バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

生ける聖霊の働き(No.12)

                    ナイル川から贖い出よ



ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川に放り込め。女の子は皆、生かしておけ。」レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三ヶ月の間隠しておいた。しかし、もはや隠し切れなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川へ下りて来た。・・・・王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女は不憫に思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。王女が、「この子を連れて行って、私に代わって乳を飲ませておやり。手当ては私が出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中から私が引き上げた(マーシャー)のですから。」
                                                                                         【出エジプト1章22節〜2章10節】



「ナイル川」の霊的奥義
 私たちは、「エジプト」が霊的に「この世」を象徴する、言葉であることを知っています。このエジプトにおいて、ヨセフの末裔が神の祝福にあずかり、その結果リバイバルした(増え拡がった)ことは、驚くべき神の「ご計画」を覚えることでしょう。ある面で、私たちも霊的に「この世」という、エジプト的フィールドに暮らしていますから、「私たちにも主よ、ヨセフの末裔にもたらした霊的繁栄を、神の祝福としてお与え下さい!特にキリストの花嫁であるエクレシアが、この世にあって大いに祝福された、キリストの民となりますように!」などと祈り求めます。


 聖霊様は私たちが、「この世」という霊的なエジプトに、住み続けざるを得ない中に在っても、神の大いなる「ご計画」を通して必ず、完全に贖い出して下さることを信じて下さい!この章の中で聖霊様は、「エジプトに流れる、ナイル川を注視しなさい!」と促しておられますが、このことは決して良い意味で「ナイル川」を、三次元的に注目することではなく、私たちが注意を怠ることなく、「ナイル川」の流れを霊的に見張るよう、聖霊様が警告を発しておられることを意味しています。つまり第一に「ナイル川」から、何故モーセは贖い出されたのか?第二にこのことを信仰により、実行に移した彼の母親ヨゲベトが、何故他者から見て気でも狂ったかのように見える行動を、大胆に為しえたのか?そして更に興味を引く点ですが、第三に何故父なる神は、この一人の信仰者ヨゲベトを選び、彼女の信仰の行動を通して、ご自分の不思議な「計画」を、モーセの預言的人生の中に始められたのか?この三点について私たちは、改めて聖霊様から教えて戴く必要があります。


 確かにイスラエルの民は、一時期エジプトにおいて「繁栄を極めた民族」、「真の神によって祝福された民族」として、勝利(実績)ある成功を収めました。しかし、だからと言って私たち日本人が、父なる神が必ずもたらして下さる、「後の雨」が日本中に降り注がれ、遂に霊的収穫が始まった時に、イスラエルの民と同じような祝福と繁栄、つまり日本史でかつて見られない、「勝利ある真実の宗教、キリスト教の成功!」という歴史を刻むことだけを、意味しているのではありません!


 私たちが「この世」において成功(勝利)し、ある面で「この世」の人々から称賛される程の、素晴らしい祝福にあずかることが、神の「ご計画」の目標(目的)ではありません!仮に父なる神が、「眼に見える華々しい成功」を成就するために、キリスト者を選び召し出したのであれば、「ご利益主義」を掲げる他の宗教と何ら変わりません!神の「贖い(救い)」の目的は、決して「しるし」や「わざ」に見られる、恵みの実現化を意味するものではありません!勿論そのことも、神の大事な「働き」の一つではありますが、それはあくまで「手段」に過ぎなく、神が用意しておられるゴールは、もっと更に奥深いもの、いと高き次元にあるものです。ですから「その時」至りて、父なる神が次の「ご計画」を、私たちに必ず用意しておられることを、是非覚えておいて下さい!


