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Thanksgiving(No.7)

                   主なる神の第七の感謝



神はお造りになった全てのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。
                                                                                                                 【創世記1章31節】


一つ一つを「look at」される方
 今回の御言葉によれば、主なる神が、ご自分が創造したもの全てを、一つ一つ「確認する」作業を行っていることが伺えます。つまり、創造主なる神が直接「look at」する、それはあることを確認すべく、御目をもってじっくり(注意深く)ご覧になるためです。


 第一の感謝から、第六の感謝に至るまでは、主なる神はご自分が造られた、創造の産物全体を「see」、つまり完成の姿として視認(認知)しました。と言うことは、今回の「look at」と、それまでの「see」とでは、確認する動作に明らかな違いがあります。喩えて言うなら「see」が、大鷲の如くに上から見るのに対し、「look at」は蟻の如くに、小さな部分にまで近づいて、隈なく検査(調査)する動作です。


 この二つの動詞から分かることは、主なる神は、ご自分が創造した全ての物に対して、御目をもって一つ一つ確認される方である!という点です。ここで想像してみて下さい。地球上に動物は、幾匹いるのでしょうか?植物は何種類あるのでしょうか?鳥は何羽いるのでしょうか?また目に見えない、バクテリア等の微生物は、どのくらい存在するのでしょうか?天体にある星々の数は、果たして数えられるのでしょうか?人間が見る(確認する)数の限界と、神が一つ一つ確認される数量とでは、まさしく「永遠性」という距離があるのではないでしょうか!


 ところで神ご自身が、わざわざ一つ一つ「look at」する、その理由とは何でしょうか?実は神の作品(創造物)の全てに「意味」があり、何一つ無駄なものはありません。何故なら、主なる神が創造の御業を始められるに当たり、「命の言葉」を発するという、言わば「信仰」をもって事を始められているからです。


 つまり神は信じて、ある言葉を発した以上、それは明確な「計画」をもって創始した、即ち①今創造したものが、如何なる段階にあり、それが②いつかは完成に至らしめるべく、それに必要なものを一つ一つ確認し準備するために、一つ一つ「look at」する訳です。と言うことは、主なる神は今も尚、聖い御目をもって私たちのことを、常に「look at」しているのです。


 今回の御言葉を読む限り、何となく「完成の時」と、私たちは解釈しがちですが、神ご自身は知っていました。未だ最終段階には至っていない!と。この後、ご自分が一番に愛して止まない、最初の人(アダム)が「御心」から離れることを、十分に知っていたにも関わらず、神はアダムも確認されたのです。何故ならアダム(エバ)の子孫にはある準備、即ち「ある方」の登場が必要であることを、信仰をもって待望し「良し!」と宣言されたのです。


「完成の姿」を待望し感謝する
 では主なる神は今回、何を確認して感謝されたのでしょうか?ご存知のように父なる神は、御子イエス・キリストが、「真の光」として暗闇に登場した時(始まり)から、「感謝」の言葉を発(宣言)しました。そして最初の人(アダム)を創造した際にも、何かを確認して「感謝」の言葉を発しました。その時と同様に、主なる神は先ず①一つ一つが、御心通りに生きている(活動している)ことを確認し感謝しました。神の御心通りに生きるとは、神の「時」と「調和」の中に、バランスよく生きることです。


 第二に②ご自分の御国の素晴らしい繁栄と栄光が、地上にも確実に現れ始めていることを、御目をもって確認し感謝しました。第三に③ご自分の手の業が終了した時に、それを完成させるため、再び「真の光」の登場、即ち御子イエス・キリストの現れにより、まさしくエデンの園(中心部)に実現したことを確認し、言わばフィナーレの如き感謝を捧げたたのです。つまり父なる神は、最後(七回目の)の感謝を捧げると同時に、御子イエス・キリストに、天地創造というプロジェクト(競技)を、バトンタッチした訳です。


陶工(陶器師)は粘土で一つの器を造っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを造り直すのであった。その時主の言葉が私に臨んだ。「・・・・見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちは私の手の中にある。」
                                                                                                 【エレミヤ書18章4~6節】


 主なる神は真の「陶器師」として、私たち一人一人が駄目な作品であったとしても、御目をもって確実に見守り、再び何度も何度も練り上げ、その後に火で焼き上げ、最終的に仕上げて下さる方です。エレミヤはこの時、次のことを悟りました。神がイスラエルの家(私たち)を創造した以上、最後の最後まで責任をもって、事を完成まで至らしめる方である!こと。そして今も尚、ご自身の手の業を終えられたかのように見えても、御子イエス・キリストの贖いの業(御手)を通して、神の「ご計画(御心)」を継続している!ことを。


 神の偽らざる、かつ終わり無き「look at」を考える時、私たちは思わず溜息をつき、手を上げる(降参する)のではないでしょうか!それ程に主なる神の、私たちに対する取扱いは、非常に奥深い愛に満ちたものです。未だ完成作品でも無い私たちのために、イエス・キリストを通して、贖いの業を継続して下さるからです。そして完成までには、程遠い私のためにも感謝しながら、「look at」して下さる、これは驚くべき恵みに他なりません。


 私たちは、如何にして造り返られるべきか、霊的に焦る存在です。しかし聖霊様は、次のように叱咤します。「あなたが、それをするのではない!陶器師イエス・キリストに任せなさい!」と。そうです!私たちはイエス・キリストと共に進み、聖霊様の取扱いによって、日々練られる陶器として、更に完成へと至りますように!


 父なる神の永遠に変わらざる「look at」と、イエス・キリストの豊かな贖いの御業が、あなたの信仰の歩み一つ一つに、豊かに現れ出て報われますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!
 

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