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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Terminal Faith(No.31)

       私の住まう所は何処ですか?




私たちの先祖には、荒れ野に証しの幕屋がありました。・・・・この幕屋は・・・・ヨシュアに導かれ・・・・運び込まれたもので、ダビデの時代までそこにありました。ダビデは神の御心に適い、ヤコブの家の為に神の住まいが欲しいと願っていましたが、神の為に家を建てたのはソロモンでした。けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っている通りです。「・・・・天は私の王座、地は私の足台。お前たちは、私にどんな家を建ててくれると言うのか。私の憩う所は何処にあるのか。これらは全て、私の手が造ったものではないのか。」
                          【使徒行伝7章44~50節】


「創造の原点」に立ち返る
 今回の題目は、花婿なるイエス・キリストが、聖霊様を通して語られている、私たちに対する真摯な「問いかけ」です。私たちも霊的にはヤコブの民、即ちイスラエルの子孫として、主なる神の創造の原点に立ち返る必要があります。私たち人は何故、創造主なる神によって形造られ、息(命)ある者として地上に遣わされたのか?そして、そのゴールは何処に行き着くのか?これが創造の原点です。


 ステパノが語った今回のメッセ-ジは、端的に言えば「誰がイスラエルの民を創造し、イスラエルの回復を計画し、贖い(救い)の完成を目指して事を進めているのか?」であり、この主なる神の「ご計画」を無視して、人間的な「肉の力」を頼みとした、宗教的教勢の拡大(推進)や、宗教施設(神殿、教会堂、宣教センター等)のビッグ化は、神の「御心」から逸脱したものであり、神はそこを「住まい」とはされません。


新約における「神の幕屋」とは?
 今回のメッセ-ジの第一の重要ポイントは、神が用意される「新しい幕屋」、即ち新約から始まった「エクレシア」とは、如何なる「幕屋」を指しているのか?という点です。どの聖書にも「エクレシア」は、共通的な訳語として「教会」、つまり組織的な「人の集まり」の会堂(集会の場)を、一般的なイメージとして描いていますが、聖霊様がイエス・キリストの「福音」を通して、私たちに対して正しく指し示すイメージは、「あなた(私)自身が、生ける神のエクレシアである!」ということです。即ち「あなた(私)」が、主なる神が住まわれる「神の宮」です!


 覚えて戴きたいことは、たとえ今の「あなた(私)」が、霊的に「欠けた器」や、「弱き者」であったとしても、聖霊様は明確に言われます。「主なる神は、あなたの只中に住まいを定め、そこに住みたい!」と。だからこそ、その住まうべき所を、聖霊様を通して聖めて戴き、麗しい住処として定められた以上、私たちは聖霊様の「熱情の愛」をもって、①正しく導いて戴き、②繊細に取扱って戴き、③豊かに養われる、この三つの働きが必要となります。


 私たち「エクレシア」の行き着くゴールは、花婿なるイエス・キリストとの、御国における婚礼(結婚)式典です。花婿なるイエス・キリストは、「あなた(私)」の為に祈り続け、「その時」に向けて準備して下さっています。それ故に「あなた(私)」という存在が、単なる三次元的目的の為に、この地上に遣わされた者ではない!ということが分かります。


 この三次元的「目的」のことを、ステパノは「ダビデは神の御心に適い、ヤコブの家の為に神の住まいが欲しいと願っていました」(46節)と言及しているように、人の意思から生じる「目的」に沿った神殿(神の住まい)を指しています。しかし、あくまで創造主なる神がダビデに命じたことは、「私はイスラエルに対して、私の住まいを要求したことは無い!」と、きっぱりと宣言することで、神の「御心」に沿った、神の聖なる「住まい」を、先ずはダビデ自身の「霊」の只中に、しっかりと確立(建設)されることを、神は(今の私たちにも)命じているのです。


 しかし実際にソロモン王が、父ダビデの意思(神の目的)を継いで、エルサレム神殿の建築に着手し、見事に完成しますが、ステパノは「神の為に家を建てたのはソロモンでした。」(47節)と言及しています。つまり、ソロモンが建てた神殿は、文字通り「家(三次元的建物)」に過ぎませんでした。


「神の幕屋」の原点
 今回のメッセ-ジの第二の重要ポイントは、主なる神が望まれる、ご自身の「住まい」とは何であるのか、またその起源は何処にあるのか?という点です。それがモーセの「幕屋」に示されています。ステパノの言葉を借りるのであれば、「私たちの先祖には荒れ野に証し(臨在)の幕屋・・・・」(44節)、つまり神ご自身が直接、人に分かるような形で、麗しい臨在を現わされた場所が、モーセの「幕屋」です。


