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命と心の健やかなる成長のために!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

生ける聖霊の働き(No.6)

                   水が全てを覆い尽くす時



 ノアが家族七人と共に、「箱舟」に乗り終えたまさに「その時」、父なる神は「唯一の門(出入口)」を、直接ご自身の手で閉じられました。その瞬間にノアは、父なる神が遂に「新しい創造」の御業を、この地上にもたらして下さることを確信しました。それ故に彼は、ひたすら次に起こる神の「ご計画」を、「箱舟」の中で待ち続けました。


大洪水の前夜


洪水は四十日間地上を覆った。水は次第に増して箱舟を押し上げ、箱舟は大地を離れて浮かんだ。水は勢力を増し、地の上に大いにみなぎり箱舟は水の面を漂った。水は益々勢いを加えて地上にみなぎり、およそ天の下にある高い山は全て覆われた。水は勢いを増して更にその上十五アンマに達し、山々を覆った。地上で動いていた肉なるものは全て、鳥も家畜も獣も地に群がり這うものも人も、ことこどく息絶えた。乾いた地の全てのもののうち、その鼻に命の息と霊のあるものはことごとく死んだ。地の面にいた生き物は全て、人を始め、家畜、這うもの、空の鳥に至るまでぬぐい去られた。彼らは大地からぬぐい去られ、ノアと、彼と共に箱舟にいた者だけが残った。水は百五十日の間、地上で勢いを失わなかった。
                                                                                                        【創世記7章17〜24節】


 実はこの文章の中には、聖霊様が為される「霊的大収穫」の時に、何が起こり始めるのか?その預言的記事(予型)が示されています。そこで私たちは、神のこの歴史的大イベントから、何を学ぶべきでしょうか?


 ところで父なる神は、何故わざわざ「水」を用いて、ご自身の作品の全てを破壊されたのでしょうか?実に不思議です。つまり父なる神が、地上から被造物を消し去る際に、何故「水」を用いられたのでしょうか?そしてこの時、ノアの家族(総数八人)だけが、何故選ばれたのでしょうか?ノアだけの信仰ならまだしも、その他の家族七人全員が、ノアと同様に父なる神に対して、「心の直ぐな者」であったかどうかは疑問です。恐らくノアの妻は、夫が突然に箱舟建築に踏み切ろうとした時、「あなた!どうしたの?気でも狂ったの?」などと問い質したことでしょう。息子たちも同様に、「親父殿!どうしたんだい?未だボケる年でもないのに・・・・」などと、疑い深い眼差しで父の様子を伺っていました。ノアの「心の直ぐな」信仰を見て、「よし!私たちも父上に見習おう!」と従った者は、当初皆無だったことでしょう。


 恐らく、家族全員が家長に命じられるまま、渋々従っただけではなかったかと思われます。又、近隣の村人たちから悪口雑言、誹謗・中傷、嘲笑などを受けながらも、ノアだけは只一人信じて疑わずに、「父なる神は心の直ぐな者を、確実に見守り贖って下さる!」と唱えながら、黙々「箱舟」を建て上げて行きました。つまり彼は、「贖いの子羊」を捧げ続ける家族に対しては、父なる神は必ず応えて下さることを信じていました。何よりも神ご自身が、直接自分に対して「箱舟を造りなさい!」と語られた以上、その「ご命令」に従うこと、これが自分の家族の「使命」である!と、彼は謙虚に受け留めました。ですからノアは、「お前たちも主の命令を、私の言葉として受け留めるのではなく、神の命の言葉として受け留めなさい!その結果(大洪水)のことは、人々が馬鹿にするレベルのものではない!とにかく信じて建て上げようではないか!」などと、家族全員に対して「励まし」と「諌め」の言葉をもって、彼は家長として家族を「正しい道」に導いて行きました。


 彼ら八人が、神の救いの「ご計画」に選ばれた理由が、この記事に記述されています。又、今日に生きている私たちが、この「ノアの大洪水」という歴史的出来事を、霊的にどう把握していったらよいのか?その預言的啓示を、聖霊様から教えて戴きましょう!


