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言葉の革命(No.13)

                              思考の変革




 私たちが「言葉」を語る際、自分の考えている「事柄(内容)」や、話そうと思う「意志」の働きが、その時の感情の状態などによって、必ず様々に変化してくることを知っています。又私たちの「思考概念」が、小脳にある言語中枢神経において、「言葉」に関する中央制御室として、重要な役割を担っていることも知っています。


 私たちが「異言」を語っている(祈っている)時にも、殆どの場合「何」を語っているのか分りませんから、「思い」や「考え」は別の次元にあり、思考していることと「異言」の語る内容が、ある面で分離した状態にあると言えます。特に「異言」で祈る時、私自身もよく経験することですが、最初「異言」で祈り始めるのですが、暫くすると次第にその「異言の祈り」が、まるで道に迷ったかの如くに「言葉」を失い、遂には「異言の祈り」そのものが途絶えてしまうことがあります。


 その時の、自分の「霊」の状態を探ってみますと、唇では「霊の言葉」を語っていても、「思い」の中では肉的次元が支配し、様々な「考え」がよぎるため、遂には「思い」が乱れるなどして、唇を遮断してしまうことが分かります。特に、祈るその人が「霊的苦難」の中にあったり、様々な人間関係の中でトラブルに巻き込まれるなどしていますと、「異言の祈り」そのものが「正しい方向」、つまり神に向かう祈りではなく、「肉の思い」を優先し常軌を逸した祈りになるということを、私たちは知らなければなりません。


 では、どうしたら私たちの「肉の思い」が、霊的に正しい「思考」へと聖められ変革されていくのか?この点について、私たちはパウロの「ローマ神学」から学ぶ必要があります。「異言の祈り」に関して言えば、この祈りはいつでも自由に、好きな時に祈れるからそれで良い!などと思い上がってしまうと、大抵そのような時に、遮断されてしまうものです。しかし「異言」は、あくまで神からの「授かり物」、つまり「賜物」です!私たちが、本当に神と正しく交わるため、天から「授けられた物」、そして私たちの「霊」を更に神に近づけるための、「良き賜物」であると認識する時、私たちはこの与えられた「賜物」が、何のために与えられているか意識し直すことが可能になります。そして「賜物」の管理主、即ち聖霊様の「助け」を求めながら祈る時、この「異言」の賜物が「正しい方向」に軌道修正されるのです。


このように、あなた方も自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。従って、あなた方の死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。又、あなた方の五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、又、五体を義のための道具として神に献げなさい。何故なら、罪は、もはや、あなた方を支配することはないからです。あなた方は律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。
                                                                                                      【ローマ書6章11〜14節】


 パウロは先ず、「あなた方も自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(11節)の御言葉から、私たちが霊的に、どのように思考すべきかを導いています。新改訳では「キリスト・イエスにあって」と訳されている部分を、新共同訳は明確に「キリスト・イエスに結ばれて」生きているのだと考えるよう、私たちに強く訴えています。そしてこの部分には、私たちが「異言」を語る(祈る)に当たって、非常に重要な「霊的ガイダンス」が示されています。


 ところでパウロは、前提として「罪に対して死んでいる」と考えるよう指示していますが、私たちは果してそのように考え得るのでしょうか?はっきり申し上げて、とても難しいことです。大抵私たちは、「罪」そのものに打ち負かされることが多く、「自己中心」的祈りをしたり、世的な事に捕われるなどして、「私は何と惨めにも、この世の罪に染まり切っているのだろうか!主よ、あなたがパウロを通して言われている罪に関しては、とてもじゃありませんが、死んでいるとは考えられません!」と、これが正直な告白ではないでしょうか!ですから、私はあえてこの御言葉を、聖霊様が導かれる正しい方向性で、「考え直す」ことを強くお勧めします。「考え直す」ことも、実は「思考の変革」の重要ステップの一つです。


第一の考え方
 私たちは霊的な「弱さ」がある故、いきなり「罪」に対して「死んでいる」とは考えにくいものです。ですから先ず第一に、肯定的な事柄について考えましょう。そこで、自分が「キリスト・イエスに結ばれている」ことを、改めて考えて下さい。「結ばれている」とは、どういうことでしょうか?これは、既婚者の方でしたらすぐお分りになることですが、「結ばれる」とは「一体化」を表します。結婚する前と結婚した後では、明確に思考概念が変化して来ます。独身の時には、独りよがりの「考え」であったのに対し、結婚生活を何年も経ていきますと、自分の「考え」も大事ですが、伴侶或いは子供たちの「考え」はどうであるだろうか?などと、互いの「考え」を共有し合う、つまり共に考えて生きるという生き方に変化して来るのです。


 ですからパウロが、「キリスト・イエスに結ばれている」ことを、先ず第一に考えるように勧めていることは、「夫婦関係」から出てくる思考概念と、ある面で似通っていることに気付かされます。例えば、夫婦生活を維持させる一番重要な柱となる思考概念は、「私は、あなたのものです。あなたは、私のものです。」という、「共有関係」にあります。これが仮に、「あなたは、私のもの。そして私は、私のもの。」などの考え方に立ちますと、それは「共有」ではなく「隷属」関係になります。この思考概念を成立させる条件は、「所有権の放棄」だけです。独身の時は、「私の〜、私が・・・・」などの考え方に立っていたのに対し、夫婦になりますと「私たちの〜、私たちが・・・・」という考え方に変化します。


信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、全てを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足元に置き、その金は必要に応じて、各々に分配されたからである。
                                                                                                      【使徒行伝4章32〜35節】


 この個所には、聖霊の恵みを受けた弟子たちが、先ず「使徒の交わり」にあずかり、そして兄弟姉妹との「交わり(コイノニア)」を為していく中で、麗しい神の国の「変革」の流れとして、彼らがどのように造り変えられていったかについて、具体的に描写されています。彼らは「心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、全てを共有していた」のです。つまり、全てのものがイエス・キリストにあって、結ばれている故に「一つ」であり、「私のもの」と主張する者は一人もなく、皆が惜しみなく出し合っていたのです。そして、全てが「キリストのもの」である以上、「キリストと共に生き合う」ことに全力を注ぎ、仕え合っていました!これが「聖霊の変革」に伴う、真の「コイノニア」の姿です。以前の弟子たちと比較して、何と素晴らしい「変革」が、聖霊によってもたらされていることでしょう!


 今日のキリスト教界の中に、どの団体や教派においても、このように変革されている「コイノニア」の働きは、殆ど見受けられません!極端な貧しさの中で、本当に仕え合って生きている奉仕者の群れ、例えば故マザー・テレサとシスターたち、又日本においてはホームレス伝道に従事する、女性のM牧師とコ・ワーカーたち、彼らは何もないところから惜しみなく出し合い、仕え合って生きています。これが、「キリスト・イエスに結ばれる」一つの現れです。このような聖霊主導の「コイノニア」が、宣教(伝道)における主流の働きとなったら、どんなに素晴らしい「真のリバイバル」が、次々と起こされていくことでしょう!


第二の考え方
 第二にパウロは、私たちはキリスト・イエスに霊的に結ばれているが故に、「生きているのだと考えなさい」と命じています。例えば、再び夫婦関係について考察するならば、夫が「体(Body)」の役割を担うのに対し、妻は血液(Blood)の供給源である、「心臓(Heart)」の働きをするような関係にあると言えます。又これは、「私(心臓)があるから、あなた(体)は生きられるのよ!」、或いは「いや違う。私(体)が君(心臓)を守っているから、生きられるんだ!」などと互いに誇り合う、そのようなレベルの関係ではありません。


 このことに関してパウロは、第一コリント12章で次のように述べています。「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。」(14節)、「そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。」(19節)、「一つの部分が苦しめば、全ての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、全ての部分が共に喜ぶのです。」(26節)これが、「生きている」と考えることの基本です。そして、イエス・キリストに結ばれている者は、「共に生き合う」ことを願う、これが重要な考え方です。


 ここから導き出される奥義は、「あなた(イエス・キリスト)の命の中に、私の命の源がある!」ということです。即ち、「私」が自分の「肉の力」で生きるのではなく、「イエス・キリストの命」の中にあって初めて、「生きられる」のです。だからこそ、「あなたが、私の命の源です!どうぞあなたの命、そしてあなたの霊により、常に生かして下さい!」などの考え方に立つよう、聖霊様は促されます。


 私たちが「異言の祈り」を進める時、非常に重要な方向性に導かれて行くことが分ります。それは、最初「知性」で祈っていく中で、殆どの者が「私は・・・・」、「私の・・・・」、「私に・・・・」、「私を・・・・」などの祈りをしがちで、「私」という単語を数多く語っています。つまり、「思い」が私(自己中心)的思考概念に支配されているため、祈りそのものが集中性を欠くなど乱れます。そのような「私」中心の祈りの中に、「神」御自身を考える余裕はありません。そして祈り始めの時は、「主は私を愛していて下さる!」などの信仰告白ができていたのに対し、「私」的思いに支配されて行きますと、必ず「私はあなたに・・・・のことをしたのに、あなたは・・・・してくれない。」などと、主語と目的語がいつの間にか入れ替わった状態、つまり常軌を逸した祈りに変化して来ます。「異言の祈り」が、「肉」の思いで乱される時のパターンは、必ずこの「私」が主語(主役)になっています。