 神が臨在を示される「その時」には、①密雲や②火の柱、そして③雲の柱などの、自然界の不思議な現象をもって、ご自身を現わしています。その移動する現象(有様)は、まるで父親(神)が片時も離れること無く、幼子に寄り添って共に歩く様相です。その時の幼子(イスラエルの民)は、父親が先を進めば共に歩き、父親がストップすれば、父親の傍らにて、父の顔を仰ぐ(様子を伺う)訳です。この時に幼子は、①父親に信頼し、②父親の意思に従う、つまり父(全能なる主)に対する、「全き従順」を学ぶことになります。


 ご存知のように、現実にはエルサレム神殿は、既に存在しません。あるのは神殿施設の一部(嘆きの壁)だけです。では何処に行けば、「神の住まい」が見つかるのでしょうか?イエス・キリストは、「新しい契約」をもって、新しい神の「住まい」を示されました。


父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、全ての人を一つにして下さい。彼らも私たちの内にいるようにして下さい。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを、信じるようになります。・・・・私たちが一つであるように、彼らも一つとなる為です。・・・・私に対するあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになる為です。
                            【ヨハネ福音書17章21~26節】


 この御言葉の重要となるキーワードは、「~の内に」という、場所を意味する副詞です。当然のことながら、この「内に」に来る霊的動詞が、①住まう、②共に居る、③臨在する・・・・です。麗しい神の臨在が、何処に向かって進んだとしても、私たちは共に付き従って行く、これが本来の「神の幕屋」と私たちの、霊的な距離間(内に)です。


 イエス・キリストは今回の御言葉の中で、「私の中に(in me)」、「私と共に(with me)」、「あなたを通して(by you)」という副詞を多く用いています。そして、これらの言葉の行き着く先(ゴール)が、「一つ(one)」です。つまり主なる神は、私たちと「一つ(一体)」となって、動いて(前進して)下さる、これがイエス・キリストを通して完成された、新しい「臨在の幕屋」です。


 そうです!私たちがイエス・キリストを「神の子」、自分の「救い主」として信じた時から、イエス・キリストは、①私の中に(in me)住んで下さり、②私と共に(with me)居て下さり、③聖霊様を通して(by you)、常に神との「一体」の中に、ご自身の臨在を現わして下さいます。イエス・キリストが、私たちに望んでおられることは、「私に対するあなたの愛が、弟子たちの内側に、明確に見ることの出来る状態で留まり、私も弟子たちの霊の只中にご自身を現わす」(26節詳訳)ことです。


「あなた」を建て上げる聖霊様
 「今、よく考えよ、主は聖所とすべき家を建てる為にあなたを選ばれた。勇気をもって行なえ。」(Ⅰ歴代誌28章10節)この御言葉は、父ダビデが後継者である、息子ソロモンに対して、偉大なる遺言として命じたものです。直訳しますと「今、あなたは次のことを正しく認識しなさい。主なる神があなたを選んだ理由は、神ご自身が聖なる所として定めた場所に、私の家(住まい)を建てる為です。だから今、固い決意をもって、命懸けで完遂しなさい!」となります。


 そうです!聖霊様が定めている「聖なる場所」、それが「あなた(私)」です。創造主なる神が「あなた(私)」を選び、母の胎の中に命宿らせ、この地上に産み出して下さった、その最大の理由は「神が住まわれる神の宮として、あなたが建て上げられる」為です。それ故に、私たちは常に「イエス・キリストが私の中に住んで下さり、インマヌエルなる神として、私と共にいつも居て下さる!」という強い確信のもと、聖霊様を通して神との「一体化」にあずかりましょう。


 どうぞあなたが、「主よ、どうぞ聖霊様を通して、私を聖なる神の宮として、更に建て上げて下さい!あなたが住まわれる神の宮から、父の栄光が豊かに現れ出ますように。私の中に住んで下さるイエス・キリストが、輝かしい臨在の光となって、地上に満ち溢れ出ますように。私を創造して下さった主よ、あなたが住まう神の宮として、私を更に聖めて下さいますように!」と、祈りを正しく捧げることが出来ますように。


 聖霊様と共に歩み(進み)、聖霊様が指示為さる通りに行軍し、イエス・キリストの臨在が豊かに現われ出るよう、あなたの信仰が着実に成長して行くことを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2023年11月5日のメッセ-ジ)


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Terminal Hope(No.5)

     「真実の光」が目にありますか?