 ヨセフの末裔の霊的失敗は、彼らは確かに神の大いなる「祝福」にあずかり、三次元的に人口が膨大に増加するという、民族的繁栄(成功)を収めましたが、彼らはいつの間にかアブラハム、そしてイサクからヤコブ、更にヨセフに与えられた霊的飢え渇き、つまり神ご自身を追い求める、真の礼拝者としての生き様を忘れてしまい、エジプトの「ナイル川」を頼みとする生活、つまり「世の水」を求める群れへと変質したことです。しかし、父なる神は聖霊を通して、「そこではない!もっと高き所にある、命の水の源に立ち返りなさい!」と私たちに対して霊的勧告を、時折促していることも忘れてはなりません!


 私たちが、信仰面において勝利し成功を収めた時に、一番注意しなければならない点は、その場(ナイル川)に安座してしまい、霊的飢え渇きをストップさせてしまうことです。聖霊様は厳しく言われます。「否!その場に留まるために、あなたを勝利に導いた訳ではない!もっと更に奥深い次元を求めて、あなたは前進し続けなさい!あなたは命の水の素晴らしさを、どれ程知っているというのか!私があなたに、与えようとしている命の水の証言は、あなたが今感じ取っているような、レベルのものではない!もっと更に奥深い未知の領域にある、イエス・キリストの栄光について、あなたはどれ程のことを知っていますか?あなたは、イエス・キリストの栄光の中に、自分の成功を隠すことができる程の、霊的レベルに達していますか?」と。


「ヨゲベド」の信仰行動
 イスラエルの民は、突然に即位した新しいファラオの登場によって、本来の「命の水」の流れに立ち返るのか?それとも「ナイル川」に膝をかがめるのか?その選択を迫られました。つまり自民族全体が、根絶やしにされるという非常事態の時に、彼らは如何なる行動に移ったのでしょうか?イスラエル民族史上、「最大の危機」と言ってもよい程の、「民族虐殺令」が施行されたのです。この時彼らは、何故一部のグループだけでも「脱出計画」を企て、エジプトから逃亡しなかったのでしょうか?それは余りにも彼らの殆どが、この世の水の象徴である「ナイル川」に、どっぷり浸かった状態にあったからです。


 私たちが、「この世(ナイル川)」に浸かり過ぎますと、それは自分の「肉の力」では、到底逃れられない状況に陥る、つまり「この世」の奴隷となることを意味します!私たちが、「この世」の次元を霊的ベース(基礎)としながら、「神」を求めて成功(勝利)したとしても、決して「この世」の次元から脱出できません!しかし聖霊様は、「この世」の次元に浸かり過ぎている者に対して、あえて突発的な事件(問題)を起こして、再び本来の霊的ポジションに回帰するよう、軌道修正を施して下さることがあります。それがこの時代に生きる、イスラエルの民全体に起きたのです。


 聖霊の為された「その時」、ある一人の母親(ヨゲベド)は、如何なる「信仰行動」を選択したのでしょうか?「ヨゲベド」という名前は、「ヤーウェは栄光ある方」という意味です。私たち日本人にとって、彼女の名は「物凄く大胆な信仰者」と把握できる名前です。ですから、彼女のこの預言的名前は、まさしく彼女の人生全般において、「父なる神の栄光のみを求める」女性へと変革させました。即ち、「その時」にも彼女は、名前通りの預言的行動を選択したのです。では彼女の信仰行動について、具体的に見て参りましょう。


 ヨゲベドは、ハンナが長年待ち望み、ようやく授かった長子サムエルを、神の宮に捧げた信仰行動と同じように、「人の命令」ではなく「神のご命令」のみに、完全に従う決意をしました。彼女はファラオの絶対命令、つまり「ヘブライ民族の男子の赤子は、全て抹殺せよ!」という「人の命令」を拒みました。何故なら彼女にとって、赤子(モーセ)は神からの授かりものである!という、明確な信仰に立っていたからです。そして彼女は、三ヶ月間赤子(モーセ)を隠し通しました。実は「隠す」という言葉が、この章のキーワード(Key-Word)になります。