 しかしパウロは、「キリスト・イエスに結ばれている」ことを先ず第一に考え、そして次に「キリスト・イエスに結ばれている」からこそ、「私」が「生きている(生かされている)」のだと考えるよう命じています。「あなた(イエス・キリスト)なくして、私の霊は生きられません。特に御子イエス・キリストの、貴い十字架の贖いにより私は生きられるようになった。それ故に私の全てをもって、霊と真による礼拝を捧げます!」と、このような正しい祈りの方向に、導いて下さる方が「助け主」聖霊様です。


全ては完了した
 聖霊は、イエス・キリストの「十字架の血潮」を示すことで、「異言の祈り」をしながらも「思い」が様々に乱れて、「私」的な願いを優先しがちな祈りに対して、「先ずあなたの救い主、イエス・キリストのことを考えなさい!あなたの命の源は何ですか?あなたは、何に結ばれているのですか?」などと、優しく悟らせて下さいます。余談になりますが夫婦喧嘩の発端は、大抵次のような会話レベルが為されているものです。「私の考えは正しいが、あなたは間違っている!」、「あなたが謝らなければ、私も謝らない!」など、この種の会話に見られる特徴は、物事の全ての主役が必ず「私」中心になっていることです。つまりその時には、相手(伴侶)の「考え(思い)」を優先的に考えていません。このように私たちが、「私」という思いを主語として考えていきますと、霊的に「イエス・キリスト」を下げた、或いは無視した考え方になるのです。


 このような考え方に陥りますと、最終的には「罪」に対して死ぬのではなく、生きることにつながります。しかし、「自分自身を死者の中から生き返った者」(13節)と記されているように、私たちがキリストにあって結ばれている限り、「罪」に対して完全に死んでいる!このことを忘れないで下さい。その結果、聖霊様は「あなたの持てる全てをもって、神の御前に捧げ尽くしなさい!」などと、正しい方向に向かうよう、一つ一つの祈りを霊的に軌道修正されます。「異言の祈り」が、礼拝の方向へと向かわないのであれば、はっきり申し上げてそれは常軌を逸したものであり、正しい方向の祈りではありません。


 「罪に対して死んでいる!」と明確に考えられるようになるには、「聖霊の助け」無くして絶対にあり得ません!イエス・キリストが、十字架上で宣言された最後の御言葉は、「全てが完了した!」という一言でした。この「テテレスタイ」という言葉は、「全てが既に通り越した(all is over)、過ぎ越した!」という意味です。イエス・キリストが、「私の十字架の贖いの血潮により、あなたはもはやゲヘナの門を通過する必要はない!あなたの罪は、全て十字架上で決済を完了した!あなたは聖なる祭壇の場、至聖所に自由に入ることができるのだ!」などの、力強いご自身の「血潮の証言」をもって宣言されている限り、私たちの「思考」の領域においても、「罪(霊的負債)」の決済が完了しているのです!


 パウロの指摘から分るように、私たちが思考の面で霊的に乱れる時には、必ず私たちの思考の中に「肉の次元」が支配している、つまり「罪」が生きています。もう一度問います。「あなたは何に向かって、又何を見て(考えて)祈っていますか?」


あなた方の五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。・・・・五体を義のための道具として神に献げなさい。」(13節)
 ところで、この御言葉に記されている私たちの「五体」とは、何を指す言葉でしょうか?一般的には、一つの「体(頭部を含む)」と二本の「手」、そして二本の「脚」のことです。しかしこの御言葉の「五体」は、霊的に見るならば①霊、②魂(感情)、③心(思い)、④知性、⑤力(肉体的なもの)という、五つの領域(感覚)をも含む概念です。私たちはこの五つの領域をもって、父なる神を愛する(礼拝する)ことが霊的に求められています。この五つの領域の中で、一番「肉の次元」に支配され易いものは、「霊」を除いた他の四つの領域です。例えば心(思い)が乱れますと、他の領域にまで「肉の次元」の支配が及び、最終的には「霊」の領域を支配することになります。


何に属するのか?


「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。」
                                                                                                                   【ローマ8章5節】


 私たちは「何」に従って歩むのか?これが霊的に重要な「分岐点」となります。「五旬節革命」の後、弟子たちは聖霊に従いつつ、「コイノニア」において誰が一番偉いとか、誰が一番献金したかなどの、「肉の次元」には生きていませんでした。何故なら、全ての者が共に「一つ」にされることで、誰一人として貧しい者が見当たらなかったからです。それを見たアナニヤとサッピラ夫婦が、彼らの霊的豊かさに「妬みの思い(考え)」を抱き、次のように考えました。「私たちも、家にある一部のものを売って、その代金を持って来さえすれば、きっと認められるに違いない!」(使徒行伝5章1〜11節参照)。


 私たちの「思考」には、霊的に二つの選択肢が用意されています。つまり、「肉」に従って歩むことを考えるのか?それとも「聖霊」に従って歩むことを考えるのか?この二つの選択肢です。パウロは明確に述べています。「肉」に従って歩む者は、「肉」に属することを考えるのに対し、「聖霊」に従って歩む者は、「聖霊」に属することをひたすら考える!のだと。


 「属する」という言葉は、霊的にどのような概念を意味するのでしょうか?「私は、あなたに属します。」と言う時、これは「私はあなたのものです。」という、「所有」を意味する概念であることが分ります。つまり、「所有権は、あなたにだけあります!」などと告白する言葉にもなります。ですから、「肉」に属することを考えること自体、「肉」の世界の君「サタン」の所有(管理)の下に、私が生きていると考えることです。


 それに対し「聖霊」に属することを考えるとは、「私は聖霊様のものです。ですから、私は聖霊様を仰ぎつつ、その助けを求めます!私は聖霊様の力の中にあって初めて、生きることができます!」などと考えながら歩むことです。この点に関してA・マーレーは、私たちに厳しく指摘しています。「御霊を受けていても、未だその全き支配を受けず、自分自身の力で努力している内は、霊に属する者とはなりえません。彼らは御霊によって生きてはいますが、御霊によって歩んではいないのです。」(注)


 このように私たちの思考概念が、「肉」に属することを考えるのか、それとも「聖霊」に属することを考えるかによって、「思い(思考)」自体が二つの方向に分岐します。パウロは自らの体験から、「思い」が二つの方向性で対立し合っていることを、十分に知っていました。実は「異言の祈り」も、二つの方向に分岐します。即ち、「肉」の思いに支配された「異言」と、「聖霊」の思いに支配された「異言」の二種類です。肉的な「異言」は、「この世」の方向に眼を向け、アナニヤとサッピラの如くに、「この世」における称賛をひたすら考えます。


 しかし霊的な「異言」は、天上のもの特に「イエス・キリストの御顔」を追い求めながら、奥深い「霊の次元」のことに飢え渇くようになります。私たちの「異言の祈り」が、霊的に「正しい方向」に軌道修正される時、それは必ず「イエス・キリスト」にのみ焦点が向けられます。そして、霊的な命の源「イエス・キリスト」を、ひたすら求め始めます。このように霊的な「異言の祈り」は、尽きることのない麗しい「命の水」が、私たちの内側から必ず溢れ流れ出ます!しかし肉的な「異言の祈り」は、必ず霊的に常軌を逸し、既に「この世」のことを求めるなど、「自己中心」的な祈りに変質しています。


 ですから、私たちが「異言」で祈る際に、「思考」の面で注意しなければならない点は、「何を求め、何を見ているか(見ようとしているか)?又何に飢え渇き、何を欲しているのか?」ということです。あなたの「思い(考え)」の領域を、「何」が支配していますか?私たちは肉的に「弱き者」ですが、その肉的「弱さ」の全てを、主イエス・キリストの十字架の御前で、素直に表明しようではありませんか!「主よ!私は今、肉の思いに捕われています。どうぞ、あなたの聖なる思いで、完全に満たして下さい!そして私の内なる思いを、十字架の血潮によって洗い聖めて下さい!聖霊様、私はあなたに属することを、常に考えて生きたいのです。私の全てを、あなたのものと成して下さい!私は更に、イエス・キリストに近づきたいのです。今のこの状態から、贖い出して下さい!私はどのように祈ったらよいか分りませんが、私の中に働かれる聖霊様が、言いようもない深いうめきをもって、とりなして下さいます。どうぞ、助け導いて下さい!」と。


