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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

バルナバ・ボイス(No.23)

イエス・キリストのEyes⑩


             全てを捧げた「やもめ」の信仰




イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物を全て、生活費を全部入れたからである。」
                                                                                             【マルコ福音書12章41~44節】


イエス・キリストの「霊の眼」
 イエス・キリストは、神殿にある「賽銭箱」の元に来る、数多くの奉納者の献金する様子を、少し離れたところから見守っていました。弟子たちは、イエス・キリストのこの態度を見て、さぞかし不思議に思ったことでしょう。「先生は、今日どうしたんだろう?」、「一体彼らの、何が気になるのだろうか?」などと。果してイエス・キリストは、捧げる彼らの「何」を、ご覧になっていたのでしょうか?


 私たちが、三次元的に物事を捉えますと、この時の様子に関しても、焦点を献金の「額(数)」に当ててしまう可能性があります。しかしイエス・キリストの場合、彼は私たちの三次元的視点とは、遥かに優った霊の次元の中で、彼らの「霊」を深く見られる方です。つまりイエス・キリストは、人の「外面」ではなく、心の内側にある「霊」の領域に、その貴い「視線」を投げかけられるのです。ですから御子イエス・キリストは、彼らの「行い」をじっと肉眼で見つつも、霊の眼をもって「何か」をキャッチしていたのです。


 すると「献金」を捧げるために、堂々と神殿に来る殆どの人が、次のような「決まり文句」を唱えながら、大げさに祈っていることに、イエス・キリストは気付きました。「主よ、私はこのように祝福されていることを、大いに感謝します。あなたの恵みのおかげで、このような多くの捧げ物を、今捧げることが出来たことを感謝します!」と。それは明らかに、人々に見せるための「行為」として写るものでした。


「二レプタ」の重み
 そのような、大げさな「献金ショー」の行列が一段落し、神殿から人々の賑わいも無くなり、ひっそり静まったある時間帯に、一人の名も無き「やもめ」が、さっと「賽銭箱」の前に近づくのですが、「何か」に困っているかのように、その場を行き来します。そして、彼女は他人に聞かれぬよう、小さな声で祈り出しました。「主よ、私はどうしたらよいのでしょうか?」と。しかし、その次の祈りの「言葉」は、いっこうに彼女の口から出て来ません。「主よ、私には持てるもの(二枚の銅貨)が、ほんの少しだけですから・・・・」と躊躇しながら口ごもるだけ。


 果して一レプタ(レプトン)銅貨が、如何なる「価値」を持っていたのか、正確に算出することは出来ませんが、当時は「一デナリ(約一万五千円前後)」単位のの百二十分の一が、「一レプタ」に相当することから計算してみますと、約「二百五十円」の価値単位、それが「二レプタ」です。ちなみに、当時のローマ人が利用していた、大衆浴場(サウナ)の利用料金が、同じく「二レプタ」に相当します。裕福なローマ人や、支配階級の「要職」に就いている人々にとって、「二レプタ」は単なる「風呂代」に過ぎません。この時の彼女にとって「二レプタ」は、彼女の持てる「全て(全財産)」だった!という「事実」に、私たちは焦点を当てるべきです。


 彼女の「家庭」に、何人の扶養家族がいたのか?聖書は何も記述していませんが、恐らく低所得者として「その日暮らし」を、「レプタ銅貨」に頼らざるを得ない程の、貧しさの中にあったのでしょう!しかしこの時の彼女は、その「貧しさ」の生活よりも、差し迫った「問題」を神に祈り求めるべく、やせ細った体を引きずって神殿に参拝したのです。ところが、実際に「賽銭箱」の前に立った時、「今晩の食事は・・・・、いや明日以降の・・・・・・・・。あー主よ!どうしたらいいのでしょうか?これを捧げてしまったら・・・・。」などと、持っているレプタ銅貨二枚を捧げることが、中々出来なかった訳です。


 「この時彼女が持っていたお金の全ては、わずか二枚しかない!」これが、聖霊様が私たちに対して教え示す、今回のストーリーの「奥義」、つまりこの「やもめ」同様に、差し迫る霊的「課題(緊急メッセージ)」です。仮に「三枚以上」であったら、私たちは「一枚」のみを、渋々ながらも投げることが出来るでしょう。しかし「二枚」の場合、「一枚」を投げても生活状況は悪化するばかりです。ところが彼女にとって、「二レプタ」の価値以上に危機迫る、神に対する物凄い「飢え渇き」があったのです。最終的に彼女は、「主よ、あなたの助けが無ければ、もはや枯渇するだけです。今のこの状況から、どうか私たちを贖い出して下さい!それ故に、私たちにとって今日の命をつなぐ、この二レプタの全てを、あなたに捧げます。受け取って下さい!あなた様は必ず、・・・・!」と涙ながらに祈り、遂に「二レプタ」を箱の中に投じたのです。