 しかし、ご存知のように赤子は、生まれてから三ヶ月位経ちますと、急に「意志」の現れが激しくなり、お腹が満たされていたとしても、突然に泣き叫ぶことが多くなります(この現象を三ヶ月コリックと呼びます・・・・)。モーセも他の赤子同様、余りにもその泣き声がうるさくなったので、遂に隠し通すことが不可能となりました。彼女は父なる神に、再び信仰表明を訴えました。「主よ、どうしたらよいのでしょうか?あなたの授かりものを、どうぞお守り下さい!」と。すると、聖霊様が彼女の祈りに応え、ある「知恵」を授けました。それは「ナイル川」に生えている、「葦」の茂みに隠すことでした。何故、彼女は「葦」の茂みに隠したのでしょうか?ナイル川の下流域の流れ(速度)が、どの程度であったのか定かではありませんが、そのまま「揺り籠」を浮かべると、恐らく流れていってしまう程の、スピードだったことでしょう。ですから、丈の長い「葦」が多く茂った川辺では、この「葦」が本流への流れを遮断する、言わば壁みたいな役割をしていたので、聖霊様は「葦」の群生する所に浮かべるよう、彼女に指示を与えたのです。しかも丈の長い「葦」は、危険な動物や人の目から遮断する、言わば隠された状態(カモフラージュ)を造ります。


 とは言え、腹を痛めた我が子を川に流さなければならない、彼女(母親)の心境は如何ばかりであったことでしょう!これは父なる神が、たった一人の御子イエス・キリストを、「この世(ナイル川)」に流した(遣わした)時の、「御思い」と同種のものです。彼女は、ヘブライ人の大人である自分(母親)が、見つかると逆にすぐ処刑される故、その場に立って監視することは許されませんでした。ですから、娘(ミリアム)に託して監視させていたとは言え、物凄く「不安」と「恐れ」が生じて来ます。我が子(モーセ)が見つかっても「処刑」、ナイル川にそのまま長時間放っておいても、いつかは寒さと飢えで「死す」という、殆ど「死」の覚悟が無ければ、到底為し得ない無謀な行為でした。奇跡でも起きない限り、「モーセ」が生存できる確率は、依然として「ゼロ」に近いものでした。


 例えば私たちが、信仰上の「試練」に遭遇する場合に、その先にある「勝利の時」が、いつ頃訪れるのか?又どれ程の素晴らしい結果がもたらされるか?ということが、預言などを通じて分かっているのであれば、余り苦しむことはないでしょう!しかし大抵の預言が、「神の時至りて、あなたはその苦しみから解放されるでしょう!」などの、漠然とした内容のものです。ですから、彼女の場合も信仰を働かせて、「この子は、必ず神によって贖い出される!そして、神の栄光のために用いられる。」と祈るのですが、「葦」の茂みに隠すという決断に至るまでには、かなり苦しみの時を要しました。そして、人間的な「不安」と「恐れ」が来る度に、必ず躊躇したことでしょう。


 捧げるということは、とても勇気の要ることです。それは、アブラハムが我が子(イサク)を、祭壇上に捧げたのと同様に、「死」を覚悟する程の勇気(決断)を要します。彼女は母親としての「不安」と「恐れ」を、神の御前に全て置いて、「自分の死」と引き換えに、モーセを神に捧げ出しました。私たちが、「霊」と「真」による礼拝を捧げる際にも、神はあなたの「死」を要求します。その時に、私たちの「肉の心」では、「いいえ、とてもできません!」と拒むことでしょう。しかし聖霊様は、「あなたが全焼の生贄になることは、肉の力では到底無理なことです!私が、あなたの全てを祭壇上に置きますから、有りのままで出て来なさい!」と霊的に励まして下さいます。


隠された「名前」
 遂に父なる神は、彼女の信仰に応えられました。神の不思議な導きにより、偶然にもファラオの王女が、「その場」を訪れたのです。王女は召使の女に命じ、「モーセ」をナイル川から救い出し、籠の蓋を開けて見た瞬間に悟りました。「これは、奴隷であるヘブライ人の赤子だわ!」・・・・しかし次の瞬間に、王女の心に聖霊様が働かれました。「この子は、私が自分の子として育てよう!」と。その時に王女は、いつかこの赤子に対して、「モーセ(水から贖い出された者)」と命名するよう、聖霊様からの促しも同時に与えられました。