 聖霊様がとりなして下さること、これは何と素晴らしい働きでしょうか!主役は、いつも聖霊様です。私たちは、只お任せするだけでよいのです。「異言の祈り」が、祈り始めてから数分もしない内に途絶えてしまったら、「知性の祈り」でカバーするなど、無理して「肉の努力」をし続けるのではなく、その時は素直に聖霊様に対して、自分の「弱さ」を明け渡すことです。そして、「聖霊様!私は今、肉的な思いに掻き乱されています。どうぞイエス・キリストの血潮を、私の思いの全てに降り注いで下さい!又あなたの命の水を、豊かに注ぎ満たして下さい!」と告白する時に、聖霊様が私たちの空になった「霊」の中に、「霊的呼び水」を注ぎ込んで下さり、私たちの「霊」の只中から、「命の水」が「新しい言葉」となって、再びほとばしり出るようになるのです。


 「その時」に、私たちは自分の「肉の力」で、霊的なものを手に掴むのではなく、一方的な「神の恵み」により、イエス・キリストが聖霊を通して私たちの全てを支配し、その御手をもって直接掴んでいて下さることを、再び霊的に「知る」ようになります。これが、「キリスト・イエスに結ばれている」ことを考える、つまり思考の変革です。この「変革」が起こり始めた時に、私たちの「霊」は甦ります。アナニヤとサッピラは、「この世」からの称賛を得るために、神に属するものを自分に属するものとして、「私物化」しました。つまり、彼らは「自分の栄誉」、「自分の霊的ポジション(地位)」などを、「自己中心」的に願い求めたのであり、これはサタンの「思い」と霊的に結ばれていることの現れです。それ故彼らは、結果的に「死」を受け取りました。「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6章23節)


 「異言の祈り」は、自ら(私的なもの)の方向で祈り始めると、それはサタンの思うツボです。しかし、聖霊様の「助け」にへり下って、自分の「肉の力」に頼るのではなく、天上からの「油注ぎ」を受けながら、イエス・キリストを求めてひたすら渇き祈る時、「この世」の全ての思いから解放されて、更にイエス・キリストの聖なる「御思い」の中に、深く結び付けられていることを認識させられるのです。


 この「聖なる思い」は、自分の「肉の力」からではなく、聖霊様の言い難き「深いうめき」、つまり「とりなしの働き」を通して産み出されることを知って下さい!聖霊様の働きは、私たちが更に花婿イエス・キリストと「一体化」されること、即ち全ての面でより深く、より親密に花婿と「結び合わせる」ことです。パウロが、「異言を語ることを禁じてはなりません。」(Ⅰコリント14章39節)と強く勧めているように、むしろ「肉の力」に頼って祈る(語る)ことを、私たちは禁じようではありませんか!


 このように、「異言の祈り」が正しい方向、つまりイエス・キリストに向かって為されていく時、私たちの思考概念は聖霊によって「肉の次元」から切り離され、「天的な思い(考え)」へと変革されていくのです。あなたは、自分の「霊」の中央制御室(思考領域)に、誰をお迎えしますか?聖霊様に来て頂いた時から初めて、私たちの「体(Body)」がイエス・キリストの「み体」に、「結び合わされて」生きるようになります!


注、A・マーレー著『キリストの御霊』(いのちのことば社)168項から引用


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言葉の革命(No.12)

                 第五の波紋−触れることの力−




 私たちは視覚(眼)と聴覚(耳)、そして言語発声感覚(口)の三感覚(器官)によって、大抵の「言葉」を理解(認識)し、小脳にある記憶回路の中に、「言葉の情報」を蓄積していくことが可能です。


 しかしヘレン・ケラー女史のように、この三器官全てに障害を持つ人々にとって、「言葉」を認識することは殆ど不可能に近いことでした。ところが、神の導きに従ってこの不可能に挑戦し、少女ヘレンを人格的に立ち直らせ、会話することのできるレベルにまで引き上げた、生涯の教師サリバン女史と出会うことによって、ヘレンは見事に、「言葉の変革」の恵みを受けました。


 師サリバンは「神の知恵」を求める中で、ヘレンに残された「触覚」という領域に、必ず「言葉」という情報が伝達できるのではないかと思いつき、「一つの言葉」だけでもヘレンに覚えさせようと、あらゆる手段を行使して試みました。


 ある日彼女は、少女ヘレンを「井戸」の傍らに連れて行きます。無理矢理引きずられていくヘレンは、一体何事が始まろうとしているのか、さっぱり分りません。目も見えず音も聞こえない世界で、自分の手を強く握り締める、先生の「手」の熱さだけは伝わりました。すると突然、自分の手の平に降り注がれる、「冷たい液体」の流れを感じ取ります。いつも飲んでいる「水」(勿論、ヘレンはこの水という言葉も知りませんが)よりも、もっと冷んやりする「何か」が、自分の両手に流れ落ちるだけでなく、顔から腕に至るまで「水しぶき」がかかる中で、自分の両手を強く握り締める、サリバン先生の右手の人差し指が、ヘレンの手の平に、何か「ある形」を綴っているのを感じ取りました。


 最初ヘレンは、先生が何をしているのか全く理解できませんでしたが、何度も何度も同じパターン化された「形」が、人差し指で描かれているのを、手の平という「触覚ボード」に記憶できるようになった時、その「形」が「w」に始まり「a→t→e→r」、即ち「water」という五つの形であることを、始めて認識できました。そして先生は、再び彼女の両手に冷水を注ぎ、その後に「water」と綴ることを繰り返していく時、ヘレンは遂にこの「冷たい液体」が、「water」という「言葉」であることを悟ったのです。


触覚の行動プロセス
 「点字」の発明が、「触覚」にも「言語」認識が可能ではないかという、試行錯誤から生まれてくる訳ですが、私たちは健常者であっても、「何かあるものに触れてみたい!」などと欲する、「意志」の欲求が働きかけてくることを知っています。そして実際触れてみた時に初めて、触れたものに対する何らかの感覚を覚え、自分の「意志」の欲求が成就したことを認識します。


 例えば、ご婦人の方々の殆どが経験することでしょうが、ショッピングの時に、「食料品」或いは「衣料品」コーナーにおいて、「眼」で見ただけで買物をするということは決してせず、実際その品物を手に取って、「これはどうかしら・・・・。あら!あちらの物もいいかもね?」などと、何度も何度も「手触り」の感覚を吟味した上で、買物への決断を下します。この時、彼女たちの思考概念を支配しているのは、「触れる」手先の感覚、つまり「触覚」による満足度の「値」が、自分の納得の行く「値」に達しているか否かです。その求めている「値」に近い、或いは超えた「触覚度」であれば、即「買いましょう!」などの行動に移りますが、その「値」が余りにもかけ離れたレベルの時には、「ここでは買わないことにするわ!」などと、買物に至る「意志」の欲求が起こりません。誠に男性の視点から見ますと、女性の買物の行動には、驚嘆せざるを得ないほどの「触覚」が働いていることが、伺えるのではないでしょうか!


 以上のように、「触れる」という言語体系の流れには、次のようなプロセスが伴っていることが分ります。①私たちは自分の「意志(思い)」が働いた時に、それは即「言葉」となって、体全体に「触れてみたい!」と欲する指令が伝わります。②そして実際に、自らの体(手や足など)で触れ、③何らかの感覚を認識し終えた時に、④その意志(欲求)から生まれた、「言葉」の行動が完了します。


 この「触覚」は、芸術分野のみならず調理や建築、そして工芸などの技術分野と多岐にわたり、その能力を発揮しています。そして「触覚」の重要な働きを担うのが、「手」という一器官です。勿論「手」に不自由な人は、「足」とか他の「肢体」などが「手」に代わるものとして、能力が開発されていくのも事実です。


 ところで「エデンの園」において、神との「親しい交わり」を為すために、与えられていた「霊の言葉」を、アダムとエバが失うきっかけとなった行動とは、如何なるプロセスだったのでしょうか?父なる神は、「エデンの園」における管理を、一切彼らに任せておりました。「園の全ての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2章16節)この父なる神のご命令は、「食べる」という行為だけを、禁止する言葉のように一見把握されますが、「善悪の知識の木」に関して父なる神の「意志」は、全面的に次の行動も禁止することを含んでいます。それは①近づくこと、②眼で間近に見ること、③実際に手で取って触れること、④匂いを嗅ぐこと、⑤最終的に口に入れること、この五つの行動プロセスです。


 サタンは、当然この命令を知っていました。そしてこの命令に含まれている、「触れる」という行動プロセスに着目し、巧妙な「言葉の罠」を仕掛けました。サタンの産み出す言葉は、全て「自己中心」から生じる、「自分の願い」を優先させる行動プロセスを伴います。しかしイエス・キリストは、「私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである。」(ヨハネ福音書6章38節)と語られたように、父なる神の「御心」を優先することに、全生涯(命)をかけられました。


