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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

急患診療(No.2)

                      ここに住みなさい!




二人は旅を続け、遂にベツレヘムに着いた。ベツレヘムに着いてみると、町中が二人のことでどよめき、女たちが、ナオミさんではありませんかと声をかけてくると、ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んで下さい。全能者が私をひどい目に遭わせたのです。出ていく時は、満たされていた私を、主はうつろにして帰らせたのです。何故、快い (ナオミ)などと呼ぶのですか。主が私を悩ませ、全能者が私を不幸に落とされたのに。」ナオミはこうして、モアブ生まれの嫁ルツを連れてモアブの野を去り、帰って来た。二人がベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れの始まる頃であった。
                                                                                                        【ルツ記1章19〜22節】


祝福が飢饉に遭うとき
 ナオミは「飢饉」が起きる度に、様々な地を捜し求めて移動しました。そして今回、自分の生まれ故郷「ベツレヘム」に戻ってきたことが、「最後の移動」になりました。「一回目の飢饉」の時は、生まれ故郷「ベツレヘム」を離れ、主人と二人の息子を含めて合計「四人」の家族で、異郷の地「モアブ」に移り住みました。モアブの地は、地図をご覧戴くと分り易いのですが、(ベツレヘムから見て)死海を挟んで東部地方にある地です。この時は、モアブの地が「飢饉」に遭うことなく潤っていたため、彼らは移動したのでしょう。


 しかしモアブ人は、歴史的に見てイスラエル人と、「民族的確執(対立)」関係にある部族でした。この関係は、例えば私たち「日本人」が、人種的に見るならば同族である「韓国人」に対して、常に「ライバル視」し合う、そのような関係です。ですから、ナオミ家族がモアブの地に移り住むことは、人生最大の「決断の時」を迫られる、そのような状況にあったのではないでしょうか!しかし現実的にベツレヘムの地に留まっていたら、「死」を待つだけの飢饉の最中にあり、もはや生存不可能な状態に陥る・・・・、しかしモアブの地に行けば、そこは「神が今祝福して下さり、潤っている土地」であることを聞きつけたナオミ夫婦は、遂にその地を求めて旅立ったのです。


 モアブの地に移住してから彼らは、実際「神の祝福」を豊かに受け、全てが満たされた「至福の時」を見事に手中にしたのです。又、父なる神も彼らの信仰に応えるべく、ご自分の「憐れみ」を天から注ぎ、彼らを豊かに祝福されたのです。そして何と、母ナオミが予想もしなかったことが、二人の息子たちに起きます。それは二人の息子が成人した時、彼らが敵対する異邦人(モアブ人)の娘を、「嫁」に迎えたことです。この時点で、ナオミの家族は合計「六人」になり、遂に先祖アブラハムに約束された「子孫の祝福」を、この地において受け継ぐ者(夫婦)になることを期待しました。つまり自分の産んだ息子たちから、更に「孫」が多く産まれ出る「その時」を、今か今かと待ちわびることになります。


 ところが「至福の時」は長続きせず、先ず愛する夫が(恐らく病気で)死に、続いて後を追うように息子が二人とも他界したのです。後に残されたのは、(ナオミから見て)赤の他人である二人の嫁であり、自分を含めて合計「三人」にまで半減しました。そうです!自分の血筋を受け継ぐ者が、この時点で誰もいなくなったのです。これで「不幸」は終わりではなく、悲しみの冷め止まない内に、次はモアブの地に「飢饉の時」が訪れました。この時もナオミは「信仰の回復」を経て、人生二回目の移動を決断します。この時ナオミは「モアブ」を離れ、再び「ベツレヘム」に立ち帰るのですが、嫁二人を共に連れ立って行くべきかを、自分が決定するのではなく、彼女たちの決断に委ねることにしました。