「水」に備わる神の意志
 先ず、私たちが「知る」べき重要ポイントは、「水は次第に増して箱舟を押し上げ、箱舟は大地を離れて浮かんだ。」(17節)と記述されているように、実は「水」という物質に対しても、父なる神は霊的「意志」を備えていることです。その証拠に、イエス・キリストがガリラヤ湖上で、吹き荒れる「大嵐」に対して直接、「黙れ。静まれ」(マルコ書4章39節)と命じられた瞬間に、「大嵐」は命令通り「さっ!」と身を引きました。又、モーセが「葦の海」に杖を振り下ろした瞬間に、「葦の海」の「水」は左右に引き裂かれました。


 神の命令に対して被造物の全ては、各自に備えられた神の霊的「意志」によって、神の「ご命令」に完全に服従することが定められています。自然界の被造物が、神の「ご意志」に従うのであれば、私たち霊的被造物が不従順な状態にあること自体、真に「不従順の罪」にあると言わざるを得ません。罪を犯す以前のアダムとエバは、父なる神に対して「完全に服従する」という意志が、元々備わっていました。しかし彼らの罪の結果、私たちは「したくないこと(悪)」まで為したり、「善を欲する」ことを為し得ない、「不従順の罪」に陥っています。


 このように「水」も、神の「ご命令」に従うよう創造されています。そこで私たちは、「ノアの大洪水」の時に見られる、神の「ご意志(命令)」について、霊的に「知る」必要があります。先ずこの時の神の第一の意志は、「水よ、箱舟を地から離しなさい!」という命令でした。当り前のことですが、「箱舟」は地上から離れるよう建造されました。「箱舟」とは前章で学びましたように、霊的に見て「エクレシア(キリストの花嫁)」を指します。この霊的エクレシアが、「地(この世)」に付いた状態にある限り、神の偉大な「ご計画(意志)」は開始されません!聖霊によって押し流される時に、キリストの花嫁である私たちは、決して「世」に属するエクレシアであってはなりません!つまり聖霊の「ご意志」は、私たちが「地」に付くことを、絶対に「善し」とはされません。聖霊は、「私があなたを覆う時、あなたは地から離れ、ただ浮び上がる(天に属する)だけでよいのです!」と命じられます。


 それ故私たちは、霊的に二股懸ける生き方から決別すべきです。私たちが「地(この世)」に這いつくばる時、それは決して「聖霊充満」ではありません。「充満」とは文字通り、「完全に満たされること」です。「聖霊様、私の中に先ず20%、そして次に50%満ち溢れて下さい!」などと祈っている限り、聖霊様が働かれることはありません。ですから「箱舟」は、「地」から離れた時から初めて、「箱舟」に与えられている、神の「ご計画(意志)」にあずかることができたのです。それを可能ならしめたものが、「水」に備わった神の霊的「意志」でした。つまり、「生ける水」を流して下さる聖霊様の「ご意志」は、常にキリストの花嫁(エクレシア)を、「この世」から先ず分離し、ことごとく天的な方向(上)へと、私たちの全てを引き上げて下さることです。これを常に覚えて下さい!


 「水」に与えられた神の第二の意志は、「水よ、全てを覆い尽くすべく、降り注ぎ続けなさい!」という命令でした。天から「大雨」となって降り注いだ「水」の意志は、「全てのものを、ことごとく覆い尽くすために、降り注ぎ続けること!」、この一点にありました。何故でしょうか?それは、続いて「水」に語られた、神の第三の意志にあります。


 「水」に与えられた神の第三の命令(意志)は、「高き山々を、ことごとく覆いなさい!」という具体的な命令でした。聖霊様は、私たちの霊的フィールドに対しても、神の「意志」を命じられます。「あなたは神の霊に、完全に満たされることを求めますか?あなたは、箱舟が地から離れ、天に浮かび上げられたように、あなた自身の全てを天におられる父なる神に、完全に捧げ尽くす用意(備え)がありますか?もし、未だ為されていないとしたら、あなたの霊の中に高き山々が、今も尚そびえ立っているのです。」と。