 アダムとエバは、サタンが仕掛ける「言葉の罠」に見事に引っかかります。サタンは矢継ぎ早に、彼らに問い質しました。「神様は、食べてはならない!とおっしゃったかもしれないが、触るくらいなら構わないのでは?」と。二人は、「自分の願い」を優先する方向へと、サタンによって誘われる中で、急に父なる神に対して「ある疑い」が生じ、遂にはそれがサタンによって生じた、「誘惑の言葉」と気付かなくなる程、「触れてみたい!」と欲する、強い衝動に駆られます。そして、実際に自分の手でその「実」に触れた時、その「触感」が如何にも麗しい、美味なる感覚として捕らわれることになったのです。


 その結果エバは、何とそれを鼻の位置にまで持って行き、「匂い」を嗅いだ瞬間「食べてみたい!」、つまり「自分の願い(欲望)」を優先させるという、サタンの投げかけた「古い言葉」の支配に陥ったのです。・・・・結果は、「霊の言葉」の「死」でした。もはや彼らは、父なる神との「親しい交わり」を優先するのではなく、「自分の願い」から全ての行動を、自分の「意志」で為していくという、「自己中心」に基づく行動プロセスを歩み始めたのです。彼らのこの失敗が、全てサタンによるものであり、その重要な鍵を担っていた器官が、「手」という「触覚」を司るものであったことを、私たちは決して忘れてはなりません。


アポロがコリントにいた時のことである。パウロは、内陸の地方を通ってエペソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、「信仰に入った時、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。この人たちは、皆で十二人程であった。
                                                                                                        【使徒行伝19章1〜7節】


地の果てエペソ
 「五旬節」の時に訪れた「聖霊革命」、即ち神からの大いなる「変革の波紋」は、使徒行伝1章8節の御言葉通りに、約束の成就として十年後には、異邦人コルネリウス家に拡大しました。それから更に十年後、つまり革命の時から約二十年という歳月を経て、「地の果て」エペソの地にまで波及しました。


 当然のことながら、コルネリウス家においてもそうであったように、リバイバルの波紋に伴って、働き人(使徒、伝道者など)の人材不足から、「聖霊」に関する正しい知識だけでなく、「聖霊様」の存在すら伝えられていないなどの問題(課題)が生じました。「聖霊革命」によって始まった「異言」の波は、エルサレムとユダヤ、そしてサマリヤなどの中心部においては、宣教面において大きくその効果が現れましたが、周辺部(辺境地、地の果て)においては、「正しい教え」として全く伝播していませんでした。ましてや、ローマ帝国中心部の異邦の地においては、十二使徒の殆どが宣教の働きに携わっていないこともあり、聖霊の力強い働きはパウロやバルナバ、又他の弟子(使徒)など少人数の、宣教に頼らざるを得ませんでした。


 ですからエペソの地においても、「聖霊のバプテスマ」の恵みにあずかった者が誰一人なく、聖霊の存在すら知る「すべ」もありません。彼らは「水のバプテスマ」だけを体験し、霊的に細々と寄り添い合いながら、異教(偶像崇拝)の勢力に取り囲まれて生きるなど、霊的に「弱小集団」でした。彼らはイエス・キリストを信じつつも、依然として旧ユダヤ主義の教えの中にあるため、エペソという霊的砂漠の地において、言わば「霊的枯渇」の状態にありました。即ち、彼らの「霊の井戸」が水枯れ寸前に至る、「危急存亡」の時であったのです。


霊の井戸を掘る
 そこで聖霊に導かれたパウロは、弟子を伴ってこのエペソの地を訪れ、主イエス・キリストの御名によって、改めて洗礼を授けました。スカルの女性が、枯れてしまうような「古い井戸」からではなく、永遠に流れ出る新しい「命の水」を待ち続けた結果、イエス・キリストとの出会いによって、新しく変革されたのと同様に、パウロの訪問によって為されたこの時の「教え」は、エペソの人々がイエス・キリストの御名によって、改めて洗礼を授けられた時から、非常に素晴らしい出来事になって行きました。


 私たちは、「日本」という四季に恵まれた風土に住み慣れているため、非常に分りにくいことですが、「日本」は実にこの四季の恩恵で、常に一年を通して「降雨(雪)の時」が用意されています。しかし、日本は気候風土としては、「雨期」と「乾期」に二分された地域ではありません。ですから日本は、どの地域においても河川或いは湖沼があり、又「井戸」を掘れば必ず大量の水を汲み上げることができます。「水」に困る(不足する)ことのない国、それが日本の気候風土です。


 しかし、世界地図をご覧戴くとお分かりのように、赤道付近に位置する国々は、殆どが「雨期」と「乾期」に二分された気候風土です。しかも「乾期」が長く、極端に過酷な環境にあるため、この付近に暮らす人々にとって「井戸」或いは「オアシス」の存在は、欠かすことのできない大切なものです。そして「井戸」を掘る作業が、この地域の住民にとって重要な作業の一つです。例えば、終戦後のアフガニスタン復興計画においては、様々な人材が不足しているそうですが、中でもより求められている人材が「井戸掘り職人」です。かつて「井戸」であった所は、その殆どが戦争のために崩壊して使い物にならない、或いは「井戸」の穴が人為的に塞がれているなどして、もはや使用不可能な状態にあります。このように「井戸掘り作業」は、赤道付近に暮らす人々にとって、非常に重要な役割を担っていることがお分りになるでしょう。


 ある面でエペソの人々にとって、パウロによってもたらされた聖霊の「教え」と「指導」は、霊的な井戸を掘り進める重要な作業だったのです。パウロは聖霊に促されるまま、彼らに対して教え導きました。彼らは、イエス・キリストの御名によって「洗礼」を授けられた時から、彼らの「霊」の只中に「井戸」が掘り進めらました。即ち永遠の「命の水」の源、「イエス・キリスト」という名前の井戸が、深く深く掘り下げられたのです。パウロはその後、彼らが「聖霊」について全く何も知らないことを聞きました。聖霊様なくして、神の国の麗しい力ある御業が為されない!ことを、十分に知っていたパウロは、すぐさま彼らに対して直々、「聖霊」に関する「教え」を語り始めました。すると聖霊様から、「この人々は今、井戸がようやく掘り進められるに至ったが、本当に永遠の命の水が勢いよく溢れ流れるには、更に聖霊のバプテスマが必要である!」、このような強い啓示(思い)が与えられ、その瞬間パウロは彼らの上に、手を置いて「触れた」のです。


霊の手で触れる
 ところで、「按手」というキリスト教の儀式は如何なるものであり、私たちはこの「按手」に対して、どのようなイメージを描いているのでしょうか?殆どの方が、「ひざまずき首を垂れた者の『頭』に、権威ある者(聖職者)が手を置いて祈る・・・・」、このようなイメージを描いていることでしょう!しかし「按手」という言葉自体は、決して頭の上に手を置く行為ではありません!


 第一に「按手」とは、その人に代わってとりなし手が、「自らの手」をもって神の「安息」と「祝福」を祈ることです。まさしくそれは、神の御国の「祝福」と「力」が、祈られている人の「霊」の只中から溢れ流れ出るように、イエス・キリストの御名で命じる祈りに当たります。頭の上に、「権威者」として手を置くなどの、例えば油注がれた器(聖職者)だけが、一般信徒に対して支配的(権威的)な祈りを施すという、レベルのものでは決してありません!パウロは「按手」の祈りをもって、霊的にへり下ったエペソの人々の「霊」に触れました。


 第二に「按手」の行為は、へり下った「霊」の上に対して、神の御国の扉を開くことのできる、天上からの権威をもって、手を通して触れることを意味します。この時「按手」する者は、自らの「力」或いは「権威」を示す「手」ではないことを、肝に銘じて下さい!へり下った人々の「霊」の上に、麗しい神の「御国の扉」が開かれ、そこから永遠の命に至る「命の水」が、豊かに流れ出るようにとりなす、御国の権威としての「手」、まさしく「神の御手」をあずかっているのです!


 パウロは身をかがめながら、エペソの十二人のキリスト者に、次々と優しく軽く「手」を触れて行きました。彼は、黙々と触れていったのではありません。恐らく、かつて自分自身がアナニヤの「異言の祈り」によって、「按手」された時と同様に、自分の唇から神の祝福に至る「命の水」、即ち「新しい言葉」の祈りをもって放出(放水)し、その放出された「命の水」を、へり下った彼らの霊的フィールドに、豊かに降り注ぐイメージを描きながら、「按手」の祈りを神に捧げたものと思われます。パウロにとって、アナニヤを通して授かった、「異言」を伴う「聖霊のバプテスマ」の体験は、神の「御国の扉」が開かれるや否や、麗しい甘美な「命の水」が「霊」の中に流れ込み、その「流れ」が更に自分の唇から、命に満ちた「新しい言葉」となって溢れ出るなど、それは素晴らしい霊的体験でした。


 ですから、彼は自分がされた時と同様に、エペソの人々に「按手」して祈り回る時にも、一人一人に優しく手を触れながら、「どうぞこの人に、神の国の麗しい扉が開かれ、この人の霊の只中から、麗しい甘美な命の水が、永遠の命の源なる方、イエス・キリストに至る水となって、溢れ流れ出ますように!父なる神の生ける御名によって、又聖霊の助けを通して祈ります!」などと祈る「とりなし」を、神の国の「力」に満ちた、「新しい言葉(異言)」で宣言しながら、「按手」したのではないでしょうか!