 ナオミ自身の中に、「ベツレヘム」に帰還する信仰はあっても、彼女たちまで「自分の不幸な人生」に付き合う必要はない!などと「嫁」を気遣う、情(魂)的な「不信仰」の一面もあったからです。そして第一章で学びましたように、オルパがナオミの元を去り、自分の生まれ故郷に戻ったことで、二回目の移動の時にはナオミとルツの、僅か「二人」だけの帰還になります。この時ナオミの心中は、如何なる状態にあったのでしょうか?「里を出る時は家族四人で、希望を胸に抱きながら出かけたのに、今度里帰りする時は何と惨めにも、この老いたやもめと異邦人のやもめ(若嫁)の、たった二人だけではないか!何と不幸な者たちよ!などと、必ず嘲笑されるに違いない。こんなに恥ずかしい思いをして、生まれ故郷に帰ることになるとは・・・・。」などの思いがよぎり、(決断の時に)躊躇したはずです。しかし、余りにもルツの決意が強かったので、仕方なく「分ったわ!それでは二人で帰りましょう。しかし、(私に付いて来たら)何が起きるか保障できないわ!ただ食べるには困らない位、私の故郷は景気が回復しているはずだから、出発しましょう!」と、苦汁の決断をしたのです。


「そこ」と「ここ」の違い


これは永遠にわたしの憩いの地。ここに住むことをわたしは定める。
                                                                                                                 【詩篇132篇14節】


 主が約束として「住むことを定められた」シオンは、永遠に続く「憩いの地」であり、本当に主の平安が豊かに保障されている、約束の「安住の地」です。そしてこの「シオン」は、かつてアダムとエバに与えられていた、神との「親しい交わり」の場、つまり「至聖所」も含みます。それ故私たちも、この「シオン」に住むことを、父なる神は約束として定めています。詩篇132篇13節の表現では、「そこに住むことを・・・・」と記されているように、ポジション的に少し距離感のあるもの、つまり「そこにあるんだから、住みなさい!」など、軽い「勧めの言葉」に感じられるものです。しかし14節では、明確に「その場所は、私の与える憩いの地だから、絶対ここに住みなさい!」という、絶対命令の表現になっています。「そこ(there)」と「ここ(here)」とでは、意味合いがかなり違ってきます。私たちが「ここ」と言われても、只の「平仮名」二文字に過ぎないではないか!などと思うかも知れませんが、実は主の定める「ここ」には、霊的に重要な奥義が語られています。


 私たちが求める「シオン」は、いったい何処にあるのでしょうか?「シオン」は私たちの「霊」の只中に、「神の宮」として確立されていく、一つの「場所」のことを指しますが、私たちの霊的フィールドの、ある地点を主なる神が指し示される時、明確に「ここだ!」と言われる場所が、実は存在するのです。私たちはナオミの人生の如くに、様々な「霊的潤い(恵み)」を求めて各種の聖会、ミニストリー、セミナー、リニューアルの集いなどを転々と移動します。しかし、そのような聖会でも満たされない場合、更に渇き求めて「あるポジション」を探し回る傾向にあります。しかし私たちが忘れてならない、神が定めておられる霊的最終ポジション、「ここ」とは如何なる場所であり、又それは何処にあるのでしょうか?そして聖霊様も命じておられる、特別の場「ここ」のポイントを、私たちの霊的フィールドの中に明確に定めているか否か、これが私たちの知るべき「第一の重要ポイント」です。


 ナオミは、自分が求めている「ここ」を理解できませんでした。とにかく「飢饉」に遭遇する度に、「ここ(飢饉の場)」では生きられず、至る所を捜し求めていく中で、ようやく最終の決断に至った「ここ」の場が、自分の出発点「生まれ故郷」だったのです。その時彼女は、「え!人生最大の決断をして出てきた所に、私が再び戻ることになるとは・・・・、しかし、あそこ(モアブ)よりましだわ!」などと、少し不安と恐れが交錯する中、躊躇しながら戻って行きます。そしてようやく「ここ」に辿り着く直前になって、彼女は葛藤し始めました。「故郷の知人たちは、この私を見てどのように言うだろうか?多分馬鹿にされるに違いないわ!」などと。


