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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

生ける聖霊の働き(No.29)

                          第三段階の流れ



・・・・更に、一千アンマを測って、私に水を渡らせると、水は腰に達した。
                                                                                                       【エゼキエル書47章4節】


更に前進しなさい!
 エゼキエルが、第二段階の「命の水」の流れの中を無事に渡り切り、ようやく神の使い(聖霊)の元に辿り着いた時、彼は「あーやれやれ、神の使いがいなければ、ここまで辿り着くことは到底出来なかった!」と思いながら、一息ついたことでしょう。しかし神の使いは、この時もエゼキエルに対して、「よくやった。これでゴール(終点)ですよ!」とは言われなかったのです。


 実は、私たちの信仰生活の歩みにおいても、聖霊様から「よくやった!もうこれで終わり(十分)ですよ。」などと言われることが無いことを、あなたはご存知でしょうか?聖霊様があなたに対して、常に命じられることは、「もっと更に!(more)」という言葉(命令)です。そして今回の第三段階の流れ(テスト)は、あなたの信仰生活の歩みにおいて、霊的に必ず体験しなければならない、「重要な取扱い」なのです。


 私たちが聖霊様の命じられた通りに、この第三段階の流れを渡り切らなければ、聖霊による大いなる「満たし」と、私たちを通して現される、父なる神の更なる輝かしい、栄光の実現には至りません。聖霊の「満たし」は、一度限りの体験(経験だけの信仰)ではありません!また聖霊の「恵み」というものは、常にその瞬間ごとに、私たちの人生の管理主(支配主)として、私たちが聖霊様と膝を交えて付き合って行く、つまり聖霊の主導に従って行く中で与えられるものです。ですから、聖霊様は私たちに対して「未々です。もっと更に前進して来なさい!」と、エゼキエル同様に命じられるのです。


 恐らくエゼキエルはこの時、遂に「新たな命令(別の使命)」が下されるものと期待して、神の使いの「ご命令」を待ったはずです。しかし神の使いは、「私は今から、更に一千アンマを測って先に行くから、後から続いて渡って来なさい!」と、前回と同様の「命令」を下しただけです。すると彼は、「え!今まで一キロメートル以上も川を渡り歩いて来て、これ以上歩き続けたら、私の体力は底を着いてしまいます。まだ先に向かって歩け!と言われるのですか?」と、尋ね直したかも知れません。しかし神の使いは、「そうです!もっと更に前進しなさい!」と、一言命じられました。


 私たちは、次の点を忘れてはなりません。それは、父なる神の素晴らしい属性の中で、一番麗しい(美しい)ご品性は、「永遠に変わることの無い聖さ」であることです。私たちの持つ、有限の三次元的知性では、「永遠性」という概念は、到底理解しにくいものです。時の次元においても、「いつかは、必ず果て(終わり)が来る!」と思ってしまうからです。しかし、全ての事象(時の次元も含む)を司る神は、「始め(アルファ)」であり「終わり(オメガ)」なる方、つまり永遠に存在する方です。それ故に聖霊様は、いつも私たちに対して「立ち止まってはなりません!疲れたのですか?私が共に居るではありませんか。だから、私の支えを頼みとしなさい!私が助け主として、あなたを常に導きますから、更に前進しましょう!」と励まされるのです。


第三段階の流れの「奥義」
 父なる神の第三段階のテストは、どのような奥義を物語っているのでしょうか?私たちが第三段階のテストを学ぶ、つまり神の大いなる三回目の霊的取扱い受ける時に、聖霊様が更に奥深い次元の中で、私たちのことを取扱って下さることを知ることになります。このことは、ある面で父なる神がアダム(エバ)を創造した時点(霊的始まり)に、私たちを贖い出そうと計画しておられることを、霊的に体験する(知る)ことにつながります。


