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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

今の試練の時(No.2)

             あなたは「ポンコツ」ではない!




主なる神は、彼(アダムとエバ)をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。
                                                                          【創世記3章23節】


「今の車」がポンコツでない理由
 自動車を運転される方にお聞きしますが、あなたは如何なる「思い」をもって、自動車を運転されているでしょうか?一人一人、自動車に対する「感じ方(使用感)」が違います。私の場合であれば、燃費を重視していますので、日頃から「エコ運転」に励み、燃料を満タンに給油する毎に、前回の走行距離等から計算しています。


 このように自動車は、各自によって「思い」が異なる訳ですが、それはまるで、人生の「パ-トナ-(連れ合い)」の如くに、精神的に関わる人もいれば、逆に単なる「手段(メカ)」として、取扱う(使用する)人もいます。


 ところで「ポンコツ」という言葉を聞いた時、人昔の世代の方であれば、それは「車」をイメ-ジされると思います。それに対して、家電製品等が壊れて機能しなくなった場合、それを「ガラクタ」と呼びます。何故「車」だけに対して、「ポンコツ」と呼ぶのでしょうか?答えは簡単です。昔の自動車の殆どが、エンジン・トラブル等で、すぐに動かなくなったからです。


 では今日の自動車は、何故「ポンコツ」と呼ばれない程に、その性能が飛躍したのでしょうか?駆動エンジン等の技術革新の進歩もありますが、私は定期的な「車検制度」が、法的に厳しく整備されたからだと思います。「検査」に基づいた合格基準値として、項目ごとに基準デ-タが細分化され、少しでも「数値」が適正範囲になければ、即部品等の交換ということで、安全上の品質が保全されています。


 にも関わらず、毎年「新車」が発表され、より多くの「自動車」が製造れるのか?その理由も簡単です。自分の購入した車が、長年使用したこともあり、時々不調をきたす(動かなくなる)ようになった、「ポンコツ(古いモノ)」であるならば、新しいモノを求めるのが、ごく自然な購入理由です。しかし、(日本などの先進国の)現実は違います!今まで乗っていた車に「飽きた」、或いは「別のモノに乗り換えたい」からです。


「試練」とは、神の定期検査
 神の「試練」というものは、旧約聖書に登場する神の「イメ-ジ」、つまり神の「律法」に背く者に対して、「罰」や「懲らしめ」を与える等の、いわゆる「神罰」の如きものではありません。神の「試練」とは、神の「真実さ」を知らしめるもの、つまり神は常に「正しい方」として、私たちに対して本当の「新しさ」を与える(知らしめる)べく、「試練」をもって導くのです。喩えて言うなら、霊的な「健康診断」、もしくは「定期検査」を受けること、これが神の「試練」です。


 私たちが、自動車の「車検」を受ける理由は、法律義務であることもありますが、運転する上での「安心保証(安全な車)」が欲しいからです。例えば、その自動車を走行する上で、物理的に一番適正(安全)であるか?等を点検する場合、先ずはタイヤの摩耗度をチェック(点検)します。


 自動車の「車検」同様に、神の「試練」を受ける理由は、神が示す「正しい道」を、私たちが安心して走行する(歩む)ため、かつ私たちの「肉の力」ではなく、神の助け(聖霊様)によって、「私(あなた)」を運転して(導いて)戴くためです。聖霊様は必ず、「あなたの速度は、もう少し控え目が良いと思います。このままの速度では、必ず事故を起こしますから。」等と、適切なガイダンスとナビをもって、私たちの信仰の歩みを見守って下さる方です。


 では、主なる神は「試練」を与えることで、最終的に「私(あなた)」をどうするのでしょうか?それは「ポンコツ」だから、即「廃棄処分」ではなく、最終的に責任ある方として、ゴ-ルに辿り着くため、「新車(新しい私たち)」として造り変えて(取扱って)下さいます!その新車の名前は、「神の守り」と呼びます。