「霊的葛藤」を覚える時
 私たちは様々な霊的恵みを受けながら、以前(過去)よりも高い霊的次元(ここ)を求めて前進して行きます。しかし私たちが前進すればする程、以前より高いポジションに登り始める時に、必ず私たちの行く手を阻む「肉の次元」がつきまとうこと、これが私たちの知るべき「第二の重要ポイント」です。即ち、私たちの「肉」から生まれ出る「思い」や「魂の働き」、ある時は「霊的錯覚(トリック)」を用いて、以前のポジション(そこ)に戻そうとするサタンの働きが、必ず起きることを私たちは体験します。これは前進する者にとって、終わり無き「霊的戦い」です。その証拠に、ナオミが故郷「ベツレヘム」に戻ってきた時、「町中が二人のことでどよめ」(19節)いたと記述されています。この「どよめき」という表現は、決して「良き知らせ」を聞いた時に起きる反応ではなく、むしろこの後に続く(恐らく女たちが)、「声をかけてくる」という記述から伺えることですが、ナオミの恐れていた事態(どよめき)が起きたことです。


 町に入る前の彼女は、恐らく「こっそりと町に入り、誰からも気に留められることなく、ひっそりと暮らそう!」という心境でした。しかし霊的に高いポジションを求め、それを今まで得ていたはずの彼女が、この「どよめき」によって物の見事に「振るわれ」ました。そして、町中の女たちがナオミの一行をからかい、「ナオミさんではありませんか!」と、次々と声を掛けて来ました。実はこの種の悪しき「からかい(嘲笑)」は、私たちの霊的フィールドの中にも、時々投じられるものです。例えば、「あなたは霊的に高いポジションを求めて、恵みの座に行ったではありませんか?」、「あなたは異言を語るようになり、確かに霊的に興奮し力みなぎっています。しかしいつかは興奮も収まり、冷めてくるでしょう!」などと。それに対してナオミは、どう答えたのでしょうか?「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んで下さい。」(20節)


 サタンは常にあなたを、その求める高き霊的ポジションから引き摺り下ろして、三次元的な「現実の世界(姿)」に視線を移すように仕向けてきます。例えば、「あなたは霊的に、高い次元に登ったのでしょう?それなのに何故、今このような状態なのですか?」、「あなたは大分長いこと、異言で祈っているにも関わらず、全然変わり映えしないね・・・・。最初は確かに、熱心に祈って快い状態を保っていたが、今では異言で祈ることが辛くありませんか?」などと。このサタンの悪しき「からかい」は、私たちの霊的フィールドの中に、何らかの「疑い」と「不安(恐れ)」から来る、「霊的葛藤」を呼び起こします。つまり、ナオミが「ナオミ(快い)などと呼ばないで・・・・」と告白した「霊的弱さ」が、実は私たちの「霊」の中にも存在するのです。しかし覚えて戴きたいことは、この「霊的葛藤」も父なる神が聖霊を通して導いている、確かな霊的「回復(リニューアル)」の働きであることです。私たちが霊的に高いポジションを求めて前進する時に、様々な障害物にぶつかり、ある時は倒れたり霊的にダウンしますが、このこと自体は決して「罪」ではありません。しかし「その時」一番大切なことは、聖霊様もあなたの「霊的葛藤」に対して、共に苦しみ言い難き嘆き(うめき)をもって、側近くでとりなしていて下さることです。


 ナオミはこの時、側近くにいたルツも彼女同様に、町中の女から「霊的辱め」を受け、非難(中傷)されていることに気付いていません。前章で学びましたように、ルツは異邦人でありながら、ナオミの信じる「全能の神」だけを慕い求めて、彼女の導きに従って付いて来た「同伴者」でした。このルツの行動は、聖霊様の働きを示す雛型です。聖霊様は、私たちが経験する様々な肉(魂)的次元での「霊的葛藤」に対して、「だからもっと渇きなさい!真の命の水源を目指して、ここに登って来なさい!ここに辿り着けば、必ず憩いの地が用意されています!」などと促して下さる、言わば「霊的同伴者」です。しかしナオミは、この大事な自分の同伴者ルツの存在を忘れていました。ルツは「ナオミの帰還」と同時に起こった、この突然の「どよめき」を静かに見守り、そしてとりなしました。「お義母さん、違うでしょう!他人がからかう、その人間的な声を聞いてはダメ!」と。