全てを捧げた、やもめの「信仰」


自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。・・・・あなた方の内誰が、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことが出来ようか。・・・・あなた方の天の父は、これらのものがみな、あなた方に必要なものであることをご存知である。何よりも先ず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の労苦は、その日だけで十分である。
                                                                                               【マタイ福音書6章25~34節】


 私たちには今、「聖書」という神の「命の言葉」が、恵みとして開かれています。それ故、私たちはこの「聖書」から、全て私たちに必要なもの、解決方法、あらゆる命の備えを、霊的に見出す(探し求める)べきです。仮に私たちが、彼女と同じ状況に置かれたとしたら、恐らく思い煩い(悩み苦しみ)が先行し、明日(一週間後、一年後)のことを心配して、気が狂ってしまうことでしょう。「この世」の人々は、将来に何があっても大丈夫なように!と、「財」を蓄えるなどの「備え」をします。しかし、果して「備え」があれば、「憂い(不安、悩み)」が全く無くなるのでしょうか?


 「神の国」の法則では、私たちが「父なる神」を求めることによって初めて、「全て」のことが付加される(完成する)のです。もし私たちが、この「法則」の順番を逆にしますと、常に「憂い」が付加される(付きまとう)ばかりです。よく言われるブラック・ジョークに、「一億円の宝くじが当たっても、その日から盗まれる心配が始まる!」など、これが「この世」の備えの「結末」です。しかし彼女の場合、その「霊」の只中には、確かに父なる神が「全て」のことを心配して下さり、「明日(将来)のことは、明日自らが思い悩む!」ことを、この時に悟った(知らされた)のです。つまり「神の国と神の義を、何よりも優先的に求めることで、自分が今まで思い悩んでいた次元を、遥かに優った神の祝福が用意され、食べること、住むこと、着ること、それら全てが与えられる!」こと、これが「真の安息」です。


 彼女は「二レプタ」を捧げ終えた時、恐らく「あー、主よ!私が持てる全てを、今捧げ尽くした以上、あなたは神の国と神の義をもって、私を完全に支配(祝福)し、明日を創造し守られるあなたが、私(私たち家族)を守り導かれる!」と、大胆に告白したことでしょう。私たちは「過去」を振り返る時、いつも次のことを思い起こしましょう!「私が、私の全てを捧げ尽くした時に初めて、主なる神は奇跡を用意し見せて下さった!」ことを。あなたの「全て」とは、ただ単に「お金(財産)」のことばかりでなく、あなたの「計画」、そしてあなたの「思い煩い(心配)」など、あなたが抱えるもの「全て」を意味します。


 空を飛ぶ「小鳥」や、野に生える「草花」を見て下さい!彼らは私たちのように、決して「労働」を為す生き物ではありません。また「明日」を心配する余りに、何らかの「備え」をすることもしません。しかし父なる神は、彼らに対して例えば、寒い冬を生き延びることの出来る、「天の知恵」を授けています。あなたが「神の時」の次元を、「自分の時」として大事に掴んでいる限り、神の定める「折に適った時」の祝福を、神はあなたに用意し与えることが出来ません。「神の時が、この私を支配して下さる!」という、信仰に立ち返った時に初めて、私たちは神の為さることが「全て」、私たちの「思い」を優って麗しいものである!ことを見出すのです。


 「あなたの時」を捧げて下さい!「この世」のカエサル(政治家)は、様々に「重税」を国民に課しますが、私たち「キリストの家族」から、神の「祝福」を搾取することは出来ません!私たちは、何よりも「神の国と神の義を求める!」、このことを信仰の歩み(第一歩)としてスタートしましょう!「神の国」は、あなたが求める、その純粋な飢え渇きをもって、「全て」を神に捧げる(明け渡す)時から、確かに目に見えるものとして現れ出るのです。あなたが日々「神の国」の次元に入り、その霊的な「祝福」の結果(応答)として、「神の義」に覆われた人生にあずかることを、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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