 神に対して、自分(私)のエリアを確立すること、又自分のために自分のポジション(城)を造ろうとすること、例えば「私は・・・・の召しがあるから、私はそれを自分のために使おう!」などと思うこと、これらは全てエゴという霊的な「高い山々」です。霊的な「高い山々(エゴ)」を、あなたは造り上げようとしていませんか?その霊的な「高い山々」を、ことごとく覆い尽くすために、聖霊様の働き(取扱い)があるのに、私たちはその「高い山々」を、必死に固守しようとして、聖霊の働きを拒むところがあるのです。「自分の考え」、「自分の判断」、「自分のミニストリー」、「自分の捧げる奉仕」など、自分の利己的な目的のために、神の賜物を使おうとする野心があります。


 聖霊様は、厳しく警告を発せられます!「何故あなたは、今も尚バベルの塔を造ろうとするのか?私は、それら全てを覆い尽くすために、今も尚あなたに働きかけている!」と。私たちは、一旦自分の「肉の力」で造り上げた、これらの「高い山々」を破壊することができません。それは聖霊様によって、完全に覆い尽くされる時に初めて、如何に自分が霊的に溺れかけた(沈みかけた)、「愚か者」であるかを悟ることができるのです。


 何故私たちは、幾度も霊的失敗を繰り返すのでしょうか?それは私たちが、自分の築き上げた「高い山々」に、懲りずに登ろうとするからです。私たちは、その「高い山々」にしがみつくことを固守するのではなく、「主よ、私はこの世のものを一切捨てて、もっとこの地から離れたいのです!あなたがおられる奥深い天的レベル、つまり麗しい霊的至聖所で、あなたと完全に一体になりたいのです。そのために、どうぞ聖霊の生ける水で、完全に覆い尽くして下さい!」と、霊的に飢え渇き求めることが大切です。トミー・テニーはこの点について、常に指摘します。「神は、神の栄光を運ぶことができる死んだ者を探しておられます。自分の計画に死んだ者を求めておられるのです。」(注1)つまり、私たちは自分の持つ「自我(エゴ)」に、霊的に死す必要があります。


 私たちは、「聖霊のバプテスマ」を授けられたからと言って、「高き山々」が完全に一掃される訳ではなく、常にサタンの巧妙な働きによって、「竹の子」の如くにニョキニョキと、この霊的「高き山々」が生え出て来るのです。「竹の子」の成長は、他の植物以上に「成長力」が速く、生え出て来た「竹の子」の全てを、いくら切り捨てたところで、彼らは完全に「死ぬ」には至りません。「竹」は、根が地中を縦横に張り巡っているため、どこからでも再び「新芽(竹の子)」を、産み出すことができるのです。ですから熟練した農夫は、地上に目を向けるのではなく、地中に奥深く潜む「竹の根」を完全に掘り起こして、それらを全て焼却します。それでも「竹」は依然として、他の地域から侵入を試みて来ますので、絶えず油断なりません。私たちの霊的フィールドに、「竹の根」は存在していませんか?私たちの霊的フィールドには、常にサタンが「雑草の種」を撒き散らしています。そしてサタンは、「雑草ばかりではなく竹の子よ、お前たちもどんどん成長しなさい!あなた自身の野心よ、もっと大きく成長しなさい!」などと、悪しき方向に促進します。


 「水」に与えられた神の第四の意志は、「荒波の中でも、(箱舟を)静かに漂流させなさい!」という命令でした。父なる神の「設計(ご計画)」は、非常に素晴らしいデザインです。父なる神はノアに対して、霊的エクレシアの雛型である「箱舟」の設計図を、完璧性をもって示されました。そしてノアは、父なる神の設計図通りに、「箱舟」を寸分違わず正確に建築しました。「箱舟」の形状(外観)は、縦長の弁当箱のような形で、その表面の全てをコールタールによる、防水塗装を施しました。このことは霊的に見て、ノアの「箱舟(エクレシア)」の全てが、聖霊の「聖なる油」によって覆われていたことを示しています。完全に防水しているとは言え、外界では暴風雨の大波が荒れまくっている状況です。しかし、いくら大波が「箱舟」に覆い被さっても、ひっくり返ることはありませんでした。このように、父なる神の「箱舟」に関する設計図は、三次元の嵐と大波の中にあっても、その完璧性を失うことはありませんでした。水の中に浮かんだ「浮輪」に対して、私たちが如何に大量の水をかけたりしても、決して沈まないのと同様に、ノアの「箱舟」は霊的浮輪として、聖霊の油注ぎによる臨在の中で、完全に防御されているから決して沈むことはなく、常に平安(静けさ)を保つことができたのです。


