バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

今の試練の時(No.7)

                  人の「誓い」は壊れやすい




ヤコブは誓願を立てて言った。「神が私と共におられ、私が歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせて下さり、主が私の神となられるなら、私が記念碑として立てたこの石を神の家とし、全て、あなたが私に与えられるものの十分の一を献げます。」
                                                                        【創世記28章19~22節】


「霊的感動」と「肉の興奮」の対立
 ご存じのように、ヤコブは肉なる「思い」が、とりわけ強い人物です。彼は夢の啓示で、素晴らしい霊的体験をしたにも関わらず、依然として霊的葛藤、即ち肉なる「思い」と、霊なる「思い」の格闘が、一日中継続しました。


 そして翌朝になり、遂に決断しました。神が自分に、語りかけて下さった記念の場所として、そこを聖別し「ベト・エル」と名付け、「誓い」の祈りを捧げました。ところが不思議なことに、彼はその誓願の祈りの中で、愚かにも二つの「取引(駆け引き)」を、主なる神に申し出ました。


 ある面で人の「誓い」は、ガラスの器の如くに、落ちたら(条件次第では)壊れ(破ることになり)ます。例えば私たちも、時々大きな聖会で体験しますが、聖霊様に触れて戴き、神の臨在にあずかる等の、霊的感動を覚えることがあります。


 ところが、そのような霊的感動を覚える時には、サタンもすぐそばで働きかけ、肉なる「現実」を様々に見せることで、霊的感動を肉的な興奮に擦りかえようとします。それ故に私たちも、ヤコブ同様の愚かな「取引(人の誓い)」を、神に捧げることがあります。


 このように霊的感動と肉の興奮は、相容れない次元にあることを、私たちは先ず知る必要があります。私たちは霊的な感動を求めるのですが、それと同時に肉的な興奮が、それを打ち消そうとする反作用の如き働きが始まります。特に「言葉」の情報(現実)に対して、私たちははっきり申し上げて、壊れやすい(弱き)「器」です。


見える「恐れ」と見えざる「恐れ」の連鎖
 例えば今、世界中である「言葉」が、様々な「情報」や「噂さ」などにより、「恐怖」を伴って拡散しています。それは「新型○○○ウィルス」という名の伝染病です。普通「新型~」と言えば、最新の物ということで、皆の「良き関心」を伴うのですが、かたや「新型ウィルス」と聞いただけで、今までにない恐怖感がよぎる理由は、「(それに対する)ワクチンが(今のところ)無い!」からです。


 このように私たちは、目に見えない「霊的次元」においても、サタンが如何に私たちの持つ「罪の因子」に働きかけ、ある人には反応しやすい「恐れ」や「心の傷」、また人間関係の中において被った、様々な「ストレス」などの情報を操作し、目に見える次元の中で、「恐れ」などの霊的病原菌を拡散します。


 しかし覚えて下さい!だからこそ主なる神は、「インマヌエル(常に傍らに居て守り導く)」の神です!新型であろうが、何型であろうが、万物を創造された神にとっては、それらの恐怖は無力なものであり、古い言葉(肉の恐怖)を完全に打ち滅ぼすことの出来る、「神の事実」のみが先行し、私たちを守り導いているのです。


 私たちが「イエス(救い主なる方よ)!」と御名を呼ぶだけで、私たちは全ての「罪」と「病い」、そして「恐れ」と「呪い」などの霊的束縛から、完全に贖われる(救い出される)ことを、証明して下さった方がイエス・キリストです!イエス様は常に、「病いある者よ、健やかになれ!」、「傷を受けし者よ、傷ふさがれ、新しい体を持つ者として、今立ち上がりなさい!」と、力強い「命の言葉」をもって、私たちを贖って下さいます。


二つの人の「誓い」
 ヤコブは「ベト・エル」と名付けた、この「石の枕」の上に油を注いで祈りを捧げました。「主よ、私は生涯、ここでの体験を霊的礎(いしずえ)として、私はあなた様に従い通します!」と。これは彼の霊の「思い」が発する、真実の霊の言葉でした。ところが、その直後に彼の肉なる「思い」が、「恐れ」と「不安」を呼び込み、愚かな二つの「誓い(取引)」を神に申し出たのです。