「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。ともし火がその輝きであなたを照らす時のように、全身は輝いている。」
                         【ルカ福音書11章33~36節】


「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれ程であろう。」
                         【マタイ福音書6章22~23節】


サタンの悪しき三つの「S」
 ご存じのように、サタンは「真実の光」を真似する、即ち神の御子イエス・キリストの如くに、自分自身を演じる(真実のように見せる)ことを、得意とする「偽天使(ルシファー)」です。そうです!サタンは「偽りの光」として、先ず①「神の言葉」をエバの「霊」から奪い(steal)ました。次に②彼ら(アダムとエバ)を、神との麗しい関係から引き離し、自分の配下へと隷属(slave)させました。そして最終的にサタンは③「この世」において、様々な現象をもって人々を騙す(欺く)べく、三次元的事実を「ホンモノ」の如くに、見せる(show)ことに尽力します。


 例えば、ある福音メッセ-ジが「真実」なのか、それとも「偽り」なのか、それを見分ける為には、どうしたら良いのでしょうか?簡単です。そのメッセ-ジの焦点が、イエス・キリストに対して、「栄光」を当てているか否か?即ちアダム(エバ)が騙されたように、イエス・キリストにではなく、「自分」に栄光を当てている場合、それは既に「偽りの光」に毒された(汚された)、人間的メッセ-ジになっています。


 神よりも「自分」に栄光を当てるべく、サタンは人々を巧妙に騙します。そうです!「私が・・・・」、「私の・・・・」、「私の為に・・・・」などの自己認識欲が増加する時、サタンはその者に近付いて、「本物」の助け主の如くに演じる訳です。しかし「真実の光」なる、主イエス・キリストは、聖霊様を遣わして下さり、即「否!あなたではなく、イエス・キリストです。イエス・キリストだけが、あなたの為に命を十字架上で捧げて下さり、あなたの為に復活という、唯一の永遠の命を与えて下さったのです。然り!あなたが聖い、麗しい乙女として、しみも傷も無い花嫁として仕立てるべく、イエス・キリストが天上からとりなし、私自らがあなたを聖別しているのです!」と、聖霊様の御声を届けて下さいます。


 このように聖霊様は、必ず「イエス・キリスト」に焦点を当てます。それに対して悪魔サタンは、「あなた」にスポットライトを当て、自分自身を輝かせることに非常に長けています。ですからルカは、明確に記しています。先ず「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。」(35節)と。つまり、あなたの中にある「光」が、暗闇にある「偽りの光」に染まっているか否かを、霊的に点検する必要があります。


 聖霊様は、常に私たちの霊に問いかけます。「あなたの霊の中にある光は、本物の光(イエス・キリスト)ですか?あなたが暗闇の中で光っているものが、果たして真実の輝きを放っていますか?」と。サタンは「光(イルミナティ)」を、巧妙に演出することを覚えて下さい!ですから私たちは、自分の「霊の眼」が、いつも健全であるか否かを、聖霊様に点検(診察)して戴きましょう!


「霊の眼」の定期検査
 ご存じのように、眼の健全性を測る「視力検査」には、光の放つ「輝度」に応じて、瞳がスムーズに反応するか否かを、専門医が綿密に検査します。即ち「光」の存在自体が、如何に私たちの「眼」という、小さな器官に対して、重要な役割(働き)を与えていることを検査することで、その健全性の度合が分かります。そうです!私たちの「眼」が、正しい健全性に保たれていることで、眼に入って来る「光」と、「光」に照射された物体の明暗、つまり「明るさ」と「暗さ」の度合の全ての情報を、正しく認識できるのです。


 同様に「真実の光(イエス・キリスト)」が、私たちの霊の只中に存在するのであれば、私たちの霊的な「体」も、健全性が常に正しく保たれるのです。しかし健全性が損なわれた場合に、霊的に前進することも出来ず、全てが不健全(霊的病い)に陥ります。そういう意味で、この「眼」という器官は、体全体の健康バランスを保つなど、如何に重要なパーツであるかが分かります。


 ところであなたは、小さなスマート・デバイス(通称スマホ)の液晶画面から、瞬時に照射される大量の「情報」以上に、「真実の光」なるイエス・キリストを、激しく飢え渇き求めていらっしゃいますか?またインターネットから得られる「文字情報(世のパン)」よりも、聖書が提供する「命のパン」、即ち生ける「神の言葉」を探し求めていますか?仮に私たちが、神との親しい「交わり」の時よりも、世の情報に明け暮れる時が多いのであれば、それこそサタンが「あなたの友」として近付き、「偽り」の励ましをもって唆していると言えます!


