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バルナバ・ボイス(No.24)

イエス・キリストのEyes⑪


           「涙の祈り」に目を留められる方




さて、あるファリサイ派の人(シモン)が、一緒に食事をして欲しいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足元に近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。・・・・イエスは、・・・・女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。私があなたの家に入った時、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙で私の足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。・・・・この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」・・・・イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と言われた。
                                                                                                   【ルカ福音書7章36~50節】


「涙の祈り」に目を注ぐイエス・キリスト
 イエス・キリストが注がれる「愛の眼差し」は、私たちの持つ人間的視線とは、全く懸け離れた次元の中にあります。イエス・キリストは、私たちの「思い」を遥かに優った霊の次元の中で、私たちのために麗しい配慮を施し、私たちが如何に罪深い存在であっても、前もって「全て」をご存知の上で、私たちに直接触れて下さり、じっと「全て」をご覧になられる方であるか!このことを、このストーリーから学ぶ必要があります。


 「涙の祈り」というイメージは、「苦しみ」や「悲しみ」、また「絶望」などから生じる「祈り」と、私たちはすぐに連想します。しかし、ダビデの「詩篇」に数多く記述されているように、主なる神は必ず私たちの、「涙の祈り」を聞いて下さる!ことも、信仰的にイメージします。つまり、私たちが「涙を」もって叫び呼ばわる時に、主は確実に聞き入れて下さることを、私たちは信仰的に知っています。


 しかし今回のストーリーは、「聞く」という動詞ではなく、「涙の祈り」に目を注ぐ、つまり「見て下さる」という霊的な意味合いとして、非常に私たちの興味をそそられる、動詞が使用されています。覚えて戴きたいことは、主は「聞いて下さる」のと同時に、私たちが「涙の祈り」を発する以前から、私たちの「全て」をご覧になられ、私たちが体験する言い難き「うめき」、つまり「涙」しか出て来ない、「うめき(祈り)」の状態にある時にも、じっと「愛の眼差し」を注いで下さり、私たちが「どうするのか?」を待ちながら、優しく見ていて下さるのです。


シモンの計画した「戦略」
 ルカは何故、この「罪深い女」の行動を霊的に記憶して、「福音書」の記述の中に取り入れたのでしょうか?また逆にシモンという、この町では名門の家柄に属する「名士」が、このストーリーの中で「罪深い女」と、相反する行動を採っていること、この点もルカは、如何なる「思い」をもって記述したのか?この二点について私たちは、正しく理解する必要があります。特にシモンが、如何なる目的をもって、イエス・キリストをわざわざ「食事」に招待したのか?その「動機」が問題になります。


 聖書には、シモンの「動機」に関して、何も記述されていません。しかし明らかにシモンは、「罪深い女」が自宅に入って来た時、不快感を示したことを考慮に入れますと、彼にとってイエス・キリストを、「自宅」に招待すること自体が、一種の「ステータス」であったことが分かります。バプテスマのヨハネの次に、有名な預言者(イエス・キリスト)を、自分の「家」に招待したこと、この自分の為した「事実(業績)」によって、シモンという「名声(名士としての名)」が、更に格上げされる訳です。


 ところで、ユダヤ人の伝統的な「接待(もてなし)」においては、必ず「もてなす側」は出迎える際に、招待する「客」が如何なる身分に関わらず(例えば金持ちであっても、逆に貧しき立場にある者であっても)、その人の手足に付着した土埃などの「汚れ」を、「洗い水」をもって聖めるという風習があります。先ず「水」を大量に用意し、自ら「客」の手足を洗って聖めた後に初めて、主人が直々に「お客様」を奥座敷に案内する、これがユダヤ人の一般的な習慣でした。


 ところがシモンは、この時彼にとって一番の「VIP」に対して、そのような習慣を全く為さなかったこと、これは実に不思議な点です。恐らく彼にとって、イエス・キリストを招いて、①自宅に歓迎した(入れた)こと、そして②食事を用意したこと、この二つの「事実(業績)」を、何よりも早く造り上げた(演出した)かったのでしょう。その結果、イエス・キリストに対する、これらの行為を通して、自分の「名声」が更に拡大する!これが彼の「手はず(戦略)」でした。ところが、彼の「思惑」とは懸け離れた次元の中で、彼を突然「不快」にする、予想外の出来事が起きたのです。


 この名も無き「罪深い女」は、当然自分の立場をわきまえていますから、自分がシモンの家においては、「招かれざる客」として、つまはじきにされることを知っていました。しかし彼女は、「私の罪の病いの、全てを癒して下さった、あの貴いお方イエス様に、私はもう一度会いたい!お礼の言葉を申し上げたい。イエス様の御体に触れ、私の気持ち(愛)の全てを伝えなければ、私は生きている意味が無い!」と、激しい飢え渇きをもって、シモンの家に押しかけたのです。イエス・キリストは、シモンの家に集まる人々の中に、一種の「ざわめき」が起こったことをキャッチした時、ご自分を求める者(彼女)が来たことに気付きました。


 当時の人々は食事に招かれると、座敷の中央に並んだ料理を囲んで、共に座すのではなく、すぐに横たわる格好になります。そして、主人のもてなしの言葉と同時に、横たわったまま各料理を、手でつまんで口に入れます。今日の中東の人々もそうですが、彼らの食事習慣は「くつろぎながら、のんびり食す」という、独特なスタイルを常とします。ですからシモンの家に招かれた、イエス・キリストと弟子たちも、最初は「のんびり」とした雰囲気の中で、雑談でも交えながら食事を採っていたのですが、急に「ざわめき」が起こり、下僕の報告を聞いたシモンの顔色が、「不快感」を顕にしたのを、イエス・キリストは見逃しませんでした。


