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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

生ける聖霊の働き(No.31)

                    全てを純粋にする神の川




私が戻って来ると、川岸には、こちら側にも、あちら側にも、非常に多くの木が生えていた。彼は私に言った。「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、即ち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。」
                                                                                                 【エゼキエル書47章7~8節】


 神の宮から流れ、アラバを流れ下った水は、父なる神による如何なるプロセスを通して、純粋な水へと造り変えられたのか?このことを私たちは、明確に知る必要があります。そしてこの水は、更にヨルダンの谷を流れ下り、最終的に「死海」に流入していく訳ですが、ご存知のように「死海」は、如何なる生物(動植物)も生息することの出来ない、いわゆる「死のフィールド」です。


 しかし、そのような生存不可能と思えるような環境にも、神の「命の水」が流れ込まれる時に、この「死のフィールド」が、神の大いなる豊かな方法をもって、「真水(pure water)」に造り変えられるシーンを、エゼキエルは「夢」と「幻」の中で見たのです!私たちの人生にも、このような神の大いなる奇跡的な介入(変革の時)が、果たして起きるのでしょうか?然り、必ず起きるのです!


「命の水」を知るには?
 私たちが知るべき第一の重要ポイントは、神の「命の水」が流れ始めたら、誰もその「流れ」を止めることが出来ない!ということです。私たちが「聖霊のバプテスマ」を授かり、その後に来る(もたらされる)、聖霊の大いなる「油注ぎ」の流れというものは、「肉の力」で遮断することが出来ると、私たちは錯覚しがちですが、神が賜る聖なる「使命(召し)」や「賜物」というものは、神が一度与えた(注いだ)以上、私たちがその「飢え渇き」を封じ込めることが出来ません!


 「命の水」の素晴らしさを、一度味わい知った者にとって、たとえ「世の水」を飲むなどの、誘惑(試み)の時があったとしても、必ず「命の水」を求めて、再び渇き始めるのです!終末の時代に至った私たちは、聖霊様が緊急に投げかけている、次のメッセージに謙虚に耳を傾けるべきです。「あなた方は、ひたすらヨルダン川に身を沈めて、自分自身が霊的に死の状態にまで浸からなければ、本当の意味で造りかえられることはありません!父なる神は、あなた方が世の水にも、命の水にも身を浸すという、二股を懸けた生き方を望んでおられません!あなたは、新しい命の水に浸ることを求めますか?それとも古い死の水に浸りながら、この世に生きることを求めますか?それを、はっきりしなさい!」と。


 しかし神が与えて下さる、新しい「命の水」の素晴らしさを、私たちが味わい知るには、古い「世の水」の流れが、如何に死んだ(汚れ腐った)ものであるのか、この点を知る必要があります。そこで「ソドム」と「ゴモラ」という、神によって滅ぼされた歴史的事件を通して、聖霊様は私たちに霊的教訓を教えていますので、謙虚に学んで参りましょう。


主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。アブラハムは、その朝早く起きて、さきに主と対面した場所に行き、ソドムとゴモラ、及び低地一帯を見下ろすと、炉の煙のように地面から煙が立ち上っていた。こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅の只中から救い出された。
                                                                                                        【創世記19章24~29節】


 この記述から分ることですが、当初ロトの妻は確かに、夫と共に「ソドム」と「ゴモラ」から脱出しました。ところが彼女の場合、夫のロトと違って、「世の水」から完全に決別していませんでした。それ故彼女は、再び「ソドム」と「ゴモラ」の方を振り返り、その瞬間に「塩の柱」に造り変えられ、即「死」に至りました。「世の水」を求め、「この世」と妥協する者は、一時的に世的な繁栄を享受しても、最終的には「滅び」を招くことになるのです!


 この滅びの元凶、「ソドム」と「ゴモラ」があったフィールド上に、今は「死海」が拡がっているのですが、この「死海」は何故、塩分濃度が異常に高い塩の海のフィールドなのでしょうか?第一に物理・地理学的な理由としては、地中海よりも395m低い位置にあり、これは世界で一番最低に位置する内湖であること、これが主たる原因と考えられます。即ち「死海」は、ヨルダン及び他の二本の川(アルノン、ゼレド)の諸水を受けているにも関わらず、世界一低いところにあるため、その出口が全く無いことと、亜熱帯的な気候風土のため、強い蒸発力により溜め込んだ水量がすぐに気化するなど、塩分濃度は海水の約六倍になります。


 第二に霊的な原因を探るのであれば、神とのパイプラインであるヨルダン川から、絶えず流入している「命の水」を、「死海」はただ弛め込むばかりで、流すという働き(役割)を為さなかったからです。私たちも、神の「油注ぎ」や「命の水」を求める場合に、その理由(動機付け)が、如何なる目的をもって求めているのか?これが非常に重要となります。私たちが、アブラハムが「ロトの家族」の救いのために、父なる神に対して緊急に「とりなし」を要請するという、大胆な信仰の行動に移った如くに、「命の水」を流すという働きをしなければ、たとえ素晴らしい「命の水」であっても、それはいつか「世の水」へと変質するのです。