 キリストの「御体」である、エクレシアにとって最大の器官は、「霊の眼」と言っても過言ではありません。この「霊の眼」が、果たして何を求めて(見て)いるのか?即ち「真実の光」と「偽りの光」の、どちらの輝きが、「霊の眼」の中に増しているのか?これが「御体」の健全性を保つ上で、非常に重要となります。何故ならば、私たちは自分の「眼」をもって、様々に思考(判断)しているからです。


 「終わりの時」に当たり、サタンは更に自分の「光」を、あたかも「ホンモノ」の如くに演出して、多くのキリスト者を騙して行くでしょう。しかし、私たちは聖霊様の「導き」のもと、断じて宣言します!「イエス・キリスト以外に、真実の命、真実の光、真実の救いは無い!」と。ですから私たちは、非常に「重要な時代」に生き、かつ遣わされています。それ故に、私たちは自分の目で見る、モノ(対象物、情報、教え、預言等)が、果たして「真実」なのか、それとも「偽り」なのか、それを見極めるのは自分ではなく、あくまで聖霊様である!ことを、謙虚に受け留め、聖霊様の正しい「ガイダンス」に、聞き従って参りましょう!


眼を正しく測る「物差し」
 聖霊様が私たちを導いて下さる際に、霊的に測る「物差し」を提供されます。それが「イエス・キリスト」という、真実の御名(霊的な輝度)です。仮に「あなたの名(肉的な輝度)」が輝くことを、必死に願い求めているのであれば、それは既に「偽りの光」に支配されています。しかし「イエス・キリスト」の栄光、イエス・キリストの真実、イエス・キリストの麗しさを、あなたが純粋に求めている時、あなたは「真実の光」に覆われ、イエス・キリストが「あなた」を通して、光輝いているのです。


 今の時代、聖霊様が一番に悲しまれていることは、多くの人々の「霊」の只中に、「暗闇」のフィールドが増していることです。それ程にサタンは、巧妙に「罠」を仕掛けて、あなた(私)を欺き続けています。そのような悪しき時代の中にあって、私たちは如何に真実、かつ唯一の御名(霊的な輝度)、即ちイエス・キリストという、正しい「物差し」をもって、霊的に物事を正しく捉え、正しく見極めて行くべきでしょうか?次の御言葉に、霊的な指針が示されています。


愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、全て神から出たものです。このことによって、あなた方は神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊は全て、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなた方は、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。子たちよ、あなた方は神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。何故なら、あなた方の内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。偽預言者たちは世に属しており、その為、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。私たちは神に属する者です。神を知る人は、私たちに耳を傾けますが、神に属していない者は、私たちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることが出来ます。
                      【Ⅰヨハネ書4章1~6節】


 真理の御霊(聖霊様)が働かれる時には、必ず「真実の光」の輝きが増し加わります。その結果、私たちは、イエス・キリストのみに焦点を当て、イエス・キリストのみを求める、真の礼拝者となるのです。それに対して「この世」に属する人々は、益々「偽りの光」を仰ぎ求めているが故に、必ず「イエス・キリスト(真の光)」を否定し、反キリストの霊に従って生きます。


 しかし私たちは、イエス・キリストに属する「神の家族」として、朝起きた時から真理の御霊を歓迎しましょう!そうすれば聖霊様の主導のもとに、日もすがら「真実の光」が、私たちの「霊」を輝き照らし、私たちの全てを完全に聖めて下さいます。どうぞ、「この世」を支配することの出来る、素晴らしい天の栄光の「輝き」が、イエス・キリストを通して、あなたの歩む一歩一歩、その先の全てにおいて、豊かに現わされますよう、主イエス・キリストの聖名で、祝福してお祈りします。アーメン!(2024年2月4日のメッセ-ジ)


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Terminal Faith(No.30)