 ところで、町中の女たちは何故「ナオミ」の家族を、しつこくからかったのでしょうか?その原因は、全てイエス・キリストと同様に、理由なき「妬み(憎悪)」から来ています。つまり「世の花嫁」にとって、「イエス・キリストの花嫁」は常に妬むべき存在であり、その霊的ポジションを奪うべく、しつこい程彼女の「思い(意志)」に働きかけ、「この世」に方向転換したいからです。恐らくナオミ・ファミリーは、かつて町中で一番祝福された、いわゆる「成功者」の一家でした。以前エルサレムに起きた「飢饉の時」にも落ちぶれず、異邦の地に移住した時にも再び「成功者」になったことを、女たちは「時の知らせ」で知っていたのでしょう。ところが、その後暫くしてもたらされた「情報」によると、常に上昇ムードにあった「ナオミ・ファミリー」が、次々と「夫(大黒柱)」と二人の「息子」に先立たれ、最終的にナオミと一緒に付いて来たのが、一人の「異邦人のやもめ」であり、言わば二人の「敗北者(やもめ)」として帰還するということで、町中の女が一斉に集まったのです。


 この時に彼女たちが語った、「ナオミさんではありませんか」という言葉は、ある面でサタンからの「挑戦状」です。「あなたは祝福の源である、高い霊的次元を求めて前進(出発)したにも関わらず、今のあなたは何の実も残さないレベルにありますねー!一粒の実さえも残せない惨めな状態ですねー!豊かな実りある人生を、約束として必ず与えて下さる神を信じて前進したのに、残されたものは苦しみ(マラ)と失敗者(ルツ)という、二つのレッテルだけですねー・・・・。」と。この「挑戦状」に対してナオミは、「そうなんですよ!だから私のことを、二度とナオミと呼ばないで下さい。これからはマラと呼んで下さい!」と、サタンの差し出した降伏文書に調印しかかりました。


 「ナオミ」という名前を命名したのは、恐らくナオミの両親でした。ナオミが産まれた時に、母親がどのような「信仰の思い」から、「快い」と命名するに至ったのか定かではありませんが、確かに「ナオミの人生」には、父なる神が「快い」という、ご自身の「計画」をもって働かれ、彼女の人生の始めから終わりに至るまで「快い状態」を保障し、より完成された「快いもの」を充足するなど、それは素晴らしい契約(預言)的名前でした。ですからナオミが自分のことを、不信仰から「マラ(苦い)」と呼んだまさに「その時」、ルツは激しい「霊的憤り」を覚えました。「否!否!否!お義母さん、あなたは決してマラではありません!ずっとナオミなんですよ!父なる神は必ず、ここに回復の時を用意しているんですよ。それはモアブに住んでいた頃より、更に優った祝福を受け継ぐために、ここに導かれた全能の主の御名によって祈ります。」と。


飢饉の後に


二人がベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れの始まる頃であった。(22節)


 私たちはこの御言葉を、霊的にどのように把握しますか?ナオミとルツが、あえて「大麦の刈り入れの始まる頃」を見計らって、計算(計画)して帰って来たのでしょうか?しかし忘れてならないことは、彼らは自分の故郷「ベツレヘム」に、回復の兆しがあるという「情報」を知っていただけで、実際の「ベツレヘム」の農業の生産状況までは詳しく知らなかったことです。ところが彼女たちは、信仰の導きに従って、「無計画」で帰って来ました。「飢饉」を始められ、又終わらせる方は只一人、「全能の神」父ご自身です。父なる神が「その時」を定められる方ですから、「人」は神の「時の次元」に、決して介入できません。それ故、モアブの地に始まった「飢饉」が、いつまで続くのか分らなかったナオミにとって、当初は自分の生まれ故郷に帰る気は毛頭なく、ひたすら「飢饉」の終息の時を、モアブの地で待っていました。しかし状況は益々酷くなるばかりで、遂には「生存の危機」に突入する事態に至って、信仰の決断により導かれるまま出立し、そして彼女達が辿り着いた時期が、たまたま「大麦の刈り入れの始まる頃」だったのです。


