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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の時(No.36)

                              12の礎石
 



 民が全てヨルダン川を渡り終った時、主はヨシュアに言われた。「・・・・彼ら(12人)に命じて、ヨルダン川の真ん中の、祭司たちが足を置いた場所から、石を12個拾わせ、それを携えて行き、今夜宿営する場所に据えさせなさい。」・・・・イスラエルの人々はヨシュアの命じた通りにした。・・・・ヨシュアはまた、契約の箱を担いだ祭司たちが川の真ん中で足をとどめた跡に12の石を立てたが、それは今日までそこにある。主がヨシュアに命じて民に告げさせたことが全て終るまで、箱を担いだ祭司たちは川の真ん中に立ち止まっていた。全てモーセがヨシュアに命じた通りである。その間に民は急いで川を渡った。
                                                                                                     【ヨシュア記4章1~10節】
 
「石」の重要性
 今回の記事のキーワードは、ヨルダン川に転がる「石(stone)」です。余談になりますが、この「石」に関しては、女性よりも男性の方が、非常に興味を持つ傾向にあります。幼少の男児から見ますと、「石」は宝物のように映ります。特に「化石」コレクターにとっては、如何なる「石」も、古代の痕跡が無いかを確認するなど、重要な物体に思えるのです。ご存知のように、日本民族の歴史においても、「石」をめぐる祭りが沢山あり、どの神社にも必ず、何らかの「石」が祭ってあります。
 
 それに対してイスラエル民族の場合は、「石」そのもが神になるのではなく、真の主なる神を崇めるための、祭壇の礎石として重宝しました。彼らは、日本民族のように「ご神体」として、立派(高価)な「石」を見出すのではなく、つまらなそうに見える粗石であっても、一旦「祭壇」の礎石として用いられたのであれば、それらを記念の石として、そのまま残しておきます。
 
 私たちも本来、荒削りの如き「粗石」かも知れません。ところが神の「命の水」の川の流れの中に、信仰を持って深みへと進む時に、上流から中流へと、また中流から下流へと、霊的に取扱われていく中で、聖霊様を通して「丸い石」へと聖められて行くのです。
 
 さて今回の記事の中には、「石」を運搬する上で、二つのプロセスが描かれています。第一のプロセスは、ヨシュアを通して選抜された、12人の代表(名も無き信仰者)たちが、ヨルダン川の真ん中にて、各自が一個の「石」を対岸まで、肩に担いで運搬したことです。そして、第二のプロセスはヨシュア自らが、祭司たちが立ち続けた場所にて、12個の石を丹念に据えた(積み上げた)という、不思議な行動のことです。
 
 ですから合計24個の「石」が、この時彼ら(ヨシュアを含む13人)の信仰によって、見出され用いられたのです。どの「石」も、主なる神の「御心」によって、選び据えられました。かねてから神ご自身が、取るに足らない「石」や、また見かけが余り、立派そうに見えない「石」であっても、神の「救い」のご計画の中にあっては、24個の「石」全てが、神を礼拝する上での宝物になりました。
 
三つの「務め」
 今回の記事の中には、実は重要な役割が三つ、霊的奥義として記されています。第一の務めは、祭司たちが取った行動の中にあります。3節には彼らが、具体的に如何なる行動を取ったのか、全く何も記されていませんが、この時点で祭司たちは、何処に居た(立ち続けた)のか?それはイスラエルの民の全てが、ヨルダン川を渡り切るまで、川の真ん中にて神の「御心」に従って経ち続けるという、その驚くべき行動(不動状態)の中に、霊的奥義が描かれているのです。
 
 祭司の最大の務めは、神の御心が示されない限り、絶対「動かない」という姿勢(信仰行動)です。特に祭司が立ち続ける場所、それが「至聖所」です。私たちも「至聖所」に留まり続け、主なる神の御業を見続け、ただ礼拝し続けることが肝心です。
 
 第二の務め、それは名も無き12人の信仰者が、純粋にヨシュアから命じられ、聞き従った行動の中にあります。ヨシュアが彼らに命じたことは、「ヨルダン川の真ん中の、あなたたちの神、主の箱の前に行き、イスラエルの人々の部族の数に合わせて、石を一つずつ肩に担いで来い。」(4節)という、とんでもない(馬鹿げたものに思える)内容でした。つまり、自尊心の強い性格の者にとっては、「そんな命令だったら、別の者に命じても良いだろう。馬鹿にするんじゃない!」などと逆切れするものでした。
 
