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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

生ける聖霊の働き(No.32)

                         命の水のゴール




 エゼキエルは確実に、神の使い(聖霊)の導きを通して、父なる神による四度の霊的取扱い(訓練)を受け、そして最終的にあるものを正しく「見る」ことが出来ました。彼が見ていたものは、最初の時からと同じものでした。恐らく当初は、肉なる次元で「命の水」における、様々な神の取扱いを見ていたことでしょう。そして彼は、明確に父なる神によって始められた、「命の水」の取扱いを受けた後に、自分がいつしか「肉の眼」から、「霊の眼」をもって「命の水」の有様を、正しく見ることが出来るようになったことに気付きました。つまり彼は、最終的に「神の宮」から流れ出る、「命の水」の奥深い流れを、明確に「霊の眼」でキャッチ出来たのです。


川が流れて行く所はどこでも、群がる全ての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この水が流れる所では、全ての生き物が生き返る。
                                                                                                       【エゼキエル書47章9節】


「命の水」の川の有様
 さて、私たちもこの九節の御言葉を、如何に「霊の眼」をもって読むべきでしょうか?また、神が流して下さる「命の水」の川とは、如何なるイメージで把握すべきでしょうか?しかし不思議なことに、この「川」に当たる単語を英訳では、「river」と表現していません!つまり、父なる神がエゼキエルに示した「命の水」のイメージ(有り様)は、「river」という形状ではなく、一つの大きな流れ(流動体)であったことに注目して下さい!ご存知のように「川」の有様は、一本の谷川(ライン状)から始まり、途中で数本の支流が合流して、河口(湖ないし海)へと流入して行く、そのような単純なイメージです。また「川」には、必ず「水域」と「陸部」の境界線となる、岸や断崖が左右に存在し、明確に「川」と「陸」が区切られます。


 しかし、父なる神がエゼキエルに見せた、「命の水」の川の有様は、私たちがイメージするような「川」ではありません!エゼキエルが、神の使いによって連れ戻されたポジションは、いわゆる「岸」でした。しかし「命の水」の川に関しては、対岸(向こう岸)を見ることが出来ない、つまり推し測る(測量する)ことが出来ない、広大な流れだったのです。ですから、父なる神が私たちに対して、もたらそうとしている「命の水」の流れは、川幅が如何なる距離にあるのか、それは誰も推し測ることが出来ない、霊的にも大いなる流れであることを是非覚えて下さい!


 単純なことですが、「水」は流れていなければ、「死」の状態と何ら変わりません。「水」は流動するからこそ、生きているのです。そして、「水」は必ず「高き所」から、「低き所」を目指して流れるものです。ある面で私たちも、霊的に低い姿勢(へり下りの状態)に導かれる時に、父なる神が流して下さる「命の水」は、私たちの「霊」の只中に流れ込んで来ます。父なる神が「命の水」を創造される際、どのような「意志(御心)」をもって、この地に産み出そうとしたのでしょうか?それは、「流れる」という「水」の主要な働き、この一点に現れています。①地に流れ、そして②地を満たし、最終的に③地を潤すこと、これが本来の「水」の素晴らしい姿(有様)です。しかし逆説的になりますが、「水」は流れること無く、ただ溜まったままの状態に至った時、暫くすると「死」の方向、つまり腐っていくのです。八節には「汚れた海(dead sea)に入って・・・・」という表現で、この腐った水の状態が記述されていますが、まさしくこの「汚れた海」こそが、「死んだ水」の状態(有様)なのです。


 ご存知のように、現在地球上で「dead sea」と命名されている「海」は、イスラエルの「死海」だけです。前章でも説明しましたが、「死海」にはヨルダン川等から大量の、しかも豊かな「命の水」が流入するにも関わらず、ただ溜め込むばかりで、決して「河川」などの形状で流出するという作用が無いため、「死海」の水は塩分濃度が異常に高い、澱んだ死の水です。それに対して「ガリラヤ湖」は、日本にある琵琶湖と同様に、大量の「水」が流入しても、ヨルダン川などの数本の「川」へと流出しているため、絶えず「命の水」が循環して(流れ巡って)います。


