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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

今の試練の時(No.1)

                永遠の命に至る「唯一の門」




兄弟たち、次のことは是非知っておいてほしい。私たちの先祖は皆・・・・同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは霊的な岩・・・・キリストだったのです。しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、私たちを戒める前例として起こったのです。・・・・私たちが悪を貪ることの無いために。・・・・時の終わりに直面している私たちに警告するためなのです。あなた方を襲った試練で、人間として耐えられないようなものは無かったはずです。神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます。私の愛する人たち、こういう訳ですから、偶像礼拝を避けなさい。
                                                                  【Ⅰコリント書10章1~13節】


「災い」を前にしても・・・・
 一年の「暮れの時」に当たり、私はこの一年間の全てに渡って、一つも「不足」が無かったことに感謝しています。主なる神は、私に必要な全てのものをご存知の上で、「益」として下さいました。


 もし私たちの思いの中に、何らかの「不足」感が、多少あるのであれば、それは未々「肉なる思い(望み)」が、強く働いているからです。私たちの「肉なる思い(望み)」は多くあります。それ故に「・・・・出来ていたなら、今頃はもっと安心(楽)していたのに・・・・」などと、肉なる「不足」を感じるのです。しかし霊的な面における「不足(渇き)」を、あなたが感じているのであれば、それは良い「飢え渇き」となります。


 来たる年(2020年)が、如何なる年月になるのか、私たちは知る由もありません。様々な事象の中に起こる、未曾有の「災い」の中で、多くの国民は予感しています。たとえオリンピックに沸く、好景気が来たとしても、「その後」に果たして何が残るのか?などと。


 そうです!日本は、浮かれている時ではありません。地球全体が気候変動により、巨大な自然災害となって、何処にでも起こり得る、そんな恐ろしい時代の中に、私たちは生きています。しかし、私たちキリスト者は、そのような「不安」ではなく、神が与えて下さる「平安」の中に生きています。


 何故でしょうか?たとえ「災い」が迫って来たとしても、主なる神は各歴史の中で、ご自分の「御心」に従う民に対して、不思議な方法をもって、「逃れの道」を備えて下さいました。彼らは決して干からびること無く、飢えること無く、カナンに辿り着くまで、天上から豊かなマナ(日々の糧)を、尽きることの無い「恵み」として、受け取ることが出来たからです。


「試練」と同時に
 にも関わらず彼ら全員が、カナンに入ることが出来た訳ではありません。私たちの「信仰」の歩みは、確かにこの一年間守られましたが、来たる新しい一年の全てが、霊的に無事故であるとは限りません。でも私たちは知っています。聖霊様が、私たちの「信仰」の歩みのガイダンス(案内役)、助け手(介助役)、弁護(代弁)役として、様々に守り導いて下さることを。


 私たちの信じる主なる神は、常に「真実な方」です!このお方は、私たちが遭遇する様々な「試練」に当たり、その「試練」に耐える(乗り越える)ことの出来る、「逃れ(脱出)の道」を準備して下さいます。


 笑い話になりますが、私の娘が面白い表現を語りました。「確かこんな言葉が、あったよね-。備えあれば大丈夫!」と。私は思わず「え?確かその言葉は、備えあれば憂い無し!ではなかったかい。」と、笑いこけて返答しました。娘の言わんとすることは、意味合いとして当たっています。「準備」さえしておけば、文字通り「安心(大丈夫)」です。


 私たちは、アダム(エバ)に始まった「罪」の性質がある故に、三次元的「限界」を常に気にしながら、「先(明日の風)」を心配する悪癖があります。例えばイスラエルの民の場合は、どうでしたでしょうか?彼らの進む「先」において、神の「備え」が常に用意されていたにも関わらず、彼らは途中で「不信仰」から、別の「肉なるもの」を求め始めました。その時から、神の「備え」を見ること無く、「肉なる先」を見ようとしたのです。


 それ故に彼らは、「神の時」を待つ!という信仰を忘れ、逆に神に対して「不平」を吐くなどの、愚かな道を選択しました。荒野における神の「試練」を経て、その都度彼らは、神の「奇跡」を体験する訳ですが、結局は「カナン」に辿り着くことが出来ませんでした。ここに重要な霊的「戒め(教訓)」があります!


