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生ける聖霊の働き(No.30)

                           最終段階の流れ




更に彼が一千アンマを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川になった。彼は私に、「人の子よ、見ましたか」と言って、私を川岸へ連れ戻した。
                                                                                                 【エゼキエル書47章5~6節】


 私たちは聖霊様を通して、父なる神が定めておられるキリスト者の「大変革の時」に、どのように造り変えられて行くべきでしょうか?その「備え」として、神の用意される「命の水」の川の中で、第一から第三レベル、そして今回の最終レベルにおける聖霊様の取扱いを、私たちも受けていく必要があります。そこでこの章では、神の最終段階のテスト(取扱い)によって、私たちは如何なる霊的レベルで、聖霊様を通して造り変えられて行くのか?この点について学んで参りましょう。


最終テストの意義
 聖霊様は、エゼキエルに対して取扱われたのと同じ過程で、私たちを霊的に正しい方向で取扱われることでしょう。この「最終段階」においても、確かに聖霊様は霊的な「満たし」のレベルで、「私たち(器)」を完全に聖めるという、正しい「方向性(目的)」をもって働かれますが、父なる神が用意して下さる、「祝福(命の水)」の川の流れの中に、私たちが即座に「自己」を明け渡して、渡り切ることが出来るのであれば、わざわざ今回の「最終テスト」を、私たちに用意する必要はありません。


 ところが、ご存知のように私たちの「霊」の中には、神が用意して下さる「命の水」を、100%完全に満たされることを阻む、霊的な障害物が存在する訳です。ですから、聖霊様が第一~第二~第三レベルの中で、私たちを霊的に取扱いながら、私たちの「信仰」の歩みに対して、歩調を合わして導いて下さっているのです。聖霊様は決して、「あなたは、二次(第二段階)テストに合格しなかったから、もう一度追試験を受けなさい!」などと言われる方ではありません。聖霊様は、各段階のテストにおいて、私たちが取扱われるべき「障害物」を明確に示しながら、「あなたはこれらの障害物が、少しずつ聖められることを、イエス・キリストの恵みに従いながら、へり下って求めますか?」などと、私たちの霊的飢え渇きの度合い(レベル)に応じて、聖霊様自らが私たちの「信仰」の歩みを、常に測っていて下さることを、私たちは先ず知るべきです。


最終テストの奥義
 神の使いは、エゼキエルが第三段階の流れの中を、完全に渡り終えたのを確認されると、再び一千アンマの距離を目指して先に行かれました。そして目標地点に到達した時、神の使いは第一から第三段階の時とは、違った行動を為されていることが分ります。つまり最終段階の地点に至った時、神の使いはそれまでのように、「こちらに渡って来なさい!」とは命じられなかったのです。しかし、最終段階のテストを受けるエゼキエルは、明確に悟っていました。「最後のテストを受ける自分に、聖霊様が何かを示して下さっている!」と。


 余談になりますが、シェークスピアの戯曲『ハムレット』の中にある、有名なセリフの一つ「生きるか死ぬか、それが問題だ」という言葉を、あなたはご存知のことでしょう。実は私たちの「信仰」の歩みにおいても、「生きるか死ぬか?」というテーマ(課題)が、非常に重要となります。私たちが世的にも霊的にも、「生きるか?」それとも「死ぬか?」が、全ての問題の鍵となります。シェークスピアは、私たちが生きていく上で、どう行動すべきか?また逆に、死ぬようなことになった時に、どうすべきか?を、ハムレットの生き様から、私たちに教え示している訳ですが、私たちキリスト者にとって、この「生きるか死ぬか?」というテーマは、霊的な面において常に問われる命題です。使徒パウロも、「私は神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。私は、キリストと共に十字架に付けられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」(ガラテヤ書2章19~20節)と述べていますが、神が用意される「最終テスト」においても、この命題が非常に重要となるのです。


 「神の使い」とは、今まで学んで参りましたように、「聖霊様」を象徴していますが、最終レベルの「川」を渡り行く「神の使い」は、まるで超人(魔法使い)の如くに、川の水面をピョンピョンと跳ねて行きながら、更に一千アンマの最終ポイントに辿り着いた、そのようなイメージで把握しないで下さい。「霊(聖霊)自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成して下さる・・・・」(ローマ書8章26節)の御言葉の如くに、「神の使い」ご自身も「腰」レベルから進み行き、次第に深さが増す「川」の中を進む中で、遂に姿全体が「川」の中に沈み行く光景を、エゼキエルは見たのです。しかし「測り綱」は、順調に引っ張られている訳ですから、神の使いが「命の水」の中でも、渡り歩いている(生きている)ことが分りました。