 私たちは「試練」を通して、何を学ぶのでしょうか?それは「あの試練があったからこそ、今の歩みがあるのです。そして何よりも素晴らしいのは、今の自分が試練によって、新しく取り扱われたことです!」と、必ず神の「守り」と「導き」を感謝できることです。そうです!「試練」によって、私たちは知るのです。「主よ、あなたは常に真実な方であり、昨日も今日も、そして明日に渡って変わること無く、私を新しく造り変えて下さる方!」であることを。


「そこ」を耕すようにされた
 最初の人(アダムとエバ)は、確かに「罪」を犯しました。その結果、彼らは「エデンの園」から追放されました。しかしこの出来事は、決して「神罰」として、つまり神の人に対する、「懲らしめ」の如き処分ではありません。彼ら(私たち)がその後、歩むべき「人の道」が、如何に大変なものであり、その道を通過する上で、神の「助け」と「守り」、そして「導き」が、如何に重要であるかを、改めて知るためにあるのです!


 「園」を出立した彼らに対して、主なる神が意図した「ご計画」は、「自分がそこから取られた土を耕させること」(23節)の言葉から分かるように、「耕す」ことを目的として、彼らを「そこ」に遣わすことでした。しかし「そこ」は、「園」と違って、耕作してゆく上での「困難さ」が、茨の如くに覆い茂る土地でした。


 アダムは「肉の力」で、様々に耕そうとするのですが、結局は何も得られず、遂に精魂が尽き果て、ぐったりと横たわった時、聖霊様が語られました。「アダムよ、何故あなたは、一番大切なことを為さないのか?神の助けと守り、そして導きを求めて、先ずは祭壇を築き、生贄を捧げることではないか!」と。


 神に祭壇を築き、礼拝(真実の生贄)を捧げた後、彼は主なる神の「守り」があることを信じて、不毛の土地を耕し始めます。不要の石、岩等を取り除き、丹念に土を掘り起こし、ある程度慣らし終えた時、「そこ」に膝を屈めて祈りました。「主よ、見えるところは何も無い、不毛の地でございます。しかし、あなた様の祝福を信じて、今この地に、種を蒔いて参ります。どうぞ実り良き祝福を、豊かにお与え下さい!」と。


 ここに、私たち「人の(生きる)道」と、「神の道」の違いが示されています。主なる神が、彼ら(私たち)に与える「試練」は、先ずは①「人の道」をもって、様々に開墾(肉の努力)することを容認します。その結果、人は「己の限界」を知り、自分を「ポンコツ」の如き者である!と、罪責感から錯覚するのですが、主なる神は「あなたは決して、ポンコツではない!むしろ、神の守りと導きの真実を信じて、天を仰ぎ見て礼拝を捧げなさい!」と、逆に②神の「救い(助け・贖い)」、つまり「神の道」を求めるよう、常に正しく導いて下さいます。


 そうです!彼ら(私たち)が学ぶべきことは、主なる神は無代価で「知恵」を授けて下さり、様々に耕すという「人の道」に対して、「種(信仰)」を蒔くだけで、天よりの「祝福(収穫)」を、豊かな保証(実り)として、惜しみなく与えて下さる!ということです。ここに、神の「試練」の最終「目標(ゴ-ル)」が、明確に示されているのです。


 彼らは知りました。「試練」と同時に、神は必ず「豊かな道」、即ち神の「救いの道」を用意して下さる方である!ことを。ですから「試練」を受けることで、彼らは「安心して生きて行ける!」ことを、信仰の歩みの中で、次々と確認して行ったのです。


 あなたが「今、苦しい!」、「どうして、こんな大変な生き方を、自分は通過しなければならないのか?」などの、様々な「困難(不毛の時)」の中にある時、イエス・キリストご自身も「その時」、あなたの霊の扉をノックして下さり、「命の水が欲しい者は、私の許に来なさい!そうすれば無代価で、惜しみなく与えよう!」と、大いなる励ましの「御声」を、発していて下さいます。


 あなたが、神の「試練(定期検査)」を受けることで、神の「救いの道」を、更に深く知ることの出来る一年でありますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2020年1月5日のメッセ-ジ)


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