 すると彼らの「霊」のフィールドに、新しい「変革」が始まりました。「異言」という霊的呼び水が、彼らの霊的フィールドに行き渡り、遂には彼らの「霊」の奥底から「命の水」が噴き上がり、彼らの唇からは「五旬節革命」の時と同様に、新しい「命の言葉」が大いなる「湧き水」として放出されたのです。彼らは最初、自分が何を語っているのか理解できませんでしたが、確実にイエス・キリストの、麗しい「御顔」に触れることができた!という確信に至りました。


 私たちが「異言の祈り」をする時に、次のような経験に導かれたたことがないでしょうか?特に「霊的な苦しみ」にある時、思いが掻き乱されながらも「異言の祈り」をする中で、只々「主よ、どうぞお助け下さい!私はこのままでいたら、とても立ち直ることができません!ですから、どうぞ御手を伸ばしてお救い下さい!」などと、もがき苦しみ続けます。そのような「苦しみの告白(異言)」の祈りが、一時間そして二時間と為されていく中で、聖霊様が突然優しく「霊」に臨んで下さり、「静まりなさい!」と命じられます。


 暫くして、聖なる安息という霊的「静寂」に導かれますと、自分の「霊」が身をかがめながら、「主よ、どうぞ私の側を、通り過ぎないで下さい!」などと、イエス・キリストご自身を求める、「異言の祈り」に変えられていきます。そのような祈りは、例えば盲人バルテマイが盛んに叫び続けたように、「神の子羊よ!どうぞ私の所まで来て下さい!」などと祈る、激しい「飢え渇き」の祈りを伴うこともあるでしょう!又ある時には、イエス・キリストの後ろにそっと近寄り、その御衣に静かに「触れた」、長血を患らっていた女性、彼女はイエス・キリストを求める、「愛の涙」が眼からほとばしり出て、止まらなくなる程の状態に導かれ、イエス・キリストの貴い御足を、「愛のしずく(涙)」と自らの「髪」をもって拭い清めました。


 同様に、私たちが霊的に神を求めれば求める程、イエス・キリストに更に近づき、その御体の一部に「触れる」ことを、必死に祈り求める方向へ、いつしか変えられていきます。すると、聖霊様が「御国の扉」を開いて下さり、それまで「苦しみ」という「暗闇」に覆われていた「霊」の只中に、麗しい御国の光が大いなる輝きとなって差し込み、暫くすると「ある方」が、近づいて来るのを感じ取ります。自分が近づいた訳でもないのに、聖霊様が側近くに来て下さり、「私の愛する子よ、私の腕の中に来なさい!私が、あなたを休ませて上げよう!」などと、「内なる声」にささやきかけて下さいます。そして、その「御声」を聞いた瞬間に私たちの「霊」は、確実に主イエス・キリストに「触れた」という、素晴らしい経験に至ります。


触れ、触れられる時
 「新しい言葉」、即ち「異言」を伴う祈りの目的は、神に「触れる」ことです。私たちは「新しい言葉」をもって神ご自身を求める時に、確実にイエス・キリストに「触れる」ことが、最終的には可能になり、ある時にはその麗しい「御顔」にまで、触れることができるのです。


 神に「触れる」体験をした者は、それによって何を得るのでしょうか?「触れた」後にもたらされるものは、実に素晴らしい体験です。主イエス・キリストは、「愛する娘(花嫁)よ、私の元に来なさい!私が、あなたを抱擁しましょう!」と直接語りかけることで、優しき御手をもって直接、私たちの「霊」に「触れて」下さいます。これが、主イエス・キリストによる「聖なる按手」です!


 既婚者の方々はご存知のように、夫婦というものは普通、「言葉」による「愛の交わり」を交わします。新婚当初の頃は「いつもきれいだね!」、「ありがとう!あなた愛してるわ!」などと、その表現が実にストレートで、しかも甘美な「愛の言葉」を互いに交わします。しかし年数を経ていきますと、大抵「妻」の側から「夫」に対して、「あなた!愛してる?」などと、「愛の言葉」の確認を求めて来ても、「そんなこと、分っているだろ!一々言わなくても・・・・。」と突っぱねながら、「夫」はそそくさと仕事へ逃げる・・・・そんな「夫」に苛立ちながらも、「妻」は常に「夫」の唇から、自分に対する「愛の言葉」を、直接語りかけてもらいたい!と望んでいます。これが、言葉の「触れ合い」です。


 その後夫婦は、この言葉の「触れ合い」によって、如何なる行動に至るのでしょうか?心に「触れた」愛の言葉は、「夫」或いは「妻」の心を動かし、その言葉をかけた本人に近づいて、直接「触れたい!」と思うようになります。そして遂に、互いに「体」が触れ合って、「愛の交わり」の最終プロセス、つまり「抱擁」という一体化に行き着くのです。


 「異言」とは、神に「触れ」そして「触れられる」という、素晴らしい「御国の交わり」をもたらす、「命の言葉」の触れ合いです。「異言」は神の国の奥義を知る、重要な「鍵」となる言葉でもありますが、私たちが神と「愛の交わり」を為していく時に、必要不可欠な言葉であり、神に「触れる」ために聖霊様が用意して下さった、霊的に欠くべからざる「命の言葉」であります!


 パウロはその後、エペソに約三年間滞在しますが、このエペソ在住の僅か十二人という小さな群れから、麗しい神の国の「霊的権威」が解き放たれ、エペソの都市を霊的に支配していた、邪神アルテミス(偶像)の悪霊たちを驚愕させ、遂には大騒動となっていく経緯が19章に記述されています。


 私たちは、アダム(エバ)の犯した罪の結果、今まで古い次元に支配された五感(眼・耳・口・鼻・手足)の領域において、「贖いの生贄」イエス・キリストの、貴い「十字架の血潮」によって完全に洗い聖められるべきです。又、その後に来る聖霊の「聖めの炎」によって、私たちの五感が本来の麗しい、神の国の「力」に満ちた器官に造り変えられるべきです。つまり、私たちが常に聖霊を通して、新しい「霊の次元」に支配された(覆われた)五感を備えた者、又主イエス・キリストとの「愛の交わり」、即ち「霊と真による礼拝」を捧げる者へと変革されるよう、私たちは更に求め続けるべきです。


 そして、その「変革」の原動力となるものが、「聖霊のバプテスマ」を授けられた時に、「賜物」として与えられる、「新しい言葉」を語ることにあるのです。「異言」を語ることで、私たちの唇には「御国の扉」を開くことのできる、「霊的権威」が授けられていることを常に覚えて下さい!ですから私たちは、もっと主イエス・キリストと語り、更に奥深く霊的に交わり、そして「触れ合う」ことができるよう、聖霊様の助けと導きを祈り求めて下さい!主イエス・キリストは、必ずあなたの「異言の祈り」を、直接聞くことのできる所にまで近づいて下さり、優しき御手をもってあなたの全てを、「抱擁」して下さいます!


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言葉の革命(No.11)

                  第四の波紋−異邦人と異言−



 言葉を認識するには、聞くという「音声認識」と、見るという「文字認識」の二種類によって、その認識方法が異なってきます。勿論「ろうあ者」の方々の中には、「手話」という「手」のサイン(形状)で互いの意志を伝達し合ったり、「音声」は聞こえなくても、相手の語る「唇」の動きを読み取って、相手が何を語っているかを瞬時に悟ることのできる人々もいます。又、視聴覚障害者の方々の中には、「点字」という指の「触覚」によって、「点字」の形状を認識することができる人々がいます。


 「文字認識」の場合、1〜3才の幼児期においては、例えばカルタ遊びをする際、犬の絵を見せながら「いぬ」という文字を、単なるマーク(しるし)として、つまり「絵」と「マーク」を一体化しながら記憶することは可能ですが、4才を過ぎた頃になりますと、認識方法という記憶パターンに、異なる変化が起きてきます。親や教師(保育士)などが、犬の絵を見せながら、大きな声で「♪い!ぬ!・・・・、い!ぬ!・・・・♪」などと、はっきりとした音声で何度も何度も、繰り返し発音します。すると子供の「聴覚」神経と、「視覚」神経が連続反応を起こし、同じように子供に発音させていきますと、子供の耳が聴覚的に、犬の「絵」イコール「♪い!ぬ!・♪」という、「音声」言語として把握することが可能になります。


羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
                                                                                                      【ヨハネ福音書10章3節】