 そして、遂にその歩みがストップした時、「測り綱」がピン!と緊張しました。彼は「さて・・・・どうしたらよいものか!神の使いが今まで通りに、渡り切るように命じてきたら、私はどうしよう?」などと不安な思いで、事の成り行きを見ていましたが、この最終段階の時は、「神の使い」の命令が何も下されませんでした。私たちの信仰生活の歩みにおいても、聖霊様がその都度私たちに対して、様々な「ご命令(ガイダンス)」を下しながら、「正しい道」を示していたにも関わらず、ある時は「聖霊様は何故、無言の状態(態度)を貫いておられるのか?」などと錯覚する時がないでしょうか?例えば「せめて一言でもお語り下さい!」、「どうぞ、何らかの兆しをお示し下さい!」、「私が今、どうすればよいのか教えて下さい!」などと、言い難き「うめき」をもって祈るのですが、神からの応答が全く感じられない時など・・・・。しかし聖霊様は、無言の状態に思えるような「その時」に、何かを私たちに示しておられるのです。


 エゼキエルはこの時、今までの神の取扱いを振り返り(回想し)、そして深く思い巡らす中で、遂にその「答え(回答)」を見出しました。つまり「我、何も為すこと能わず(私からは、何も為すことが一切不可能である) !」という、神に対してへり下る「信仰の表明」です。彼はその時の経験を、「もはや渡ることのできない川になり(・・・・the stream was so deep I could not wade through it.)」と記述していますが、日本語訳のこの表現では、もはや「川」の水量自体が、渡ることの出来ないレベルに達したというニュアンスで、エゼキエルの視点を「傍観者」的に訳しているため、彼の心境が浮び上がってきません。しかし英訳では、明確に「I could not」と記述されているように、エゼキエル自身からは、「何」も為すことが一切出来ない状況にまで追い詰められている、彼の「心境」を明確に表現しています。


 これが神の為される、「最終テスト」における第一の重要ポイントです。前述したように、私たちが最大の「苦しみ(困難)」に遭遇した時に、私たちは焦りながら神に対して、何らかの助けとなる「言葉(命令)」を求めようとします。例えば具体的に、「預言(助言となる道しるべ)を与えて下さい!そうすれば、私が前進できますから・・・・」などと祈っている場合、エゼキエルの見出した「答え」、即ち「私からは何も出来ません!」の信仰姿勢には至っていません。私たちが「お言葉を下さい!」などと、もはや祈れなくなった時が、霊的に打ちひしがれる段階、つまり「瀕死(完全な死ではない)」という、「死」の状態に近いレベルなのです。


 エゼキエルは泳ぎ切ることの出来ない、最終段階の水笠の増した状態の中で、彼自身の体が「川」の中に段々と沈み行き、遂に自分の「首」の高さ、そして頭部全体を「水」が覆い尽くした時、如何なる状態に至ったのでしょうか?彼は、しばらくの間は水の中で必死に立ち泳ぎしながら、残り少ない体力を使って格闘していましたが、体力の限界が底を着き、もはや溺死寸前に陥った時、「神の使い」が沈み行くエゼキエルを、「測り綱」をもって引き上げ、再び岸に連れ戻して下さいました。私たちは、「本来の人」アダム(エバ)が、父なる神を通して「土」と「塵」から創造されていることを、いつも「霊」の只中に記憶すべきです!


 ご存知のように「土」の塊は、物質的に見ても死んだフォーム(有様)です。この「死んだフォーム」に、父なる神が「命の息」を吹き込んだ結果、人は「生きるフォーム」になったのです。ですから「私たちは神の命の息の中にあって初めて、本来の自分が生きる(回復する)ようになる!」という原則を、常に霊的に正しく認識する(知る)ようになることが、私たちが本来在るべきフォームに再創造されていく上での、最重要ポイントとなります。私たちは、いつしか「肉の力」で歩んでいるが故に、この重要事項を忘れてしまい、「自分の息」に頼って生きる愚かさがあります。しかし、このような私たちキリスト者であっても、いよいよ最終段階に至った時に、聖霊様が私たちの肉的な「唇」を、完全に覆い尽くす程の「命の水」で満たして下さり、私たちを霊的に「死んだフォーム」へと、再び砕いて(導いて)下さるのです。


テスト結果から知る
 このように、神が与えて下さる「最終テスト」に関しては、聖霊(神の使い)を通して何らかの「ご命令(指示)」が、一切無いことを「知る」ことが、何よりも重要となります。ご存知のように、私たちは何らかの「テスト(課題)」を受けることで、その「テスト結果(点数)」を知ることになります。つまり「テスト」とは、ある面で「自分がそのテストに合格したのか否か?」という、現在の自分の姿(有様)を、正しく「知る」ためにあるのです。
 
