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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

今の試練の時(No.5)

                逆境転じて「祝福」と為す!




リベカはイサクに言った。「私は、ヘト人の娘たちのことで、生きているのが嫌になりました。・・・・私は生きているかいがありません。」イサクはヤコブを呼び寄せて祝福して、命じた。「お前はカナンの娘の中から妻を迎えてはならない。ここを立って、パダン・アラムの・・・・ラハブ伯父さんの娘の中から結婚相手を見つけなさい。・・・・」・・・・ヤコブはイサクに送り出されて・・・・ラバンの所へ旅立った。
                                                             【創世記27章46~28章5節】


イサクとリベカの「悩み」
 「災い転じて福と為す!」という諺がありますが、まさしくヤコブにとって、兄エサウの抱く殺意は、「災い」と言って過言ではありません。また母リベカにとっては、自分の胎から出た二人の息子が、憎しみ争い合い、どちらかをいずれ失うことは、とても耐え難き「災い」となります。


 母リベカの機転で、兄の殺害計画から逃れるべく、ヤコブは即「避難の準備」を支度しましたが、中々「その時」が訪れませんでした。何故ならエサウの側では、父イサクが存命中には、「事」を起こすまい!と決めていたことを、リベカも察知していたからです。


 実は息子たちの、相容れぬ危機的関係については、母リベカだけではなく、父イサクにとっても、最大の「悩み」であったこと、これが今回の記事から、私たちが知るべき第一のポイントです。これは霊的には、イサクの霊的雛形である「イエス・キリスト」と、リベカの雛形である「イエス・キリストの花嫁」の最大の「悩み」は、一体如何なるものであるのか?という点です。


 え!私たちとイエス・キリストとの麗しい関係を、霊的に引き離す要因となる「もの」があるのですか?答えは「然り!」です。イサクとリベカの最大の「悩み」は、エサウが「何」を恋い慕ったのか?という点です。エサウは、父母の故郷の地からではなく、「異邦人」の地から、自分の伴侶を何度も求め(恋い慕い)ました。


 これはアダム(エバ)が、神の「御心」に従わず、サタンが差し出した「善悪の木」の実を、実際に手に掴み、遂には二人で食したこと、つまり「エデンの園」における、最大の事件と同じ構図です。神が命じる「祝福」の法則は、単純なもの(唯一つの方法)です。「一つ」より、「様々な」ものの方が、何となく麗しく(格好良く)見えるので、そちらを求め易い私たちですが、神ご自身が私たちに求める(命じる)ことは、ただ「一つのことを、素直(ストレ-ト)に信じて聞き従う!」だけです。


 しかしエサウの場合は、「唯一のもの」ではなく、「別のもの(異邦人の女性)」からでも、神の「祝福」は与えられる!と、勝手な解釈(判断)をもって、自分の道を進むようになりました。つまり彼は、神の「御心」から完全に離れた、「放縦な生活」を選択したのです。これが父母の最大の「悩み」の本質でした。


聖霊様の「呻き(執り成し)」
 悩み果てた母リベカは、かつて二人の息子を胎の中に宿し、その双子が胎の中で争い合った際に、自分に与えられた預言を思い出し、即座に次の行動に移りました。それはエサウの放縦な生活が、弟ヤコブにまで影響を与え、彼までもが異邦人の女性を選択することが無きよう、夫イサクに対して直訴することでした。


 妻からの直訴を聞き、事の重大性に気付いたイサクは、ある時密かにヤコブを召し出して、次のような「命令」を与えました。「ヤコブよ、お母さんから聞いているように、あなたの兄エサウの生き方は、私たちにとって非常事態である!何度も言うが、あなたは決して異邦人から、伴侶を求めてはならない。神の祝福は、あなたを通して成就する故に、再度あなたを祝福して祈ろう。あなたは直ちに、お母さんの故郷パダン・アラムに向かい、ラバン伯父さんの娘から、あなたの伴侶を選ぶがよい。」


 それに対するヤコブの「返答」は、聖書には何も記述がありません。しかしヤコブは分かりました。「あー、遂に私は、お父さんからの赦し(許し)を得ることが出来た。そして祝福の言葉を、今まさに戴いた。」と。そして彼は、ある重要な神の「御心」を、この時に理解したのです。


 今回のストーリーの重要な第二のポイント、それは聖霊様の霊的「呻き(悩み)」についてです。私たちは正直言って、ヤコブよりもエサウ的な「弱さ」、つまり「世」に妥協し易いところが多くあります。例えば「主よ、命の言葉(霊的なパン)も大切ですが、実際(現実的)には、世の糧(生きるためのパン)も必要です!」等と。しかし聖霊様が、私たちの「信仰生活」に関して、一番に呻かれる(悩み執りなす)ことは、一体どういうことであるのか?これを知る必要があります。


 私たちは、「世」の奴隷ではない!ということを、頭の中で分かって(理解して)いても、現実の「マイナス」部分のことに、心配し(悩み)始める時、「あー、仕方ないなー!」と呟き、「世」の方に対処策を求め、次第に心が「世」に支配されることになります。


 聖霊様は、私たちのこの霊的状態を、決して「良し!」とはされません。たとえ現実が「災い(逆境)」の如きものであっても、それを転じて「祝福」とされる方です。その為に用いられたのが、今回のヤコブでした。父イサクはヤコブに対して、真剣な眼差しで語りました。「私の息子よ、今がチャンスの時である!この時を逃すではない。」と。


 そうです!ヤコブは、両親の一体化した「祈り」により、遂に新たな旅路へと向かうことが出来たのです。聖霊様は、仮に私たちの「霊」が、この世のことに心奪われる、緊急事態になった場合に、物凄い言い難き「呻き」をもって、私たちの為に執り成しの「祈り」を開始されます。


 するとイエス・キリストご自身が、遂に私たちの霊の戸口に立って、何度もノックして下さり、続いて聖霊様を通して、次のように語りかけて下さいます。「どうして欲しいのですか?」と。それに対して私たちは、「主イエス様、私はこのままでは駄目です。もう耐えられません!あなたが今、私の元に来て下さらなければ、もう終わりです。」と訴え出るのですが、それは言葉(日本語)にならない、私たちの霊的「呻き(祈り)」となります。暫く祈った後に聖霊様は、遂に真実の「逃れの場(平安の地)」へと、私たちを案内して下さいます。


 私たちの信仰の「歩み」は、これから反キリストの「台頭の時」に向けて、様々に練り聖められて行くことでしょう。その時に一番大切なことは、私たちは「反キリストに膝を屈める世の奴隷ではなく、この世から虐げられ、様々に迫害されたとしても、麗しい真の花婿のみを、何にも優る方として、常に激しく追い求める、賢い(忠実な)乙女(キリストの花嫁)である!」こと、これを絶対に忘れないで下さい!


 「今の時」が、たとえ逆境であっとしても、それを神の御心に沿った、「正しい道」へと案内して下さる、聖霊様の取扱いに期待しましょう!あなたが、今示された「神の時」を逃さないよう、聖霊様の促しに素直に聞き従い、ヤコブ同様に「賢い器」に仕立てられますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2020年1月26日のメッセ-ジ)

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