女の流した「涙」の意味
 彼女にとって、寝そべった男性陣の前に出ること、特にその家の主人(シモン)の、「不快感顕な顔」を見ることは、逆に公然で差別的陵辱を受けることになります。しかし彼女は、それ以上にイエス・キリストを、慕い求めて止まない飢え渇きから、横たわるイエス・キリストの元へと、ものともせずにさっと近寄り、静かに身をかがめました。ルカは、この時の彼女の行動を、「後ろからイエスの足元に近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」(38節)と、淡々と記述していますが、私たち読者にとって例えば、「何故彼女はすぐに、涙を大量に流すことが出来たのだろうか?」などと、不思議に思われる場面です。


 彼女の流した「涙」の意味(真意)は、如何なるものでしょうか?私たちは溢れるばかりの、物凄い「感謝」の気持ちや「感動」を覚えた時、或いは今まで長期に渡って会えなかった、自分の愛して止まない方が、ふと急に自分の前に現れ再会できた時、私たちは感涙にむせびます。それと同様に、彼女にとって最愛の「救い主」である、イエス・キリストの御許に近寄り、未だ目と目を合わす状態ではないのですが、イエス・キリストの御足を目の当たりにした時、思わず「涙」が止め処も無く、彼女の目から溢れ流れ出たのです。


 すると、大量に流れ出た彼女の涙の「愛のしずく」は、イエス・キリストの泥で汚れた「御足」を、当然ぬらし始めます。それと同時に、足の汚れが「涙」によって、更に黒くにじみ出て来る訳です。彼女は思わず、「あ!イエス様、申し訳ありません。」と囁き、すぐに自分の長い髪の毛で、その汚れを拭き落とし始めました。髪の毛で、どろ汚れをいくら拭き取ったところで、完全にきれいになる訳ではりません。しかし、彼女にとってその行為は、イエス・キリストに対して、自分の「愛」を注ぎ出す、精一杯の行為でした。その後彼女は、麗しの「御足」に接吻し、持参してきた貴い香油を、イエス・キリストの「御体」の隅々に塗ることで、イエス・キリストの「旅」の疲れを癒しました。これが彼女の、イエス・キリストに対する「愛」の表現でした。


「喜びの涙」へと導く聖霊の働き
 「私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成して下さる・・・・」(ローマ書8章26節)の御言葉にある如く、私たちは「涙」も出て来ない程の、言い難き「苦しみ」の時を通過することがあります。その時私たちは、ひたすらヤコブの如くに、「苦しみ」から逃れるべく、血肉の闘い(肉の努力)を為します。ところが、いつかは「血肉の闘い」にも疲れ果て、自分の「力」では何も為し得ないことを悟り、虚脱感の中で崩れ横たわる時、「上」からカーテンが降りて来るかの如くに、神の「愛」があなたを包みます。そしてその瞬間に、あなたはフワリと身が軽くなり、イエス・キリストの臨在が、実はすぐ近くにあったことに気付かされるのです。


 それ故私たちは、今まで流してきた「血肉の涙」が、如何に汚れていたのかを悟り、イエス・キリストが今も尚、「我が愛する子よ、私はあなたを愛している。私はいつもあなたのことを、見放すことも無く、ずっと見守り続けている!」と語りかけて下さる、その「御声」を聖霊様を通して聞いた時、私たちは「主よ、私は血肉の次元の中で、如何に愚かな格闘を繰り返していたことでしょう。それにも関わらず、あなたは常に私の側近くに居て下さり、私を見守って下さっていたとは・・・・」などと、今度は言葉に表せない程の、「喜びのうめき(歓喜)」をもって、「霊の涙」を流し始めます。「この世」の人々は、私たちの「外見」や「表面」「ステータス」などを見て、様々に三次元的な判断をします。しかしイエス・キリストは、私たちの発する「涙の祈り」が、何処に向けられているのか?そのことに御目を注がれます。


 その後彼女は、どう変革されたのでしょうか?ルカ8章には、「悪霊を追い出して・・・・いただいた」婦人たちが、イエス・キリストの一行に付き従ったこと、そして特にその中の代表格の人物として、マグダラヤのマリヤ(古きマリヤ)という名の婦人が、先ずトップに記されています。ルカは聖霊によって「福音書」を記述していく時、名も無き(本当は悪名として有名なのですが)「罪深き女」が、イエス・キリストという、「真の救い主」との出会いを通して、奇跡的に癒されるばかりでなく、イエス・キリストを愛して止まない「信仰」により、今度はイエス・キリストに付き従っていく一女性、つまり他の「弟子たち(男性)」同様に、一人の変革されたキリストの花嫁、即ち新しいマリヤとして、改めて紹介したのではないかと推測できます。


 聖霊様は、あなたの「涙」が常に、イエス・キリストご自身に注がれることを、強く願っておられます。あなたの「人生」が、今後どのように変革されて行くのか?聖霊様は既にご存知ですが、あなたの側(そば)にも、マグダラヤのマリヤ同様に、イエス・キリストの御許に近寄ることの出来る、その「道備え」はあるのです。イエス・キリストは、いつでも「あなた」を待っていて下さいます。恐れないで前進して下さい!主イエス・キリストの聖なる「御目」が、あなたを常に見守り、「励まし」と「力」を与えて下さいますよう、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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