 羊はその声、要するに発音された「音声」を聞き分けて、誰が自分の羊飼いであるか、明確に区別しながら認識します。仮に、発音された「音声」がいつもと違う場合には、これは「よそ者(敵)」であると悟り、決して付いて行きません。それと同様に、私たちキリスト者にもたらされる「新しい言葉」、即ち「異言」という言葉も、唇からほとばしり出るその「音声」が、何らかの意味を持つ「言葉」であることは分ります。又、何らかの意味を持つ「認識言語」であるならば、その「音声」が何を訴え何を語っているかを、その「音声」を、聞く人々が如何にして自分の「耳」、つまり「聴覚」という五感の領域から、「霊の耳」の領域へと認識し受け留めていくのか?このプロセスは、はっきり申し上げて非常に難解なことです。


 相手の語る「異言」に対して、異言を「説き明かす」人が無い場合には、どのような内容の祈りや讃美、又預言やメッセージなどをしているのか、認識すること自体が難解です。ましてや私たちが、仮に「公けの場」で「異言」を語り出したとしたら、「又、かつての○○○真理教のように、新しい新興宗教でもできたのかしら?」などと狂信者扱いされ、敬遠されるでしょう。


 「異言」を「音声言語」として認識することは、非常に難解ではありますが、「聖霊の助け」がなければ認識できないことを謙虚に受け留め、かつ「異言」の語る内容を明確に認識できるよう、私たちが更に「聖霊の力」を求めていくことは、とても重要なことです。私たちが分らないからと言って、分らないまま諦めていたら、いつまで経っても霊的に「幼児期」です。しかし、必ず何らかの認識できる方法があり、聖霊によって上からの「知恵」と「洞察」を戴くのであれば、その人が何を「霊」で語り(祈り)、神に対して何を求めているのか、それを認識できるほど霊的にレベルアップすると、父なる神が約束して下さるとしたら、私たちは求めないでしょうか?勿論、自分の語る「異言」の内容も、私たちは明確に認識できません。しかし、聖霊様は「霊」の語らされるままに、何かを訴えていることは事実です。その人に現れた「霊のしるし」には、必ず何らかの意味があり、聖霊の「意志」の現れである「霊の言葉」として、何か意味ある(説明できる)ことを訴えています。


昼の十二時頃である。彼(ペテロ)は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペテロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペテロよ、身を起こし、屠って食べなさい。」という声がした。しかし、ペテロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。・・・・・・・・翌日、ペテロはそこを発ち、彼らと出かけた。ヤッファの兄弟も何人か一緒に行った。次の日、一行はカイザリアに到着した。コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。・・・・・・・・そこで、ペテロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分りました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。・・・・イエスについて、この方を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」ペテロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペテロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペテロは、「私たちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったい誰が妨げることができますか」と言った。
                                                                                                      【使徒行伝10章9〜48節】


ペテロの霊的性格
 コルネリウスとペテロの両方に働きかけた、「聖霊の導き」を比較してみますと、この二人は以前互いに会ったことも、その名も聞いたことがないにも関わらず、聖霊の不思議な「啓示」と「方法」により、霊的に結び合わされていくことが10章に記述されています。


 ペテロはご存知のように、聖霊によってもたらされた「五旬節革命」以後は、大胆にイエス・キリストの福音を語る者として、変革された使徒たちの中の「リーダー格」の一人でした。しかし、聖霊の大変革の恵みを受けた彼にも、「五旬節革命」の時から既に十年経過していたにも関わらず、ある種の「これだけは譲らない!」という、頑固な性格の一面が残っていました。聖霊は彼に、不思議な「幻」の啓示を通して、残っていた「頑なさ」を三度も示されました。


 彼の霊的「頑なさ」について、私たちも「知る」必要があります。先ず第一に、彼は「ユダヤ人」としての誇りに満ちていました。彼は他のユダヤ人同様、「自分は神によって、特別に選ばれた民の一人である!」という、強い自意識がありました。


 第二に彼は、かつてバプテスマのヨハネの弟子として、ヨハネの「精神革命」に共感していました。彼の願いは、常にイスラエルの「救国」であり、ローマ帝国だけでなくユダヤ国家以外の外国勢力は、彼にとって全て「敵」であり、自国を害する国家権力に対しては如何なる妥協もしないなど、強い精神力によって生きていました。このように、彼はイエス・キリストの弟子になる以前、バプテスマのヨハネの弟子として活動し、「愛国心」に満ち溢れていた人物でした。勿論、聖霊による変革以後は、「精神(肉)の力」によって国家再建を目指すことはなくなりました。


 聖霊の導きを受けながら、イエス・キリストの御国の福音を力強く証言することで、ユダヤ民族の全てが漏れることなく、イエス・キリストの「救い」にあずかり、イエス・キリストを信じるユダヤ人の群れが、イスラエルの地に満ち溢れるよう、日々使徒の務めを為していました。しかし、その宣教範囲の及ぶ所は、「ユダヤ人」に限られていました。「ユダヤ人の救い」にのみ焦点が向けられ、当然のことながら「異邦人」のことには無関心で、「救いの対象」として見ていませんでした。ただ「ユダヤの救い」という、愛国心に満ちていたからです。


 第三に彼は、イエス・キリストの「新約」に生きながらも、依然として「律法主義」という、「旧約」の教えに凝り固まっていました。この点に関しては、その後「新使徒」として迎えられる、パウロとの間にも論争が起こる程、「教え」の中身に関して激しい対立を生じるなど、霊的な「頑なさ」があったのです。ですから彼は、聖霊運動を推し進めながらも、古い「律法主義」に根ざした、「旧約」の教えを中心としていたのです。


コルネリウスの人柄
 それに対しコルネリウスという人物は、ペテロが一番嫌う「異邦人」のローマ人であり、カイザリアに駐屯していた、イタリア隊の「百人隊長」の一人でした。彼はローマ人でありながらも、「ユダヤ教」に非常に深く関心を持ち、父なる神を畏れていた信仰心の厚い人物でした。その後彼は、聖霊による不思議な導きによって、「ユダヤ人」ペテロを自分の家に招き入れ、彼らの指導を通して「聖霊のバプテスマ」を授けられました。それ以後、彼は「キリスト教」に改宗することで、家族全員が救われました。当然のことながら「百人隊長」という働きを通して、彼の多くの部下とその家族も、彼にもたらされた聖霊の大変革に影響を受けて、次々と救われました。


 「百人隊長」という身分は、普通エリート戦士としての称号(階級名)で、指揮系統に優れた軍事的能力を備えた人物、つまり将校(幹部)クラスですから、大抵勤務時間以外も変わらず、人を見下したり命令するような口ぶりで、威張り散らす人が多いのですが、彼だけは違っていました。彼はユダヤ教を信じていた時から、殆どの部下たちから尊敬され、又慕われる程の良き隊長でありましたが、キリスト教に改宗し「聖霊のバプテスマ」を受けた後は、以前にも増して「知恵」にたけ、家族愛をもって部下に仕えるなど、模範的なリーダーに変革されました。ですから、部下たちは益々彼の下で働くことを喜びとし、彼の中から放たれる「キリストの香り」に導かれ、次々と救われていくのです。「リーダー」としての彼は、ペテロとは対照的に「柔らか(柔軟性)」な、霊的性格を持っていた人物でした。


 10章を読み進めて行きますと、聖霊は不思議な導きをもって二人を出会わせ、共に聖霊の「良き器」として変革させるべく、更に霊的に取扱っていることが分ります。そして、この聖霊の取扱いには、霊的性格をも造り変える「力」があることを教えています。


霊的性格の変革
 先ず「第一の変革」は、ペテロに関することですが、自分の国家や民族だけが救われれば良いという、「愛国心」に満ちた彼の性格に対して、霊的に取扱われたことです。「自国」、「自民族」、「自己正義」、「自分の肩書き」、「自分の方法」などの、「自己中心」に基づく霊的頑なさ(私はこれをエゴ・ブランドと呼びますが)を、完全に廃棄しなさい!と聖霊は命じられます。このエゴ・ブランド意識は、私たちキリスト者の信仰生活の中に、或いはキリスト教の様々なグループの中に、必ず見受けられるものです。


 例えば、自分の信仰生活の領域においては、「私はかれこれ、聖霊を受けてから二十年になりますが、あなたは未だ一年足らずですか!・・・・」などのセリフ、これは「自分中心」の歴史を語る、エゴ・ブランド意識の現れです。又、「私たちの教会は、かれこれ三十年の歳月を経て、今や神の恵みにより、数百名に及ぶ礼拝出席を数える成長を遂げました!」などの証し(その種の思いも含む)に続き、「・・・・で、おたく(先生)の教会はいかがですか?・・・・え!まだ開拓中ですか?大変ですねー。まー、がんばって下さい。」などと、一見励ましているかのような口ぶりですが、既に「優越感」に浸りながら、上から下を見下ろすような視線に変り始めている時も、同様の現れです。仮にも語る相手の方が、全ての面において「自分」より優っている場合、急に態度を一変させ、「うやうやしく」振舞うようになるのも、エゴ・ブランド意識の特徴の一つです。