 私たちが「目標(ゴール)」とすべき場所は、「死海(溜めるだけのフィールド)」ではなく、「至聖所(命の水を流すフィールド)」における、真の礼拝(捧げ尽くす場)です。つまりそこは、自分の「全て」を生贄として捧げる死の場所です!「え!そんな目標であるなら、私は(命の水は)要りません。」などと、殆どの者が告白します。「至聖所」の奥で為される、生贄を屠る「死」の儀式を見たら、大抵の者が「あ、結構です!私は(今後)内庭までしか入りません。どうしてもと命じられるのであれば、聖所までで結構です。」と、恵みの御座から身を引く(離れ去る)のです。このように現実は非常に厳しいのです。しかし「希望」はあります。


踏み進むことの恵み
 エゼキエルの見た「夢」と「幻」は、私たちに対して真の「希望」を与える、神の大いなる預言的啓示です。彼が「岸」に連れ戻らされた時に、そこには素晴らしい木々が生え、しかも豊かな「実り」に満ちていました。その素晴らしい光景に、目が釘付けになったエゼキエルは、その原因を探ろうと「川」の周辺を見渡していると、ヨルダン川に溢れ流れ行く、神の「命の水」が谷川を流れ巡り、「死海」に流入していく中で、次第に死んでいた「水」が、「生ける水(Living Water)」に変わり行くシーンも、見ることになったのです。文字通り「死の海(dead sea)」ではなく、「命をもたらす海(living sea)」に造り変えられたのです。
 
 「死」をもたらす「古い水」ではなく、新しい「命の水」へと造り変えることの出来る聖霊の「力」が、もし私たちにも臨むとしたら・・・・。そうです!私たちが持つべき「希望」の源、それは全て聖霊様が握っているのです。だからと言って、私たちに聖霊の「力」が、タナボタ式に臨む訳ではありません!何故エゼキエルが、聖霊(神の使い)がもたらした、この素晴らしい「啓示」を見ることで、聖霊による変革の「恵み」を受け取ることが出来たのでしょうか?それは、彼が聖霊の霊的取扱いを、第一~四段階(ステップ)に応じて、素直に踏み進んだ(従順した)からに他なりません。そして彼自身も、神の使いが各取扱いの後に見せて下さった、数々の素晴らしいシーンを、「目」で見るばかりでなく、「耳」と「唇」で実際に体験したのです。


 しかし世的なキリスト者は、次のように言うかも知れません。「神がそのような、素晴らしい御業を為されるのでしたら、私は待ちます。そして私も、その時になったら造り変えられることでしょう!」と。否!彼らの言う「その時」至らば、もう終わりなのです。「事は成就した!」と宣言される、神の「ご命令」が発せられた以上、私たちは「この世」に後戻りしてはなりません!私たちはひたすら、神の「ご命令」に素直に聞き従って、神の導かれる「正しい道」に踏み進むことが、「変革」の恵みを受け取る上での、霊的な必要十分条件です。


王は・・・・家来たちに言った。「婚礼の用意は出来ているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者は誰でも婚宴に連れて来なさい。」そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客で一杯になった。王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、「友よ、どうして礼服を着ていないでここに入って来たのか」と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。「この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。そこで泣き喚いて歯ぎしりするだろう。」招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。
                                                                                                      【マタイ書22章1~14節】


 父なる神は、「その時」に問い質します。「私の与えた聖なる礼服を、あなたは身にまとっていますか?え!ないのですか?それでは、私の婚礼の場に来て頂く必要がありません。結構です!お帰り下さい。」と答えられ、「恵みの門」は永久に閉じられるのです。神の「命の水」が、「至聖所」から豊かに溢れ流れ出た時に、「恵みの門」が開かれているのと、逆に閉じられているのとでは、その結果(報い)が明確に区分されます。開かれた状態から流れ出る、豊かな「命の水」の流れに身を委ね、麗しい「花婿(prince)」イエス・キリストの御元に飛び込むのか、それとも「世の水」の流れの中で、益々悪魔サタンの用意する、「死の海」の中に沈み行くのか、あなたはどちらを選択しますか?その選択の「鍵」となる、神に対する霊的飢え渇きを引き起こす方は、聖霊様だけです!又聖霊様が促される「正しいポジション」とは、私たちの「霊」の中に巣くうソドムとゴモラ、そして私たちが犯す全ての「罪」の根源である、古い「自我」をことごとく、神の御前で捧げ尽くす「真の礼拝」のフィールドのことです。私たちは、この一番重要な「正しいポジション」を、決して忘れてはなりません!


 エゼキエルはその後、もっと素晴らしい神の「啓示」を受けることになります。私たちも日々の信仰生活の中で、聖霊の用意する様々な「霊的取扱い」を、「霊の眼」で見逃すことなく、「霊の耳」でしっかりと捉え、そして何よりも「命の水」に渇き続ける、「霊の唇」をもって主イエス・キリストを、激しく追い求める者でありますよう、主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


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