 このようなテストの「目的」を考慮に入れながら、父なる神がエゼキエルに課した、第一~第三の各テストの「目的」を検証するならば、それは神の為される様々な取扱い(命令、指示)に対して、エゼキエル(私たち)が聞き従うか否か?ということです。しかし「最終テスト」は、テストを受けたことによって知る、「結果(点数)」を出すなどのレベルで出題されていません!「自分が如何に無力で、神の命の水の川の流れにあっては、自分から何も為し得ない、人間的に見ても役立たずの、死んだような器(零点の姿)である!」ことを、私たちが自分の「霊の眼」で見る(知る)ようにするために、「最終テスト」は与えられるのです。この時に聖霊様は、無言の命令(指示)を投げかけているのかも知れません。「あなたの霊、魂、肢体の隅々まで(全て)を、あなたは見張りなさい!あなたが生きるか死ぬか、それが問題(テストの問い)であるから・・・・」と。


 私はこの社会(世)に生きる性格として、自分が「世渡り」上手ではなく、むしろ明らかに下手であることを、創造主なる神に感謝しています。私たちの周囲には、「この世」を渡り切る(cross)することに、非常に長けた人々が多く存在します。聖霊様は厳しく、私たちキリスト者に対して叱咤します。「この世の流れの中を、上手に泳ぎ切ることを得意としてはならない!私は、あなたがこの世の流れの中にあって、泳ぐことを不可能にするために、様々なテスト(取扱い)を与えているのです。」と。では、私たちは今後「何」を得意として、神のテストを受験していくべきでしょうか?それは、「生きるか死ぬか、それが問題」であることを、自分の「霊の眼」で明確に知ることです。私たちが霊的に盲目であったら、世渡り上手になるだけです。仮にある人が、神が用意される「命の水」の川の流れを目前にして、「私は渡ることが出来る!泳ぐことが得意だから・・・・」などと言うのであれば、そのような人は決して「命の水」の川を、渡り切ることが出来ません!渡らせて下さる(引き上げ導いて下さる)方に、全面的に依り頼むことを「知る」ために、そして自分自身が如何に無力で、何も為し得ない者であるかを、「霊の眼」で明確に見定めることが出来るようにすること、これが神の「最終テスト」です。


 その証拠として、父なる神はエゼキエルに対して、「人の子よ、見ましたか」(6節)と尋ねています。私たちが先ず見る(知る)べき対象は、父なる神、御子イエス・キリスト、そして助け主聖霊様です!この三位一体なる神を、霊的に正しく見なければ、私たちの中にある「無力(弱さ)」も見えてきません!世渡り上手な人々は、「人」や「この世」を見ることを得意とします。十字架上のイエス・キリストを見上げ、助け主聖霊様を仰ぎ求め、父なる神のみを崇める者は、「この世」を渡ることが、如何に無駄なことであるかを、霊的に正しく知っているが故に、「命の水」の川の流れの中にあって、「自分」が完全に死すことを更に求めて行くのです!


 最終的に神の使いは、エゼキエルを元のポジションに連れ戻しました。その時彼は、最初の時点で「くるぶし」程度であったと記憶していた川の水が、今の自分の肉眼では「命の水の何と豊かな流れか!神の宮から今も尚流れ続け、凄まじい程の大激流となって、四方八方に満ち溢れんばかりに流れているではないか。」などと、驚愕する程のシーンとして写りました。そして、彼は大いに納得しながら、次のように告白しました。「こ、これが神が私に見せたかった、命の水の流れだったのか!こんなにも素晴らしい、大いなる流れであるならば、自分がもがき苦しんでいたレベルが、如何に愚かな次元にあったか、ようやく分った。これからは、この神の命の水の流れの中に、自分の全てを委ねようではないか。私はもう迷わない!私が従うべき方は、この神の使い(聖霊様)お一人だ!」と。これが、私たちの最終段階の告白です。


 さて、あなたはエゼキエルと同様に、神の最終段階の取扱いを受けているでしょうか?殆どの者が「未々である!」と思っていることでしょう!しかし主イエス・キリストは、「命の水に渇く者は、私が与える父なる神の各取扱い(霊的段階のテスト)を、へり下って受け取りなさい!そうすれば、私があなたに対して、如何に各テストを用意しているか、その真意を知ることでしょう。そしてあなたが、何よりも知らなければならない素晴らしさは、私のあなたに対する、奥深い永遠の愛です。それは、あなたの三次元レベルでは到底測り知ることの出来ない、麗しい愛の交わりに満ち溢れた、花婿としてのメッセージ(語りかけ)です!」と、常に聖霊様を通して私たちに、「命の水」を飲み続けるよう促して下さいます。ですから私たちは、「キリストの花嫁」として渇くのです。「主イェス様、(私の元に)来て下さい!」と。


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