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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

今の試練の時(No.6)

                      孤独のバックパッカー




ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。とある場所に来た時、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。すると、彼は夢を見た。・・・・見よ、主が傍らに立って言われた。「私は・・・・アブラハムの神、イサクの神、主である。・・・・見よ、私はあなたと共に居る。あなたが何処へ行っても、私はあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。私はあなたに約束したことを果たすまで、決して見捨てない。」ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、私は知らなかった。」
                                                                     【創世記28章10~16節】


孤独の「旅人」
 バックパッカーとは、「バックパック(リュック)」から派生した言葉で、手軽に持ち歩くことのできるリュックを背負って、各地を自由に巡る旅人のことです(私のイメージとしては、何となくスナフキンみたいな旅人)。


 そういう意味で、ヤコブは誰からも見送られること無く、夜陰に紛れて旅立った、孤独のバックパッカーでした。実はヤコブにとって、今回の旅は母リベカとの、最後の別れの時となります。そして母親にとっては、旅立つ息子ヤコブが、その後どうなるか分かりませんでしたが、全てを神に託した(委ねた)、覚悟の決断でした。


 今回の記事からは、ヤコブに対する神の「取扱い」に関することです。しかし、この孤独の旅人ヤコブの人生は、自動車で喩えるなら、どうしようも無い「ポンコツ車」です。自分の燃費(状態)も考えずに、常に自分の力で運転すれば、何とかなると自負している等。


 しかし今回の記事には、そんな彼の性分が全く見受けられない程、孤独感溢れるものでした。今回の彼の旅路にある第一の特徴、それは「何も持たずに旅出った、孤独のバックパッカー」という点です。彼の心の状態は、それまで頼っていた両親と別れ、兄からの追撃が、いつ迫って来るかも知れない状況の中で、分かっていることは、旅の目的地パダン・アラムに向けて、ひたすら前進していることだけです。


 今回の彼の心境は、先ず①初めての一人旅ということで、「もう帰りたい!」等のホームシックに、度々襲われることです。イエス・キリストも然り、父なる神の「命令」とは言え、いきなり母(家族)の元を離れ、宣教の旅路に就く時の心境は、如何ばかりであったでしょうか!次に②兄のしつこい追撃の手を恐れること。この点もイエス・キリストに似ています。彼が宣教すればする程、しつこいまでの監視集団(パリサイ人、律法学者たち)の攻撃。そして③何の後ろ盾(守り)も無い、孤独の放浪者という意識です。


 このように、何の「安らぎ」も無いヤコブでしたが、一つだけ彼の心を支えているものがありました。それは両親の「教え」にある、「主なる神が命じられた約束の言葉は、必ずその通りになる!」という、揺ぎ無き「信仰」でした。しかし所詮ヤコブにとって、両親からの「教え」は、未だもって「人の声」に過ぎませんでした。


 彼は孤独で旅を続けていく中で、次第に疲れて果てて行きます。昼間歩けども歩けども、全く希望(目標)が見えない、そして夜間は安心して「眠り」に就けない等、肉体的にも精神的にも疲労感が貯まります。そして遂にある日の晩(夕刻)、ぐったりして横になったとき、ちょうど手ごろな石を見つけ、その上に頭を乗せた途端、彼は深い「眠り」に落ちて行きました。


 主なる神の「取扱い」は、私たちが孤独の「旅人」の如くに、この世を彷徨い行く時にも、ご自身から発する「真実の声」をもって、確かな「導き」と「守り」を用意して下さいます。しかし私たちは、ヤコブのような「孤独感」と、先が見えない「疲労感」を覚える中で、殆どが「人の声」と「己の声」の駆け引きの中で、かえって五里霧中の状態に陥ります。


「神の声」を初めて聞く
 そのような状態にあっても、心配しないで下さい!それこそが真実の神の、大いなる「取扱い」の出発点になるからです!ヤコブは深い「眠り」の中で、遂に神からの霊的「啓示」が、夢として示されました。そして何と神ご自身が、寝ているヤコブの傍らに立って、直接「御声」を発せられたのです。その「神の声」は、彼の耳にとって、今まで聞いたことの無い、豊かな麗しい「音声(響き)」でした。