「過ち」を繰り返さぬ為に




この人(モーセ)が・・・・四十年の間、荒れ野でも・・・・人々を導き出しました。この人が荒れ野の集会において・・・・天使と私たちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、私たちに伝えてくれたのです。けれども、先祖たちはこの人に従おうとはせず、彼を退け、エジプトを懐かしく思い・・・・若い雄牛の像を造ったのはその頃で・・・・自分たちの手で造ったものを祭って楽しんでいました。・・・・それは預言者の書にこう書いてある通りです。「イスラエルの家よ、・・・・お前たちは・・・・モレクの神輿や・・・・ライファンの星を担ぎ回ったのだ。だから、私はお前たちをバビロンの彼方へ移住させる。」
【使徒行伝7章36~43節】


「過去」から学び、どう生かすのか?
 私たち人間は、「過去」における数々の失敗を、歴史的教訓として学んだにも関わらず、同じ失敗を繰り返すところがあります。特に今の「終わりの時代」にあっては、霊的イスラエルの民である、私たちキリスト者の全てが、過去の「失敗(過ち)」を繰り返さぬべく、来たる霊的「戦い」に向け「いざ出陣!」と、身を慎んで備えるべきところでしょうが、世界的な「災い」と、迫り来る世界大戦の如き「戦争」の足音に、逆に震え慄くキリスト者も増加しています。


 しかしステパノが、今回の御言葉を通して、今に生きる私たちキリスト者に対して、激しくメッセ-ジを投げかけている理由は、アダム(エバ)の子孫である以上、私たちも「過ち(罪)」を繰り返す、その可能性が「いつでも有り得る!」と、神の御前に謙虚に生きる為です。そうです!私たちは「今」主なる神から恵みを賜っても、「数分後」には(戴いたことを)すぐ忘れて、別のものを求めるなど、神ではなく「他のもの」を追い求める、霊的に姦淫し易い「罪の性質」があります。


 ステパノは明確に、私たちが過去の「過ち」を、現在及び将来において、再び繰り返さぬ為に、私たちが今置かれている霊的ポジションを、いつも謙虚に受け留めながら、「助け主」聖霊様の導きに、素直に聞き従うこと、即ち①私たちの一歩「先」を行かれる、主イエス・キリストの「足跡」を確認し、②主イエス・キリストに全てを委ね、③主イエス・キリストから差し伸べられた、その御手を私たちは掴んで行くなど、信仰の「一歩」が重要であることを訴えています。


「荒れ野」における学び
 ステパノのメッセ-ジには、主なる神は各時代ごとに、「神の民」であるイスラエルに対して、先見者を遣わしている、例えば信仰の父アブラハム、前もってエジプトに遣わされたヨセフ、またその後エジプトの圧政下から開放すべく、モーセを選び召し出して、偉大なる民族大脱出を図るなど、その神の歴史が記されています。そこで今回私たちが学ぶべき、第一の重要ポイントは、私たちもモーセ同様に、霊的な「荒れ野(砂漠)」を通過させられること、そしてそれには正しい「理由(意味付け)」があります。


 ステパノはその理由を「天使と私たちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、私たちに伝えてくれた」(38節)と述べていますが、第一に①モーセは「仲介者」として、即ち主なる神と民の間を取り持つ、代弁者(取りなし手、和解の使者)というポジション、次に②「神の言葉」を命を懸けて受け取る者、即ち「大祭司」としての雛型(立ち位置)、そしてこの二つの霊的ポジションをもって、③今通過させられている「荒れ野」において、創造主なる神の「偉大さ」を学び、あまねく知らしめる(伝える)為です。


 「けれども、先祖たちはこの人に従おうとはせず、彼を退け、エジプトを懐かしく思い・・・・若い雄牛の像を造った」(39~41節)、つまりイスラエルの民は「荒れ野」において、神から遣わされた「先見者」モーセを侮り、その語る「言葉」と「指導」に対して、ことごとく反抗しました。その理由が「荒れ野」における、神の偉大なる「導き」を尊ぶのではなく、逆に「エジプト(この世)」を懐かしく思って、再び慕い求め始めたからです。


 彼らの犯した「過ち」は、具体的に四つあります。第一に①従うことを拒絶しました。第二に②先見者の指示を後回しにしました。第三に③過去(エジプト)を振り返って、そこに戻ることを求めました。最終的に④唯一の創造主ではなく、自らが鋳造した「偶像(金の小牛)」に、膝を屈めて礼拝したことです。その結果、彼らは「約束の地」に辿り着くこと無く、「荒れ野」にて死に絶えました。