 大洪水の際に、以上の「水」に備わった、父なる神の四つの「意志(命令)」の中心軸には、「箱舟に入らなかった生物を、ことごとく消し去ることはあっても、箱舟そのものに対しては、絶対侵害してはならない!」という、父なる神の「愛」が据えられています。「神は私たちの避け所、私たちの砦。苦難の時、必ずそこに居まして助けて下さる。私たちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移ろうとも。海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶる様に山々が震えるとも。・・・・主の為し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。」(詩篇46篇)


 聖霊様は、今日に生きる私たちに対しても、預言的メッセージを投げかけています。「あなた方は今後、どのような激動の時代が突入したとしても、神の御霊に完全に覆われた、霊的エクレシアとして確立されている限り、あらゆる荒波が押し寄せる中で、父なる神はご自身の完全な臨在をもって、あなた方を必ず守られます!」と。それ故私たちは、主人(真の花婿)の帰りを求め続けた、五人の賢い乙女のように、主なる神のみを仰ぎ求める時に、父なる神の完全な守りがあることを覚えて下さい!


「新しい創造」の始まり
 何故父なる神は、ノアとその家族七人を選ばれたのでしょうか?その理由は単純なものですが、父なる神はノアの家族を通して、洪水後の地球に「新しい創造」の御業を開始され、この地に再び父なる神だけを礼拝する、霊的雛型として彼らを召し出すためでした。言わば彼ら八人は、この時代の霊的レムナントだったのです。彼らは「残された民」ではありますが、同時に新しい「出発の祖」にもなりました。そして今日に生きる私たちは、聖霊の「ご命令」を完全に守るように導かれながら、この激動の時代にあっても、尚生き長らえている真の理由は、父なる神の「ご計画」を通して、私たちの中から「新しいこと」を起こすべく、各自を様々なポジションに位置付けていることを、私たちは覚えようではありませんか!だからと言ってあなたが、世界的リバイバルを担う、数少ない重要な「特別選抜者」になることを、意味している訳ではありません。仮に、父なる神がノア個人だけを選抜して、「新しい創造」を開始されたいのであれば、若かりし頃のノアと妻の二人だけを、「箱舟」に入れれば十分でした。


 父なる神は何故、洪水後間もなく父親に対して、とんでもない罪を犯す息子ハムを含め、残り六人全員を選ばれたのでしょうか?父なる神の「選びのご計画」は、私たちの考え(方法)の基準レベルにはありません。父なる神にとって、たとえ彼らがどんな器であっても、「彼ら八人を通して、再びこの地を満たしたい!」からです。父なる神は、常に「新しいこと」を為されようと、信じる私たちを通して、「新しい創造」の計画を進めていることを覚えて下さい!ですから、父なる神が「新しい創造」の御業を完成した時に、再びご自身の作品である「人」との、「親しい交わり(聖なる一体化)」の中に、全ての人々を召し出したい!と欲しておられること、これが父なる神の変わらざる「ご意志」です。


 父なる神は常に、愛する対象(存在)を求めておられる方です。確かに父なる神は、汚れた地に生きるノアの家族を選び召し出されました。しかし父なる神は、再び「新しい創造」を推し進めることで、この僅か八人(小さな群れ)から始まる「新しい人々」と、ご自身との「親しい交わり」を確立することを望まれました。イエス・キリストも、ある時弟子たちに命じられました。「小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国を下さる。」(ルカ福音書12章32節)神が言われる「小さな群れ」とは、群れの「数」レベルのことを意味するのではなく、霊的に小さく砕かれた人々のことを指します。ですから霊的に「小さい人々」は、「強い自分」を決して誇ろうとはせず、只ひたすら神を追い求めて、益々霊的に砕かれて行きます。その点で、神の「選びのテスト」に合格したのが、ノアとその家族だけだったのです。