 世界的に見て過去において、ペンテコステ神学に立つ教役者の中には、「我らこそ、この国の福音宣教において、力強い聖霊運動に立つ信仰者の群れだ!」などと唱えながら、決して他の福音派の諸教会と一致しないまま、ミニストリーを推し進める傾向(風潮)がありました。今でこそ、大分柔軟にはなりましたが、これもエゴ・ブランドに他なりません。私たちの語る「言葉」や「思い」の中に、このような意識は必ず生じるものです。ですから、私たちは聖霊を通して、このエゴ・ブランドを廃棄して戴くよう、常に祈り求める必要があります。


私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる。私には、この囲い入っていない他の羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
                                                                                             【ヨハネ福音書10章14〜16節】


 イエス・キリストが語られたこの「奥義」は、非常に重要な「教え」です。イエス・キリストはあえて、「私の声を知らない羊や、囲い入っていない他の羊」がいることを、弟子たちに悟らせるよう語りました。イエス・キリストは、直接的な表現こそ使用しませんでしたが、弟子たちの持っている「自国」そして「自民族」意識などの、「エゴ・ブランド」意識(思考)に対して警告を与えました。イエス・キリストは、自分の声を知っている羊たち(ユダヤ人)を、当然導かなければならないが、将来的には「自分の声を知らない羊たち(異邦人)」をも、「神の国」へ導かなければならないことを、彼らに告げ知らせたのです。


 この御言葉の「奥義」から内村鑑三は、「自分の教会」や「自分の宣教団体」、或いは「自分の教会員」さえ成長すれば良い!という、当時のリバイバル運動の流れ(風潮)に対して、あえてプロテストしながら、むしろ彼らエゴ・ブランド集団という、「囲い」から排除された人々、即ち教会(会堂)の無い羊たちの、「教師」として召し出された人物でした。この御言葉の奥義が、彼ら「無教会派」を産み出していく、原動力となっていくのです。


 既存の教会体制にマッチしない人々が、必ずどの時代にも存在します。福音派に限らず、今のカリスマ派の流れの中に見られるように、余りにも牧会神学が霊的に「固い」ため、或いは牧師主導の教会運営に反する人々が教会に居辛くなるため、「教会」間をさまよい続けたり、又既存の「教会」に受け入れてもらえない状況が続いています。真の牧者イエス・キリストを求めて、霊的に飢え渇く羊がいるにも関わらず、本当の麗しいキリストの花嫁「エクレシア」が殆ど無く、霊的に身を落ち着けることができない羊の群れ、即ち「囲い属さない羊」の数の方が圧倒的に多い、これが今のカリスマの流れの現状ではないでしょうか!


 「囲いに属さない羊」とは、異邦人のことを指していますが、私たちの主イエス・キリストは、前述した「霊的異邦人」に対しても、聖霊による変革運動を「今の時」に必ず起こされます!そして彼らの中から、ペテロとコルネリウスの出会いの如くに、聖霊の「不思議な導き」の中で、神の生ける肢体どうしが連結され、大いなる主イエス・キリストの花嫁、即ち真の「エクレシア」として誕生することでしょう!


神は人を分け隔てなさらないことが、よく分りました」(34節)
 ペテロは、コルネリウスとその家族の元へ導かれるまでは、神は「ユダヤ人」だけを選んで成長させて下さり、「神の国」の麗しい再建に召し出されるのだ!という、偏った考え方に凝り固まっていました。しかし、彼はコルネリウス家に迎え入れられた時に、自分たちが嫌っていたローマ人、とりわけ「軍隊の連中」という敵の中にも、麗しい神の救いが現れている、しかも家族全員が神の名の下に一致して、「聖霊のバプテスマ」を授かるという、天上の恵みにあずかる光景を、まざまざと見せ付けられ非常に驚いた訳です。


 ですからペテロのこの告白は、自分が予想もしなかった「神の救い」の御業を見て、宣言せざるを得ない「証言」になりました。ここに、彼にもたらされた「第二の変革」が現れています。即ち、彼がそれまで大事にしていた、「古い律法」という価値観を全て廃棄し、神の国の「新しい約束」を全面的に受け入れることで、神は決して分け隔てをなさらないこと、つまり彼の「霊的囲い(分断の壁)」そのものが、聖霊によって打ち破られたことを証明したのです。


聖霊によるライン
 ペテロに同伴してきた、弟子の一人が続けて証言しました。「私たちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったい誰が妨げることができますか」(47節)。この証言からも導かれることですが、聖霊は人と人の間にある、「ライン(分離線、囲い、境)」を完全に打ち砕き、神の道に引かれた、只一つの「ライン(イエス・キリスト)」を求めて一致し、共に仕え合うようにすること、これが「第二の変革」です。


 人と人の間にあるラインは、アダム(エバ)の罪の結果生じました。このラインこそ、「分け隔ての壁」を意味します。彼らが罪を犯す以前は、互いにストレートに交わることができる、聖なる「一体関係」が成立していましたが、罪の結果互いの間に線を引いて、「一体」ではなく「分離したもの」として、相手(他者)を見るようになりました。人と人の間にあるラインは、悪魔サタンが引いたものです。人を見下したり、人を支配するために人を分け隔てたりすること、これらは全てサタンによる「ライン」です。


 しかし、聖霊が引かれる麗しい「ライン」は、「贖いの子羊」主イエス・キリストの、十字架から流れ出る「血潮のライン」のことです。このイエス・キリストの「血潮のライン」の元に、私たちが一致して共に仕え合っていく時、麗しい「神の国」が完成されていくのです。自国の民族だけが、羊飼い(イエス・キリスト)の「声(御国の福音)」を知れば良いという訳ではなく、自分たち以外の民族(異邦人)にも、麗しい神の「御声」が届けられ、共に導かれることで「一つの群れ(一体化)」になっていくこと、これが聖霊の為される大いなる「変革」の御業です。


 コルネリウスとその家族の中には、この「変革」が既に始まっており、「聖霊のバプテスマ」を授けられてから、一段と麗しい主イエス・キリストにある家族、イエス・キリストにある「百人隊長」として、「変革の波」が近隣へ部下たちへと波及して行きました。ペテロは「五旬節革命」以後、ユダヤ人同胞の中に見受けられた様々な家族の救い、又その時に起こる「聖霊の変革」の現れを見てきました。そして、「ユダヤ人」こそ聖霊の変革を受けるため、特別に選ばれた「約束の民」であると、いつしか自負するようになったのではないでしょうか。しかし、自分たちの知らないところ(宣教範囲外)で、しかもユダヤ人が派遣されなくても、「神の国」が次々と霊的に確立されるのを、実際に見ることになりました。ですから私たちは、「聖霊の為される変革は、常に人知を遥かに超えた次元で為される!」こと、この真理を知って下さい!


 ある有名なカリスマ・リーダーによって、素晴らしい説教(ミニストリー)をしたから、或いは大きな宣教団体が率先的に聖霊運動を推し進めたから、リバイバルが起きるという現象ではなく、誰も知らない場所で、名も無き人々の飢え渇きと祈りの結果、聖霊の「栄光の炎」が突然降り注がれる、これがコルネリウス家に起こった「聖霊の訪れ」であり、又「変革の恵み」だったのです。


 ペテロは、自分たちのコイノニア以上に、コルネリウス家族の中に聖霊様の深い「臨在」と、「親しい交わり」があること、そして主イエス・キリストの麗しい愛が、コルネリウスの中から部下たちにも流れているのを見て、驚嘆せざるを得ませんでした。そして彼は、実際に「異邦人」コルネリウスと出会うことで、自分の中にある古い「霊的頑なさ」が、完全に打ち砕かれました。


 彼はそれまで、「ユダヤ人」キリスト者だけが、天上にある霊的食物を食することができるなどの、エゴ・ブランド意識を抱いていましたが、何と「異邦人」にも同様に、「天の祝福」が与えられるのを見て、そのような意識が完全に廃棄されるに至りました。しかも、自分たちに与えられている霊的食物の方が、全て面で優っていると思っていたにも関わらず、「異邦人」コルネリウス家に与えられた、新しい霊的食物を「霊の口」に入れた瞬間、今までに経験したことがない、また何とも言い様のない、甘美に満ちた「新鮮な味わい」を体験したのです。


 日本のリバイバルについて触れますが、仮に今存在する大小を含めて多数の宣教団体、或いは教派組織、そして大教会による宣教(ミニストリー)の働きからではなく、名も無き少数の人々の飢え渇きから、神が突然に一方的な聖霊の「恵み」を降り注ぎ、そしてリバイバルが起きたとしたら?例えば、次のようなストーリー・・・・。


 ある日、突然に会社からリストラされ、家族離散の憂き目に会い、行き場のなくなった、ある中年男性「神尾モトム氏」(55歳)、彼はついに所持金が底を着き、一文無しになって新宿公園へと、いつの間にか足を運んでいた。時期が未だ、夏の終わりということもあり、その日は空腹であることも忘れるほど、彼は身も心も疲れ果て、いつしかベンチに横たわり眠ってしまった。