 父なる神は、ナオミを真の「安息の地」、つまり更に高い霊的ポジションへ導くために、あえて彼女の望まなかった出身地「ベツレヘム」の地で、霊的に取扱われたのです。このことは、父なる神が私たちに対して霊的に取扱われる上で、二つの重要な働きがあることを指し示しています。第一に、何故私たちが高い霊的次元を求めて、更に前進することが必要であるか、このことを必ず聖霊様が示され、そして更に前進できるよう、必要な「力」を天より注いで下さいます。第二に父なる神が聖霊を通して命じている、「ここ」に私たちが辿り着き、「ここ」に霊的ポジション「安住の地」を据えた時に、実は父なる神が私たちの「霊」の只中から、「大いなる霊的収穫」の御業を推し進められるのです!


 これは、私たちが「計画」して準備するものではありません!神が一方的にご自分の「計画」を、ご自分が定めた「その時」に現実化し、ご自分の用意された「ここ」に、召し出した「イエス・キリストの花嫁」と共に、収穫の実をあずからせるという、「救いのご計画」によるものです。私たちはいつか、「その時」至りて経験することでしょう。「その時」あなたは、「ルツ記」通りに「確かに、今まで歩んできた私の人生には、マラ的なものがあった。しかし、霊的に砕いて下さる聖霊様の働きに従って、ようやくここに辿り付き「安住の地」を得ることができ、霊的ナオミを求め再び祈り始めたら、何とそれから暫く待っていると、大いなる神の収穫の恵みにあずかった!」と、人々の前で大胆に証言することでしょう。


ここに住みなさい!
 「ここ」という霊的ポジションは、命の木(源)「イエス・キリスト」を指します。私たちは、霊的に「イエス・キリスト」と接木されなければ、私たちの「霊」の只中に真の神の都「シオン」は確立されません。時々私たちはナオミのように、様々な「聖会」や「ミニストリー(セミナー)」に行くことで、霊的ポジションが「霊」の中に確立されるのではないかと、「油注ぎ」を求めようとします。しかし忘れてならないことは、私たちの「霊」の只中に「シオン」が明確に建て上げられるには、只一つの「ここ」という明確なポジション、つまり霊的いしずえ(イエス・キリスト)を、土台として据えることなくして、在り得ないことを知って下さい!「ここ」に様々な教え、ミニストリー、しるし(わざ)、リバイバルの方法などを据えても、「一時的な飢饉」は耐えることが出来ても、神の大いなる「後の雨(収穫の時)」と同時に襲来する「大艱難の時」には、「砂上の楼閣(世的な教会)」として「飢饉」に押し流されるだけです。ですから聖霊様は、単純な命令をあなたの「霊」に発信しているのです。「ここに住みなさい!ここに住むことだけを求めなさい!ここに接木されなさい!」と。


 父なる神は、大幹イエス・キリストに根ざし、イエス・キリストに接木され、イエス・キリストの「枝」として、完全にイエス・キリストと「一体化」した者のみを、「我が愛する子よ!」と快く迎え入れて下さいます。イエス・キリスト(ここ)以外に、「神の救い」に至る道はありません!故郷に戻ってきたナオミは、確かに町中の女の「人の声」を聞き入れて、一度は霊的にダウンしました。しかしこの時、同伴者ルツが側近くにいました。そして実は、ナオミから見て「役立たず」に思えた、このルツの信仰(行動)を通して、彼女も共に「大麦の収穫」の恵みにあずかるよう、「回復の時」が用意されるのです。ですから私たちは常に、自分の人生全てに渡って預言的宣誓を、次のように告白しましょう!「主イエス・キリストこそ、私の安住の地。そして私は、いつでもイエス・キリストの中に住みます!私たちは、様々なものを求め霊的に飢え渇きます。しかし一番私が求めて止まない、飢え渇く霊的ポジションは、ここにあります。つまりイエス・キリストご自身です。このことを常に指し示して下さる、聖霊様の御声に聞き従って、更に前進することができますよう、主イエス・キリストの御名で宣誓します。アーメン!」


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