 ところがヨルダン川の場合、「死海」にも「流れ」が続いているのですが、「死海」においては生きていません。この死んだ水のフィールド、「死海」を見るように!と、父なる神はエゼキエルに命じたのです。しかも父なる神は、約束の保証として「汚れた水を、必ず新しくする!」という預言を添えて。9節は、「この水が流れる所では、水がきれいになる」という日本語訳で表現していますが、この部分を新共同訳聖書英語版から直訳しますと、神が流して下さった大いなる「命の水」の流れは、「死海」の水を新鮮なもの(fresh)に造り変える!となります。そしてエゼキエルは、この神の「命の言葉」を聞いた時に、今まで死んでいた「死海」の水が、瞬時に「生きた水(living water)」に造り変えられる様を、明確に見ることが出来たのです。


エゼキエルが見た光景
 エゼキエルが見た光景は、私たちに対しても示される、神の大いなる預言的啓示の一つです。私たちの麗しの花婿イエス・キリストが、地上に再臨された「その時」から、千年王国が開始されます。その時には、王の王イエス・キリストを中心として、歴史上かつて無かった程の、麗しい政治・社会体制が確立し、自然界にも麗しい秩序が完成されることでしょう。もしかしたら「死海」そのものが、この御言葉の預言通りに、瞬時に「生ける湖」へと造り変えられるのかも知れません。


 しかしこの預言的啓示は、そのようなイエス・キリストが再臨された後の、出来事だけを物語っているのではなく、現実の私たちの「人生」や、霊的「信仰生活」の隅々に至るまで、神が用意して下さる「命の水」が、今も尚生きて流れていることを、先ず教え示しているのです。そうです!父なる神が流して下さる「命の水」は、今も尚聖霊様の働きにより、流れ続けているのです。しかし現実の私たちは、「命の水」の流れを見ることが出来ません。聖霊様は、絶えず私たちの「霊」に働きかけ、神の大いなる「命の水」を流しているにも関わらず、私たちはその「流れ」の音にも気付かず、言わば垂れ流しの状態になっているのかも知れません。


 では、どうしたら私たちもエゼキエルと同様に、父なる神が流して下さる「命の水」の流れの音に気付き、そして実際に「命の水」の流れの中に、進み入ることが出来るのか?この点についてヨハネ福音書5章から、霊的に学んで参りましょう。


イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、眼の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動く時、私を池の中に入れてくれる人がいないのです。私が行くうちに、他の人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出した。・・・・この人は立ち去って、自分を癒したのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
                                                                                                 【ヨハネ福音書5章1~15節】


 ベテスダの池で、何の「変化」も「兆し」も無く、積極的な行動に移ることの出来ないまま、38年の長き時を過ごしてきた、ある男性の元に突然訪れたイエス・キリストによる、父なる神の「ご計画」について、私たちは霊的に「知る」必要があります。この記事の執筆者であるヨハネは、イエス・キリストがこの男性に問いかけられた、次の「命の言葉」に注目しました。「良くなりたいか」(6節)。仮に私たちも彼と同様に、38年間もの長きに渡って、闘病生活を強いられる、しかも寝たきりの状態が続いたとしたら・・・・。殆どの者が、数年以内に自暴自棄になり、全ての「変化」を諦めることでしょう。


 しかし彼は、38年間を経た「その時」にも、天上の奇跡を信じながら、ベテスタ泉に起こるであろう、奇跡の「変化」を期待していたのです。その変化とは、ベテスダ泉の「水」が、普通の自然現象には起こり得ない程の、凄まじい勢いをもって湧き上がる(米国イエローストーン公園にある間欠泉のような)光景、そのような「変化」を期待しながら、彼は見続けていたのではないでしょうか!その「変化(奇跡)」が起きた瞬間に、真っ先に泉の中に飛び込んだ者が、あらゆる難病から癒される!という迷信(言い伝え)を信じながら。