 そして数ヶ月が経つ頃には、彼はある「ホームレス」グループの一員となり、希望もないままその日暮らしをしていた。しかし、時は冬の始まりを告げ、次第にダンボールの家では、身が凍える程の辛さに、耐え切れなくなる予感がした。が、何もできない。只願うのは、昼間「お天とう様」が、寒さに震える自分の体を、少しでも暖めてくれること、それだけであった。


 年が明けた、とある日の晩、この冬一番の大寒波が関東に接近し、東京は大雪警報が発令された。大分以前と比べ、やせ細ってしまった彼は、最初の頃仲間たちと、避難場所(雪の積もらない場)を求めて、必死に公園周辺を捜したが、既に先輩たちが陣取っていた。動いている間は、何とか耐えていたが、ついに体力を消耗してしまい、もはや「凍死」寸前に至った「その時」、彼は今まで性格的に寡黙であり、自分の感情をストレートに、言い表すことができなかったにも関わらず、ついに彼は、今までの積もり積もった激しい感情を、自分の唇から一気に噴出(爆発)した。
「親父ー!俺を見捨てないでくれー!ウォー!(嗚咽)」
彼はその場に泣き崩れ、早くも30センチ積もった雪を、両手で何度も何度も叩きながら、見えない「誰か」に、怒りにも似た「懇願」をし続けた。


 すると突然彼の耳の中に、今まで聞いたことがないほど、優しくはっきりとした、「誰かの声」が聞こえてきた。
私はあなたを、決して見捨てない!私はあなたの主であり、道であり、真理、そして命である。私があなたを召し出す。付いて来なさい!
彼は、不思議な「御声」を聞いたその日の晩、どうして死ぬことなく、安眠できたのかは分らなかったが、その「御声」に導かれるまま付いて行ったら、「暖かな場」が既に備えられていたことを、はっきりと覚えていた。


 彼はその後、ひたすら「御声」のみに従って行き、遂には「御声」の正体が、主イエス・キリストご自身であること、そして自分をイエス・キリストの元に導いた方が、聖霊様であることを知り、自分の「救い主」、「助け主」として受け入れた。それからの彼は、同じホームレスの仲間たちに、イエス・キリストの「証人」として、自らの体験を大胆に証言した。


 すると彼と同様に、霊的に飢え渇いていた仲間が次々と回心し、その数は日増しに増えていった。その結果、彼はホームレス・コイノニアのリーダーとして選び召し出された。やがて、彼らの住みかとする公園一帯に、麗しい「神の国」の臨在が満ち溢れるようになった。たとえ自分たちが集う会堂はなくとも、寒い冬空の下で、聖霊による熱い賛美と礼拝が捧げられる時、彼らは益々「霊」に燃え、互いに寄り添い合って、たくましく生き始めるまでに変革された。殆どの者は一般社会に復帰し、最終的には家族再建の道を、信仰をもって歩んでいった。


 そして、ある日遂に彼は、回心し救いの喜びにあずかった人々の中に、感涙にむせぶ愛する妻と、喜びに満ちた子供たちの顔を発見し、思わず駆け寄り、暖かく、そして力強く、抱擁するのであった。


 私は、このようなリバイバルが、「正夢」となる日を待ち望んでいます。本当のリバイバルとは、人間的に見て麗しい「大聖堂」や「大教会」の中から、或いは「大宣教団体」などのグループから起きるのではなく、むしろ「世間」や「社会」という「囲い」から、除外(のけものに)された人々、教会組織という枠組みから追いやられた人々、一般の人々が寄り付かないような、汚い場所に暮らす人々、そのような名も無き人々の飢え渇きを通して、聖霊の「栄光ある訪れ」が一方的に為されて、この世の未信者も彼らに臨んだ聖霊の「しるし」を見て、イエス・キリストは「真の救い主」であると信じるようになった時、これが真の「リバイバルの時」ではないでしょうか!講壇という「いと高き所」にあぐらをかいて、マニュアル化された牧会神学で、教会(組織)運営をする人々の中から、リバイバルが起きるのではありません!


 ペテロと弟子たちが、コルネリウス家に迎え入れられた時、どの位の人々が集まっていたかは、定かではありません。コルネリウス家族のメンバーとその親戚、そして彼の部下(恐らく幹部)とその家族の総数は、少なく見積もっても50人以上であったと思われます。恐らく百名に近い異邦人の群れが、ペテロたちが按手などのミニストリーを行わずとも、「聖霊のバプテスマ」を授けられました。そして「その時」、聖霊の約束の「しるし(証印)」として、彼らは一斉に「異言」を語り出しました。


 これを見た弟子たちは、何故驚いたのでしょうか?それは、彼ら「異邦人」にもたらされた聖霊の「しるし」が、彼ら同様に「異言」を伴っていたこと、このことはペテロたちが、「五旬節革命」に与えられた時と同様の「現れ」であったこともありますが、彼らは「聖霊」について殆ど無知であり、ましてや「異言」という聖霊の「しるし」に関しては、全く何も知りませんでした。しかし十年前に起こった、百二十人の弟子たちにもたらされた、聖霊体験の「証言」や聖霊による「礼拝」を、実際に聞いたことがないにも関わらず、彼ら「異邦人」が捧げる、「異言」を伴う礼拝の方が、自分たちが普段捧げている礼拝以上に、麗しく甘美なものに満ち溢れている、この有様に驚愕した訳です。


天的な交わりの流れ
 「五旬節革命」の時にもたらされた、聖霊の「しるし」である「異言」は、種類としては「諸外国語」でした。しかし、コルネリウス家にもたらされた「異言」は、「神の栄光」を崇める単純な「霊の言葉」となって、集まっていた人々の全員の唇から、清らかな「命の水」の流れの如くに、次々とほとばしり出るものであったと推測できます。まるでそれは、誰が演出した訳でもないのに、ある人の流す「異言」の音声の上に、次々と調和の取れた音声が重なり合って、あたかも「天上のオーケストラ」が、奏でられているかのように聞こえてきました。「神の国」の臨在が余りにも濃厚であり、しかも麗しい「天上の響き」の中に、集まっていた人々全員が包まれていく時、とても立ち続けることができない程の「天上の礼拝」が、聖霊の導きの中でペテロたちをも支配していたのです。


 つまり、何の妨げも無く「神の国」の麗しさ(美)が、彼ら「異邦人」の上にもたらされたのです。彼らの語る(賛美する)「異言」の音声そのものは、一つ一つの単語を明確に認識できるものではありませんでしたが、彼ら全員が奏でる「異言の賛美」は、救い主イエス・キリストをこよなく愛し、この方によって救われた喜びを素直に表明するなど、天的な「会話」と「礼拝(賛美)」が為されていることだけは、集っている人々だけでなく招待されたペテロたちも、「霊の耳」で認識できました。


 何故、ペテロたちは認識できたのでしょうか?それは、彼らも同じ「羊飼いの声」を知っていたからです。又、同じ「羊飼いイエス・キリスト」に対して、集っていた「異邦人」も共に、霊と真をもって礼拝を捧げていたからです。当然、愛する「羊飼い」が同一の方であるならば、「ユダヤ人」という羊も、「異邦人」という「囲いの外」の羊と共に、「神の国」の臨在に膝をかがめ、その「御声」を認識できるようになるのです。「異言」の、単語一つ一つの意味は認識できませんが、麗しい「救い主」イエス・キリストに対して語る、「愛の表現」であることは認識できるのです。


 神への「異言」は、更に新しい「異言」を呼び起こします。その「異言」どうしが、聖霊によって調和され重なり合う時に、「一つの方向」に流れて行きます。その方向とは、一つのライン「イエス・キリスト」です。このイエス・キリストの御名のもとに、何の分け隔て(囲い)や妨げも無く、互いに一致し協力して仕え合うようになること、これが聖霊による「変革」であることは、言うまでもありません。


 「異言」を強調し過ぎると一致どころか、かえって教会に混乱をもたらし、分裂騒ぎにもなり兼ねない!などの理由で、「公け」で語ることを禁じるペンテコステ教会があります。しかし、パウロは明確に宣言します。「異言は、信じる者のためではなく、信じていない者の為のしるし」(第一コリント14章22節)であり、「異言を語ることを禁じてはなりません」(第一コリント14章39節)と。ですから「異言」そのものは、決して「分け隔ての壁」にならないことを、いつも覚えて下さい!


 そして神への「異言」は、必ず一つのライン(方向性)を指し示します!それは、主イエス・キリストの御名を崇め、そして更に「真の羊飼い」イエス・キリストの、「御声」を知ることを求める、つまりイエス・キリストの語られる「御声」に聞き従い、その「御心」をより深く知りたい!と欲する、「霊的飢え渇き」に導かれることです。


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