 「モーセ」という名は、確かにエジプトの王女が名付けたものであり、ある面では「この世」の人が命名したものです。では実の母親ヨゲベドは、一体この赤子に対して、如何なる名前を付けていたのか?これが非常に興味ある点です。彼女が、既に命名していたか定かでありませんが、仮に命名していたとしたら、恐らく彼女の信仰姿勢から判断して、次のことが推測できます。つまり、ヨゲベドという霊的名称を授けられた、一人の母から産み出された「分身(赤子)」は、ハンナと同様に「この子は、その人生の全てにあって、神の栄光を現します!」という、素晴らしい意味を持つ霊的名称だったことです。「神の栄光の御名の故に、自分の人生の全てを捧げます!」という名前は、実に素晴らしい名前ではないでしょうか!


 実際に、その後のモーセの人生は、名前通りの預言的人生が始まります。神の「栄光」の御名の故に、彼は人生の全てを神に賭けます。ある時は「自分のプライド」を捨て、自分の人生における様々な「計画」を放棄し、神の栄光の「ご計画」の中に、自らの「死」を覚悟しながら捧げ尽くしました。ところで私たちは、両親から名前(例・イチロー、タカシ、ヒロシ等)を授けられています。これは当然のことであり、一人一人がその名前を非常に気に懸けながら、ある時はその名前の持つ意味合い貴び、又ある時には他の名前と比較して、「自分の方が劣っているのでは・・・・?」などと、実に自分の名前に左右されることがあります。


 勿論自分の「名前」というものは、様々な人間関係の中で、自分のアイデンティティを現す、「第一(最初)のしるし」ですから、非常に大切なものではありますが、神が求められる信仰レベルにおいては、法律(戸籍)上の名前よりも、神が既に命名している、「神のご計画の中にある、あなたの人生」という預言的な霊的名称が、各々に用意されていることを、是非覚えて下さい!つまり私たちには、神の「栄光」の御名を現すために、一人一人を神の国の「国宝」の如くに、素晴らしい価値ある名前が、与えられ(隠され)ているのです!それが如何なる発音をするのか、私たちは分りませんが、父なる神が前もって選び召し出した、「天的名前」が各自に対して授けられているのです。


 さて、ここから非常に重要な奥義が示されます。それは、「この世」の名称「あなたの実名」が、明らかに(高らかに)現されるのか、それとも三次元世界において、隠された「霊的名称」通りに、主ご自身の「栄光の御名」を現して行くのか、それが私たちキリスト者に要求されるのです。「モーセ」という三次元の名前は、確かに旧約聖書の中において、信仰の模範的なリーダーとして、多くのキリスト者に貴ばれている名前の一つです。例えば新約聖書において、貴ばれる名前を挙げるとしたら、「パウロ」や「ペテロ」などの使徒名が、その代表格(横綱級)になります。何故なら、彼らの名前から思い浮かべるイメージが、「神のために、何か大きな働きを為したリーダ―」として写るからです。しかし、現在御国に居ますモーセは恐らく、私たちの持つこのような愚かなイメージに対して、霊的に笑っていることでしょう!「私は、確かにエジプトの王女から、モーセという名前を付けてもらったが、私の本当の名前はそんなものではない!私はモーセという名前を、ずっと隠しておきたかったくらいだ!この世的な名前には、何の魅力も感じやしないよ!」と。