―第一の奥義―
 神が「最初の人(アダム)」を創造し終えた時、「人」はどのようにして立つ(stand)ようになったのか?それを先ず霊的に「知る」必要があります。ご存知のように「アダム」は、父なる神の「御手」をもって、あおむけの状態で、土と塵から形造られました。その後父なる神は、自分の思い通りのデザインで形造った、その「土の塊(人形)」の頭部の鼻に、ご自分の「命の息」を注ぎ入れました。そして「人」は、その時から生きるようになったのです。しかしこの時、私たちは次の点を覚えるべきです。父なる神の「創造の法則」からすれば、確かに神の「力」に満たされたアダムは、当然すっと立ち上がることが出来る存在でした。では現実の私たちが、仮に長期間に渡って寝たきりの状態にある時、医者から「歩いても大丈夫ですから、今立ってみて下さい!」と言われても、すっと立ち上がって歩くことが出来ないことを、私たちは本能的に分っています。そして出生した赤子も、約一年以上のプロセスを通して、やっと立ち上がり歩くことが出来る存在です。


 何故「人」は、寝たきりの状態から、急に「立ち上がる(stand)」ことが出来ないのでしょうか?それは「人体」のある部分に、立ち上がる「力」が完成されていないからです。ある部分とは、「足」と「腰」のことです。つまり「足腰」に支えとなる、筋力が完全に備わっておらず、また上からの体重(重力)を支えるだけの「体力」が、骨と腱が弱い(未完成の)ため、十分に保持されていないからです。神の「命の息」を吹き込まれた時から、「人」は生きるようになった訳ですが、この「生きるようになった」とは、「人」が生きる姿(有様)として、神が立ち上がる状態を可能にしたことをも、実は奥義として含んでいるのです。そうです!アダムは瞬間的に立ち上がり、両手を挙げながら「父よ!」と告白したのです。アダムが自然に立ち上がることが出来た、その最大要因は、父なる神が大いなる「力」を彼の「腰」の中に、つまり人体の中心軸(支点)に注ぎ込んだことにあります。神の「力」にみなぎった「腰」をもって、彼はすっと立ち上がり、「両足」に完備された力と、十分な「腰」の支えをもって、神に対して両手を挙げたのです。これが神に対して直接向い合う、「本来の人」の持つ麗しい姿(有様)なのです!


 このように神の大いなる「力」が、聖霊を通して現される部分が、実は「腰」にあることを、あなたはご存知でしょうか?「え!腰の部分には、別に何の麗しいものなど、一つも見受けられませんが・・・・。神の創造の美が一番に現れている部分は、どちらかと言えば、顔や手ではありませんか?」などと思われるでしょう。しかし実は、私たちが今まで気付かなかったことですが、現代人の何割の人々が「腰」の部分に、何らかの痛みを患っているのか定かでありませんが、殆どの人々が「痛くなった!」と力失せて、すぐにも気落ちする患部が、「腰」の中にあります。つまり手足の関節痛よりも、腰痛の「病い」の方が、人体に及ぼす影響が大きい訳です。


 余談になりますが、「本来の人」であるアダム(エバ)には、私たちが患う「腰痛」というものは、一切ありませんでした。何故なら神の大いなる「力」が、常に彼らの「腰」にみなぎり、「腰」から神の栄光が流れ出す(現れる)など、重要な役割を「腰」が担っていたからです。それ程、父なる神はご自分の麗しい「力」を、この「腰」の中に注ぎ込んでいたのです。「エデンの園」のエリア(面積)が、どれ程の規模であったのか、誰も推し測ることは出来ませんが、只一つ言えることは、「神の国」と同様にそれは、無限値に近い面積だったことでしょう。その「エデンの園」を、アダムは隅々に至るまで、自分の伴侶を求めて捜し歩いたことが、創世記には記述されています(創世記2章20節参照)。


