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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

今の試練の時(No.3)

       呪いではなく「祝福」を奪い取りなさい!




リベカは息子のヤコブに言った。「・・・・私の子よ、今、私が言うことをよく聞いて、その通りにしなさい。・・・・よく肥えた子山羊を二匹取って来なさい。・・・・」しかし、ヤコブは母リベカに言った。「でも・・・・お父さんが・・・・騙しているのが分かります。そうしたら、私は祝福どころか、反対に呪いを受けてしまいます。」母は言った。「私の子よ、その時にはお母さんがその呪いを引き受けます。ただ、私の言う通りに、行って取って来なさい。」・・・・
                                                      【創世記27章6~14節】


ヤコブの「試練」の特質
 ご存知のようにヤコブの人生は、非常に「試練」が多いことで有名です。ヤコブという人物は、一見「頑固者」で、「(他人を出し抜いてまで)横取りする者」のように映ります。


 しかし、主なる神のヤコブに対する取扱いは、彼が「頑固」だから、また彼が祝福を「貪り過ぎる」から、まるで「懲らしめる」かの如きものとして、数々の「試練」を与えた訳ではありません!


 むしろ今回の記事に見られる、母リベカと息子ヤコブの「会話」から、実は主なる神の驚くべき取扱いが、霊的奥義として見出されます。たとえ私たちが、「不信仰に陥りやすい者」であったとしても、聖霊様は私たちの持つ、様々な「弱さ」をご存知の上で、その「弱さ」を、霊的な「強さ」へと変えて下さいます。


「真摯な」生き方
 ある面ヤコブの人生は、「真摯に(熱き心情をもって)」生きる人物(器)として、改めて捉え直す必要があります。ところで「真摯」と「真面目」では、少々意味合いが違います。ヤコブの本来の性分としては、実に「真面目」一筋です。この彼の「生真面目さ」が、聖霊様の取扱いを通して、更に練られていくことで、「真摯な」生き方へと造り変えられます。そうです!真摯な「信仰」を打ち建てるべく、聖霊様による定期的な「試練(取扱い)」を、その都度受けたのが彼の人生でした。


 ヤコブは、余りにも「生真面目」過ぎました。母の意見は何よりも尊重するのですが、父と兄の意見も大事にする等、彼は人間的な「弱さ」がありました。それ故に母リベカは、主なる神の「御心」が、息子の人生に打ち建てられるべく、彼の「弱さ」を霊的に贖う(カバ-する、肩代わりする)覚悟で、「私が全ての呪いを引き受けます!」と、大胆に宣言しました。


 ところで主なる神が、御子イエス・キリストを、「救い主」として世に遣わす際に、その「目的」を次のように語ったことでしょう。「あなたを通して、この世の人々を救うためである!」と。すかさず御子は、「どうやって人を救うのですか?」と問い返します。すると一言「あなたを屠ることで・・・・」。


 その瞬間、イエス・キリストは「え!何故、屠られる必要があるのですか?」と、真摯な顔つきで詰め寄ります。父は「生贄だよ。あなたの死を通して、それを信じる者が、今まで縛られていた罪の奴隷(縛り)から、完全に解放されるためだ!彼らが贖いの生贄、つまり救い主を信じるだけで、呪われた状態から、瞬時に永遠の祝福へと変わるのだ。それ故あなたは、罪の生贄として十字架に向かいなさい!後のことは心配しなくとも良い。私が全ての呪いを引き受けるから・・・・」と、真摯に返答しました。


でも・・・・」を肩代わりする方
 母リベカの「信仰」を通して、主なる神がこの時、ヤコブに与えた「試練」に対する、ヤコブ自身の最初の姿勢(反応)は、「でも・・・・」(11節)でした。彼のこの反応を、実は母リベカは見抜いていました。「息子は生真面目過ぎて、必ずこの言葉を言うだろうね」と。そして次のように言いました。「とにかく私が言う通りに、あなたは只(子山羊を二匹)取って来なさい!」と。


 すると、ヤコブは続けて「でも、そんな事をすれば、この私が呪われてしまいます!」と返答するや否や、「私の子よ、その時には私が、あなたの呪いを引き受けますから、一切の心配は要りません!」と、母親としての覚悟の決断を宣べました。その結果、母親の並々ならぬ覚悟を、真摯に受け留めたヤコブは、母の命じた通りに実行し、父親から「祝福」の言葉を授かることになります。


彼(バプテスマのヨハネ)が活動し始めた時から今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。
                                                     【マタイ福音書11章12節


 天の国の「祝福」を得るためには、たとえそれが見えない次元であっても、それを得るべく、激情の「思い(飢え渇き)」をもって、「既にあるもの」として掴み取ることが大切です。「激しく襲う(violent attack)」とは、言語的に「(他人を気にせずに)力づくで奪い取る」ことです。


 恐らく母リベカは、幼少の頃からヤコブに対して、「真面目だけでは駄目!これでは呪われるかも知れないと、あなたが様々に気を使ったり、恐れている領域の中に、主なる神が示す正しい道があるの。助け主なる主が、そう言った全てをご存知の上で、前もって道を整え、必ず祝福の領域へと導いて下さるから、強く信じて、神の祝福を激しく、喜んで受け取りなさい!」と、常に励ましていたことでしょう。


 そうです!イエス・キリストが、私たちより「先」に歩み行かれ、全てのことを確かなものとされるのです。ならば私たちの側は、その時どうすべきでしょうか?遠慮がちに(でも・・・・と言って)戴くのか、それとも「はい!直ちに信じます!」と言って、力強く(激しく)受け取るか?のどちらかです。


 さ-、あなたが「主よ、あなたが私に賜るものは全て、呪いではなく、天の国から降り注ぐ、豊かな麗しい祝福です!ですから、私はあなたが下さる祝福をもって、この地に命の言葉を蒔きます。どうぞ祝福の地へと造り変えて下さい!アダムに託された命の言葉は、この私にも、豊か(無尽蔵)に与えられていることを感謝します。」と、激しく信仰を働かせる、一年でありますように!


 そして真実の神が与えて下さる、天の国の「祝福」を、力強く豊かに受け留め、それをもって神の領域を、大胆に切り開いて行くことが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2020年1月12日のメッセ-ジ)


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