 しかし12人全員が、何も返答(口答え)すること無く、直ちに実行に移ったこと、これが第二の務めの奥義となります。即ち、祭司たちが立ち続けた聖なる場所、そこに転がる12個の「石」の塊を肩に担いで、対岸まで運搬するという、彼らの単純な行動の中に、ある重要な奥義があります。彼らは決して、「我先に!」と言って、各自が好き勝手に運搬したのではなく、皆で協力し励まし合って、共に進軍(運搬)するという、連携した務めを実践したのです。
 
 実は神の召集した「エクレシア」も、「五役者(聖職者)」と「信徒(聖徒)」という、二つに隔てられた務めではなく、この時の12人の行動の如くに、互いの役割を尊重し合って、共に神の「体(宮)」を建て上げていくことが、聖霊様の切なる願いです。今までのキリスト教の、リバイバルの歴史の中には、「我先に!」という時代もありました。
 
 しかし、これから起こる大患難の時代にあっては、自分たちの「プライド」や「名声」、そして各教団(教派)などの「教勢(数の力)」などを頼みとしているのであれば、後の雨の大収穫という、リバイバルの大激流の中で、むしろ押し流される結果となります。名も無き12人の者が、名も無き(ごく普通の)「石」を見つけ、祭司たちも自らの「命」を投げ打って、12人の行動をとりなし祈り続ける、そのような霊的に一致した連携プレーの中に、主なる神の大いなる御業が現れ出たのです。
 
 最後(三つ目)の務め、それは私たちも見習うべき、ヨシュアの行動にあります。12個の「石」を運搬し、対岸まで辿り着いた彼らに対して、ヨシュアはすかさず、「いつもの通りに、対岸の宿営地に祭壇を築くべく、その石を積み上げなさい!」と命じました。彼らは休む暇もなく、直ちに次の行動に取り掛かります。するといよいよ(遂に)、ヨシュアは聖霊様に導かれて、最後のフィナーレに移ります。彼は、立ち続ける祭司たちの前で、ただ一人礼拝を捧げ祈りました。
 
 その時、聖霊はヨシュアに命じます。「あなた自身も、ここに祭壇を築き上げるため、12個の石を用意し積み上げなさい!」と。一瞬彼は「え!まだ必要ですか!」と思いましたが、「はい、分かりました。おっしゃることが全て納得できました。」と従順し、12個の「石」を積み上げました。全てを成し遂げた彼は、その12個の積み上げられた石の前で、神に感謝の礼拝を捧げた後、ようやく対岸へと戻りました。
 
12の礎石
 その結果「それ(12個の石)は今日までそこにある。」(9節)という、驚くべき神の奇跡が、今日まで継続しているのです。何故なら、ヨシュア及び祭司たちが、対岸に辿り着いた時点で、上流から大激流の水が、彼らの目の前を通り過ぎたにも関わらず、その記念の石は今日まで、押し流され倒されることが無かったからです。同様にエクレシアの歴史も、じっくり覚えて(思い起こして)下さい。
 
 使徒行伝から始まった、イエス・キリストの「預言」を受け取った、殆どが名も無き使徒たちの歴史(信仰の歩み)は、代々「信仰の岩(石)」として、二千年にわたる神の歴史という、「命の水」の流れの中で丸く聖められ、私たちの信仰へと継承されています。私たちも名も無き「小さな群れ(エクレシア)」かも知れません。名も無き信仰者かも知れません。
 
 しかし、これから始まる大激流の中にあっても、なお川底に深く据えられた、イエス・キリストを土台とする信仰(12の礎石)は、決して押し流されることの無い、神の「救い」のシンボル(記念の石)として、私たちは今の時代に建てられて(生かされて)いるのです!
 
 ヨシュアは自らの「命」を懸けて、川の激流が押し迫る中にあっても、12個の「記念の石」を積み上げました。私たちも彼の信仰に見習って、自らの「命」を懸けながら、イエス・キリストの「救い」の働きに、更に携わって参りましょう!私たちは、決して「我先に!」ではなく、皆で共に祈り励まし合い、神の「救い」を必要とする人々の中へと、身を投じて参りましょう!
 
 私たちのような、取るに足らない信仰者であっても、イエス・キリストは「私(あなた)」のことを、有用な器(要石)として召し出し、大激流の時代の中にあっても、「救いの石」として練り聖めて下さることを、父なる神に感謝しようではありませんか!主イエス・キリストは、間もなく再臨されます。「その時」にあなたが、イエス・キリストの身体として加えられ、栄光ある勝利の道を進み行くことが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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