 このような彼に対して、イエスが投げかけられた「良くなりたいか」という問いかけは、実は今日に生きる私たちキリスト者にも、聖霊を通して投げかけられています。確かに私たちは、彼のように38年間もの長期に渡る、難病生活には無いかも知れません。しかし聖霊様は言われます。「あなたは父なる神が流して下さる、命の水の良き流れ(方向)に身を任せ、(全て)流されることを求めていますか?ベテスダの水が突然動くのと同様に、あなた自身の人生も動きがあり、命にみなぎる(生き生きとした) ものとして、神の定める良き方向に造り変えられることを、あなたは真剣に望んでいますか?」と。つまり聖霊様は、私たちの中にある三次元的信仰や、安っぽい「変化」への期待感をも、十分にご存知でいらっしゃいます。例えば何か「他の変化」に期待して、「環境が変われば、どうにかなる!」、「運(つき)が変われば、自分の人生が良き方向に転じる!」、「給料が昇れば、それは神の恵みだから、信仰が前向きになれる!」などの考え方に依存してしまうなど。しかし聖霊様は、「あなたの霊そのものが、父なる神が(一人一人に)計画しておられる、良き方向(ゴール)に修正されるか否か?そのことが一番重要である!」と、私たちに対して勧告されているのです。


 彼が待ち望んでいたことは、自分自身が神のもたらす奇跡の中で、新しい健康的な体へと造り変えられることでした。彼は決して、造り変えて下さる方(イエス・キリスト)を、待ち望んでいた訳ではりません。「水が動けば何とかなる・・・・」と。しかしイエス・キリストは、そのような彼の元を、わざわざ訪問なさいました。同様に聖霊様は、求める者の「霊の戸口」まで足を運んで下さり、イエス・キリストの突然の「訪問」を、わざわざ知らせて下さる方です。それに対して私たちは、「そんなことは知っています。聖書が命じる通りに、私たちはイエス・キリストを求めています。ところが何も変わらない(変化が起きない)のです!」などと塞ぎ込む、これが私たちの偽らざる現実の姿です。


 しかし覚えて下さい!これこそがエゼキエルの学んだ、大いなる霊的教訓の一つでした。「私自身から何か動こうとする時には、神からの動き(命の水の流れ)は全く起きない!」のです。父なる神が流して下さる「方法」とは、私たちの側から「肉の力」で動く(流す)など、三次元的レベルに存在するのではなく、私たちが霊的に悔いた砕かれた状態、つまり私たちの側に何も無い、言わば「空っぽ」の状態になった時に初めて、私たちが神の用意する「命の水」を、ストレートに豊かに流す「器」へと、聖霊を通して造り変えることです。


 彼は、イエス・キリストの投げかけた質問に、ストレートに「待ってました!そのお言葉こそが、私が待ち望んでいた必要なものです!」などとは返答していません。エゼキエルが、父なる神の各取扱いの中で、大いなる「変革」の恵みを受け造り変えられたのと同様に、「あなた自身は、聖霊様による命の水の流れの中で、あなたの中にある自我(自分で動こうとするエゴ)の全てを、完全に神の御前に捧げ尽くすなど、霊的準備が出来ていますか?」と問われた場合に、私たちはストレートに返答出来ないでしょう。恐らく「ちょっと待って下さい。私には自分の計画(予定)がありますから・・・・。でも、変化は期待していますよ!」などと、彼と同じ返答(言い訳)を繰り返しながら・・・・。しかしイエス・キリストは、ストレートに命じます。「あなた自身が、良くなりたい(神の器になることを完全に欲する)のですか?」と。


 私たちはある面で、「自分(自我)」を失うことを恐れます。そして霊的に「至聖所」に入ることは、即「死」を意味します。つまり「至聖所」において、私たちが「全焼の生贄」を捧げることは、アブラハムが独り子イサクを捧げたのと同様に、「私自身」を殺すことになるからです。それ故私たちは、私的な「思い」や「野心(志)」など、それら全てを神の御前に捧げることが、何となく「がんじがらめになるのでは?」などと、信仰面で消極的になる傾向にあります。しかし、本当の霊的な「自由」というものは、神に全てを捧げ尽くした後から始まるのです!


