスト)」が、私たちの「霊」の中に訪れて下さることを、純粋に欲しているのですが、サタン(天敵)の「訪問」によって、肉の次元が常に働きかけるため、私たちの「霊の窓」は、いとも簡単に閉じられてしまいます。しかし、このような私たちであっても、イエス・キリストは「ガゼル」や「雄鹿」の如くに、私たちの「霊」近くまで歩み寄って下さり、私たちが本来、いつも開けておくべき「格子」から、私たちのことをじっと見つめて下さっているのです。私たちは、このことに気付いておりません。
 
 「見よ、私は戸口に立って、叩いている。誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう。」(ヨハネ黙示録3章20節)イエス・キリストにとって、私たちの「霊の窓」を開けることは、いとも簡単なことではありますが、イエス・キリストは決して、私たちの「霊」の中に、強盗の如くに押し入って来る方ではありません!必ず私たちの「霊の戸口」に立ち、静かにノックして下さる方です。
 
 その時に私たちは、「どうぞ、お入り下さい!」と応じつつ、「霊の窓」を開けさえすれば、喜んで入って下さる方、それがイエス・キリストです!私たちはこのイメージを、常に覚えておくべきです!私たちは緊急を要する時にだけ、「イエス様、来て下さい!」などと御名を呼びながら、「霊の窓」を開けますが、イエス・キリストの御名は、「何かあった時」のお守りではありません。イエス・キリストは、常に「インマヌエルの神」として、私たちの側近くに居て下さり、私たちと共に食事をしながら、「親しい交わり」を為される方です!その理由は非常にシンプルなもの、つまりあなたを愛して止まないからです。そしてあなたは、イエス・キリストがご自身の貴い「命」を、十字架上に捧げ尽くした程に、「貴い存在」だからです。そのイエス・キリストが、あなたのことを「ガゼル」や「雄鹿」の如くに、純粋にじっと見つめて下さるのです。


「霊の窓」を正しく開けなさい!
  では私たちは、イエス・キリストの「花婿の愛」に応えるべく、どのように行動すべきでしょうか?それは、あなたの「霊の窓」を正しく開けることです。イエス・キリストをお迎えする、「霊の窓」は一つしかありません。私たちの「霊の唇」をもって、「主イエスよ、来て下さい!」と、常に告白することから始まります。即ち「永遠の命」に至る、尽きることの無い「命の水」を、あなたの「霊」の中から豊かに湧き上がらせ、その「命の水」を無代価で飲まして下さる方、イエス・キリスト(恋しい人)を、純粋に飢え渇き求める「霊の唇」が、私たちの「霊の窓」に他なりません。イエス・キリストに対する、尽きることの無い「愛」を満たして下さる、聖霊様の助けを戴きながら、スカルの女性の如くに「私にも真の命の水を、与えて(飲まして)下さい!私は、命の水に飢え渇いています。主よ、あなたを今受け入れます!」と、へり下ってお迎えするのです。
 
 聖霊様はいつもこのように、私たちをイエス・キリストの御許へと誘って下さいます。ところが、私たちは聖霊様の「導きの声」を、いつも簡単に聞き逃します。そして「自分の窓」を用意し、それを開けたり閉じたりしながら、「自分の道」を歩んでいます。しかし覚えて下さい!私たちが「自分の道」を、如何に愚かに歩んでいても、イエス・キリストは側近くに居て下さり、私たちの歩みを見守り続けているのです。そして本来の「正しい道」へと、つまり私たちが、イエス・キリストと共に生きる花嫁へと変革されるべく、花婿が「熱情の愛」をもって、花嫁に対して呼ばわるように、「私の恋しい人よ、さー私を中に通しておくれ!そのために、霊の窓を開けておくれ!」と、いつも私たちに御声を発して下さいます。
 
 私たちの愛する方(イエス・キリスト)は、「あなた」のことを純粋に愛し、「あなた」のために、如何なる犠牲をもいとわない、「真の花婿」です。それ故、私たちは喜んで「霊の窓」を大胆に開け、イエス・キリストをお迎えしましょう!真の花婿、イエス・キリストとの「親しい交わり」が、あなたの更なる霊的飢え渇きを通して現され、あなたの「霊」から「人生」に至るまで、イエス・キリストの「愛」が完全に満たしますよう、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する