 今は「恵みの時」です。私たちが「地」に足を降ろし、未だもって「高き山々」を造ることに、必死になっているのであれば、聖霊様は益々「生ける水」で、完全に私たちを覆い尽くそうと、様々な霊的訓練(テスト)を与えます。しかし「その時」至らば、全てが終わりになるのです。ですから聖霊様は、今も尚「言い難きうめき」をもって、執り成して下さっています。「あなたは、もっと更に地から離れるように!完全に地から切り離されなさい!」と。私たちが、霊的な「レムナント」として祈るべきことは、「私自身の全てが、完全に地上から切り離され、イエス・キリストの御体に一体化されることを、必死に願い求める」ことです。そして、未だ父なる神の「救い」にあずかろうとしない、世的なキリスト者や未信者に対して、「どうぞ彼らが、レムナントの一員として集められますように!八人だけではなく、もっと多くの人々が、聖霊様が用意される最後の大収穫の時に、救われる霊の穂束として刈り取られますように!」と、更にとりなしの祈りを捧げるべきです。


 ノアの箱舟には、誰が集めてきたのか分からない程の、数多くの野生動物が世界各地から集められました。又この選ばれた動物たちは、父なる神の「ご命令」により、自分の「意志」で進んで「箱舟」に入ったのです。今、覚えて下さい!聖霊様の収穫の働きが終了した時点で、「箱舟」の唯一の門(イエス・キリストの救い)は、遂に閉じられる(the end)のです!神が命じられる「この地から切り離されよ!」という、聖霊様の霊的促しに従わない者は、依然として「地」に足を降ろしている故に、完全に滅ぼし尽くされます。私たちは「残された民」として、祈り続けなければなりません!


 だからと言って私たちが、自分の「意志」で勝手に動き始める、霊的愚か者になってはなりません。あくまで、父なる神の「設計図」通りに、あなた自身が先ず造り変えられなければならないのです。そうです!先ず「私」自身が、父なる神の「御心」を完全に現す器(霊的箱舟)として変革されるべきです。その時に私たちは、必ず霊的な「高き山々」が完全に打ち砕かれ、聖霊の「生ける水」によって、完全に覆い尽くされる恵みにあずかっていくのです。聖霊様による「霊的水笠」が増せば増すほど、イエス・キリストの一体化につながっていくのです。この時、聖なる「一体化」を邪魔する者は存在しません!何故なら私たちには、聖霊様を通して「聖なる油」が常に注がれ、かつ覆われているからです。


 さー、いよいよ「水」が地を覆い尽くし終える時に、神の「新しい創造」がスタートしました!私たちは、更に「新しい人」として再創造されること、即ち花婿イエス・キリストとの、完全なる「一体化」を求めようではありませんか!私たちが、聖霊様の用意される「生ける水」によって、完全に覆い尽くされる恵み(満たし)を受ける時に初めて、私たちは「地」から切り離されるのです。自分の「肉の力(業)」によって、必死に泳ぐことは停めましょう!バタバタ、もがくことも停めましょう!聖霊様に明け渡し時から、私たちは霊的に身軽になり、天上へと「浮上」していくのです!


 父なる神が、「最初の創造」を為す以前の地球は、「水」が表面の全てを覆っていました。それと同様に聖霊の「生ける水」が、この時の大洪水の如くに、再びこの地を覆い尽くした時から、「新しい創造」の御業がスタートするのです!そして「残された民」は、「水」が引いた後に「地」に遣わされ、新しいエクレシアとして、神の光(栄光)を「地」に投じる器へと、変革されて行きます。ですから私たちは、聖霊の器へと造り変えられる時に、必ずノアの家族八人と同様に、イエス・キリストご自身が、私たちの唇を通して語られる、「新しい器」に仕立てられるのです。私たちの語る言葉から聞く事柄、そして五感全てに渡って聖霊様が、イエス・キリストの「美」を放つ、新しい霊的各器官として用いて下さることを、私たちは信じ待ち望みましょう!


注1、トミー・テニー(ハーザー1999・12月号)61項から引用


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