 無限に近い広大な園を、くまなく歩き続けたアダムの体力を支えた部分が、この「腰」でありました。私たちも、罪を犯す以前のアダムという、「本来の人」に造り変えられたら、どんなに素晴らしい神の「力」が、体内にみなぎることでしょうか!例えば妊婦は、安産で赤子を多く産むことが可能になるでしょう。私たちは、アダム(エバ)の犯した「罪」の故に、神の大いなる「力」によってではなく、自分の「肉の力」で立とうとするなど、「腰」を三次元(物理)的に使用することになった結果、本来の神の大いなる「力」が、「腰」に現れなくなったのです。


 ところで「腰」という漢字は、「月(つきづくり)」に「要(かなめ)」を合成して出来た文字です。「月(つきづくり)」は、人体の組織を表す時に使用される文字で、文字通り「こし」とは、人体の「かなめ」に当たる部分です。では、あなたの「霊」のフィールドの「要(かなめ)」は、何処にあるのでしょうか(かなめとなるものは何ですか)?ヒントは、この「霊」のかなめが無くなった時に、あなたの霊的フィールドは、すぐにも力失せてダウンする体験にあります。


 神との奥深い「親しい交わり」、即ち「神の国」から流れ出る、豊かなエネルギーを受けるフィールドである、霊的「至聖所」が無くなった時に、私たちの信仰は必ずダウンするのです。私たちはこの重要な奥義を、すぐ忘れてしまいます。多くのキリスト者が、自分の「霊」の要(かなめ)が、例えば「それは預言的な働きです!」と言い、更に続いて「使徒的な働きを、次は求めています!」と宣言したり、或いは「私の中にある、神の優れた賜物です!」などと思っています。


 何故リニューアルの聖会や、カリスマ聖会などにおいて、飢え渇く多くのキリスト者が、聖霊によって倒されるのでしょうか?それは私たちが聖霊を通して、アダムが立ち上がる前の仰向けの状態に、霊的に立ち帰るためです。つまり聖霊によって倒され、私たちが伏した状態へと導かれる目的は、私たちが神の臨在に完全に覆われ、御子イエス・キリストとの、聖なる「交わり」の領域(至聖所)へと、私たちの「霊」が豊かに回復されて行くためです。イエス・キリストが、私たちの信仰を支える、大いなる「土台(礎石)」であることを、私たちは当然の如く知っています。しかし「家」全体は、「礎石」だけではなく「束石」という、点在する小さな土台によっても支えられているのです。実は、この「束石」の働きを霊的に為される方が、聖霊様なのです!聖霊様は、「あなたの全ての働きの中に、私の力を頼みとしなさい!私を無視して、自分の肉の力を頼みとすることがあっては、決してなりません!」と、常に私たちに警告を発しておられるのですが、私たちは簡単に自分の肉の「意志(自我)」を、「束石」として使用する、愚かな一面があります。


―第二の奥義―
 エゼキエルは、今回も神の使いに命じられた通り、一歩ずつ「川」の中を前進し始めました。「あー、再び今までと同じ困難が続くのか!もっと長い休息を、与えてくれても良かったのに。」などと思いながら・・・・。すると水笠が少しずつ増して、「川」が深くなりつつあることに気付きました(実は、川底が水面よりも低くなっただけですが)。「二回目の時よりも、何と早い増し方なんだろう。遂に腰にまで達したではないか!いよいよ私は溺れてしまうのだろうか?」と、歩くペースが遅くなりましたが、決して彼の「腰」から上には、水笠が増すことはありませんでした。しかしエゼキエルは、この第二段階の川の流れの中で、「うーん!いよいよ自分の足の力では、とてもじゃないが、どう踏ん張ってみても、立ち続けることが出来ない!このままでは流されてしまう。」と、自分の「命」の危険性に「不安」な思いを募らせました。