 私たちは、「至聖所」の先にあるものが見えないために、前進することに怖気づき躊躇するのです。「至聖所」の垂れ幕は、イエス・キリストの十字架の贖いの御業により、既にオープンな状態にあるのですが、私たちの三次元の「肉の眼」は、それをオープンなものとして見ることが出来ない、つまり未だ「覆い」が掛かったものとして見ているため、「至聖所」の中に入ることを恐れるのです。エゼキエルは最終的に、「もはや我生くるにあらず!神の命の水の中に死す時に初めて、本来の我が生き始める!」ことを、聖霊の取扱いを通して悟ったのです。そして、彼は偉大な「命の水」の流れの全貌を、遂に見ることになり、思わず驚きと感嘆の声を挙げました。「私が今まで見ていた、あの死んだ死海が、何と今は生きているではないか!そして生き物がそこに群がり、信じられない程の勢いをもって、増え拡がっているではないか!更に新しい命を宿した緑豊かな木々が、そこにおいて群生している。まさしく命の水の豊かな流れが、ここには息づいている!」と。


「死」から「命」へ
 私たちは、38年の難病を患った彼よりも、もしかしたら不信仰な者かも知れません。しかしイエス・キリストは、彼に対して「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と命じられたのと同様に、私たちにも「立ち上がり歩く」よう勧告されています。そうです!私たちは、「肉の力」で立つことを放棄し、「至聖所」へと直々に導いて下さる、聖霊様の上からの「力」によって立ち上がり、日々「至聖所」の中に歩いて行くべきです。


 数日後イエス・キリストは、完全に癒された彼に再会した時に、彼に対して「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」(14節)と、念を押しながら諭しました。その瞬間、彼は自分を癒して下さった方が、イエス(救い主)であることを知り、文字通り彼は、イエス・キリストという、新しい「命の水」の中に飛びこんだ結果、スカルの女性と同様に、真の「命の水」を多くの人々に、豊かに流す「聖なる器」へと造り変えられたのです。


 「イエス」という御名には、「救い」「贖い」「癒し」という、霊的働きを含んでいますが、私たちは今一度知ろうではありませんか!「イエス・キリストこそ、あなたの全てを良くして下さる方!」であることを。「良くする」とは、「悪い状態から良い状態になる」、「(性格的に)悪い人から、良い人になる」などの、三次元的理解で把握するのではなく、それは「dead(死の状態)」から「living(命にみなぎる状態)」に造り変えることです!


 私たちは、かつては霊的に「死んだ海(罪人)」でした。しかしイエス・キリストは、それを「living」の状態、つまり生ける「あなた(個人)」、生ける「あなたの人生」、生ける「あなたの家族」に造り変えるべく、十字架上で「ご自身」を捧げ尽くされたのです!そのイエス・キリストの、偉大なる救いの「御名」を堅く信じ、「イエス・キリスト」ご自身を慕い求めること、これが私たちの「ゴール」です!「命の水」の源、イエス・キリストの御元に行けば、全てが生きるのです!


 私たちはエゼキエルと同様に、「命の水」を飲む恵みにあずかっています。しかし、私たちはこの「命の水」を、ただ飲んで「溜める(受ける)」のではなく、聖霊によって流すことが肝心です。仮に私たちが、再び「死の海」を通過せざるを得ないような、霊的状況(体験)に陥った時にも、言い難き「うめき」をもって執り成して下さる、聖霊様にのみ私たちは従いつつ、「聖霊様、今のこのテスト(取扱いの時)を感謝します。命の水を動かして下さる方は、あなただけです。それ故、もっと私を命の水の中で流して下さい。私の中にある、私(自我)という思いを、もっと流して下さい。不安や恐れではなく、聖なる思いで満たして下さい!私的な思いの全てを、死の海に返します!」と告白しましょう。「その時」から、死んだように思える私たちの「霊」は、再び生き返るのです。「良くなりたいか」と問われる方に対して、私たちが「そうです!良くなりたいのです。」と告白する時に、生きた聖なる「あなた(生贄)」を通して、「イエス・キリスト」の栄光が、生きたものとして輝き始めることを、主イエス・キリストの生ける「御名」で祈ります。アーメン!


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