 実際、私たちの「思い」の中には、「自分の名」を現したい!という欲が、常にはらんでいます。しかし聖霊様は、「そんなものは必要ない。隠しなさい!」と霊的に叱咤します。そうです!私たちはヨゲベドの信仰に見習って、「自分の中にあるモーセ」を、ナイル川(この世)に隠す必要があるのです。これは非常に厳しい、聖霊様からの勧告です。はっきり申し上げて、ナイル川という「この世」の栄光の流れに、「自分(エゴ名)」を隠す人は殆どいません!「この世」の中にあって、できるだけ「自分の名前」を覚えてもらいたく、私たちは様々に努力します。特に経営者や営業マン達は、名刺を交換し合って自分の「身分(存在)」、そして自分の「会社」や「自社商品」をアピールします。私たちキリスト者も、この世の「商いの法則」と同様の、行い(奉仕と業)に励む傾向にありますが、これらは決して聖霊様が用意する、「命の川」の流れ(方向)ではなく、この世という「ナイル川」に流された、「揺り籠」であると聖霊様は言われます。


 赤子モーセが成長し、大きくなった頃に王女に命名されたことを、姉のミリアムは母に報告しました。「お母さん!私の弟ちゃんは、本当は○○○という名前なのに、あの王女様はモーセと名付けたわ。どうしましょう?」すると母ヨゲベドは、すかさず「いいえ、あなたは心配しなくてもいいの!とにかく命が助かったんだから・・・・。それとね、あのモーセと私たちは、今もこの後も一切関係がありませんからね。王女様が召使たちに命じたように、このことを他言しては駄目よ!私は、王子モーセ様の乳母ですからね。分った?ミリアム、あなたはモーセ様の姉でもなく、モーセ様はあなたの弟でもありませんからね!絶対に、あの方は自分の弟である!と他言してはなりませんよ。」などと命じました。これは聖霊様から、私たちにも厳しく命じられている大事な奥義です。私たちは霊的に成功(勝利)しますと、「私の祈りがあったから・・・・」とか、「私が〜したから・・・・」などと、すぐ「私(自我)」を成功に付け加えようとします。しかし、私たちはヨゲベドの如くに、「この成功は、私と一切関係ありません!何故なら、全ての成功は神のご計画によることであり、神の栄光のためにあります。ですから私は、全ての成功を神に捧げ尽くします!」と、大胆に告白しようではありませんか!


 私たちは、聖霊様に「何」を期待しますか?自分の「実績(成功)」や「名」が、有名になることを期待する人々は多く存在します。又「私は、どうして・・・・?」、「私は何のために〜をするのか?」などと「私」を主張する時、それは「私」を隠しているのではありません!しかし聖霊様は言われます。「全ては主イエス・キリストの御名が、高らかに(明らかに)現されるためです!仮に、あなた自身の中にある『肉の思い(欲)』が、あなたの霊を支配している限り、あなたは私を見出すことが出来ないでしょう!何故なら、あなたが隠されていないからです。」と。つまり「私」を優先させる限り、主の「御心」は隠されたままなのです。


 あなたは主イエス・キリストの、麗しい「栄光」が見えていますか?モーセの人生は、この世の人々が最終的に見れば、いわゆる「脱落(失敗)者」です。エジプトのプリンスとして、将来的にはエジプト領のある一国を統治する、有望な人生が約束されていたかも知れません。又、仮に自分の血筋が「ヘブライ人」であると分っても、返ってそれを隠したまま「王」として、同朋の民を苦役から解放する政策を行うことも可能でした。しかし、聖霊様はヨゲベドの信仰通りに、「モーセ」を神の栄光のために捧げ尽くしたことで、モーセは「成功(勝利)者」とい名が辱められ(隠され)、最重要指名手配者(極悪人)の名が明らかにされる、「命の水」の流れに浸り続ける、霊的人生へと導かれたのです。あなたは神の国の、「貴い器」として選び召し出されたのです。この世の人々から見て、「称賛される(尊ばれる)器」では決してありません!神から見て、高価な貴い「霊的名前」が与えられているのです。そうです!私たちが隠すべきものは「私(エゴ)」であり、現すべき全てのものは「イエス・キリストの栄光」です。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する