 それ故、益々彼は自分の「両手」に力をみなぎらせながら、今の所どうにか踏ん張ることが出来ました。そうです!彼は遂に、「自分の足では、もはや立つことも歩くことも出来ない、つまり動けなくなった!」ことに気付いたのです。しかし依然として事態は、彼の希望するようには好転しません!そして彼は、次第に両手が疲れ果てる中で、「あーもう駄目だ!このままでいたら、必ず流されてしまい、私の命は終わりだ!神の使いの命令に、従えない結果になってしまう・・・・」などと意志が挫け、全てを諦めかけた時に、「神の国」から麗しい「力」が、測り綱を通して彼の両手に注がれました。すると彼の「意志」としては、既に測り綱から離れかけていたのですが、「新しい力」を注がれた彼の両手は、決して測り綱から離れることがありませんでした。「その時」彼は、自分の「意志」が砕かれて行く過程で、自分の「肉の力」を放棄した時に初めて、神の「新しい力」が彼の中に流れ込み、自分ではなく神の使いが測り綱を通して、実は引っ張って(導いて)いることに気付いたのです!


 このようにエゼキエルは、神の「命の水」の川の流れの中で、「肉の力」が自分の体力の中心部(腰)から、次第に失せて行くことに気付きました。そして「その時」が、彼にとって重要な転換点になった訳ですが、彼は自らの「力」を放棄した時に初めて、実は聖霊様が最初(第一段階の時)から、ずっと自分のことを引っ張り続けていたことを知りました。私たちは、言い難き「苦しみ」や「試練」の中にある時に、大抵の人々が「あーもう駄目だ。これ以上前進することが出来ません!」などと告白しますが、実は「その時」私たち以上に、聖霊様も「深いうめき」を伴って、私たちを贖い出すべく、命綱をもって引っ張って下さっていることに、私たちは果たして気付いているでしょうか?私たちが、このような聖霊様の絶えざる「導き」に気付いた時から、私たちは初めて聖霊様に対して、「明け渡す(委ねる)」ことが出来るようになります。


 エゼキエルは、遂に悟りました。「もう(自分の力で頑張ることは)停めよう!私が、今立っている(浸かっている)所は、神が備えられた命の水の流れではないか!この流れの中にある限り、必ず神の使いは私を贖い出して下さり、ここから更なる導きを用意して下さるはずだ!」と。そして、彼は踏ん張っていた足を、自然と川底から離しました。「え!?聖書には神の使いが、エゼキエルを引っ張ったとは、何処にも記述されていませんが・・・・」と思われる方が、いらっしゃるかも知れません。しかし、私たちは霊的体験として知っています。「腰レベルに達するほどの、神の川の流れ(取扱い)の中においては、誰一人として立ち尽くすことの出来る者はいない!」ということを。


 覚えて戴きたいことは、父なる神の、私たちに対する激しい熱情の「愛」の流れは、私たちという「器」が、「この位でいいですから、どうぞ満たして下さい!」、或いは「いいえ、今は結構です!十分ありますので・・・・」などと言い切れる者が、一人もいないレベルにあるということです。父なる神は大波(巨大な津波)以上の、押し寄せる「愛」の流れをもって、私たちを愛して下さっているのです!


 そして聖霊様は、私たちが父なる神の「愛」の流れに対して、「もっと更に!」飢え渇き求める(受けとめる)ように、様々な取扱いをもって(私たちを)導き出しているのですが、私たちの側が「いいえ!私は自分の力で、この測り綱を握り締めて前進します!」と歩こうとするために、いつまで経っても満たされないのです!全てを放棄しましょう!特に、自分の「要(かなめ)」である「霊」のフィールドに、肉の「意志」を霊的束石として据えるのではなく、聖霊様に来て戴き、聖霊様の御手をもって引っ張って戴きましょう!これが神の「第三段階スのテスト」、つまり聖霊様の主権に、私たちが完全に依り頼むには、私たちは「何」に気付くべきか?ということです。


 父なる神が、私たちに望んでおられる神の「御心(意志の流れ)」に対して、私たちが完全に応じることの出来る「柔軟な器」に造り変えられるためには、私たちの中に潜む「肉の力」を全て放棄し、聖霊様が様々に用意される、「命の水」の流れに身を委ね切ること、実はこれが一番の近道(最善の方法)なのです!


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