 何故でしょうか?「何もまだ始まっていないではないか!」と、彼の肉なる「思い」が、霊的事実を打ち壊そうとしたからです。彼の申し出た二つの「誓い(取引)」は、決して「悪い内容」ではありませんが、彼(私たち)が壊れやすい存在だからこそ、出て来る「祈り」かも知れません。そうです!これが人の肉なる「思い」から生じる、「願い」や「誓い」です。そして、私たちは人の「誓い」を、時折神に捧げているのです。


 しかし、聖霊様は警告されます。「祈りが取引になっては駄目です!」と。「もし・・・・であるなら、私は~したいのですが。」等と、様々に取引するのが私たちの「弱さ」です。しかし覚えて下さい!主なる神の「真実の愛」は、私たちの側がどうであれ、一方的な「真実」そのものです。「あなたが如何なる状態にあっても、私は真実の愛と恵みを、豊かに与え続ける!」と。ところが受け取る側の私たちが、「本当ですか?私は受けるに相応しくないはずですが。」などと、とかく遠慮がちになり、「誓い」の祈りとしては、つい取引したくなる傾向にあります。


 ヤコブは具体的に、如何なる「誓い(取引)」を捧げたのでしょうか?最初の「誓い」は、「もし、あなたが私と共に居て、常に守り導き、生きる糧と着物を与えて下さるのであれば・・・・」という、非常に幼稚な「誓い」でした(現実の彼には、何の「災い」が来てもいないのに)。


 続いて二つ目の「誓い」は、「もし、あなたが私を父(イサク)の家に、無事帰還することが出来ましたなら・・・・」と、ここでも自分の「愚かさ」を露呈しています。何故でしょうか?目の前にエサウの追手が来ているなど、悪しき「兆し」がある訳でもありません!にも関わらず「怖い!」のです。


 人は何かの良き「兆し(光の筋)」が、少しずつ見えてきて初めて、一歩前進できる弱き生き物です。だからこそ神に対しても、素直に「弱さ」をさらけ出すのではなく、少しばかりの「取引」をもって、誓いを果たそうとします。


ヤコブは霊的な面で「正直(ストレ-ト)」でしたが、逆に肉の面においても「馬鹿正直(愚直)さ」が目立っています。後々、彼の捧げたこの二つの「誓い」が、彼を霊的に取扱う上で、「長期」の時間を要することになります。


 実はヤコブの、この二つの「愚かさ(弱さ)」の中に、霊的な慰めがあります。私たちは「壊れやすくても良いのです!」それは「罪」の故だからです。私たちは支えて戴けなければ、守って戴けなければ、神の絶えざる恵みが与えられなければ、一溜りもない「弱い」存在です!私たちが、愚かな「誓い(祈り)」を捧げることで、初めて自分の中にある「弱さ」が、聖霊様を通して知らされるからです。


 二つの「誓い」に対して、主なる神は怒ることなく、ただ「沈黙」を貫き通します。しかし助け主なる聖霊様は、その後も継続して、ヤコブの傍らに居て、励まし続けたことでしょう。


 私たちの人生の「旅路」は、ゴールが分かっていても、先が長いが故に「将来、私の旅路はどうなるのか分からない!」、「本当に神の良き取扱いが、この私に為されるのだろうか?」などと、「不安」と「恐れ」だらけの毎日が続く中で、この世の「現実」に、ふと取り込まれてしまうことがあります。


 しかし覚えて下さい!私たちの捧げる、愚かな「誓い(祈り)」を、主なる神は無視される方ではありません!自分の「弱さ」を初めて告白した、私たちの素直な心に対して、主なる神は御翼の陰で覆って下さり、豊かに取扱って下さいます。


 真実の神が、あなたを豊かな神の領域へと、常に守り導いて下さいますように。人の願いを超えて、遥かに余りある神の御心が、あなたの先を行かれていることを、是非信仰をもって確認し、一歩一歩前進できますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2020年2月9日のメッセ-ジ)


☆バルナバ・ブログ福音薬局のご案内 


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する