 第一の教訓は、私たちの信仰の歩みには「何故、試練が伴うのか?」という点です。「主よ、そんなもの要りません!私はあなたを信じて、前を向いて(ここまで)歩いてきました。これから後も、素晴らしい祝福があることを信じます。それなのに何故、私を試みるのですか!」などと、私たちは「不平(疑問)」を言いたくなります。


 パウロは、その「解答」を明確に記しています。神が与える「テスト(試練)」は、「神が常に真実な方として、あなたをゴ-ルに導くためであり、その歩みに従って生じる、様々な壁を乗り越えることの出来る、神の助けも同時に与えていること、その大切な道標をあなたが知る(確認する)」ためです。


 と言うことは、神の「御心」に私たちの信仰が、見合う(添っている)か否かを見定めるための手段が、神の「試練」でもあります。しかしそれは、私たちが更に神の「合格基準」に達するよう、丁寧に教え導くための、父親の子に対する「訓練」の如きものです。


 ですから神の「テスト」は、ある唯一の方法を通過した者が合格するもの、即ち神の「真実の祝福」を、豊かに得るためのものであることを、是非覚えておいて下さい。真実なる方が、私たちに与える「試練」は、私たちを懲らしめたり、様々に苦しめるためではありません!


 真実なる方は、私たちがある唯一の方法を通過したら、必ず「試練」を乗り越えることの出来る、素晴らしい道を用意しているのですが、私たちがその道を見出すか否かによって、「その後」の歩みが分岐します。これが第二の教訓です。


 彼ら(イスラエルの民)は「その時」、「真実なる方」が見えませんでした。唯一の「救いの岩」、永遠に「堅固なる方」、ほとばしり出る「命の水」を無代価で与え、「永遠の命」の源なる方、即ち唯一の御子イエス・キリストを、決して学ぶ(霊的に飢え渇く)ことはしませんでした。


唯一の「救いの道」
 聖霊様は新しい一年間も、私たちの「霊の扉」を、必ずノックして下さいます。そして囁きます。「あなたは別のものを、益々追い求めてはいませんか?霊的な偶像を(霊の中心に)据えて、それを見ようとしていませんか?」と。聖霊様は続けて促します。「そんなものは捨ててしまいなさい!」と。


 私たちが「霊」の中心に据えるべきもの、そして正しく見続けるべきものが「唯一の道」、つまり「救い」の源なる方、イエス・キリストご自身です。「唯一の道」を通りさえすれば、私たちは簡単に逃れる(脱出する)ことが出来ます。そうです!主なる神は「試練」と同時に、それを乗り越えることの出来る、真実の「道」をも用意して下さいます。


 主なる神が用意して下さる「唯一の道」を、私たちが信仰をもって通過する時、その先に待っている方は、「暗闇」に真実の光を灯すイエス・キリストです!この方に唯一の「救い」、唯一の「望み」、唯一の「誉れ」がある故に、私たちは永遠の賛美を捧げるのです。


 確かに「悩み」や「苦しみ」、そして「不足」などの試練は、一気に解決するものではありません。しかし「試練」には、乗り越えることの出来る「唯一の道(方法)」が、必ず用意されています!


 私たちのような「弱き者」のためにも、主イエス・キリストは「唯一の門」を開き、その先で待っていて下さいます。そして「永遠のギフト」、即ち永遠の命に至る「救い」を与えて下さいます。


 それ故に私たちは「新しい年」も、聖霊様に期待して参りましょう!来たる年に、一体何が起きるのか分かりません。地球規模で「大災害」が次々と発生する、そんな混沌とした時代の中にあっても、私たちは動じる必要がありません。


 淡々と日々の歩みを、真実の神に感謝しながら前進する限り、私たちは倒れることはありません。私たちに対する神の「熱情の愛」は、常に変わることがありません。「昨日」も「今日」も、そして「明日」に渡っても、豊かに真実を示して下さる方に、私たちは「誉れ」と「賛美」を、高らか称えようではありませんか!


 あなたの日々の歩みに、主イエス・キリストの「守り(導き)」と、そして「祝福」と「救い」が、来たる年も豊かにありますように。あなたが「試練」の中にあっても、積極的に信仰を働かせ、「時代」を先取りする、賢い乙女として整えられますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2019年12月29日のメッセ-ジ)


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