 そうです!初めて聞いた「神の声」、これが今回のヤコブの旅路に起きた、第二のポイントです。実際に自分の耳で聞いた訳ではないのですが、夢の中で聞いたその音声は、「私は、あなたの祖父(アブラハム)、父(イサク)を、常に祝福し守り導いた、主である!」という、まるで初対面の挨拶の如きものでした。


 続けて神は、面食らうヤコブに対して、「見よ(しっかりせよ、思い起こせ)!これから大事なことを告げるから。」と叱咤激励します。何故主なる神は、ヤコブに対して語られたのでしょうか?「肉の声」が強い者に対して、神からの「霊の声」は、中々伝わりにくいのですが、神は大事な要点を、ズバッ!と語られる(示される)ことがあります。


 ヤコブの場合、今回の「神の声」に対して抵抗しました。しかし抵抗するということは、その「御声」を忘れていない(無視しない)ことになります。常に「神の声」が導くからです。反発するということは、その「声」が「もしかしたら・・・・」と思うから、あえて拒絶(抵抗)したいのです。


 「不信仰な者」と「信仰(正しい)者」の違いは、端的に言えば自分の「肉の声」が強い(頼る)か、弱い(神の声に依り頼む)かです。「肉の声」を基にして信仰を打ち立てようとしますと、必ず神の「霊の声」に抵抗します。その「霊の声」が、余りにも単純(シンプル)過ぎるからです。


 ヤコブは自分の「恐れ」を超える、神の偉大なる「霊の声」を聞いた時、「主なる神がここを選んで、まさに今の瞬間まで居て下さった。にも関らず、私はそのことに気付きもせず、全く知ら(分から)なかった。」(16節)ことに愕然としたのです。つまり彼は、自分が「ある石」を見つけ、そこに自分の意思で寝たかも知れないが、実は「全て」のことを、神が相働かせて「有益なもの」として下さり、自分を丁寧に取扱うべく、様々なことを準備して下さっていた!ことに、愚かにも自分は気付いてなかったのです。


 「肉なる声」としては、「ただの夢体験に過ぎない!」と、理性が訴えるのですが、自分の中にある「霊の声」は、「待てよ!これは・・・・」と発するなど、神の臨在を今でも感じ、またその偉大なる「御声」が耳に残る訳です。


 では実際に、ヤコブに語られた「神の声」とは、如何なる内容だったのでしょうか?第一に①「いつも私は、あなたと共に居る!」という事実確認。第二に②「私はあなたを、如何なる時にも必ず守る!」という約束の保証。その具体的な約束の実現として、第三に③「私はあなたを、必ずここに連れ戻す!」こと、そして約束を果たすまで、第四に④「力強い御腕をもって、私はあなたを見捨てず、永遠に守り導く!」という、非常にシンプルな「契約」の言葉です。


 ヤコブは神のこの偉大なる、約束の言葉を聞くまで、自分は孤独の「旅人」と思っていました。しかし「神の事実」を知ることで、まさに「石の枕」のある場(ここ)が、「神の家(ベト・エル)」である!と受け留めました。即ち、真実の神が臨在し、(自分と)共に住んで下さる場所こそが、自分が求めていた「真実の家(故郷)」と、彼は確信したのです。


 主なる神は、「インマヌエルの神」です!たとえ私たちが、ヤコブのように自分の「肉の力」で走ったり、自分の好きな方向に歩き周り、途中でよろめき倒れたとしても、すぐ傍らで支えて下さる、「真実の主」なる神です!神の偽らざる「臨在」、そして永遠の「守り」と「導き」こそが、私たちの「人生」の、本当の支え(約束の保証)であります!


 私たちの「人生」の旅路が、仮に「何」も無くなる、そんな孤独の状態に陥ったとしても、「インマヌエルの神」が、常に私たちの傍らに居て下さり、助け主なる聖霊様が、私たちの「歩み(道のり)」を、常に確かなものとして下さいますように。また私たちの「全て」を、神の偉大なる霊の次元の旅路へと、聖霊様が確実に守り導いて下さいますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2020年2月2日のメッセ-ジ)


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