 ところで今に生きる私たちも、彼ら(イスラエルの第一世代)同様に、霊的に死に絶える存在なのでしょうか?否、今の新約の時代においては、イエス・キリストが和解の「先見者(救い主)」として、既に遣わされています!イエス・キリストは、私たちが「過ち」を繰り返したとしても、真の「助け手」なる聖霊様を遣わして下さり、私たちの「歩み」を正すべく、「荒れ野」において訓練し、かつ聖別して下さいます。そして私たちが最後の一歩、つまり御国へと凱旋する「その時」まで、丁寧に付き添って下さいます。


「過ち」を繰り返さぬ為に・・・・
 では、私たちが「過ち」を繰り返さぬ為には、どうすべきでしょうか?具体的には、一つ一つの「過ち」に対して、①どう受け留めて(自らのミスや失敗を真摯に認めて)、次に②どうしたらそれを防ぐことが出来るか?を熟考(分析)し、最終的に③「過ち」を犯す手前で、それを回避する「手立て(対策)」を構築することです。しかし、これらの三本柱では足りません。人は「過ち」を忘れる!という、愚かな習性があるからです。


 不信仰に走った彼らは、最終的に「金の小牛」を造り上げ、それを担いで歩くことを実践しました。これは全て、近隣の諸民族が為していた、偶像礼拝のシンボルであり、特にモレク神やライファン神などは、「牡牛」の顔(頭部)を造形化しています。これはサタン礼拝(悪魔崇拝)の象徴です。実は、この悪魔崇拝の儀式は、今も尚盛んになりつつあり、歴史的に継続して行われています。


 ここで覚えて戴きたいことは、私たちが悪魔崇拝を為すことはありませんが、私たちの霊的生活の「流れ」の中に、神の「促し」や「取扱い」があるにも関わらず、それを隅(脇)において、自分の肉の「計画」や「判断」を優先して行きますと、いつしかそれが「金の小牛」になるのです。しかし次々と迫り来る「試練」において、主なる神は私たちに対して、唯一崇めるべき方(救い主)、「イエス・キリスト」を示して下さいます。


 キリストの花嫁である、エクレシアを監督される方は、今の「先見者」聖霊様であり、そのエクレシアの長(頭)は、牧師という「人」ではなく、神の御子イエス・キリストです!イエス・キリストが、エクレシアの大幹(主権者)として、ここ(神の選びの地)に打ち立てられている以上、私たちはイエス・キリストの「枝(パーツ)」です。


 私たちが「過ち」を繰り返さぬ、最終的かつ最善の方法は、次の御言葉に要約されます。「偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠も無く思い上がっているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節(ふし)と節(ふし)、筋(すじ)と筋(すじ)とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。」(コロサイ書2章18~19節)


 この御言葉に示されているように、私たちが大幹なる主イエス・キリストに、しっかりと結び合わされている限り、神の御体の監督である聖霊様を通して、私たちの中にある不要な部分は、その都度霊的に剪定され、大幹の元でバランス良く成長し、「小枝」から「大枝」として形造られて行きます。


 仮に私たちが、肉(魂)的に信仰を働かせて行きますと、例えば様々な「幻」を見たり、預言的な「しるし」などに、次第に精神(感情)的に倒錯するなどの、霊的な「罠」に陥る可能性があります。この種の思考(判断)は、悪魔サタンがもたらす「思い上がり(高慢)」です。一番大切(正常)な思考(判断)は、「自分が常に、しっかりと大幹につながっていなければ、枝に過ぎぬ自分は何も為し得ぬ!」という、真実の謙遜です。


 つまり「主人(大幹)」を超えて(離れて)は、「しもべ(枝)」として成り立たない(存在しえない)ことを、常に意識する信仰姿勢が大事です。そうです!私たちが「過ち」を繰り返さぬ為に必要なことは、一にも二にも主導権を聖霊様に委ねつつ、主なる神が毎日与えて下さる「命の言葉」を、自分の「命」に優るものとして、激しく慕い求めて行くことです。


 どうぞあなたが、今置かれているポジションを、聖霊様を通して何度も示して戴き、「主よ、私の先にあるものは何でしょうか?仮に人間的なものであるならば、それらは全て偶像です。私が一番に慕い求めるものは、主イエス・キリストよ、あなたの麗しい御顔と、その唇から語られる命の言葉です!」と、心から祈り求めて行くことの出来る、賢い乙女として聖められて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2023年10月29日のメッセ-ジ)


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